カウンター

松浦武四郎の碑を巡る旅
松浦武四郎の記念碑と武四郎の評価について‼

松浦武四郎の記念碑

 幕末の探検家で膨大な旅日誌を残し、北海道では出身地の三重県よりも有名人かもしれない。北海道では松浦武四郎が残した功績を称えた記念碑等が北海道内各地に建立されています。当サイトでは北海道に有る松浦武四郎の碑(関連碑や関連施設を含む)を紹介しています。

 松浦武四郎の記念碑には

【1】蝦夷地調査時の通過地、調査時の宿泊地を示すだけの碑や標柱というタイプ。

【2】説明は有るが北海道の開拓に貢献した側面だけ評価している碑や像のタイプ。

【3】先住民族であるアイヌの苦難の歴史にも配慮した説明板、碑や像のタイプ

 松浦武四郎の碑は3タイプに分けることが出来るが、早くに建立されたのは【1と2】のタイプが多い。【3】のタイプは先住民族の権利に関する世論の高揚や、松浦武四郎の丁巳日誌(丁巳東西蝦夷山川取調日誌)、戊午日誌(戊午東西蝦夷山川取調日誌)が昭和年代後半になって一般の目に触れるようになり、松浦武四郎に対する評価が変わった事が大きいと思われる。また武四郎がアイヌに対する非道な扱いを告発していた「オホーツク海岸」に碑が少ないのは気になるが、一般向けの日誌が未刊(既刊の西蝦夷日誌続編でオホーツク部分は武四郎蝦夷地紀行として昭和63年に初めて出版された)であった事と関係あるかもしれない。そんな部分にも注目しながら武四郎の碑を巡ると北海道の別な歴史が見えてくるかも。歌碑の殆どは東西蝦夷日誌、石狩日誌、天塩日誌、十勝日誌、夕張日誌、納沙布日誌、知床日誌等からで、早くに建立された碑などの説明は是によっていることもある。設立年代にもよるが出来るだけ丁巳日誌や戊午日誌から引用して補足をする様に配慮した。また関連碑として武四郎とつながりのある碑や史跡、松浦武四郎の日誌類が引用されている碑、日誌類に記載があり現存している寺社仏閣等で特に気になったのも掲載、松浦武四郎の宿泊宿にもなった運上屋(会所)は北海道の宿駅(駅逓)と重複しますが内容を少し変更し明治以降は省略しました。

幕末の探検家 松浦武四郎

 幕末の探検家 松浦武四郎は1818年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)とも言われているが、彼ら程には知られていない(管理人の見解)。日本の歴史の中で探検家と呼ばれる人はそれ程多くないが、中でも松浦武四郎ほど広範囲に歩き数多くの貴重な記録を残した探検家はいない。またアイヌ語地名やアイヌ民族の近世史をみる上でも貴重な記録を残している。松浦武四郎は中華思想全盛の時代にしては希に見るヒューマニストでしたが、日誌を読んでいて気付く事は、最初に出版された蝦夷日誌は今迄の探検家と同じ様に地理や特産物、アイヌ語地名や北方の警備に関するなど、蝦夷地を知るためのルポルタージュと云えそうな内容で、松前藩や商人達にとって不都合な事にはあまり踏み込んでいない。松浦武四郎がアイヌ民族と寝食を共にして蝦夷地を踏査する中で、自己変革なしにはアイヌ民族の信頼を得られなかったであろうし、アイヌ民族の協力なしには詳細な蝦夷地探検は不可能であったろう。廻浦日記の後半から丁巳日誌、戊午日誌では詳しく人別帳と実際の人別を徹底的に比較調査、アイヌ民族の置かれた惨状を細かく調べ、アイヌ民族の目線から請負商人の非道ぶりを徹底的に批判、かつて和人でこれほどまでに和人を批判した人物はいないと言わしめた。

 幕末には間宮林蔵をはじめ多くの和人が蝦夷の見聞録を残しているが、彼らは通過者としてアイヌ人を眺め生活様式や風俗等を記録、中には禽獣の類とまで書いたのもあり、和人の多くはアイヌの人々を人間扱いしていなかったのがわかる。中華思想に染まった彼らが蝦夷地を眺めているだけならば問題は無かったが、統治するとなれば話は別で教化という大義名分による母語を含む文化と伝統の抹殺、それは同時に更なるアイヌ苦難の歴史でもあった。

 アイヌ独自の文化を認め、アイヌの生活基盤を侵さないという松前藩の対アイヌ政策(建て前としても)の方が理にかなっているのだが、松前藩の失政で藩財政再建を民間商人丸投げにした事がアイヌ民族の生活基盤をことごとく破壊するという結果を招いた。さらに江戸幕府は松前藩のアイヌ政策を否定し、教化と介抱の大義名分で同化策を推し進め、封建制度の機構をアイヌ社会に持ち込んだた事が大きな問題なのだと思う。その政策を引き継いだ大日本帝国によりアイヌ民族とその文化は完全に否定されたのであって、歴史の流れの中で見るなら松浦武四郎の意図とは裏腹に、結果としてアイヌ民族の衰退を加速してしまったのではという疑念を払拭できない。

 松浦武四郎はアイヌを独自の民族ではなく「皇国の臣民」という枠内で把握し、和人と同列においているが、それ故にアイヌの生活様式を和人と同じように改める教化が必要で有ると云う根拠になり、結果としてアイヌ文化を否定するという致命的な矛盾を抱え込んでしまった。蝦夷地の利権を牛耳る商人達によってもたらされたアイヌの惨状を直視、徹底的に請負商人を批判をしても、その背後にいる幕閣への批判はなく幕府御雇役人としての限界も見え隠れするが、それでもなお松浦武四郎はアイヌ民族の擁護者で有ったという事実は極めて重たい。アイヌ民族の友として和人の犯した非道な行為と豪商達の不正を告発し、救済を時の政権に求め続けた精一杯の誠意と行動は、同じ和人として誇りでも有り政権を見る時の戒めでもある。

松浦武四郎記念館

 松浦武四郎は探検家でルポライター、心優しき自由な旅人でアウトドアの達人、そしてアイヌ民族にとっては対等に話の出来る良き和人で有った。アイヌ民族の業績とアイヌ民族に対する和人の犯罪(アイヌ人物誌)を記録として残したのは松浦武四郎のみであり、また幕末の蝦夷地調査による膨大な著作を残し、それらは一級の郷土資料でもあり国の重要文化財に指定されている。松浦武四郎の生地である松阪市(旧三雲町)に、その功績を偲び松浦家で代々大切に保存されて来た武四郎ゆかりの資料を展示する博物館がある。【三重県松阪市公式サイト

松浦武四郎の碑等・フルHD,壁紙サイズギャラリー

旧 北海道命名の地碑・音威子府1 現 北海道命名の地碑・音威子府2 天塩日誌の故郷・松浦武四郎 史跡 松浦武四郎踏査の地・松浦台 松浦武四郎歌碑・屈斜路コタン紙

武四郎探検MAP

 既存の地域別松浦武四郎の碑をGoogleマイマップまとめ道南、道央部を追加し松浦武四郎碑全道一覧MAPに再編しました。赤ピンは銅像など。黄色ピンは松浦武四郎の顕彰碑、歌碑、説明板など、それ以外のピンは松浦武四郎の文献からの引用文がある碑や説明板などですが、宿泊地に関しては武四郎に関する記載がない碑などをも含みます。従来のmapと違うのは松浦武四郎の宿泊地となった会所・運上屋・通行屋などの記念碑や説明板、遺構を松浦武四郎に関する記載のあるなしにかかわらず含めたことです。掲載された碑が木碑や板碑の場合は既に失われている可能性もあります。


☆更新情報など☆

 記事の修正と写真追加、およびMapに2カ所追加変更しています。個別のmapはオープンソースのLeafletプラグインを利用して国土地理院のmapに置き換えました。

横走り pagetop  戻る  先へ

地名と伝説

サブコンテンツ

お勧めリンク

モバイル掲示板

掲示板談話室

rss10 rss20

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1