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松浦武四郎の碑を巡る
噴火湾・太平洋ラインの武四郎碑や説明板など‼

松浦武四郎 来村百年記念碑厚真町MAP

松浦武四郎歌碑松浦武四郎之碑は厚真町有形文化財となっています。碑文より転載、上に「松浦武四郎之碑」とあり、下に続いて「えみしらも 志らぬ深山に 分いれハ ふミまようふべき道 たにもなし」と東蝦夷日誌にある一首が刻まれ「松浦武四郎翁は文政元年(1818年) 伊勢に生まれ、弘化2年(1845年) 蝦夷地に渡り、幕吏或は単独で本道、千島、樺太等を再三に亘って踏査し、北辺に関する著書だけでも、実に21類460余種に及んでいる。明治21年(1888年) 71才歿せられたが、今日の北海道の名付け親で有り不朽の功績を垂ている。本村えは安政5年(1858年) 6月11日から同23日まで2泊3日で踏破された。東蝦夷日誌は貴重な文献であるが、その第参編中に当時のことを詳述している。茲に翁の来村百年記念碑を建立して永くその功を顕彰する次第である。昭和32年11月文化の日 発起人 厚真村郷土研究会員 亀井喜久太郎 筒井善太郎 楠木只久 古屋信光 阿部栄一」横にある寄付者名には村長を初め議員や企業、個人の名前が多数であったので省略、村の一代イベントだったような印象です。通称は松浦武四郎歌碑、碑には松浦武四郎之碑と刻むが文化財としての名は「松浦武四郎 来村百年記念碑」のようです。真神社参道入り口近く頗美宇川にかかる「まつうら橋」の際にあったが案内表示はない。◇所在地:勇払郡厚真町字富里179-1

勇払会所之跡と勇武津資料館苫小牧市MAP

勇払会所之跡シコツ16場所とも呼ばれ、白老、千歳、苫小牧、鵡川、門別などに運上屋があり、勇払は河海両域の交通の要で交易の拠点で交易品の集積地として栄えていた。1799(寛政11)年に幕府は蝦夷地を直轄領とし勇払川の東側にかつての運上屋を会所と改め設置した。この時に15場所を勇武津会所として統一、従来の交易施設に幕府の役所としての機能を合わせもつようになる。1804(文化元)年に波浪浸食で石碑建立地に移動、下宿所三棟、倉庫七棟、弁天社一社があった。幕府は1821(文政4)年に松前藩に返領したが1855(安政2)年に再び直轄としている。幕末の勇払場所請負人は明治8年に漁場返上するまで山田屋仁右衛門でした。苫小牧市指定文化財に指定されている勇払会所之跡近くに勇払会所を模した勇武津資料館がある。松浦武四郎は浦武四郎は安政3年と安政5年に勇払を訪れ「戊午33巻 新道日誌」では「大雨にて、此辺惣て洪水にて水勢橋々を流し、往来は昨日まで留りありしとかや」と、かつては水害の常習地帯であったようだ。◇所在地:苫小牧市勇払50-11

白老会所跡白老町MAP

白老会所跡寛文年間にはすでに開設されていたらしい。白老場所はシャタイ(社台)、シラヲイ、シキウ、メップもアイロからなり、秋鮭、鰯粕、昆布が主な交易品でした。白老場所請負人は文化から文政にかけては南部の新保屋、天保12年から明治2年までは野口屋でした。安政3年に仙台藩元陣屋が置かれてからは共に北方警備の役割も付加されたようです。駅逓業務は文化10年から請負制となって場所請負人が担っていましたが、場所請負制の廃止で会所は明治2年に廃止される。ただ駅逓業務は一関藩が引き継ついだが、廃藩置県で開拓使に引き渡している。その跡を大沢周次郎が引き継いだようだが札幌本道開通後に駅逓は移転している。当時の面影を残すものは残っていないが、今の下水道終末施設付近に有ったされ処理場前庭に石碑がある。松浦武四郎は安政3~4年に白老会所で宿泊、仙台藩白老陣屋について、旭岡十景などをあげて「是皆三好氏の功業なり」と、三好氏は戊辰の役で会津藩と戦い自刃。◇所在地:白老町高砂町4丁目

東西蝦夷山川地理取調地図アイヌ民族博物館 白老町MAP

東西蝦夷山川地理取調図有名な観光地となってしまったが、アイヌ民族と文化を広く知ってもらうという意味では良いことなんでしょうね。この白老町アイヌ民族博物館と、幕末に蝦夷地を探査して北海道の名付け親とされる松浦武四郎の故郷・三重県松阪市にある松浦武四郎記念館が姉妹博物館提携を結び、アイヌ民族博物館園内で2014年10月に「松浦武四郎モニュメント」が除幕されたが、もう一つ隠れた武四郎の仕事が見られます。伊能忠敬が測量し、そのあとを継いだ間宮林蔵によって完成した北海道地図に内陸部を克明に照らした「東西蝦夷山川地理取調地図」が床にマット状に張られている。一見の価値ありです。◇所在地:白老町若草町2-3-4 ※2018年3月31日で閉館、国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴公園として2020年4月開設予定

民族共生の人 松浦武四郎碑白老町

民族共生の人・松浦武四郎碑の右側に「民族共生の人 松浦武四郎」とあり続いて左側に碑文「松浦武四郎は、幕末にアイヌ民族と心を通わせ、現代にアイヌ文化を伝えるなど数々の業績を残したヒューマニズム溢れる人でした。生まれは伊勢国須川村(三重県松阪市) 少年期から人々の温かさに触れながら、全国を旅する中で豊かな知識と真実を見抜く力を養い、弘化2(1845) 年にアイヌモシリ(蝦夷地) に初めて渡りました。そして、この大地に生きるアイヌ民族の固有の文化に深く心打たれ、アイヌ民族の信頼に支えられながら、夢と情熱と権力に対する反骨精神を胸に、全6回、およそ2万キロを踏査しました。これらの探索の記録は151冊の書物にまとめられ、うち5回訪れた白老の様子は「初航蝦夷日誌 巻の七」「按東扈従 巻之五」、「丁巳東西蝦夷山川取調日誌 於沙流別日誌」「東蝦夷日誌 弐編」に詳しく記されています。明治を迎え開拓使の判官を努めた武四郎は、蝦夷地に代わる名称として、古くからアイヌ民族が暮らす北の大地という思いを込めて「北加伊道」を提案、そこから「北海道」の名称が生まれました。加えてアイヌ語地名をもとに、国名(後の支庁名) や郡名の選定にあたるなど、武四郎はアイヌ民族と和人が共に暮らすことができる社会を目指して行動した民族共生の人だったのです。平成26年10月 白老町長 戸田 安彦」白老町アイヌ民族博物館と、幕末に蝦夷地を探査して北海道の名付け親とされる松浦武四郎の故郷・三重県松阪市にある松浦武四郎記念館が姉妹博物館提携を結び、アイヌ民族博物館園内で2014年10月に「松浦武四郎モニュメント」が除幕された。武四郎の記念碑としては新ひだか町に続くもので素材は御影石で高さ2.1m、ひとつだけ不満をいうと入館料を払わなければ見られないこと。◇所在地:白老町若草町2-3-4 アイヌ民族博物館敷地内

カムイワッカ登別市MAP

カムイワッカの湧水安政5年に登別に立ち寄った松浦武四郎が、前年に石場齋宮高門が私財を投じ現登別温泉への道を開いた事を知り再訪、その途中にあった此の地を訪れ『東蝦夷日誌』に「カモイワッカとて冷水噴出、其底白砂を噴出すぐに一筋の流れと成る。名義、神・水の義也」と記している。旧史跡説明板では「史跡 カモイワッカ」と『東蝦夷日誌』にある「カモイワッカ」が継承されていたが、更新された説明板は「カムイワッカ」に改められている。新説明板では「北海道の名付け親である松浦武四郎は1858(安政5)年、8月当地を訪れた際、冷たい水が白い砂とともに吹き上がる「カムイワッカ」に立ち寄った記録しています。」とあった。硫黄採掘と湯治ため道が開かれその途中にあったカムイワッカは旅人にも馬にも絶好の休憩地であり、明治末期、店ができ、カモイワッカの中茶屋で知られ交通の中継地として私設の駅逓(人馬継立)もあったようです。1915(大正4)年軌道馬車の中継所、1924(大正14)年電車が運行されると「神威若」駅が設置された所で中登別発展の中心となった。説明板に「地元の人々にカモイワッカの名で親しまれてきました」とあるが、地元の人たちは登別温泉とカムイワッカを世に知らしめた松浦武四郎に敬意を表して「カモイワッカ」の名で呼んできたのだという。カムイワッカは乾季でも枯れず、厳冬でも凍らないような湧水に付けられている事が多いが、知床のカムイワッカ「魔の水」のような例外もある史跡のカモイワッカは登別温泉通りの中登別にあるコンビニエンスストアの隣にあります。◇所在地:登別市中登別町170番地

室蘭地名発祥の地説明看板室蘭市 絵鞆町会MAP

室蘭地名発祥の地・絵鞆町祝 絵鞆町会創立85周年 室蘭発祥の地 説明板より
『この地には約三百七十年前すでに松前藩によって「場所」即ち,交易商場(あきないば)が設置されていた。ここから黒百合伝説の島=大黒島は目の前でこの半島の突端に近い高台には先住民族慰霊碑がある。北海道探検で知られる松浦武四郎によっても “月よめば まだ安芸馴れ度えともの海 この山かげは氷ゐにけり" なる一音が残されていて、この町の歴史の古さを明示してくれている。平成十八年十月二十二日 絵鞆町会』蝦夷日誌に「エトモ(岬)鼻の義也。又エンケンの詰りともいへり。是此場所の総元地にて、文化度迄会所爰に在し也」とある。◇所在地:室蘭市絵鞆町1-11(2-2)交差点付近

ムロラン(室蘭)地名発祥の地室蘭市MAP

ムロラン地名発祥の地ムロラン(室蘭)地名発祥の地説明板より「ムロラン(室蘭)はもともとアイヌ語に源を発する地名で「モロラン」と呼ばれていた。その原名は「モルラン」であり、語源は「モ・ルエラニ」とされる。つまり、アイヌ語発音解釈から、モは「小さな」「子」、ルは「路」、エは「そこを」、ランは「下る」、イ「所」で、総じて「小さな下り路」の意味である。「室蘭」の名付け親は,松浦武四郎(1818~1888年)である。6回に及ぶ蝦夷地探検の際、1845年には噴火湾沿岸を調査し、さらに明治2(1869)年に明治政府の開拓判官となって「北海道」と命名、また道内の国郡名選定を行なう。彼は室蘭郡の命名の理由として「会所元ヘ何レヨリ行テモ チイサキ坂ヲ下ル故ニ此名有ニテ御座候」と、この地の坂路の印象を挙げている。かくて、時の太政官は明治2(1869)年に「このたび蝦夷地一円を北海道と称す」と布告、同時に胆振国室蘭郡(モロラン村など7ヶ村)も制定された。やがて、開拓使が明治五(1872)年、港と札幌本道建設の拠点としてモロランの小沼を選ぶが、着工直前に黒田清隆(当時の開拓使次官)の決断で対岸エトモ(絵鞆)側のトキカラモイ(現在の海岸町3丁目の港側)に変更となる。以来、この地は開港した「新室蘭」に対して「旧室蘭」と呼ばれるが,さらに地名発祥の誇りをこめて「元室蘭」と呼ばれることになり、現在は「本室蘭」と呼ばれている。町名としては現在「崎守町」と称しているが、これは室蘭の地を守る防人の心意気を伝えるものである。平成元年(1989)8月 室蘭市」東蝦夷日誌に『モロランは小路ナル義ニテ、小または静也。ルは道、ランは下がる義也。小路を下るという也。昔し、山道なく、是よりエトモへ船にてこへる』とある。説明板左下にモロラン会所の絵「蝦夷廻浦図絵」安政元(1853)年頃の室蘭地名発祥の坂が描かれている。元々は絵鞆(えとも)に交易所が開かれ会所も絵鞆に有ったが、東蝦夷日誌モロランに「これはエトモより移り故、今にエトモ会所といへり」とあり、場所名としてモロランが使用されるのは慶應年代からのようです。恵比須屋(岡田)半兵衛は嘉永から慶應にかけての場所請負人、最後の場所請負人は種田德之亟のようです。◇所在地:室蘭市崎守町338 崎守地域振興センター前

トッカリショ浜地名由来版 室蘭市MAP

トッカリショ浜平成27年に道内7番目に名勝ピリカノカに指定された絵柄半島外海岸の各所に地名由来版が設置されており、トッカリショ浜もその一つです。地名由来版では「前略・・アザラシ・岩という意味で、松浦は「鮭場」としたように漁場として使われてきました・・以下省略」東蝦夷日誌・モロランには「トッカリショ(岩磯)鮭場也」と簡単に触れるのみ。絵柄半島外海岸で最も有名なのは地球岬で観光になっていますが、渡り鳥の中継天地としても知られているようです。地球岬の旧地名由来版に松浦武四郎の文献より引用した説明があったが、ピリカノカ指定で新地名由来版からは消えている。◇所在地:室蘭市母恋町 名勝ピリカノカ絵柄半島外海岸

ハルカラモイ地名由来版 室蘭市MAP

ハルカラモイ地名由来板のピリカノカは省略、ハルカラモイの部分を転載します。『ハルカラモイは元々アイヌ語でハルカルモイと呼ばれ、古くは松浦武四郎の文献などにも記載される地名です。これは「食料・とる・入江」という意味で、名前の通り、崖を降りた先に見えている小さな湾に対して付けられた地名です。地名からは、漁労活動によく使われていた場所だったことがうかがえます・成25年12月 室蘭市教育委員会』松浦武四郎の文献にもあると簡単に触れているだけなので、その部分を東蝦夷日誌のモロランから転載。ポロチヌイ平(崩崖)とケソラツフムイ(崖)の間に「ハルカルモイ(小湾)何魚にても取に宜き湾の義也」とある。アイヌ語地名解というよりは、地名のついた所以を説明した印象で十分納得出来るものです。◇所在地:室蘭市増市町 名勝ピリカノカ絵柄半島外海岸

有珠善光寺と有珠善光寺自然公園伊達市MAP

有珠善光寺有珠善光寺は1826(天長3)年、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開基したと伝えられる。1613(慶長18)年、松前藩5代領主慶広が如来堂の再興を図り、1804(文化元)年に蝦夷三官寺の一つとして正式な建立をみた浄土宗の寺院。蝦夷三官寺については等澍院で書いているので省略します。本堂は江戸時代の2度の有珠山噴火からも難を逃れほぼ原型(本堂修復)をとどめ、国の史跡に指定されている。アイヌ語ルビ付きプレートの起請文があるのも珍しい。1枚目プレートには「浄土門主 岸 信宏上人 詠 アイヌ語にて振り仮名つけし 御法語のありてかしこし 有珠のおん寺 善光寺十七世大定書」と書かれ、2枚目の一枚起請文には、アイヌ語も併記されているが、文字は良く判別できない部分が多い。隣接の資料館では、釈迦如来立像など仏像や徳川幕府から寄贈された教典などを展示。他の官寺と異なるのは官寺以前の歴史があり檀家制度が整っていた事か。自然公園内には巨木と呼べそうな樹木もあるが、文政の有珠大噴火を越える樹齢の巨木は無いようです。◇所在地:伊達市有珠町124

碑文より『アイヌモシリとは(人間の住む大地の意)北海道、千島列島、樺太を云う。このアイヌモシリの地には、太古より多くの人々が住み、中世には蝦夷人と呼ばれ近世以降は アイヌと呼ばれて現在に至っている。有珠郡の有珠は、ウショロ(入り江の内の意)と云い現在の伊達市である。アイヌ達は、この地の厳しい自然の中で独自の精神文化、生活文化を継承しつつ生活をおくって来た。特に明治になってから先人であるアイヌ達は、伊達地の開拓に励み今日の市発展の礎をく築く事に努力して来た。この幾多の先人ウタリ(同胞に意)のその労苦に感謝し徳を忍び功績を讃え市の協賛を得て茲に記念碑を建立する 平成三年五月十二日 北海道ウタリ協会伊達支部 題字 野村 義一』正門にある史跡・善光寺跡碑の碑文に『この寺院は徳川幕府が蝦夷地における和人の定着慰撫を図り邪宗門等を糺し併せて蝦夷地の教化及び法務活動を行なうために文化元年~二年に建立された官寺であり蝦夷三官寺の第一の寺である』とあり、その善光寺跡の一角にアイヌ慰霊碑が有ることに何となく違和感があったが、訪問してみると善光寺とは隔絶した位置にあり納得した。慰霊碑はアイヌ記念碑として建立されたが10年後に慰霊碑と書き換えられた。◇所在地:伊達市有珠町 有珠善光寺自然公園内

有珠会所跡伊達市MAP

有珠会所跡会所のあった場所の南側は小高い丘になっていたというが、海軍が魚雷艇の造船所を建設するため昭和19年に丘を削平したという。説明板より一部抜粋「有珠の会所が、正確にいつ設けられたのか明らかではありませんが、文献に初めて現れるのは寛文年間で、おそらくこのころに設立されたものと思われます。会所では運上金の収納、駅逓人馬継立、通行人の宿泊、日用品の供給等の業務がおこなわれ、当時の蝦夷地での経済や交通などの重要な機関でした。明治2年、伊達邦成が支配地検分のとき最初に到着したのもこの会所です」伊達市教育委員会。亘理領主伊達邦成が一門を率いて移住するが、それに先立って明治2年に田村顕允を北海道へ先発させた。田村顕允は有珠会所内(この頃は本陣と思われる)に開拓役所を仮設、翌年の移住第一陣も有珠会所が宿営の要となったようです。松浦武四郎は安政3年から安政5年にかけて連続して有珠と虻田(フレナイ)に止宿、後志内部のガイドをしたのは虻田や有珠先住の人々でした。◇所在地:伊達市有珠町

和田屋茂兵衛墓碑と虻田会所洞爺湖町MAP

和田屋茂兵衛墓碑墓碑はトコタンにあったが道路拡幅工事の時に歴史公園に移設されたもの。元文4(1739)年頃のアブタは酒井逸学の給預地であったが、寛政11(1799)年の幕府直轄で請負制廃止とともにアブタ会所と改められ、蝦夷地初の牧場経営が行われたが、文政4(1821)年に松前藩に返還される。文化9(1812)年から場所請負制が復活し場所請負人は福山(松前)の和田屋茂兵衛、松前複領後も場所請負はそのまま引継がれる。1822(文政5)年の有珠山大噴火でアプタコタン焼き尽くし、アブタ、ウス両場所の牧士・アブタ場所請負人和田屋茂兵衛・同支配人など40余人、牧馬数百頭が犠牲となり、牧馬一千頭ほどが行方不明という壊滅的な被害をうける。アブタ会所はフレナイに移転しアブタと名乗り、元のアブタは廃村の意味でトコタンと呼ばれたという。文政10(1827)年の場所請負更新期には和田屋の息子茂吉が請負人となり、のちに茂兵衛を襲名した。嘉永2(1849)年頃に再び和田屋荘吉が請負人となるも嘉永6(1853)年に有珠山が噴火しアブタ会所はレブンゲを仮会所にして一時避難、後に請負人は岩田屋金蔵に変わっている。安政元年(1854)年5月に年再度幕府直轄地となるが、その頃に再び和田屋茂兵衛がアブタ・レブンゲ場所の請負人として復活、元治2年頃まで続いたが、慶応2年の盛岡藩支配時には米屋佐野孫右衛門、明治2年の請負人は泉州屋藤兵衛に代わっており開拓使への場所返上も泉州屋が行った。松浦武四郎は立岩と川を挟んで奥側に会所が描かれた図を残しているが、立岩は昭和52(1977)年の有珠山噴火の時に崩れたという。虻田会所とはかけ離れている位置だが武四郎が訪れた頃は和田屋一族が請負人で有り、有珠会所ともに後志内陸部の探査行拠点となった虻田会所と縁のある碑はここだけのようなので紹介することにした。松浦武四郎は安政4年7月と安政5年の1~7月にかけて7泊している。◇所在地:洞爺湖町入江103 虻田歴史公園

黒松内発祥の地・花岡宿跡黒松内

黒松内発祥の地・花岡宿跡黒松内町の緑橋のたもとに黒松内発祥の地碑(昭和34年)と戸長役場跡地之碑(平成11年)の記念碑が建立されている。黒松内山道開通前から松前の花岡利右衛門が定住、天保4年に今の緑橋の黒松内口に花岡宿という宿場を営んでいた。それ以前はアイヌの人による木賃宿があったとの事で古くから交通の要衝(後の黒松内山道)であり、ニシン漁が始まる前は出稼ぎ人の通行が増え一日に数百人が宿泊したともいい、この地は虻田と歌棄の入会地のようで虻田会所の出張所扱いでもあったようだ。蝦夷日誌(弘化3年)には「此処にて上陸す。人家壱軒あり。是より陸道荷物は皆夷人共が背負いて運送するなり」等詳しく書かれているが聞き書きのようで実際には通っていない。最初に宿泊したのは黒松内新道が完成し見聞に訪れた安政4年8月21日で丁巳志利辺津日誌に「人家壱軒利エ門有」と花岡利右衛門の事、渡船と休泊所の様子が記されているが、馬車の通行も可能な新道が完成して宿泊者が減って花岡宿の経営は困難だったようで、松浦武四郎が上司に頼んで渡船の許可を取ったらしい。維新後の明治4年に黒松内駅逓の設置を布告し、虻田会所の出張所でもあった花岡宿(黒松内本陣)の施設(黒松内花岡宿脇本陣)を利用し、官設宿場として黒松内駅逓を開設、官設駅逓創設に伴い有珠から伊達家家臣、横山勝四郎ら13戸が入植し開拓を始めたが、これは駅務を支える人員を確保の助郷的な意味合いも考えられる。駅逓舎は旧来の花岡宿を利用したのか新たに建設されたのかは判然としないが同年10月に開駅している。函館支庁の支配だった明治12(1879)年の駅逓制度改革で官設駅逓を廃止して人馬継立とする民営化方針で黒松内も私設駅逓として営業していたと思われるが、2年後に村民に委託しているので民営による経営は続かなかったようだが廃止年は不詳。当時の花岡家は二代目花岡治兵衛の代で後に初代黒松内村戸長を務めている。明治21年に再設置され鉄道開通後の明治36(1903)年に黒松内駅前に宿を移し、花岡屋として開業したというが明治39年に廃止されている。◇所在地:黒松内町黒松内93 緑橋付近  ◇Gmap:42.675508, 140.305390

武四郎坂 駐車場公園洞爺湖町MAP

武四郎坂 駐車場公園洞爺国道(230号線)から、道道66号線で洞爺湖に下る途中の駐車場公園で看板や東屋がある。以前は洞爺湖高等学校が作成した案内文があったが、再訪問時には見られなかった。洞爺湖高等学校作成の案内にある展望はなく松浦武四郎が絶賛した風景は見られないがとりあえず転載。
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松浦武四郎Takeshiro Matuura(1818~1888)江戸時代の幕末から明治時代に活躍した日本の探検家。当時の「蝦夷地」を探索し「北海道」という名を考えた人物である。武四郎は、洞爺湖からの帰路の途中、山道で眺めた湖のすばらしさを絶賛したことから、この「武四郎坂」という名前がついた。
Takeshiro Matuura(1818-1888) was an explorer who traveled to many place in the Meiji period and the end of the Edo period. Heoften visited the island he exentually named "Hokkaido", replaceing the historical name "Ezochi"
(The Japanese name that referred to the land to the north of Japan).
 It is said that he was impressed with the beautiful view of Lake Toya from a hill on his return journey, and this hill was nemed "Takeshiro-zaka".
製作:北海道洞爺湖高等学校 Hokkaido Toya High School
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洞爺国道(230号線)から道道66号線で洞爺湖に下る途中に武四郎坂駐車場公園があり、看板や東屋もあるが展望は限られ松浦武四郎が絶賛した風景はここにはない。元々はアイヌの人たちが利用していた坂道を武四郎が通ったことから附いた名で今の道は違っているのだろう。人の歩いた道がそのまま車道になるのは平地の話、急勾配では大きく変わるのが普通で新しい道に古い道の名が移動した?・探せば元祖武四郎坂が残っているかもしれない。・・ただ今の武四郎坂も木が伸びる前はそれなりの展望だったようだ。◊所在地:洞爺湖町武四郎坂

噴火湾・太平洋ラインの武四郎碑と関連史跡

松浦武四郎碑・厚真町-02 松浦武四郎碑・厚真町-03 勇払会所跡説明板 中登別・カムイワッカ ハルカラモイ・室蘭市-02 ハルカラモイ・室蘭市-03
トッカリショ浜・室蘭市-02 トッカリショ浜・室蘭市-03 武四郎坂 駐車場公園2 武四郎坂 駐車場公園3 虻田牧場跡 有珠善光寺・伊達市-02
和琴半島・オヤコツ地獄 クスリ会所説明板 松浦武四郎碑・新ひだか町 松浦武四郎レリーフ 武四郎来来記念碑・厚真町 松浦武四郎碑・白老町 白老会所跡 虻田場所・和田屋墓碑

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松浦武四郎碑を巡る

松浦武四郎碑MAP

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