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近世蝦夷人物誌にも登場するヲクルマトマナイに住んでいたエカシテカニ一家が武四郎らを手厚くもてなした“住んでいる国がもっと近ければ娘を嫁にやるのだが”とエカシテカニが語ったと云う程に松浦武四郎はアイヌに信頼されていたのでしょう。森林公園びふかアイランド内にある歌碑には、その時のお礼に詠んだ歌が刻まれている。確か管理人が学生の頃は木柱だったのだが今は石碑となり詳しい解説看板もあります。美深町市街地から国道40号を北上、恩根内大橋を渡り左折、恩根内駅を過ぎて“ArtVillage”手前で右折するとまもなく左側の道路脇に碑がある。◇美深町恩根内 ◇位置情報 N44'36'05' E142'18'29'
武四郎の丁巳日誌によると当時はヲクルマトマナイと呼ばれ島呂布より下流になっている。蝦夷語地名解には“オ クルマッ オマイ。和女いる処”としてあるがエカシテカニ一が武四郎に語った“和人でここに来たのは間宮林蔵(文化7年?)以来初めて”と言う言葉から素直には納得しがたい。恩根内は市街地に近い小沢ペンケオグルマナイから出た地名の様ですが、従来の地名解釈では説明が付かない。旭川アイヌ語辞典によると“熊が峠越えをする沢”をオンネナイと云うと記載あり小車峠附近に有ったという。ヲクルマトマナイの支流オンネ沢の存在と合わせてみるとこの方が説得力は有ります。ヲクルマトマナイは元々は河口付近という限られた地域の名前の様です。恩根内で天塩川を渡る橋の上から減水期に櫛状の岩盤が見えるが、それがかつてカマテシカと呼ばれた所らしいが、記録によると恩根内から大手付近にかけてそんな所が4カ所ほどあった様です。
名寄市から美深町方面に進むと恵深橋で天塩川を越えるがこの橋付近が武四郎が宿営したペケレフルと、現在の恵深橋上手にカヌーポートが有りその上で辺渓仁宇布川が合流。説明板は恵深橋の美深側から上流側左岸のカヌーポート入口に設置された。安政4年の踏査時、恩根内から遡河してきた武四郎一行はヘンケニウプ合流部の下流側(ペケレフル)河岸に人家二軒(コロカイ・トウリヘの家が有るも本人は不在)有るのを見、風も良いとの事でここに上陸し6月14日に宿営している。ここでは女性達が厚司を織っていたのを見て、その染色方法を聞き記録に(天塩日誌)残す。いわゆる草木染めの元祖的な存在で、現在でも十分使えそうなのがある。記録からは松浦武四郎が美深町で宿泊したのは3泊(往路の6.13日、6.14日と復路の6.24日)となっている。
◇美深町 恵深橋付近 美深カヌーポート入口に新設
◇標高 76m N44°27’18” E42°21’42”
道の駅~びふかの後方の美深森林公園びふかアイランド内にある“びふか温泉”のほぼ正面に美深町恩根内のエカシテカニの家へ泊まった際に詠った詩2首“ゑみしらは筍にもる飯も古のさまをつたへて葉椀にぞもる”“かきならす五つの緒ごと音さえて千々の思いをわれもひきけり”と刻まれている歌碑が並んでいる。宿営地はびふかアイランドからR40を北上した恩根内にあります。◇美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内
踏査でこの地を訪れた武四郎は“大昔に神が作り並べた”というアイヌ伝説の通り、川の中に一条の岩が並んでいる様子を目に留め、天塩日誌に“本名テシウシなるを何時よりかテシホと語る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと”この地形が「天塩」の語源になっていると当時の記録に残している。部分的に凹んで深くなっているので溺死の者が多く渡渉禁止となっていた様だが、減水期は歩いて渡れたという事です。木材の流送や船用に掘削され今は見えないが「びふかアイランド」内に十分の一にスケールダウンしたテッシが作られているので一見を。◇美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内
旧恩根内小学校の施設を再利用して開設された“ArtVillage 芸術の村 恩根内”(アートビレッジ恩根内)のコミュニティ カフェで名前の由来はヲクルマトマナイに住んでいたエカシテカニ一家からとの事。広い喫茶室の壁は木工クラフトで作成された開拓初期の恩根内原野と天塩川流域を再現したアトリエ風の素敵な空間です。恩根内を通る事があればほんの少し脇道に入ってみましょう。詳しくは公式サイト「ArtVillage」でご覧ください。
旧恩根内小学校舎を活用した木工品制作工房兼カフェ「アートビレッジ恩根内」において、7月1日(日)から松浦武四郎の旅の軌跡を伝える新たな展示「松浦武四郎・天塩川ミュージアム」が始まっています。 美深町内のみならず、名寄市の北国博物館、名寄河川事務所、三重県松阪市の松浦武四郎記念館などの協力を得てミュージアムが完成し、松浦武四郎が天塩川流域を旅した際の軌跡と記録のパネルのほか、松浦武四郎が記録した「天塩日誌」の現代語訳版をはじめとした数多くの書籍や資料も展示されています。
松浦武四郎の丁巳日誌 下(丁巳東西蝦夷山川取調日誌・北海道出版企画センター)の中で恩根内の事をかなり詳しく記してあります。また元々は仁宇布(美深町原野二線付近)の住人であるが鱒漁のために恩根内に出稼ぎにきていた盲目のエカシテカニ(エカシチカン)一家の仮小屋で往復とも宿泊しているが、往路は元々のエカシテカニ家の所在地近くでも宿営している。エカシテカニの妻についても詳しく書いてあります。平凡社ライブラリーの「アイヌ人物誌」参照。武四郎が訪れた時は名寄の酋長や士別の総酋長は浜に下げられており不在で住居も朽ちていたとある。士別の総酋長ニシハコロの住居跡にも説明板が立っている。
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