☆更新情報など☆
トップメニュー、レイアウトの一部変更。
幕府は18世紀半ば頃から東蝦夷地に調査団を派遣、その時ビタタヌンケからルベシベツ間に山道を開削、蝦夷地を仮支配地や直轄地にし北方警備を強化した。十勝場所の開設は寛永12年の松前藩による戸賀知金田の開設と同じ頃と考えられているようで、広尾や大津には官馬が配置されている。寛政11年に十勝会所と改称、享和年間に崖下から高台に移転しているが、移動距離は近距離の範囲内。松浦武四郎は弘化2年に宿泊、蝦夷日誌では運上屋となっていたが、当時は幕府再直轄前で運上屋とも呼んでいたものか。廻浦日記、戊午日誌では会所となっている。安政5年の松浦武四郎2度目の十勝内陸部踏査の起点になった地。◇所在地:広尾町海岸通り
十勝会所の概略はビロウ(広尾)運上屋で書いたので省略し幕末から明治初期について簡単に触れておく。十勝会所では酒造が試みられていたとの事で他の会所には無い特徴が知られているが標柱に酒造に関する表記はない。最後の十勝場所請負人は箱館の福島屋杉浦嘉七、維新後の明治2年に会所は廃止となるが漁場持として実質延長され駅逓業務も請負で継続されていたようです。明治7年に福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上すると、福島屋の現地支配人だった若松忠次郎は福島屋を離れ、官のすすめもあって、もと福島屋の雇人であった山崎勘之肋、堺千代吉、およびアイヌ代表とはかり明治8年に十勝漁業組合を組織、ほぼ従来どおりの十勝場所経営をおこなったという。その十勝場所経営は排他的でアイヌを使い暴利をむさぼっていると批判され開拓使により明治13年に解散させられた。十勝漁業組合が解散時に清算した利益は現在の数億円に相当するもので的外れの批判ではなかった。駅逓取扱人は明治8年から若松忠次郎となっているが、旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧では高橋仁太郎とあり駅逓廃止はこれ以降となる。◇所在地:広尾町会所通り
「最初の記録は寛政11年ということで大津と同年代である」とあることから、元々は十勝会所の通行屋とも受けとれる。十勝会所つながりで云うと駅逓取扱人は明治8年から若松忠次郎、官設の茂寄駅逓所としては明治13年ともいうが旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では高橋仁太郎とありこれ以降に茂寄駅逓は廃止されたようだ。茂寄駅逓所は実質的には旅人宿業務をせず、人馬継立のみで駅逓業務をされていた様ですが、明治31年に再設置された官設広尾駅逓所は標柱の説明からは他の駅逓と変わらないようですが、正確には判断がつかない。駅逓廃止は昭和8年となっているが実質的な廃止は昭和6年頃らしい。明治33年開設の音調津駅逓跡にも史跡標柱があるので、明治32年開設の上門別駅逓所、昭和10年開設の下豊似駅逓所跡にも標柱がある可能性も・・・ただそれらしき情報はありませんが。
◇明治2年会所廃止 駅逓は引き継がれる。◇駅逓請負人:福島屋杉浦嘉七 ◇駅逓取扱人:若松忠次郎 ◇駅逓取扱人:高橋仁太郎 ◇廃駅年?
◇再設置年・明治31年03月 ◇廃駅年・昭和08年09月 ◇初代取扱人・長谷川万助 ◇二代・林金三郎 ◇三代取扱人・広井要助 ◇四代・渡辺総次郎 ◇五代取扱人・奧綱吉 ◇六代・奧石松 ◇七代取扱人・奧正勝 ◇所在地:広尾町市街地
音調津官設駅逓所は明治33年の開駅で昭和11年まで使われたらしい。駅逓としてはかなり長い歴史を持っているが、この辺は旅人にとって自然条件が厳しかったのでしょう。音調津駅逓所跡の標柱は音調津保育所と道を挟んだ前にあった。これは広尾町郷土史研究会が2006年に更新した木標柱で当分は見られると思います。広尾町には会所跡、運上屋跡の標柱や広尾駅逓跡にも標柱が有るので他の駅逓跡にも史跡標柱があるかも、ただ情報は有りません。
◇所在地:広尾町音調津 ◇GPS:N42°13’18.7” E143°19’00.8”
日高山脈の南端は垂直な断崖が海に落ち込む交通の難所で日高山脈西側には様似山道、東側では猿留山道とルベシベツ山道が知られている。重蔵守重がアイヌ民族が利用していた道、ルベシベツ~ビタタヌンケに3里(11.8km)の山道(ルベシベツ山道)を私費で開削。ルベシベッは道のあることを意味し、元々あったアイヌの踏分道を改良したという方が正確か?僅か2日で開削されたという山道で、後に改修やルート変更もあるのが常、ということで現在知られているコースとは微妙に異なっている可能性はある。明治23(1890)年に海岸道路の建設に着手し明治25(1892)年頃に完成するも、時化の時は山道を使う併用の時代が続きます。◇所在地:広尾町ピケタヌンケ
ロシア南下を憂慮した幕府は近藤重蔵守重らを北方巡察隊として派遣、4月に江戸を発った近藤は、東蝦夷地から国後島を経て択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を立てたという。その帰途の10月、広尾から日高へ抜けるとき、荒れる海岸線の通行に難儀し数日の滞在を強いられた。近藤は私財を投じて従者の下野源助に新道の開削を命じアイヌ民族68人の協力を得、ルベシベツからピタタヌンケまで山間部を通る山道(ルベシベツ山道)を切り開いたが、これが東蝦夷地における道路建設のはじめという。また開削工事の経過を木板に漢文で刻み、十勝神社に奉納したのが「東蝦新道記」で、現存するのはその再刻版という。近藤重蔵にちなんで命名された重蔵隧道入口近くの石碑は東蝦新道記の内容を刻んであるようですが、文字は判読不能な部分が多い。またピタタヌンケ山道開削口の黄金道路沿いには数基の石碑や説明版が並んでいるも、近藤重蔵山道開削口と書かれた史跡標柱は工事中で撤去されていた。◇所在地:広尾町モエケシ
明治18(1885)年に太平洋岸沿いに道東に至る唯一の国道43号として指定され、北海道庁が発足した4年後に猿留山道下に海岸道路の竣工。明治25(1892)年頃にはルベシベツ山道沿岸にも海岸道路が開削された。監督は新井長蔵、道路工事は永岡庄兵衛、トンネル工事は浦河の田中五郎右衛門(五郎右ェ門と表記しているのもある)が請負ったという。ルベシベツ~タンネソ間海岸沿いの難所にトモチクシ、チカプウシ、ルベシベツの3カ所で墜道を掘り発破を用いた工法が採用されたと云い、北海道では初めて技術が用られい五郎右ェ門隧道と呼ばれ、広尾町の史跡となっている。海岸道路が完成してからも時化の時は山道を使う併用は黄金道路全通まで続きます。
◇所在地:広尾町ピケタヌンケ
黄金道路の旧々道となる最初の海岸道路は明治25年に開削された幌泉、茂寄間の延長約12里の道でしたが、海が荒れると通行出来ず山道が併用されている。その後昭和2年に本格的な海岸道路建設に着手、多大の犠牲と建設費を投じ満7年半をかけて昭和9年に日高山脈東側の海岸道路が全通する。建設費は巨額というが現在の貨幣価値にすると約60億円、黄金道路というほど篦棒な金額ではない。広尾側は6つの工区に分けられ、第二工区だったフンベと美幌の間が難所中の難所で、札を積んだくらい金を要したため黄金道路という異名が付けられたという。つまりは道路が完成する前の昭和5年頃からすでに黄金道路と呼ばれていた訳だ。戦後になってからも改良を重ね、昭和42年から本格的な改築工事に着手、昭和56年に一次改築が完了したが、現在もどこかで工事中と黄金道路と呼ぶにふさわしい結果にはなった。また道路全通で利便性は良くなったが、同時に漁場を失った漁民も少なくない。黄金道路の正式な名称は日勝道路(日勝国道)で、通行止めになることが際立って多い国道ことでしられる。道路全通記念碑がえりも町と広尾町の境界付近にある駐車帯にあります。所在地:広尾町ピケタヌンケ
記念碑とあるが通称・黄金道路と呼ばれる国道建設工事で無くなった方の慰霊碑。開通を目前にした昭和9年3月13日から14日にかけての記録的な豪雪で現場は埋もれ工事まままならない状況に陥り、作業員を待機させていた土工部屋3棟のうち2棟が大規模な雪崩に直撃される。直撃を免れた土工部屋に居た人々によって救助活動が行われ、一通りの救出作業を終えて部屋に戻って休んでいたとき第2波の雪崩に直撃されて18名(21名?)の犠牲者を出したが、連日の”発破作業”による震動が雪崩を誘発する遠因となった可能性は否定出来ない。雪崩事故のあったタニイソから移設した殉職記念碑では黄金道路工事全体の殉職者数が18人となっているが、この工事ではタコ部屋もあったようなので実際の犠牲者はもっと多いだろう。◇所在地:広尾町ピケタヌンケ
国道336号の広尾橋からえりも方面へ車で5分程走った浜フンベ覆道を越えフンベの市街地の切れた先の国道沿いの岩崖一帯に数丈かかっているが水量の多いのは看板の近くに有る滝。冬季には氷結し、見事な氷瀑となる年もあるが氷瀑の周りは滑りやすいので要注意。滝は川を持たず水源は日高山脈の伏流水で砂礫層からしみ出すように流れ落ちている。なお道の山側、滝の南側に駐車スペースがあるが写真撮影の邪魔にならない様に気を使ってください。◇所在地:広尾町フンベ
広尾町からえりも町庶野までの黄金道路沿いの海岸は、アブラコやカジカの大物が期待できる道内有数の磯釣り場。黄金道路沿いの磯や十勝港はチカ釣りの良いポイントにもなっている。8月の秋鮭のシーズンを迎えると町内の海岸には沢山の釣竿が並びサケ狙いの釣り人で賑わいますが、鮭シーズンだけ釣りをするニワカ釣師人も大挙して来るので時には不快な思いをする。釣れる魚と季節は基本的に変わらないが岩場ではアブラコやカジカの大物が期待できる釣場が多い事と、鮭釣りのシーズンは十勝港と音調津港の港内でも釣れる事もがある。重要港湾に指定されている十勝港で竿を出すとなると、規模が大きいため始めて行くと、どこで釣るか迷う事と思うがそんな時は釣り人の多い所に行って様子を見るのが一番。第三埠頭一帯が見通しも良くいつも釣り人が竿を出している。此処が使えない時は第4埠頭北防側が良いようだ。黄金海岸での釣りに関して注意する事は大雨や地震の後は崖崩れの可能性も有り、危険そうな崖下には近づかない事と、何時来るか判らない地震と津波に対する逃げ場を確認しておく事を忘れないでください。
日高山脈を源とする東広尾川と西広尾川が『青岩』の手前で合流し太平洋に流れ込む広尾川はかつて清流日本一にも選ばれた。隣町のえりも町の事だが日高山脈唯一の湖、豊似湖がある猿留川のサケ・マス孵化場に設置された檻で500kgを越えるヒグマが捕獲された。市街に程近い地域で孵化場の職員は命がけで仕事をしているという訳で、遡上する鮭を狙い秋はヒグマが人里に出没する。日高の山並みが海岸近くまで続いている広尾町ではどこにヒグマがいても不思議ではない。釣りに行く時は熊情報を確認する事と熊対策は確実に。特に釣った魚をキープする時は臭いが漏れない様な対策が重要。臭いのある食べ物は持ち歩かない事とゴミは絶対に捨てない事。これが守れないと貴方と貴方のあとに来る釣り人が生命の危機に立たされる確率が一段と高くなるのだ。厳しい自然の中ではマナーを守る事が命を守る事に直結する事を理解して欲しい。
広尾川の水は綺麗だが東広尾川は相当に川がいじられている様であまり良い釣場とは言えない。西東広尾川は全体に自然河川の渓相が多いが砂防ダムが多く釣場は砂防ダムを狙って歩くのが楽かも。どちらの川にも砂防ダムがあり快適な釣場とは言い難いが砂防には魚道は設置され、ヤマメもイワナとともに魚影は少ない。特にヒグマとの遭遇にはくれぐれも注意の事。
楽古川は水量と入釣する場所とタイミングが釣りの結果を左右する。場所とタイミングが合わなければ全てが徒労に終わる事が多く当たり外れの多い川。初めて行って釣れる事はよほど運に恵まれない限り難しい。加えて下流域では入釣場所が極端に少ないという事で地元専用という感じ。沢登りをされる場合は滝のオンパレードというので楽しめるかもしれませんが。
日高山系から流れ出す豊似川は中下流域が最も自然河川らしい雰囲気を持つ川だが国道236号線が川に平行する様に通っていて上流域はかなり川がいじられている。下流の豊似橋付近ではルアー・フライともに快適に振れるが魚影は薄い。対象はアメマス、上豊似橋はヤマメ狙いの人が多い様だが釣れるかどうかは運次第。上流の岩見橋から函橋の間は函状の地形で入釣は無理。それ以外での釣りになるが国道が走っている分釣り人は多く釣れたら幸運。
トップメニュー、レイアウトの一部変更。