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旭川市を巡る旅・旭川市の文学碑・歌碑・詩碑を巡る旅‼

九条武子歌碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑01 明治23年、京都西本願法主大谷光尊の次女として生まれた。明治42年に九條良致と結婚、西本願寺22代夫人となる。佐々木信綱に師事。関東大震災を機に医療や福祉活動を続け、教育・社会事業に貢献。大正12年、42歳で死去。昭和2年に仏教婦人会総会のため総裁として、旭川来訪の時詠んだ歌『たきつ波ましろう白う岩にちる神居古潭のくもれる真昼』が神居古丹の橋を渡った階段左側にある碑に刻まれている。◇建立:S31.5.16 ◇設置場所:橋を渡って左側 ◇所在地:旭川市春志内神居古潭

小林孝虎歌碑(神居古潭幻想賦)

旭川市の文学碑&歌碑02 神居古潭の旧国鉄駅そば、旧線路沿い切り通しにある山のような岩盤に黒御影石をはめ込んだ歌碑。巨大さと、七首の歌が刻されていると云うことで、歌碑としては異色な存在。その中の一首『サマイクルに首級うたれし鬼神の身は立ちながら厳になりつ』と有るが、他も歌もアイヌ伝説と神居古潭が歌の原材となっている。他に台場にも歌碑がある。◇建立年:S31.57 ◇場所:神居古潭旧国鉄駅そば ◇住所:旭川市春志内神居古潭

旅路記念碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑03 NHKドラマ「旅路」の記念碑で、昭和44年7月19日の除幕式には平岩弓枝も出席。碑には『人生は 旅路 夫婦は鉄路 』と刻されている。ドラマの主人公、函館本線神居古潭駅に赴任してきた室伏雄一郎・有里夫婦にとって神居古潭は第二の人生への出発であった。碑はドライブインを経営する会社が昭和44年に建立したが、ドライブインが廃業してからかなりの年数で碑の傷みが激しい。映画の舞台となった駅舎は旭川市の史跡として保存されている。◇設置場所:ドライブイン跡 ◇所在地:旭川市春志内神居古潭

西村順歌碑

旭川市の文学碑&歌碑・準備中04 『いしかりの流れをとめるくるしさも黄金の稔りまつぞうれしき』ただ現在は神竜頭首工となっているので・・・場所は不明だが頭首工脇の小公園と思われる。今は新しい神竜工記念碑があります。前回の探索では見逃してしまったので再訪を計画中。◇建立年:37.5.2 ◇場所:神竜頭首工小公園 ◇住所:旭川市春志内神居古潭

小林孝虎歌碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑05 大正12年、深川市生まれ、第三師範学校を卒業し庁立旭川中、常盤中学校長など永く教職に有った。昭和30年「北方短歌」を創刊し主宰する。旭川市文化奨励賞、旭川市文化賞受賞。歌集に「ビルの上の塔」「アンモナイト」などが有る。大きな歌碑は古潭荘の協力により、古潭荘の庭園横、駐車場奥に有り、『まひるまの幻聴として山鳩のかなしむこゑを心処にきく』と刻されている。◇建立年:H1.10.15 ◇場所:古潭荘 ◇住所:旭川市台場1条1丁目

五十嵐広三歌碑

旭川市の文学碑&歌碑・準備中06 旭川市出身で政治家、歩行者天国を日本で初めて実現した元旭川市長。のち日本社会党所属の衆議院議員として、建設大臣、内閣官房長官を歴任する。歌人としては殆ど知られていないが、旭川市長になる前に創作活動をしていた時期があると、愛別町愛山の方からお聞きした事が有る。碑には『上川の黄金波うついしづえを築きし君が巧たたえん』と有る。◇建立年:S45.9.4 ◇場所:神栄橋畔 ◇住所:旭川市神居雨粉西五線

宮柊二歌碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑07 宮 柊二(1912年~1986年)は新潟県出身で北原白秋の門下、昭和時代に活躍した歌人で本名は宮肇。妻は同じく歌人の宮英子。代表作には『多く夜の歌』や『濁石馬』など多数有り。オイチャヌンベ産の自然石に黒御影石をはめ込んである碑には『大雪山の老いたるきつね毛の白くかはりてひとり径をゆくとふ』と刻まれている。この碑は宮柊二の歌碑として北海道で最初の碑という事だ。宮 柊二氏を師と仰ぐ松田一夫さんが建立し寄贈された。◇建立年:S57.10.10 ◇場所:優佳良織工芸館前 ◇住所:旭川市旭川市南が丘3丁目

種田山頭火歌碑

旭川市の文学碑&歌碑08 明治15年山口県生まれ、本名は種田正一。旧制山口中学から早稲田大学文学部に入学するも中退。その後家業の造り酒屋を手伝うも破産。井泉水の門下で種田を略して山頭火と呼ばれる事が多い。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人で、托鉢僧となって旅で句作、生涯約八万四千句を詠みすてたと言う。歌碑は山頭火を慕う有志によって建立、寄贈された。碑には『春風の水音の何を織るのか 雪ふれば雪を観てゐる私です』と刻されている。旭川ラーメンの山頭火は種田山頭火の名前が元という。酒で身を持ち崩した山頭火がラーメン屋の店名とは合点がいかない。◇建立年:H1.10.15 ◇場所:優佳良織工芸館前 ◇住所:旭川市南が丘3丁目

酒井広治歌碑(嵐山歌碑)地図へ

旭川市の文学碑&歌碑09 明治30年、福井県生まれで、同31年に旭川へ。旭川中学から東京歯科専門学校に学ぶ。在京中、歌人白秋に師事、大正15年「旭川歌話会」創設、旭川歌壇の基盤を築いた歌人でもあり、旭川歌壇育成の功労者で旭川市文化功労者受賞。碑は嵐山の山頂に建立され、傍らに眺望抜群の展望台が有る。碑には近文山に登って詠んだとされる一首『わが観るや川筋ひかる野のかなに照りしづもりし遠の街屋根』が刻されている。◇建立年:S33.6.25 ◇場所:嵐山展望台傍 ◇住所:旭川市嵐山弓成山

蘆花寄生木ゆかりの地碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑10 明治42年に発表した小説「寄生木」は、第七師団と春光台を舞台に見習士官「小笠原善平」をモデルとして書かれた二千頁に及ぶ長編小説で、軍人篠原良平が失恋の悲嘆の内に自殺する悲しい物語。小説「寄生木」は小笠原善平が恩人乃木大将の為に小説を書くべく、政敵の陰謀による父の投獄や乃木大将との関係、愛する人の事などを手帳に書き留め、徳富蘆花に小説化を依頼してなった異色の作品で、小説の序文には真の作者は篠原良平であると断っている。明治から大正時代のベストセラーとなったが戦争にてタブー視される。碑は旭川観光課が建立。仙台石の碑には「蘆花寄生木ゆかりの地」と刻されている。◇建立年:S33.5.24 ◇場所:春光台公園 ◇住所:旭川市春光町3区

徳富蘆花歌碑

旭川市の文学碑&歌碑・準備中11 徳富蘆花、明治元年熊本生まれ、本名は健次郎、兄は徳富蘇峰。兄の下で下積み後、自然詩人として出発し、後に『不如帰(ほととぎす)』など多くの作品を残した。昭和2年、60歳で没す。旭川には「寄生木」発表の翌年(M23)に、家族とともに訪れ春光台で「寄生木」のモデル小笠原善平を偲んだ句を詠む。句碑には『春光台腸断ちし若人を偲びて立てば秋の風吹く』と刻されている。軍の軋轢と失恋に苦悩した果て27歳の若さで自らの命を絶った善平へ追悼だったのか。◇建立年:H3.9.21 ◇設置場所:実業高校校舎左前 ◇住所:旭川市末広8条1丁目

山崎興吉歌碑

旭川市の文学碑&歌碑・準備中12 山崎興吉は男山酒造の初代で明治16年来道し札幌で酒造、のち明治32年に来旭、山崎酒造を興し銘柄酒、男山が誕生。カタクリの大群生地として有名な男山公園と呼ばれる突哨山の山頂近くに四角柱の碑が立つ。碑には『秋も過ぎいつしか雪に折れ笹も来るのどかさの日をやまつらむ涼風』と、他一首が刻まれている。カタクノ見学時に。◇建立年:T4 ◇場所:男山自然公園 ◇住所:旭川市

井上靖詩碑

旭川市の文学碑&歌碑・準備中13 旭川百年記念協賛事業として旭川信金が文学碑建立し寄贈。井上靖は明治40年、旭川生まれの昭和を代表する国民的作家で、数多くの作品を残し83歳で没す。旭川市内に井上靖記念館が有る。碑には碑文用に書き下ろされた上靖自筆の詩「私は十七歳の、この町で生まれ、いま、百歳の、この町を歩く。すべては、大きく変ったが、ただ一つ、変らぬものありとすれば、それは、雪をかぶったナナカマドの、あの赤い実の洋燈。一歩、一歩、その汚れなき光に、足許を照らされて行く。現実と夢幻が、このように、ぴったりと、調和した例を知らない。ああ、北の王都、旭川の、常に天を望む、凛乎たる詩精神。それを縁どる、雪をかぶったナナカマドの、あの赤い実の洋燈」と刻む。◇建立年:H2.9.19 ◇場所:旭川信金横 ◇住所:旭川市4条8丁目

井上靖文学碑

旭川市の文学碑&歌碑14 碑は井上靖通りの噴水脇にあり『自分が五月に生まれたということも、幼少時代の私にはすばらしいことのように思われた。母が時に五月の旭川の、百花が一時に開く美しさを語るのを聞いたりすると、私は誰よりも恵まれた出生を持っていると思った。寒い間、母の腹中にぬくぬくと仕舞われてあり、雪がとけ、春の明るい陽光が降り始めると、私は母の腹中から飛び出したのである。「幼な日のこと」より』と有る。◇建立年:H5.7.24 ◇設置場所:井上靖通り ◇住所:旭川市春光町1区

井上ふみ文学碑

旭川市の文学碑&歌碑15 碑は井上靖通りの彫刻「重さのロンド」近くに有り『大雪連峰をはるか右に見ながら、ゆるやかな丘陵地帯を車で走っている時であった。「ここまで来ると広くていいな」と靖は言った。昭和54年11月「僕が生まれたのはどんな所か行って見ようよ」と私も同行した旭川であった。もう雪が降っていて、街路樹のナナカマドの実が雪を被って美しかった。「靖と旭川」より』と有る。◇建立年:H5.7.24 ◇設置場所:井上靖通り ◇住所:旭川市春光町1区

知里幸恵文学碑

旭川市の文学碑&歌碑16 叙事詩ユーカラを「アイヌ神謡集」として世に出した知里幸恵の文学碑で彫刻家の空充秋氏が製作。右側の碑の頭頂石には『銀のしずく 降る降る まわりに・金のしずく 降る降る』と「アイヌ神謡集」の一節が刻されている。知里幸恵(1903-1922)は登別に生まれ、母の姉金成マツの養女となり14年間を旭川にて過ごす。大正7年来旭の金田一京助を泊めた縁で自ら書き始めた「アイヌ神謡集」出版の話が進み、大正11年5月に上京。金田一家に寄寓しながら校正作業にあたるが、その年9月に夭折、19年と3ヶ月の生涯であった。「アイヌ神謡集」は翌年出版された。北門中学校には知里幸恵資料室があり一般公開されている。◇建立年:H2.6.8 ◇設置場所:北門中学校 ◇住所:旭川市錦町15丁目

阿部みどり女句碑

旭川市の文学碑&歌碑17 阿部みどり女は明治19年、永山武四郎の四女として札幌市で生まれる。本名は光子、明治43年結婚。結核で転地療養中に俳句をはじめ、高浜虚子に師事、昭和55年93歳で没す。句集には「笹鳴」「微風」「駒草」などがある。句碑は「屯田歩兵第三大隊本部跡」の碑裏面に『郭公や美田の底に鎮む魂』と刻されている。句碑面は建物の関係で撮影は難しい。◇設置場所:永山屯田公園 ◇旭川市永山3条18丁目

今野大力 詩碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑18 明治37年、宮城県生まれ、3歳の時、家族とともに旭川に移住。その後、名寄、深川を経て再度旭川へ。旭川では旭川新聞社の給仕の後、郵便局で働く傍ら詩作を始め、文学を志す若者と交流、小熊秀雄らとも親交が有った。25歳時に上京するが、昭和7年の一斉弾圧検挙とその時の拷問で重態となり、釈放されたが昭和10年中野療養所で亡くなる。闘病中、宮本百合子の援助を得、青年詩人として詩作に傾注。没後50年を記念して建立された蛇紋岩の大きな碑に『詩人が時代の先駆をした 詩人が郷土を真実に生かしたそんな言葉が 私の耳に流れては来ないかしら そんな言葉が 地球のどこかで語られる時 私のからだは墓場の火玉となって消えるだろう」1924年作「やるせなさ」より』と。◇建立年:S60.6.22 ◇設置場所:常盤公園内 ◇住所:旭川市常盤公園

小熊秀雄の詩碑

旭川市の文学碑&歌碑19 明治34年小樽生まれ、不幸な家庭環境の中で小樽を振り出しに転校を繰り返し樺太で卒業。20歳で旭川新聞社に入り上京するまで旭川で活躍、今野大力とも親交の有ったプロレタリア詩人。昭和3年、27歳で最後の上京をし以後東京で活躍、昭和13年、肺結核により39歳で没す。「飛ぶ橇」「流民詩集」「小熊秀雄詩集」など有り。碑の建立時に小熊秀雄賞が設けられた。碑文の揮毫は壺井繁治。碑には『ここに理想の煉瓦を積み ここに自由のせきを切り ここに生命の畦をつくる つかれて寝汗掻くまでに 夢の中でも耕やさん』と遺稿「無題」の一節が刻されている。◇建立年:S42.5.28 ◇設置場所:青少年科学館裏 ◇住所:旭川市

更科源蔵文学碑

旭川市の文学碑&歌碑20 弟子屈町出身の更科源蔵(1904-1985)氏は北海道では高名な詩人で有り、コタンの小学校代用教員や酪農・印刷業などする傍ら、詩人尾崎喜八に認められた詩作を続けた。同時に郷土史・アイヌ文化の研究者として著名だが、アイヌ民族の理解者という事ではない。詩「吹雪の古譚」の一節から「・・・原始な住民共を 無智な迷信と必然の信仰の犠牲に供へられる オクユ・イビレの生血に染つた雪は深い・・」更科源蔵氏に眠っていたアイヌ民族への差別意識を感じてしまう。「風雪の群像」裏面誌「風雪百年」に刻まれた更科源蔵作「基石」の一節『耐えに耐え頑固に立ち直り 不屈な力に支えられて百年の冬と夏、春とそして秋がくり返され ついに広い空の下に 大地はその全貌を見せた今 花よりあざやかに大地を彩る家々と耕地そして 若く巨大で明るい国土を創造する貌々 道はすべてこの基石にはじまり ここに集まる 今こそ大望を抱け 母なる北の大地よ 更科源蔵作「基石」の一節より』と、先住民族に対する配慮は一切ない。研究者が理解者とは限らない例かもしれない。◇建立年:S45.8 ◇設置場所:常盤公園内 ◇住所:旭川市

岩村通俊歌碑

旭川市の文学碑&歌碑21 当時の上川は強風もなく、高燥平坦な肥沃な大地があり、幾数十年も移出できる樹木や試作した穀菜類の成育がすぐれているという報告を受けた岩村通俊(初代北海道庁長官)は、翌年の明治18年に永山武四郎らとともに近文山に上って国見を行い、この地に「北京を置く議」を政府に提出した。常磐公園千鳥が池端にある平成2年に再建された岩村通俊像とともに新しくなったの碑には『世の中に涼しきものは上川の雪の上に照る夏の夜の月』と有る。◇建立年:13.11.12 ◇設置場所:常盤公園内 ◇住所:旭川市常盤公園

西本一都句碑

旭川市の文学碑&歌碑22 西本一都は明治23年大阪生まれで、昭和23年来旭、27年迄旭川に居住、平成3年没す。本名は西本忠孝。旭川俳句研究会など多くの俳句会を指導、後進育成に努めた。句集に「神涼」などが有る。青みがかった神居古丹石の碑には『ななかまど十三葉の露涼し』と刻されている。◇建立年:S45.6 ◇設置場所:常盤公園内 ◇住所:旭川市常盤公園

大塚 千々二句碑

旭川市の文学碑&歌碑23 野外彫刻「風の塔」近くに有る句碑で『太陽も 宇宙の塵か 日向ぼこ』と有るが、読み手の名前が良く分からない。調べてみたが判ったのは旭川文化団体協議会参加団体リストにある「旭川ホトトギス石狩」代表者の「大塚 千々二」さんらしいと云う程度。句碑の裏面から「旭川ホトトギス会」により平成15年建立されたのが判るだけ、取りあえず「大塚 千々二句碑」としておきます。間違いに気づかれた方はお気軽にお申し出ください。◇平成15年建立・旭川ホトトギス会 ◇旭川市常盤公園 野外彫刻「風の塔」付近

宮沢賢治の碑

旭川市の文学碑&歌碑24 宮沢賢治が1923年の夏、樺太(サハリン)へ向かう旅の途中で8月2日の早朝に旭川停車場に降り立ち、昼近くに稚内に向けてまた列車で旅立ったであろうと推定されている。来旭の目的は農事試験所の見学であったようだが、旭川滞在中の行動に関してはよく分かっていない。除幕が行われた2003年は宮沢賢治の来旭から、80周年という事であった。碑文は「拡大写真」でご覧ください。◇建立年:H15.8.2 設置場所:旭川東高等学校 ◇住所:旭川市

永山武四郎碑

旭川市の文学碑&歌碑25 明治22年、上川を視察した永山武四郎が岩村通俊とともに上川離宮造営地設定の意見書を提出、一度は決定されたが実現しなかった。その予定地跡に永山武四郎が天皇の行幸を仰いで詠んだ碑『上川の清き流れに身をそそぎ 神楽の岡に御幸仰がん』と刻されている。離宮計画を決定した内閣の宣達文を記した「上川離宮宣達書碑」も有る。◇建立年:S31.6 ◇設置場所:上川神社境内 ◇住所:旭川市

敦賀谷夢楽川柳碑

旭川市の文学碑&歌碑26 明治19年、北海道江差生まれ、本名は謙治郎。旭川で司法書士を開業、昭和5年「あさひ川柳会」を再発足。旭川川柳社の主幹として後進を指導した。昭和46年、門人により建立、川柳碑としては北海道初と云う。碑には『陽の露のめぐみ柳の芽が育ち』と刻され台座に略歴が刻まれているが判読の困難な部分も有る。碑は上川神社敷地内で柵の外側、神楽岡公園の遊歩道に面した所に有る。◇建立年:S31.6 ◇場所:上川神社横 ◇住所:旭川市神楽岡公園・上川神社横

三浦綾子文学碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑27

1922年旭川生れ、小学教諭を経て昭和39年、見本林が舞台の「氷点」で懸賞小説入賞、のちにドラマ化される。文学館入り口に有る碑には「この文学碑は、旭川で生まれ、この地で生涯を通じて作家活動を続けてきた妻、綾子の業績を顕彰して建てられました。見本林の風景は綾子のデビュー作となった「氷点」に、活き活きと描かれています。この地を訪れた皆さんが人間の生き方を求め続けた三浦文学の世界に触れていただけると幸いです」と有った。◇建立年:H12.10.12 ◇場所:神楽見本林入口 ◇住所:旭川市神楽7条8丁目

野村権作・小沢仁良歌碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑28 西神楽の林産試験場横に黎明碑があり開拓功労者である、利根川孫太郎翁之碑と黎明の説明碑の他に、小沢仁良・野村権作の詠んだ開拓功労者への賛歌二首を刻した歌碑が有る。野村権作『子らのため展く未来に燃えたちて鍬ふるひたる祖先の魂』小沢仁良『拓かれし野をわたりくる風ありてたしかにぞ聞く先祖のこゑを』歌人としては両名とも無名?。◇建立年:S60.9 ◇場所:林産試験場 ◇住所:旭川市西神楽1線10号

雪の降る町を・歌碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑29

昭和24年のNHKラジオドラマ「えり子と共に」の挿入歌として「内村直也」の詩に作曲家「中田喜直」が曲をつけた日本の代表的な叙情歌曲。歌のイメージは冬の旭川そのもの、此の曲が全国、全世界の人々に「平安と希望」をもたらすよう継がれて行く事を願って、その精神の象徴として「歌碑」を建立したと云う。◇設置年:H14年 ◇場所:旭川クリスタルホール前◇旭川市神楽3条7丁目

西山東渓句碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑30 明治32年旭川生まれ、本名は西山勲。藤田旭山とともに「旭川ゆく春会」を発足させる。旭川俳壇の草分的存在の一人。神居古潭石の歌碑は旭川屯田会によってされた。句集に「年輪」「渓音」がある。碑には『大雪山の水に屯田稔る秋』と刻されている。東旭川には縁の深い詩人。◇建立年:S60.11 ◇場所:屯田公園 ◇住所:旭川市東旭川本町

塩野谷秋風句碑地図へ

旭川市の文学碑&歌碑31

塩野谷秋風は明治24年、東旭川生まれで、本名は貞夫。昭和61年、78歳で没す。旭川中学卒業後、荒谷松葉子に師事。多くの俳人を育成し、昭和38年に旭川市文化奨励賞受賞する。俳句会など関係者により旭山公園の第1展望台近くに黒御影石の句碑が建立された。碑には塩野谷秋風の代表作『花屑にまみれし土をうらがえす』が刻されている。◇建立年:S63.9 ◇場所:旭山公園 ◇住所:旭川市東旭川倉沼

新明紫明句碑

旭川市の文学碑&歌碑32 新明紫明は昭和3年室蘭生まれ、本名は美仁。北大医学部の頃より作句。富安風生に師事する。昭和33より旭川に居住。昭和38年「青女」創刊主催。昭和50年に旭川市文化奨励賞受賞する句碑は「青女」の創刊20周年と、紫明の還暦を記念して旭山公園の第1展望台近くに建立された。碑には『冬木の芽仰ぎこころにちから湧く』と刻されている。◇建立年:S63.9.25 ◇場所:旭山公園 ◇住所:旭川市東旭川倉沼

藤田旭山句碑

旭川市の文学碑&歌碑33 明治36年、士別市生まれ、明治大学卒業は会社員を経て昭和19年~43年まで旭川工業高校教諭。俳句は室積徂春に師事。西山東渓とともに「旭川ゆく春会」を発足させる。旭川俳壇の草分的存在で、昭和28年に旭川市文化賞受賞。平成3年83歳で没す。蛇紋岩の立派な碑には『雪虫の夕くれ青し旭川』と刻されている。◇建立年:S54.19.7 ◇設置場所:旭山公園 ◇住所:旭川市東旭川倉沼

工藤力夫句碑

旭川市の文学碑&歌碑34 昭和11年、工藤力夫が妻フサの33歳の厄払いとして、旭山に330本の桜を山道から山頂まで植樹。歌碑は植樹が評価され昭和33年、東旭川町より「植樹表彰」されたのを記念して「工藤夫妻」が建立した。碑には『この丘や旭は躍りさくら舞ふ』と刻され、句も桜が主題になっている。◇建立年:S30 ◇場所:旭山公園 ◇住所:旭川市東旭川倉沼

その他の碑について

この他に下記の歌碑があります

深谷雄大句碑 花咲町1丁目 護国神社境内

藤川碧奥句碑 花咲町1丁目 護国神社境内

一部を除いて個人宅や寺院、墓所にある歌碑は省略。

旭川市の文学碑・歌碑・詩碑などのミニギャラリー

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