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旧駅逓や駅逓跡に関し総てを現地確認した訳では有りませんが、道東の駅逓は海岸部を除くと駅逓開設は北見道路開削と共に本格化していきますが、駅逓の絶対数が多い割に逓跡記念碑は北見道路沿いを除けば多い方ではありません。また設置された逓跡碑が更新されずに減少傾向にあるのは他地域とおなじです。そのような訳でここに掲載した駅逓碑が確実に残っている事を保障するものでは有りません。江戸期の宿駅と旧駅逓舎については簡単な紹介とします。
明治31年に興部に入植した米田久三郎氏は明治39年に上興部十七線で私設駅逓を開設。明治42年に官設上興部駅逓になり取扱人は米田久三郎、駅逓の実務は川村留吉が担っていた。川村のあとを次いで米田久三郎の三男、米田久作がその任にあたる。大正4年に上興部三等郵便局が開局すると逓送業務が無くなり仕事は減少し、大正10年の鉄道開通で廃止となっている。駅逓廃止後には菓子舗を開店、大正15年に米田弁当部として上興部駅で弁当の構内販売を始めたが後に興部に移転、名寄線の廃止となる4年前の昭和60年に駅弁からも撤退した。駅逓跡の木碑は国道239号線を西興部方面に進み上興部市街を過ぎ小さな橋(米田の沢川・福興橋)を越えた山側にある。西興部にあった中興部駅逓所と上藻興部駅逓所と関連する遺構や関連碑は見つけられなかった。
※駅逓基本情報
◇通称名:米田駅逓 ◇設置年:明治39年(私設) ◇設置年:明治43年2月20日(官設) ◇廃止年:明治11年1月31日 ◇取扱人:初代:米田久三郎 ◇二代:米田九作 ◇記念碑:史跡木標柱 ◇建立者:郷土史研究会 ◇所在地:西興部村東興 ◇Map:44.340088, 142.894784
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滝上町にあった6駅逓で開設が早い順から並べると上渚滑、サクルー、北滝上、滝上、奥滝上、オシラネップとなるが、全ての駅逓に史跡標柱が設置されている道内でも数少ない町です。上渚滑官設駅逓所跡の碑は国道273号線沿いで雄鎮内センターの前にある。国道から道道996号を渚滑川の方に進むと渚滑線・雄鎮内仮乗降場が有ったが今は何も残っていない。上渚滑という名は大正7年に紋別郡渚滑村から分村し滝上村になった当時の名残です。明治44年にこの地で開設された上渚滑官設駅逓所は後に(碑文では大正3年)滝上市街地(元町)に移転再開している。駅逓廃止後は旅館を経営していたようです。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治44年3月3日 ◇移転年:大正4年4月23日 滝上に移転 ◇取扱人:宮地勝長 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和47年建立 ◇建立者:滝上郷土史研究会 ◇所在地:滝上町雄鎮内55線(旧上渚滑原野55線) ◇Map:44.197908, 143.139254
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元々は上渚滑村の雄鎮内で開設された上渚滑官設駅逓所が公式記録では大正4年に滝上に移転したとされるが、実際の移転は碑文にある大正3年のようです。駅逓の移転は入植者が奥地に入ってくるとそれに併せて移転した例が多く、時代が進むにつれて内陸部に入っていく。大正12年に渚滑線が開通、鉄道開通で駅逓廃止というのが一般的だが、滝ノ上駅は単独線の終着駅であり、滝上駅逓は峠駅逓や滝下への中継駅逓だったことから昭和3年まで営業、駅逓廃止後は旅館を経営していたという。滝上官設駅逓跡の碑は芝桜で有名な滝上公園と渓谷公園を結ぶ旧道沿いにあるが、この辺は滝上の旧市街地でかつては滝上の中心街だったようですが、鉄道駅開駅で町の中心が移動した。
※駅逓基本情報
◇移転年:大正4年4月23日 上渚滑より移転・滝ノ上駅逓所と改称 ◇廃止年:昭和3年2月20日 ◇取扱人:宮地勝長 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和47年建立 ◇建立者:滝上郷土史研究会 ◇所在地:滝上町元町(旧市街) 滝上公園近く ◇Map:44.195824, 143.081190
滝上原野20線に昭和になって設置された駅逓です。現在は三区20線となっているようで、20線バス停から国道のカーブを曲がらず直進して農道に100mほど進むと道路左側に石碑がある。駅逓開設当時は北滝上巡査駐在所や森林保護区員駐在所、農業物検査員駐在所などもできて、滝西小学校の前身となる学校もあり、元々はこの辺が集落の中心だったが、市街地の中心が滝西に(21線)移ってしまう。既に奥滝上に大正13年に開設された駅逓が有り、ここに駅逓が開設された理由はよく判らないが交通網の整備などもあって開設期間は10年未満と短命でした。ここの駅逓跡碑だけは平成になってからの再建で他とは雰囲気が異なっている。近くにある古タイヤ処理場が目印になるかも。
※駅逓基本情報
◇設置年:昭和2年2月10日 ◇廃止年:昭和8年6月30日 ◇取扱人:鈴木金太郎 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:平成元年再建立 ◇建立者:滝上郷土史研究会 ◇所在地:滝上3区20線 通称西滝 ◇Map:44.120551, 143.005861
滝上町市街から国道273号線で上川方へ向かうこと約20km、最於くの集落跡に残る閉鎖された空店舗を下りカーブを過ぎて道路左側に「奥滝上官設駅逓所跡」の石碑が設置されている。その横に門柱らしき木柱があるが、かつてあったという学校の校門かもしれない。碑に駅逓は「ここより此処より北方50メートル」と駅逓の有った場所を記してある。この地域で開拓が始まったのは大正2年、大正7年には戸数45戸、市街地が形成され学校も出来て人々が暮らしていたが、その痕跡も殆ど失せて今は無人の荒野と化している。道路は昭和9年に上川まで開通しており、峠越しのため駅逓制度廃止まで残っていた7駅逓のひとつでした。
※駅逓基本情報
◇設置年:大正13年2月 ◇告示年:昭和20年6月27日 ◇取扱人:初代:齋藤鏡二 ◇二代:杉山要次郎 ◇三代:松崎新吾郎 ◇四代:松崎五七 ◇五代:松崎国子 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和47年建立 ◇建立者:滝上郷土史研究会 ◇所在地:滝上5区39線 通称・滝奥 ◇Map:44.034799, 142.995510
裏面の碑文より「上渚滑駅逓所と共に此処に設置され大正6年,上藻興部へ移転する。取扱人 由良与三郎」とあった。碑は滝上郷土史研究会により昭和47年に建立されている。移転時期に郷土史研究会の碑文と北海道庁公報や告知とは誤差は大きいが、明治40年の区画測定て南8号まで拓殖道路が延びた明治44年に上渚滑官設駅逓所とともにサクルー官設駅逓所も開設され、西興部までの道路が開通した大正6年に西興部の上藻興部に移転し上藻興部駅逓所に改称されました。サクルー官設駅逓所跡の碑は士別市朝日町から滝上町に向かい上紋峠を下り奥札久留小学校跡を過ぎ札久留橋を越えてまもなく左側にあるが笹に埋もれて見えないかもしれません。移転後の上藻興部駅逓舎は近年まで残っていたが2012年の暴風雪で倒壊した。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治44年2月1日 ◇移転年:大正7年3月20日(公報) 移転・上藻興部駅逓と改称 ◇廃止年:昭和5年5月31日 ◇取扱人:初代:古川新蔵 ◇二代:青木忠平 ◇移転後:山良與三郎(由良与三郎) ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和47年建立 ◇建立者:滝上郷土史研究会 ◇所在地:滝上町札久留南8号 ◇Map:44.180641, 142.969085
オシラネップの開拓は大正5年頃から始まったようで滝上では遅くになって開拓された地域、上雄柏()官設駅逓跡の碑はオシラネップ原野濁川停車場線で上雄柏小中学跡より少し奥、崩壊寸前の旧郵便局脇に建っている。上雄柏駅逓が開設されたのは昭和10年(実質年は昭和9年)で駅逓制度が全廃された時、奥滝上官設駅逓所とともに最後まで残っていた7駅逓のひとつでした。この奧に釣り人の宿というまだ使えそうな建物もあったのが不思議な感じでした。朝倉義衛氏(初代議会議長,14代町長)は高知県出身で19歳の時に渡道(明治41年)し、滝上サクルー3線を経て昭和10年に上雄柏駅逓開設と共に取扱人となるが、昭和39年に滝上町の町長に就任し後にミカン箱一杯の芝ざくらから、日本一の芝ざくらの公園となる端緒を開いた町長でもありました。全駅逓跡に碑があるのはそういう背景と関係がありそうな気がします。
※駅逓基本情報
◇設置年:昭和10年4月25日 ◇廃止年:昭和22年3月31日 ◇取扱人:朝倉義衛 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和47年建立 ◇建立者:滝上郷土史研究会 ◇所在地:オシラネップ24線 ◇Map:44.080153, 143.071577
和田麟吉が湧別駅逓所の取扱人を命ぜられ、根室県から施設費600円と駅馬25頭の貸下を受け、網走から大工を招き30坪の建物を建て、馬丁2名を雇用し、請負制によって同年7月に開業したという。開始時期に関して二通りの告知があるが、上記のことから実際の業務開始は明治17年のようです。湧別郵便局開設による局長就任後も駅逓は継続されているが、駅逓経営は楽ではなかったようです。駅逓の名称は初めは湧別だがいつから下湧別駅逓に変わったのかは確認出来なかった。最後の駅逓取扱人、堀川泰宗は枝幸砂金開発の功労者で大東流門下の柔術家でした。駅逓跡碑は国道沿いで湧別派出所(交番)近くの民家脇で目立たない所にある。近くにアストモガスの看板有り。
※駅逓基本情報
◇告示年:明治16年12月3日 根告第127号 ◇告示年:明治17年7月14日 根告第31号 ◇廃止年:大正12年9月30日 ◇取扱人:初代:和田麟吉 ◇二代:佃田三作 ◇三代:渡辺清司 ◇四代:鶴見与三吉 ◇五代:堀川泰宗 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇所在地:湧別町下湧別 ◇Map:44.226529, 143.618188
上芭露はハッカ景気の頃に全盛を極めた地域で人や物流の為に駅逓が必要性とされ、大正8年に官設駅逓所として開駅、また開駅と同時に郵便取扱所も開設開設されている。初代取扱人は加藤政千代氏、二代目は小山春吉氏となっている。ハッカ全盛時の面影は失せて今の風景からは想像もできないが、駅逓の実質稼働は大正9年から昭和16年までの様で、上芭露神社の上芭露開基100年碑の横に駅逓跡の碑が有る。
※駅逓基本情報
◇設置年:大正10年1月1日 ◇廃止年:昭和15年5月31日 ◇取扱人:初代:加藤政千代 ◇二代:小山春吉 ◇三代:小山康夫 ◇記念碑:史跡標柱(石碑)◇所在地:湧別町上芭露・上芭露神社鳥居横 ◇Map:44.096673, 143.658775
常呂エリアでは他に鐺沸駅逓、ワッカ駅逓、太茶内駅逓、手師学駅逓があったが碑のあるのは常呂を含めて3カ所、ワッカ駅逓の碑は倒壊してしまったのが確認され再設置を検討中とか・・常呂駅逓開設前は藤野番屋が駅逓(安政6年に運上屋ありと)のような役割を果たしていたようです。明治10年には止宿場があり駅逓は有ったと思われるが詳細不詳。北海道宿駅製の研究によると明治17年に開設され明治明治25年に廃止となるも、鐺沸駅逓廃止で再開となったようだが開設地の詳細は不明。移転後で駅逓廃止時の場所は判明していて昭和58年に標柱が設置された。木標は経年変化で痛んでいるも文字は何とか読める。ただ開設年については資料によりまちまちでだが駅逓そのものは継続していたとおもわれる。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治17年7月 ◇再設置:明治25年3月25日 ◇廃止年:昭和5年6月10日 ◇取扱人:初代:(大越善三郎)大島仁吉 ◇二代:江里口秀市 ◇三代:渡辺冨八 ◇四代:渡辺貞子 ◇五代:福島恒次郎 ◇記念碑:開基100年記念・史跡木標柱 ◇建立年:昭和58年10月建立 ◇建立者:旧常呂町(現・北見市) ◇所在地:北見市常呂町本通り 常呂漁協信用部の北側 ◇Map:44.121946, 144.077672
明治33年に石橋伝蔵は大越善三郎の放牧地の一部を借りて農業を続けながら旧太茶苗(フトチャナイ)基線21号線に官設太茶内(フトチャナイ)駅逓を開設、運営したという。今の22号と23号の間で、伝説のイワケシ山裾にあたる豊川、道道北見常呂線のバス停「福山23号」の常呂川寄で日吉方面に20歩ほど戻った道路下に木標柱がある。虎杖の中に埋もれてるので、虎杖が枯れている時以外では碑を見つけるのは困難。常呂町開基百年(昭和58年)記念で各所に設置した木標柱のひとつですが経年劣化で文字は不鮮明、駅逓名は読めるが設置年は読めない。太茶苗は旧村名でアイヌ語の「プトº.イチャン.ナイ」に太茶苗を当てた。名前の元になったプトºイチャンナィは常呂川右岸の小沢で日吉橋より下流の28号付近に入っていたらしい。太茶内駅逓所が移転し手師学(テシマナイ)駅逓として再開した。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治34年4月25日(告知) ◇告示年:明治34年2月1日 網走支庁拓殖要覧 ◇改称年:明治44年12月22日 手師学に移転 ◇移転年:明治45年4月19日(告知) ◇廃止年:昭和5年6月10日 ◇告示年:昭和5年6月7日 ◇取扱人:初代:石橋伝蔵 ◇二代:石橋平四郎 ◇三代取扱人:石橋藤エ門 ◇記念碑:開基100年記念・史跡木標柱 ◇建立年:昭和58年10月建立 ◇建立者:旧常呂町(現・北見市) ◇所在地:北見市常呂町福山 ◇Map:44.026665, 143.993200
旧太茶苗基線21号線に太茶苗(フトチャナイ)官設駅逓所が設置され、明治44年に手師学字(ポンクマアシリコタン=ポン隈川橋付近)に移転し手師学(テシマナイ)駅逓所として再開。手師学駅逓所は20年ほど前まで駅逓舎が残っていて、保存運動もあったようですが解体され今はその痕跡もありません。手師学駅逓所跡の木碑はポン隈川橋のT字路付近で道路際にある。碑は昭和58年頃に設置されたもので痛みが目立ち文字は読めない部分もある。ポンクマアシリコタンは明治になってから出来たコタンで明治20年頃は三軒だったという。テㇱオマナイというので漁による生活の場だったようだ。上流側の端野町忠志には旧跡ヌッケシ古潭跡があるも遺構は残っていない。
※駅逓基本情報
◇改称年:明治44年12月22日◇太茶内より手師学に移転・改称 ◇移転年:明治45年4月19日(告知) ◇廃止年:昭和5年6月10日
◇取扱人:初代:石橋伝蔵 ◇二代:石橋平四郎 ◇三代取扱人:石橋藤エ門 ◇記念碑:開基100年記念・史跡木標柱 ◇建立年:昭和58年10月建立 ◇建立者:旧常呂町(現・北見市) ◇所在地:北見市常呂町日吉114 ◇Map:43.963065, 143.937950
昭和58年に常呂町開基百年を記念して木柱を設置したというが、第2湖口から第1湖口の方に約8.5km行った砂嘴、自然環境が最も厳しい所で碑は倒壊、碑の再設置も検討もされているようなので掲載した。サロマ湖とオホーツク海を隔てた砂嘴は大町桂月が竜宮街道と名付けたように、当時は砂州が主要な幹線交通路で中間部近くにワッカ駅逓がありました。網走市史には「佐呂間湖岸の湧別~鎬沸間は海浜八里の間に人家なく、ときに行旅死亡者を出す状態にあったので、明治21年、その中間ワッカに休息所を官設し、飲料水・燃料などを備えつけて通行者の使をはかった」と書かれている。この駅逓が廃止されたのは大正10(1921)年、常呂町では大正8年としています。今は立ち入り禁止区域となっているワッカのマップは中間と云うことで正確ではありません。古くからあった宿駅のようで早期の再建を願ってやまない。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治21年4月 ◇告示年:明治25年5月14日 ◇廃止年:大正9年12月31日 ◇取扱人:初代:福士休右ェ門 ◇二代:福吉久右衛門 ◇記念碑:開基100年記念・史跡木標柱 ◇建立年:昭和58年10月建立 (倒壊) ◇建立者:旧常呂町(現・北見市) ◇所在地:北見市常呂町栄浦・サロマ湖砂嘴中間部 ◇Map:44.156098, 143.879857
大正11(1922)年に上武華(富士見)駅逓所が開設(現・大和地区)され取扱人に佐野松ヱ門が任命され入植、営業状況は不明だが旧武華駅逓の佐野準一郎氏の弟で兄弟で駅逓を運営されていた。武華駅逓から約13kmの距離にあり富士見駅逓とも呼ばれていたというが、大正13年測図の地形図には五十號駅逓所と記載されており、駅逓所在地の名前でも呼ばれていたようで、当時は27戸の入植があったというが昭和50年を最後にこの地区から農家がなくなっている。駅逓はイトムカ鉱山の関係も有ってか比較的遅くまで利用されたが昭和18年に廃駅。駅逓所跡の碑はくまがいキタキツネ牧場より留辺蘂市街地方向に100m程に下った所にある電波塔横の国道際に石碑があるが草が伸びると見えない。
※駅逓基本情報
◇設置年:大正11年12月24日 ◇改称年:昭和16年4月19日 ◇廃止年:昭和18年8月30日 ◇取扱人:佐野松右エ門 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立者:留辺蘂町 ◇所在地:北見市留辺蘂町富士見 ◇Map:43.673679, 143.308142
訓子府駅逓所は明治39年開設で取扱人は北光社農場支配人であった前田駒次ですが、実質経営者は岩渕周之助という。詳細は良く判らないが、岩淵周之助氏が当時は戸長だったので取扱人とはなれず、有力者であった「前田駒次」の名義をもって駅逓所が経営されたようです。取扱人となるため有力者の名義を借りることは珍しい事ではなかったらしい。客間4部屋、事務室、居間、台所、使用人室などからなる訓子府駅逓所は、明治42年6月に全焼するも翌年6月に再建、明治44年に鉄道が開通しているが駅逓は継続され大正9年に廃止となった。旧訓子府駅から徒歩5分、道道北見置戸線に出て北見方面に向かうとまもなく、左手に訓子府郵便局があり、隣の民家前に駅逓跡地を示す説明看板が立っています。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治39年9月29日 ◇廃止年:大正9年12月31日 ◇取扱人:初代:中館昇(前田駒次?) ◇二代:岩淵周之助 ◇記念碑:史跡説明板 ◇建立年:昭和62年3月 ◇建立者:訓子府町教育委員会 ◇所在地:訓子府町元町 ◇Map:43.727401, 143.740258
女満別駅逓所は明治36年に女満別昭和地区に設置されたが大正4年に現在地に移動している。碑は移転前の駅逓跡で女満別中学校近くの国道沿い、R246号分岐近くで横断信号からの階段途中(通学路?)にあるが目立たず、国道からは見え探すには面倒かも。明治37年に美幌端野間の道路が開通すると同時に、中央道路経由の交通は女満別廻りが幹線路になり緋牛内への中継地となったほか、美幌を中継して阿寒や十勝方面への入口になったいた。大正11年に鉄道が開通し駅逓はその役割を終え廃止されました。碑は女満別町開基90年を記念して昭和55年に建立された。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治36年2月24日(告知) ◇移転年:大正4年 女満別市街に移転 ◇廃止年:大正11年1月31日 ◇取扱人:初代:高橋藤三 ◇二代:橋瓜雄吉 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和55年開基90年記念 ◇建立者:旧女満別町(現・大空町) ◇所在地:大空町女満別東陽3丁目72番地 ◇Map:43.914450, 144.184312
奧女満別駅逓所は女満別開陽地区に大正11年開駅、後に知床国道(R334号線)と福住女満別線(R249号線)の交差点付近(開陽184)で国道より女満別側に移転再開、昭和17年の廃駅となっている。平成元年に開業したフレッシュ若福商店で聞いた話では、開店当時は店と道路を挟んで向かい側に駅逓跡が二つの小山の間に残っていたという。後の農地開発で沢が埋められて整地され痕跡はなくなっている。駅逓碑は知床国道(R334号線)と町道開陽東14号線のT字交差部近くで知床国道沿いの畑端にあり、移転前の場所のようです。
※駅逓基本情報
◇設置年:昭和3年3月29日(告示) ◇移転年:昭和16年1月23日 移転、奧女満を開陽と改称 ◇廃止年:昭和17年8月31日 ◇取扱人:関根源三郎 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和55年開基90年記念 ◇建立者:旧女満別町(現・大空町) ◇所在地:大空町女満別開陽304番地 ◇Map:43.828872, 144.231334
明治30年に美幌、木禽、活汲の各原野測量され、明治31(1898)年頃より入植者がはいり開拓がはじまっている。明治33年になって駅逓が設置されているが、網走や女満別方面から美幌、津別を経て釧路・阿寒.十勝に至る主要な通路で有るとともに、北見への分岐点にもなったこともあって利用者は多かった様です。弟子屈には杵端辺を経由して峠を越える道が古くからあったようです。駅逓舎は大正2年に焼失し大正5年に新築移転している。碑は美幌町役場敷地内にあるが、石碑のみで説明板などはなく碑も人目に触れることが少なそうな所にあるのは残念。市街地にあるのでもう少し配慮があっても良さそうに思う。
※駅逓基本情報
◇通称名:古屋駅逓 ◇設置年:明治33年10月16日(網走支庁拓殖要覧) ◇廃止年:大正11年11月20日 ◇取扱人:青山三七 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和54年11月3日建立 ◇建立者:美幌町教育委員会 ◇所在地:美幌町字東2条北2丁目25番地 美幌町役場敷地内 ◇Map:43.823734, 144.106707
碑文には「山本馬之助が取扱人となり杵端辺(ケネタンベ)駅逓として開所する。道内を旅する人達を宿泊させる」とある。駅逓跡は国道駐車帯際から大回りするように伸びた旧国道(町道864号)沿いで、国道からは桜の木が目印になるが、春以外では注意していないと見落としてしまう。地主さんの話によると「今では不整地となっているが元々は平坦な地形」という。流土を止めるため盛り土にしてしまったようです。杵端辺駅逓(通称・古梅駅逓)跡の碑は美幌町教育委員会が昭和53年11月03日に建立した設置したもの。
※駅逓基本情報
◇通称名:古梅駅逓 ◇設置年:明治42年4月25日 ◇廃止年:大正6年5月10日 ◇取扱人:初代:山本馬之助 ◇二代:山本盛夫 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和55年11月3日建立 ◇建立者:美幌町教育委員会 ◇所在地:美幌町字古梅 旧道沿い ◇Map:43.712324, 144.191150
有名な小清水原生花園が途切れるフレトイ展望台の手前、T字交差点の近くで、国道より一段低くなっている所に石碑と説明版がある。以下は小清水町教育委員会が立てた説明板より「この駅逓は、明治19(1886)年、網走根室間の道路開通により設置され、塚本命助氏が駅逓取扱人となり、駅逓所属の牧場12万坪で、牛馬を飼育していた。駅逓は、旅人宿、食糧品取扱を主な業務とし、移住者のための便宜をはかり、北海道開拓の大きな原動力となった。しかし、その後、交通の発達にともない、この駅逓も、昭和4年に廃止となった。小清水町教育委員会」駅逓舎は40坪、6畳間3部屋で平屋建てという標準的な駅舎、付属牧場があり塚本命介が小清水で初めて馬(官馬)を飼育された。中間休憩所が止別川口(浜止別)に有り、止別川と涛沸湖には渡船があったという。駅逓開設は早いですが官設駅逓になったのが明治34年と思われます。駅逓開設当初は蒼渭駅逓所と呼ばれ振問とも書かれていたが、1892(明治25)年フレトイ(古樋)駅逓所となり、明治38(1905)年には郵便継立所を兼ね、船木竹次郎がその任に当たった。駅逓初代取扱人の塚本命助は、小清水町最初の和人定住者という。古い地名の古樋(フレトイ)は展望台と神社に、蒼渭(アオシマナイ)は遺跡の名前として残っている。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治34年4月25日 ◇廃止年:昭和3年6月30日 ◇取扱人:初代:塚本命助 ◇二代:塚本蔀 ◇三代:山本與三郎 ◇四代:山本義雄 ◇記念碑:史跡標柱(石碑)と説明板 ◇建立者:小清水町教育委員会 ◇所在地:小清水町浜小清水 ◇Map:43.934448, 144.443495
野上峠から浜小清水方面に進む道道246号線ぞいで小清水市街の端、斜里美幌線との信号交差点より100mほど手前で交差点角地の塀際に小清水駅逓所の石碑が有ります。釧路街道の開通で開設された駅逓で以下は小清水町教育委員会のたてた説明版より「この駅逓は明治24年、釧路道路の開通により、半沢真吉が初代取扱人となり開設された。その後竹中安之助が引き継ぎ、駅逓業務の傍、移住者の指導や世話をするなど開拓の礎となった。又、公共施設の設置や分村等の問題は駅逓において協議され、集会場所としても使われたが、鉄道開発がすすみ昭和4年6月廃止となった。小清水町教育委員会」小清水駅逓の名は道路沿いのポンヤンベツ川付近にある湧水からといい初めて小清水の名が使われ後に町名になったが、小清水町名起源の泉も涸れずに残っている。初代取扱人の半沢真吉は藤野番屋関係者ではない初めての紋別郡戸長で明治12年に函館税関に奉職、翌年には網走郡役所へ移り同15年には第3代紋別郡各村戸長となる。小清水駅逓所取扱人を辞した後に斜里村に移って商店を営み味噌・醤油を醸造したりもしたというが、越川駅逓所の三代目取扱人にもその名前がある。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治24年4月18日 ◇廃止年:昭和3年6月30日 ◇取扱人:初代:半沢真吉 ◇二代:竹中安之助 ◇三代:竹中安三郎 ◇四代:竹中一郎 ◇記念碑:史跡標柱(石碑)と説明板 ◇建立者:小清水町教育委員会 ◇所在地:小清水町小清水184番地 ◇Map:43.859253, 144.461764
国有林の中を野上峠に向かって進んで行くと、道路の右側に一段低い少し開けた湿地状の草地奥に人知れず碑と説明版がある。以下は小清水町教育委員会が立てた説明板より「明治24年、釧路道路の開通に伴い、水本栄助を初代取扱人として開設。翌年、塚本伊勢太が取扱人となった。この駅逓は放牧地に恵まれず、川湯、小清水から半日の道程にあったため宿泊客も少なく経営は極めて苦しかった。明治42年、野川~札鶴(札弦)間の開通により下手の分岐点に移転したが、釧網線全通により昭和6年5月廃止になった。(現在の水上地区野上峠登坂付近に所在した)小清水町教育委員会」、最初の開設地であり痕跡は皆無、今は説明板と石碑だけ。ここは放牧地に恵まれず斜里の方で放牧をしていたが大雪で官馬や私有馬を失う事が繰り返され駅逓経営は大変だったようです。四代目取扱人、小宮山捨蔵のときに移転している。2代目野川駅逓管理人であった岩手県人の塚本伊勢太氏は明治30年に神威10線21号に転住入地しており、そこに清里発祥の地碑があります。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治25年3月16日 ◇廃止年:昭和4年5月10日 ◇取扱人:初代:舟木竹次郎(水本栄助) ◇二代:塚本伊勢太 ◇三代:小宮山俊助 ◇四代:小宮山捨蔵 ◇五代:小宮山儀助 ◇記念碑:史跡標柱(石碑)と説明板 ◇建立者:小清水町教育委員会 ◇所在地:小清水町もこと山 R391号線・野上峠登坂付近 ◇Map:43.740717, 144.487124
明治42年斜里に川湯間の道路開通にて旧斜里原野7線19号に設置された。石碑は国道工事にて一時撤去されていたが工事終了で再設置された。今の清里町で言うと神居道路で上斜里と神威の境界付近の上斜里側になるが道路際というよりは畑の端という感じで一段低い位置にある。通称神威国道の工事で防雪柵が出来た為に注意してないと見落とすかもしれません。碑文より「上斜里駅逓所は、野川道路が開通した明治42年3月21日上斜里原野7線9号(現在地)に開設された。駅逓所には旅人舎と官馬がそなえられ 旅人の止宿、荷物や郵便物の搬送、道案内などを業務としていた。昭和6年9月の国鉄釧網線の開通によって廃止となったが、当時唯一の交通補助機関兼通信補助機関として本町の発展に大きく寄与した。 建立 昭和61年10日 清里町教育委員会」比較的近いところに清里開基の記念碑があり、野川駅逓管理人であった岩手県人の塚本伊勢太氏が明治30年に神威10線21号に転住入地したのが清里町の和人定住のはじまりとありました。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治42年3月21日 ◇廃止年:昭和5年6月10日 ◇取扱人:初代:吉野吉太郎 ◇二代:山田与作 ◇三代:田崎藤三 ◇記念碑:史跡標柱(石碑) ◇建立年:昭和61年10月15日 ◇建立者:清里町教育委員会 ◇所在地:清里町神威(旧斜里原野7線19号) ◇Map:43.814133, 144.562347
越川駅逓所記念碑より
「官設越川駅逓は明治27年12月斜里山道の開削に伴い、その開設が許可され、以来昭和16年3月廃止に至る間、北見管内拓殖移民の宿所、人馬の継立、郵便逓送の引継所となり、祭文語りや、根室への護送囚人等も泊り、北見根室の両国を結ぶ交通の要所として明治大正昭和の3代に及ぶ開発の拠点としての役割を果した。昭和8年国道の変更により幾品川沿より現在地越川234番地へ移転した。この駅逓の取扱人は 初代取扱人・中山道 自 明治38年10月08日至 明治35年09月29日 二代取扱人・赤平庄助 自 明治35年09月30日 ;至 明治39年10月24日 三代取扱人・半沢真吉 自 明治39年10月25日 至 明治40年01月08日 四代取扱人・平田久治 自 明治44年01月18日 至 明治16年03月30日 四代平田久治は明治39年、宮城県より都道。取扱人となり駅逓廃止までの31年間に渡り、自然の猛威にも屈せず専心職務に励み、廃止後も同地にて牧畜兼農業を営み八十八歳の高齢にもかかわらず、現在なお健在である。開道百年、斜里町開基九十年・町政施行三十年を記念して 昭和四十三年十月十七日 斜里町長」
国道244号線沿いで峠に向かって右側にある。国道を峠に向かっていくときは発見しやすいが、逆は難しいかも。斜里の駅逓に関する碑と宇登呂だけで平取、チプトマリには何も残っていない。チプトマリの駅逓は平成に入って解体されている。
※駅逓基本情報
◇告示年:明治28年1月8日 ◇廃止年:昭和16年6月31日 ◇記念碑:越川駅逓所記念碑(石碑) ◇建立年:昭和43年10月17日 ◇建立者:斜里町 ◇所在地:斜里町越川234番地 ◇Map:43.840496, 144.789254
今の斜里町には5ヶ所に駅逓所がありましたが、その中で最初に出来た駅逓です。現存するのは番屋形式の逓舎で斜里市街東部、星印刷所向かいにある。旧斜里駅逓所は斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになっているという。藤野家は会津藩領となって請負人を罷免され、文久2年より山田寿兵衛の請負で明治2年の場所請負制度廃止で場所を返納しているが、開拓使事業報告には明治2年に山田某へ駅務取扱を命ずとあることから、明治4年に藤野家が漁場持ちとなるまで山田寿兵衛が駅務を取り扱ったと考えて良さそうだ。明治5年には又十藤野家が網走、紋別と斜里で駅逓を開設しているが、斜里では駅馬を漁場で使い繁忙期には旅人の利用を拒否、5割増の料金を請求するなどの不正があったことが明治17年に根室県の監査で指摘されている。明治19年の「藤野家旧事録」によれば斜里郡出張店は郵便・駅取扱兼・山田梅太郎氏となっているが取扱人には名前がない。開設時の駅逓舎に関する情報に欠けるが、運上屋時代の通行屋を利用したとも思え、藤野番屋を利用したという現存する駅逓舎との関係は不明。現存する駅逓舎の建物は補修を繰り返し当時の面影は希薄、元々は宿泊施設が別にあったかもしれませんが、知床博物館・学芸員のお話では運営の実態がよく分かっていないとの事だった。斜里から越川を経て峠越えで標津、別海を経て根室に結んだが、昭和4年の鉄道開通で駅逓所廃止されている。近い位置に「シャリ運上屋(会所)跡」があり、いずれも知床博物館から徒歩圏内です。
※駅逓基本情報
◇開宿年:詳細不詳 ◇請負人:文久2年~山田寿兵衛 ◇明治5年~藤野伊兵衛 ◇再設置:明治21年4月11日(網走支庁拓殖便覧) ◇廃止年:昭和4年6月30日 ◇告示年:昭和4年6月9日 ◇取扱人:初代:下川玉三 ◇二代:清水条三郎(金太郎?) ◇三代:清水一郎 ◇記念碑:旧駅逓舎(民営倉庫・外観のみ見学可) ◇所在地:斜里町本町42-8 星印刷所向かい ◇Map:43.913636, 144.666232
大正9年、官設駅逓として開駅、取扱人は佐野準一郎氏。昭和11年廃止、建物は佐野氏に無償譲渡され住居として使用されていた。駅舎は今井米蔵の請負で建築され、後の増築は宮村正一の請負と云いい当時としては洋風の建築物です。駅逓は旅館と運送が一緒になっているので交通網の未発達な開拓期には不可欠な施設でした。昭和45年、佐野氏の子息が住宅新築を機に留辺蘂町に寄附。留辺蘂町は駅逓開設時の様子を復元、開拓史料も展示し開拓資料館として開放している。武華駅逓は国道39号線沿いで温根湯温泉の西8km、国道を挟んで滝の湯温泉が220mと至近距離にある。説明では郵便中継という事も書かれているが郵便は駅逓の業務では無く、駅逓取扱人が個人として別に請け負ったもの。
留辺蘂開拓資料館
◇開館日:金曜日・土曜日 ◇開館時間:09~17時 ◇閲覧料:無料
◇入館希望者は前日までに留辺蘂教育事務所 0157-42-2723に連絡
◇外観を見るだけなら制限なし
※駅逓基本情報
◇設置年:大正9年1月28日 ◇告示年:大正9年4月16日 ◇改築年:昭和6年 増築 ◇廃止年:昭和11年11月30日 ◇告示年:昭和11年11月26日 ◇取扱人:佐野準一郎 ◇記念碑:史跡標柱・旧武華駅逓所 ◇修復年:昭和59年 解体修復・復元 ◇所在地:北見市留辺蘂町滝湯127番地 ◇Map:43.731764, 143.423982
丸瀬布上武利に有る神居滝簡易郵便局の北側にかつてムリイ駅逓所だった施設の一部(二階部分)が住宅として活用されている。ムリイ駅逓所は上藻別駅逓の前に出来ているが、上藻別駅逓はこのデザインを一部採用しているというが、トタンが張られしかも外側からでは元型がわからないというのが残念。現在は無住の館となっているが建物は管理はされている様子。ムリイはかつて湧別アイヌ一族のコタンがあった所で近くにカムイコタンの碑が有り、いまも一族にとっては大切な場所のようです。
※駅逓基本情報
◇設置年:大正14年5月1日 ◇廃止年:昭和17年9月30日 ◇取扱人:初代:藤本勝治 ◇二代:徳正亀太郎 ◇三代:徳正高之助 ◇記念碑:駅逓舎の客間が民家に転用され現存(非公開) ◇所在地:遠軽町丸瀬布上武利180番地1 ◇Map:43.915659, 143.329087
東洋一と言われた鴻之舞金山の開発に伴って紋別市中心街から南約23kmの上藻別に大正15年に官設駅逓所が開駅、昭和9年に増築され駅逓取扱人は高地登氏。入母屋造鉄板葺平屋建(鉄板葺は後の事で最初は柾葺き)の本館と寄棟造鉄板葺2階建の増築部からなり、外壁は下見板張で、二回窓には装飾的な額縁が取り付けられ、内部は中廊下式で客室を配置、紋別地方に現存する駅逓家屋で、戦前の北海道独特の様式を残す代表的な古建築物。昭和15年に駅逓業務廃止後は昭和24年まで高地旅館として営業、その後は住宅として使用された。その後ボランティアや上藻別駅逓保存会の手により修復復元され、平成20年に国の登録有形文化財になるが「鴻之舞金山資料館」として紋別市立博物館の別館的な役割も果たしている。展示スペースは駅逓本館内と別棟の他、三塔のサイロ、屋外など専用ブースで他の旧駅逓舎とは比較にならないほど充実している。鴻之舞鉱山坑道で使用された機動トロッコや鴻之舞軌道関係の屋外展示(屋根有り)なども産業遺産としても貴重、屋外博物館とも云える産業遺産となった鴻之舞のガイド窓口にもなっている。
※駅逓基本情報
◇設置年:大正15年6月1日 ◇廃止年:昭和15年5月31日 ◇取扱人:高地 昇
◇記念碑:上藻別駅逓開設之地碑 旧上藻別駅逓所
◇所在地:紋別市上藻別297の1
◇公 開:4月末~11月末 ◇時間:9:30~15:30 ◇休館日:毎週月曜日
◇連絡先:上藻別駅逓保存会 TEL:0158-26-5110
◇Map:44.188111, 143.336047
かつては東洋一と云われ人口1万人を越えた鴻之舞鉱山。1916年に金鉱が発見され翌年から操業を始め、1973年閉山まで実質の操業期間は56年間。その間の総生産量は金72.6トン、銀1.234トンと単独の鉱山産出量としては日本最大を誇る。その鉱山も閉山してコーストタウン化、今では自然に戻っているが、その跡は近代産業遺構としては最大規模を誇る。「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌の作曲者、故宮川泰は旧鴻之舞小学校にかよっていたそうで、その代表曲「銀色の道」は、鴻之舞鉱山にあった鴻紋軌道の線路跡を思い出して作られたという。上藻別駅逓所から道道305号線を丸瀬布方面に向かう途中に、鴻之舞鉱山の遺構が点在するが殆どは危険防止のため立ち入り禁止。また銅鉱山閉山30周年を記念して建立された「銀色の道」歌碑や、鴻之舞鉱山跡の碑があります。鉱山の遺構ツアーガイドを上藻別駅逓保存会で行っている。旧上モベツ駅逓所は鉱山関係者には不可欠な施設でした。
雄武町に旧駅逓跡の痕跡は皆無ですが、上幌内にある開魂の碑に上幌内駅逓所の取扱人だった尾田忠蔵氏の名前があった。明治40年入植者7名の名前と明治44年の入植者と団体名が刻まれ顕彰碑でもあるようだ。その中の一人、小田忠蔵氏は上幌内駅逓所4代目取扱人でもあるので駅逓関連碑とした。駅逓所の開設は明治45年に中幌内で開駅し大正4年に上幌内に移転、昭和18年に廃駅となっている。資料がないので推測の域を出ないが小田忠蔵氏は上幌内駅逓所となってからの取扱人とおもわれる。駅逓の有った場所も不明だが、古い地図には上幌内小学校の近くに駅逓マークがあった。「建立の詞 当地に「上幌内」の名称が冠されたのは明治30年国有未開地処分法に基づき、同36年、調査隊により上幌内一線より九線までの区画が定められた時点である。その後、明治43.4年の両年にわたり新区画が制定され総面積203.45平方キロメートルの現在の行政区画が決定した。---以下省略---昭和45年10月 上幌内開基65年 開校60年 記念事業協賛会建之」以下省略。大正元年には小学校が、戦後すぐに中学校も開校したが昭和30年代後半からの過疎化で昭和54年に中学校、平成2年に小学校が廃校、残っていた4世帯は平成19年に雄武市街地に移転、農作業のため夏期間のみ通い、短期間の居住は有る様子でした。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治45年2月11日 ◇移転年:大正4年4月23日 中幌内より上幌内に移転、上幌内駅逓と改称 ◇廃止年:昭和18年8月28日 ◇取扱人:初代:津島豊作 ◇二代:三国友之助 ◇三代:三国貞実 ◇四代:尾田忠蔵 ◇記念碑:開魂の碑(関連石碑) ◇建立年:昭和45年10月建立 ◇建立者:上幌内開基65年開校60年記念事業協賛会 ◇所在地:雄武町上幌内 ◇Map:44.523860, 142.745116
小向駅逓所の取扱人だった竹内文吉氏の顕彰碑が紋別市の弘道にある。碑 文「翁は明治三十一年人跡未踏の当地に移住し開拓に力を効かすこと実に二十有九年弘道教授所の設置、その他地方公共のため尽瘁して至らざる成し。部民相諮り碑を建てその徳を彰せんとす。洵に美挙というべき也。即ち文を余に求めむ。因って記して以て後世に伝うると云う。 網走市庁長 渡辺勘一郎 大正十五年五月二十三日 除幕式」※小向駅逓所は湧別と紋別の中間駅逓として利用され竹内文吉が駅逓取扱人でした。小向駅逓所の設置は明治33年で名寄線鉄道開通で廃止となる大正10年(12年?)まで20余年間駅逓所経営に当ったが、同時に明治36年に湧別村基線20番地に入植、農業と開拓の先駆者で、当時は徳弘正輝と二人しかいない農業者ともいう。廃校となった弘道小学校の側に竹内翁の「彰徳碑」があるが、顕彰碑に駅逓に関する文言はない。碑の裏面は碑建立の寄付者の氏名がに刻まれている。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治33年4月28日 網走支庁拓殖要覧 ◇告示年:明治34年4月25日 ◇廃止年:大正12年3月31日 ◇取扱人:竹内文吉 ◇記念碑:竹内文吉翁顕彰碑 ◇建立年:大正15年5月23日 ◇所在地:紋別市弘道 旧弘道小学校横 ◇Map:44.253082, 143.459873
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