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江戸期の宿駅は一般的には通行屋(家)、下宿所(旅宿)、止宿所、番屋などと呼び方が色々と有り統一されていない。基本的には会所元に併設された宿泊施設と、会所(運上屋)と会所(運上屋)間の距離がある経路では中継地に通行屋が設置された。その場合も通行屋、止宿所、番屋など呼称は様々ですが、番屋はその規模が多彩で昼休所や通行家・下宿所を兼ねる所が多かった。蝦夷地で請負人に宿駅(駅逓)に課せられた義務は宿泊と人馬継立、公用状の継立、非常事態(ロシア船の出現など)の報告であり、私書の取扱は業務に含まれない。また宿泊出来るのは北方警備にあたる藩士や幕府の官吏であり、運上屋(会所)の関係者などを除けば一般の宿泊は対象外でした。ここでは明治2(1869)年頃までは実際に使われていた区分に従って、オホーツクから日本海側の西蝦夷地(斜里から宗谷、石狩、熊石まで)を初めに、次いで東蝦夷地(羅臼から山越内までの太平洋岸)から口蝦夷地~和人地(道央の一部から道南)とに分けて紹介します。ここでいう運上屋はどこでも同じ意味ですが、会所は和人地と蝦夷地では意味や役割が異なることが多い。宿駅(駅逓)も蝦夷地と和人地では異なり、蝦夷地では場所請負人が、和人地では村方による運営で人馬供出にかり出されるのは蝦夷地ではアイヌ民族が、和人地では村民でした。和人地でのこの悪弊は明治になっても継続されていたようです。
斜里町宇登呂の知床グランドホテル北こぶし敷地内にあり松浦武四郎顕彰記念碑と同時に建立されたようで、説明板では安政5年に当地に宿泊した松浦武四郎の日誌から引用している。説明板より転載『ウトロ近海は古来、サケ・マスなど水産資源豊かな海域として知られここに魚場が開かれたのは遠く天保年間(1830~44) シャリ場所請負人であった藤野家が当地前浜に番屋などの漁業施設を設けたことに始まっております、その頃の漁業は、春のニシン漁に始まり、夏のマス漁と続き秋のサケ漁をもって終わる三漁業が中心で、産物は北前船により遠く本州方面に移出されていました。幕末の北方探検家、松浦武四朗の「古い資料」によると彼は安政5年(1858) 知床岬からの帰途ウトロ番屋に一泊したことが記されており、当時の規模は梁四間・桁七間でほかに倉庫が二棟と附近には弁天社のあったことなどが書かれています。明治に入り場所請負制度は廃止され、魚場は一般に開放されましたが大正11年に至りこの藤野番屋は網走の東出漁業部(東出重蔵) へ譲渡され、以来東出番屋と呼ばれ、昭和55年頃まで遺されていました=以下省略=昭和63年9月30日 松浦武四郎没後百年記念協賛会 ウトロ漁業協同組合』安政5年当時はウトルチクシ(宇登呂)とホロベツ(幌別川付近)に番屋があり元々の規模は梁4間・桁6間だったようですが、ウトルチクシの番屋では秋田家が来るとのことで桁1間を継ぎ足し梁4間・桁7間にした(宿泊用の増設?)という。番屋以外ではウトルチクシに備米蔵と雑蔵、ホロベツには雑蔵と雇蔵があったという。通行屋を兼ねた番屋であったようです。◇所在地:斜里町宇登呂 知床グランドホテル北こぶし 前庭 ◇N44°07’21.49” E144°99’45.93” Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.Maps :G.Maps
天明2(1782)年に飛騨屋久兵衛の場所請負が最初のようですが、寛政の乱で飛騨屋が罷免。近江商人の藤野家が箱館や松前を根城に海運業から場所請負に乗り出したのは文化年代からのようです。斜里場所は1790(寛政2)年に宗谷場所より別れ斜里場所が開かれが開かれ村山伝兵衛が場所請負人となるが、村山家が没落後は藤野家が請負人となる。文化4年に幕府が蝦夷地を直轄としたとき運上屋の名称は会所と改められた。藤野家は1806(文化3)年に上下ヨイチ場所請負人となったの始めに、1808(文化5)年、栖原三右ヱ門・伊達林右ヱ門と共同で斜里・宗谷場所(ソウヤ,エサシ,モンベツ,トコロ,アバシリ,シャリ)請負人、1817(文化14)年・国後場所請負人、1823(文政6)年、利尻、礼文場所請負人1832(天保3)年、根室場所請負人、根室場所は藤野家最大の経営基盤となったとされる。1859(安政3)年、網走場所請負人という状況でオホーツク側では藤野家の独壇場という感じでした。維新後もオホーツク側漁場の独占が続きますが明治末には撤退しているようです。経営は徹底した植民地経営方式だったようで石狩とともにアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域で、国後に送られたら生きて2度と帰れないとアイヌの方には恐れられていた。こうした酷使に対して、1857(安政4)年10月に箱館奉行所が「最もアイヌ使役の烈しい場所」として、石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書を出すという処置をとったが効果はあったとは思えない。開拓使への引き継時漁場持は山田寿兵衛、紋別、網走、国後などに又十(屋号)の名は有るが斜里には見えず。明治5年に又十藤野家が斜里の漁場持になり駅逓取扱も又十藤野家に変わっているが、漁業繁忙期は馬を出さない(漁場で馬を使う)ために法外な料金を請求する等があったらしい。明治9(1876)年に漁場持が廃止され一漁業経営者となり明治末には藤野家は撤退している。駅逓としては漁場持制廃止まではあったと思われるが廃止年については不明、漁場持廃止の明治9年以降か、明治21年に再設置された斜里駅逓は藤野番屋がもとになった。◇所在地:斜里町港町8-28 ◇N43°54’50.51” E144°39’47.98”
藤野家はかつて柏屋と称し屋号は「又十」で「またじゅう」と呼ばれた藤野網走分店跡の史跡標柱が白田鋸店の駐車場の端にあり、この場所に又十藤野網走分店がありました。天明2(1782)年に飛騨屋久兵衛が宗谷・斜里場所を請負したが最初のようですが、寛政の乱で飛騨屋が罷免され、シャリ場所を村山伝兵衛の請負にした寛政2(1790)年が実質的な斜里場所の開設とされているようです。のちに初代藤野喜兵衛が網走に番屋を設置、網走で和人が漁業をはじめた最初の根拠地だった。又十藤野は文久2(1862)年に会津藩より斜里場所請負人を罷免されるが、網走場所は直轄領として残されたので斜里場所請負人罷免後は網走番屋が又十藤野の拠点となり、内陸の交通網が整い始めた安政5年から本格的に駅務も取扱うようになったようだ。網走藤野番屋は平屋で、間口28間、奥行8間5尺、248坪(818㎡)と云い、幕末から明治の頃には戸長事務所、郵便取扱所、駅逓などがあった。明治6(1873)年に漁場持として斜里も復活するが、明治9(1876)年に漁場持が廃止され、又十藤野は一漁業経営者となるも漁業不振で農場経営などへの進出を図ったが、思うような成果を上げられずに大正期に撤退。安政5年に開設した駅逓は明治5年に藤野番屋から網走駅逓として独立、中央道路(囚人道路)開削が始まる頃に中央道路起点付近に移設されていたようだがが民営の期間が長く詳細が良くわからないようです。◇所在地:網走市南4東6(旧・北見町中通一丁目) ◇N44°01’18.01” E144°16’36.49”
紋別番屋の開設は寛政2年頃ということ以外の詳細は管理人にはわかりませんが紋別場所跡に標柱がある。場所請負人だった藤野家の概要は斜里運上屋で書いたので省略しますが、場所経営は徹底した植民地経営方式だったようで、オホーツク海側と離島はアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域で1857(安政4)年10月に箱館奉行所が石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書をだしている、場所請負制廃止で当時の請負人山田善吉から場所返納されたが、オホーツクでの漁が不振な事と交通不便な所で場所経営が困難なため、漁場持を引き受ける者はいなかったという。北見方面で場所請負人の力を借りずに蝦夷地開発を推し進める事が困難と考えた開拓使は又十藤野伊兵衛に頼み込んで漁場持になってもらったようだ。松浦武四郎の竹四郎廻浦日誌で枝幸から斜里間の通行屋を拾ってみると十カ所あり、その中で規模が大きいのは紋別、網走、斜里という感じになる。これらの通行屋は明治初期まで場所請負人の請負業務で、維新後の場所請負廃止で中断はあっても、後に漁場持が引き継いでいることが多いようです。紋別場所は1869明治2年に函館使庁産物掛の管理となり、漁場持になった藤野伊兵衛が斜里、網走、紋別で駅逓所を1872(明治5)年に駅逓所を開設している。明治初期の駅逓は例外なく廃止年が詳細不明という事が多いが、再設置された駅逓の初代取扱人は藤野家の網走支店紋別出張所支配人だった阿波徳助氏。当時は場所請負人の使用人が独立し施設を引き継いで駅逓取扱人となるのよく見られ、勇払のように請負人関係者が駅逓業務を独占する事も珍しい事ではなかった。◇設置年:明治5年 ◇再設置年:明治20年 廃駅年:大正13年 ◇初代取扱人:阿波徳助 ◇二代:久保田幸助(明治26年~) ◇三代取扱人:島竹寛一(明治33年~)◇所在地:紋別市弁天町 ◇N44°35’61.91” E143°36’02.40”
宗谷の歴史は古く(基本的には海岸線を主とする和人の歴史)1582年に松前藩領となり、1685年に宗谷場所が開設されている。幕末の場所請負人は藤野家だったが明治3(1870)年に漁場を返上している。宗谷は安政6(1859)年に秋田藩の支配となるが明治2(1869)年には開拓使、明治3(1870)年には金沢藩に属すも明治4年の廃藩置県で分領支配は終わり、1879年に戸長役場が設置されている。1888年に戸長役場と郡役所が稚内に移り、1955年には稚内に編入され今日に至っている。
松浦武四郎の絵図からみると「宗谷300年記念碑」の有る所は宗谷会所前の通行屋の位置に重なってみえ、西蝦夷日誌では運上屋と弁天社あり伊勢大神宮を祀る、その後ろに佐竹家の陣屋があるとなっているが、実際の運上屋もう少し山寄の位置だったようで運上屋跡の標柱があり、記念碑の位置は通行屋の描かれている付近となるようだ。幕府から開拓使に引き継がれた運上屋(駅逓は安政元年設置)には宗谷も含まれ、漁場持の伊達林右衛門が運上屋で駅務を取り扱ったようです。駅逓取扱人は藤野喜兵衛~伊達林右衛門となり漁場持廃止後の明治15年駅逓取扱人名簿では小田幸太朗となっているので、駅逓廃止はこの後となるようです。明治281年に再設置された駅逓に関する位置情報は確認できなかった。運上屋跡標柱からは至近距離に戸長役所跡と稚内発祥の地碑があり、稚内に鉄道が開通する前は宗谷の中心地だった。近くに陣屋跡、津軽藩兵詰合の記念碑、旧藩士の墓、間宮林蔵顕彰碑などがあり、天明元(1781)年創建の厳島神社に奉納された鳥居に藤野家宗谷支配人、粂屋八右衛門の名前がみえる。◇所在地:稚内市宗谷村字宗谷 ◇N45°29’12.49” E141°52’45.73”
運上屋跡は利尻町の観光地の一つで鴛泊港から西に車で5分程の本泊地区にあり、写真の後方側に復元された石段がある。古くは北海道各地のアイヌの人達が松前や各地に行って自由に交易をしていたが、松前藩が成立し力をつけるとアイヌの自由な交易は制限され、決められた場所に家臣が赴いて交易する商場知行制となる。その商場知行制も藩の放漫経営などの執政などで、18世紀以降になると商場経営を民間(商人)丸投げして運上金(税金)を納めさせる場所請負制度に変わっていった。請負場所の拠点施設を運上屋と云い、支配人(現地責任者)、通辞(アイヌ語通訳)、帳役(書記)、番人(アイヌ使役の監督)、他に和人の稼方がおかれ場所請負人が現地で統括するのは例外的でした。利尻での商場が開設された時期は不明だが、天塩商場が寛永11(1634)年の開設とされ利尻もその頃には商場が開設されていたのかもしれない。利尻場所最初の請負人は明和2(1765)年の恵比須屋岡田弥三右エ門で、文化4(1807)年より岡田源兵衛、天明4(1784)年から恵比須屋岡田治助だったようです。文政6(1823)年に利尻場所(礼文島を含む)が恵比須屋より柏屋(藤野)喜兵衛に譲渡され、利尻島請負を罷免された明治2(1869)年まで柏屋(藤野)の独占場所でした。漁場経営の拠点として今の場所に運上屋が置かれたのは1823年頃のようですが、運上屋は5間半×13間程だったと云い、運上屋跡は利尻町の指定文化財となっている。運上屋の規模としては普通ですが、離島の運上屋として見るなら大きな施設でしょう。蝦夷地が幕府直轄となってから駅逓業務も場所請負人の義務とされ、役人などに利用された。宿泊施設は運上屋や番屋に併設されたり通行屋として別棟の事もある。明治になって場所請負制は廃止となるが、漁場持ちと名を変え明治9年頃まで温存(分領支配は2年間で終わる)されたが、開拓使事業報告によると漁場持ちが駅逓を取り扱うとなっているが、人馬継立はなく漁場持ち廃止後は航海船取扱所を置くというのが島らしい。利尻駅逓所としての取扱人には松林喜兵衛、松浦逸八郎、綱島定助の名前が有り藤野の関係者だったとおもわれる。明治18年に鬼脇に移転している。◇所在地:尻富士町鴛泊字本泊
サロベツ原野から道道444号を日本海に向かい、道道106号(稚内天塩線)を稚内方面に右折、約200mの直進で「砂丘のえき」があり、その駐車場海側に以前は止宿所跡説明板があったが倒壊撤去され再建の話もない。稚咲内は稚内と天塩の中継地で、旅人の休息と給水の地として1840年代に止宿所が設けられ井戸も掘られたが、それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。松浦武四郎は1846年と1856年、1858(安政5)年にこの地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵と井戸があった事を記録に残している。明治以降も止宿場は継続されていた様で「北海道宿駅制の研究」では明治32年に止宿所が昇格(官設稚咲内駅逓所)したとあり、明治20年代初頭の北海道全図には稚咲内駅逓のマークがあった。明治3年に官設宿所が設置されたとも云うが、明治15年の駅逓取扱人名簿に稚咲内はなく当時の経営実態は不明な事は多いが、当時は場所請負制廃止で場所請負人の使用人が独立し施設を引き継ぎ駅逓を経営する人も多かった。実際に止宿所が有ったのは説明板が設置してあった砂丘の丘より2kmほど北上したツツミ川に架かる長沼橋(地元では富士見橋と呼んでいるらしい)より約200mほど北にある浅い窪地が稚咲内駅逓所跡と聞いたが、土地改良と水路改修などで痕跡はなくなってしまった。田草川伝次郎著『西蝦夷地日記』ではヲフイニシヤ」に番屋(旅宿所)があったと記されておりパンケルーと天塩間が軟砂で時間がかかるために止宿所を少し南の稚咲内に移したらしい。説明板の再建を期待して掲載した。◇設置:明治32年03月 ◇廃止:昭和04年06月 ◇現住所:豊富町稚咲内 砂丘のえき ◇N45°05’14” E141°37’49”
テシホ場所は1786(天明6年)年頃に始まったとされるが定かではない。知行主は松前藩一門の松前貢で寛政年間の頃、増毛、留萌、苫前、天塩の4箇所に運上屋が設置されたとあるが天塩場所が始まったのは天明年代に遡るのでその前から運上屋が有ったかもしれない。文化4年に幕府が西蝦夷地全域を直轄地とした時に場所請負人に対し区域を定めて道路の開削を命じ、各地の要所に通行屋を設け官馬を配備(駅逓業務)したが、この駅逓業務はのちに請負制となる。幕末の天塩場所は苫前場所との境はヲタコシベツ(現・歌越)から宗谷場所の境だったエキコマナイ(現・勇知)迄のようで、最初の請負人は栖原家で以後維新まで(水戸藩支配時は出稼ぎ扱いで実質継続)の殆どを請け負っている。所請負人に共通するのは不平等交易と植民地経営方式で、安政4年に箱館奉行所が「最もアイヌ酷使の甚だしい場所」として請負商人に論書が発せられた場所のひとつでしたが、場所請負人の専制支配という無法構造は変わる事なく維新を迎えることになります。
1855(安政2)年に蝦夷地が再び松前藩領から天領になり秋田藩領に、1859(安政6)年に天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になっているが。維新後の1869(明治2)年に水戸藩領になるが、1871(明治4)年に分轄統治が廃止され開拓使の管轄となる。明治2年の場所請負制廃止で運上屋も廃止となるが、栖原家は天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持となり漁場運営を継続、漁場持廃止後も事業不振に陥る1895(明治28)年まで漁場経営を継続している。駅逓再開時期は不明だが幕府直轄になった時に再設置された可能性も、水戸藩支配時は水戸藩が駅務を取り扱いとあるが、実質は栖原家が請け負っていたと考えられる。 開拓使に引き継がれ明治5年に運上屋は駅逓扱所と改称され実質駅逓取扱人は栖原家現地支配人の川村能右衛門氏ですが、1877(明治10)年に天塩運上屋の番人だった菊地和三郎氏が継いで、栖原グループがその殆どを支配していた。旧札幌本庁の駅逓取扱人一覧(明治15年)に天塩運上屋の現地支配人だった菊地和三郎の名があるのでその頃までは続けられていた事になる。天塩運上屋の建物は大正元年(1912)まで現存していたという。これ以降に関しては天塩駅逓に記す。◇記念碑:天塩町指定史跡(S57.1.26)標柱と説明板 ◇天塩町海岸通4丁目3975 番地の2 ◇N44°52’58.79” E141°44’39.05”
留萌~天塩沿岸では寛政年間の頃、増毛、留萌、苫前、天塩の4箇所に運上屋が設置されたとあるが、経過は天塩とほぼ同じなので省略するが天明の頃には通行屋が有ったようです。運上屋廃止後は漁場持の栖原家が駅逓取扱人として継続されていたようだ。公式には開拓使直轄としている明治5年から、明治9年より駅逓取扱人は公選のようですが実質は旧運上屋の関係者で占められているのはのはここでも同じで、旧札幌本庁の駅逓取扱人一覧(明治15年)に戸沢儀八の名がある。当時は場所請負人の使用人が独立し私設駅逓として開始する事もあり、経営実態が不明という事も多いようです。運上屋に関しては松浦武四郎の記録の中にも出てくるがその跡の苫前漁港前の「北るもい魚協」駐車場角、苫前下町バス停傍に標柱があるが碑以外にその痕跡を示すものは何も無い。 ◇N44°18’49.5” E141°38’58.0”
松前藩の商人、村山伝兵衛が松前藩より1751(宝暦元)年に増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、その頃から和人が定着が増えていったようです。出稼ぎは蝦夷地を代表するニシン番屋で増毛も「ニシン場」として栄えてきた町のひとつで、比較的古い歴史的建造物が多くその中心にあったのが「運上屋」でした。場所請負制の廃止にともない運上屋は廃止され、明治政府に引き継がれた時の場所請負人は伊達林右衛門でした。北海道宿駅制の研究では「通行屋と称し請負人伊達某駅務を行う」とあり、駅逓業務は継続されていたようです。その後の詳細はわかりませんが、明治15年の駅逓取扱人は八川喜七となっているので駅逓廃止はこれ以降とおもわれる。増毛運上屋跡を示す遺構はありませんが、港町市場の建物の前(遠藤水産)に史跡標柱があります。明治35年に再設置された増毛駅逓が運上屋(通行屋)が同じ建物かどうかは不明ですが取扱人は八川宇市でした。幕末の探検家・松浦武四郎の「西蝦夷日誌」では「通行屋」があったことがしるされ、安政4年と安政5年に増毛に宿泊しているが、その目的は伊達林右衛門が自費で開削中の山道見聞だった。◇記念碑:増毛町史跡説明板 ◇所在地:増毛町港町4-26 ◇N43°51’21.30” E141.°31’42.67”
享保年間に石狩13場所のひとつとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と石狩川を利用した内陸への交通と舟運の要所となっていた。駅逓所の開設は明治12年で翌年対雁・江別両村戸長役場が置かれたが明治15年の鉄道開通で市街中心地は江別や野幌に移る。主な輸送手段が舟運から鉄道に変わった明治18年に対雁駅逓所は廃止。また樺太アイヌが強制移住をさせられ、明治19~20年にはコレラの流行により、300人以上の犠牲者を出す悲劇にみまわれた歴史があり慰霊碑がある。碑は新石狩大橋に近い国道337号沿いの榎本公園に隣接、榎本公園は戊辰戦争で旧幕府軍として戦った榎本武揚の営んだ農場跡で榎本武揚の像があります。幕末の探検家、松浦武四郎は安政3年から安政5年までの間に当地には5回訪れ計6泊している。◇開駅:明治12年03月 ◇廃止:明治18年08月 ◇所在地:江別市工栄町 ◇N43°12’73.62” E141°51’51.04”
千歳川とその周辺のサケやシカといった豊富な天然資源もありシコツ場所と呼ばれていたが、のちにユウフツ場所に編入されている。幕末の頃は資源も減少して会所も1カ所であったが、内陸部で会所が設置されている所は他にほどんとない。千歳は「シコツ越」「ユウフツ越」と云われ東西を結ぶ内陸交通の要衝たせったのでしょう。最後の場所請負人は山田屋文右衛門のようです。元々シコツ(千歳)には四ヶ所の出張番屋があったと云うが、文化元年にに2カ所の会所になり、その後鮭資源の減少などで文化6年に千歳川会所になった。
千歳川会所説明板より 『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々と交易をする独占的な権利を与えました。やがて藩士たちはこの権利を商人に預け運上金(税金)を納めさせます。権利の及ぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物がたてられました。寛政十一年(1799)年、幕府は蝦夷地を直接支配し「運上屋」を「会所」と改名します。「会所」は幕府の役人もいて交易の他に役所の出張所の役割もしました。千歳では文化元(1804)年、売場会所と買場会所がたち蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。文化6年(1809)二つの会所は1カ所にまとめられ「千歳川会所」となりました。安政4年、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(1818~1888)は千歳を訪れ千歳川会所のにぎやかな様子を上図(説明板の上半分の絵)のように描いています。絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。昭和65年5月 千歳市教育委員会』千歳川会所とその船着場は、現在の千歳橋の近く、ホテルかめや(本町1丁目)のところにあった。◇所在地:千歳市本町1 ホテルかめや前nbsp;昭和54年に千歳神社が設置。 ◇N42°49’11.09” E141°38’49.31”
オタルナイ運上屋の設置に関しては定かではないが享保年間と考えられ、元々はヲタスツにあったらしいと云うことだ。知行主は松前藩重臣の氏家氏、場所請負人はの恵比寿屋岡田家でしたが、慶応元(1865)年にオタルナイ場所が村並となり場所請負廃止となり、運上屋は本陣に変わっているが、引き続き駅逓を運営していたが慶応2(1866)年の火災により建物は消失したので、運上屋の本陣は1年程の期間で、移転再開と思うがその後については不詳。明治15年の駅逓取扱人一覧に小樽は松本勝造とあり駅逓は継続されており廃止は明治15年以降となるが、駅逓の所在地に関する情報は町会所に置くと言うこと以外については不詳。メルヘン交差点側に「史跡オタルナイ運上屋跡」の碑がある場所がオタルナイ本陣と駅逓跡と記念碑のある場所となっている。小樽が山越内や長万部と同年に村並みになったのは場所請負人だった恵比寿屋が新政府(開拓使)に協力的でなかったからともささやかれていたようだ。北海道の名付け親、松浦武四郎は弘化3年、安政3年に1泊、安政4年には2泊し、その時の様子を書き残している。西蝦夷日誌(松浦武四郎著)では「上に弁天社・地蔵堂、階段敷級を上がる。ここより諸方を眺望する風景宜く、一眸に石狩までよく見ゆ」とあり蝦夷日誌(松浦武四郎著・西蝦夷編)ではヲタルナイという所は元々クッタルシという所でヲタルナイは石狩との境界になっている小川であると書き残している。◇駅逓請負人:恵比寿屋岡田家 ◇記念碑:史跡脊柱と説明板 ◇所在地:小樽市堺町6 ◇N43°07’12.28” E140°43’43.87”
碑文『建立の誌 ルベシベ通行屋は余市、岩内間の新道開削に伴い稲穂峠を越える旅人のために安政4年の初夏余市運上家によって建てられ、次いで人馬継立が設けられた。以来、蝦夷地の探検家松浦武四郎をはじめ函館奉行村垣範正、堀利凞、北海道の歴検図の筆者目賀田帯刀が蝦夷地の開拓や北方の警備状況など検分のため奥地に赴く途次ルベシベ通行屋で旅の疲れを休め、また鰊場に向かう出稼人夫や商人等もここで急速あるいは宿泊した。明治初年には開拓使主席判官島義勇一行、英国の生物学者ブラキストン、開拓使顧問ケプロン等、安政時代から明治時代にかけて北海道の開拓史上欠くことのできない著名な人物が往来し、その報告書や日記類、絵図など多くの歴史的文書類を遺している。時代の推移と共に通行屋は脇本陣、旅籠屋とその名称は変わったが、明治38年北海道鉄道(株)が開通するまでの間、北海道を往来する旅人の安息の地としてその役割を果たしてきた。仁木町大江三丁目(ルベシベ)は、昔も今も交通上の要所として、その重要性は変わらない。』ルペシベ通行家は明治2年に脇本陣と改称されるが以降は民営期間があるようで山道駅逓所として官設駅逓に昇格したのは明治18年です。碑文では松浦武四郎も泊まった?ようになっているが、松浦武四郎がここを通過したときは、通行屋の建設中で丁巳第二巻 曽宇津計日誌の中で「笹小屋」というタイトルで建設中の様子を綴っている。ただ石狩日誌では笹小屋に泊まったとあるので、碑文は石狩日誌を元にしているようです。通行屋跡は仁木町大江から赤井川へ抜ける1022号線にはいり、ルベシベ川にかかる橋の近く、中央バス「稲穂峠下」バス停奥にある。◇開設年:安政4年 ◇廃止年:明治38年? ◇初代取扱人:竹屋林長左衛門か? ◇所在地:仁木町大江3 香坂氏地所内 ◇N43°04’09.76” E140°42’24.61”
シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~1875(明治8)年迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。積丹は神威岬から北は女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊への陸路は岩田金蔵が開いたという。場所請負制度は明治2年に廃止されるも、廃止反対が強く「漁場持」と名を変え実質的には明治9年迄温存された。幕末時には通行屋があり明治2年に運上屋は廃止され本陣に、明治5年に本陣を廃止し駅逓所となる。戸長役場が置かれたのもここだったという。北海道宿駅制の研究の明治前期編で「岩田某宅にて駅努を扱う」とあり、明治15年の駅逓取扱人名簿に岩田金蔵の名前があるので廃駅はそれ以降か・・・松浦武四郎は弘化3年と安政3年には当地を陸行し運上屋で宿泊、記録にはシャコタンは元々はクッタルシという所で、シャコタンは近くの川の名であるとも記している。またこの辺は早くから和人の進出があったようで神社の創建は古いのでは1600年代というのも。運上屋跡の傍に赤い祠があったが、当時からあった弁天社と関係あるものか気になった。◇開設年:安政5年 ◇変更年:明治4年 岩田某取扱を命ズ ◇移転年:明治20年 日司より野塚に移転 ◇改称年:明治21年 野塚駅逓所に改称 ◇廃止年:明治21年 ◇場所請負・駅逓取扱人:岩田金蔵 ◇所在地:積丹町日司町 ◇N43°21’15.85” E140°27’52.90”
「海辺の宿・運上屋」の角地に「しゃこたん場所運上屋・出張所跡」の史跡標柱がある。この宿は積丹場所請負人だった岩田金蔵がニシン漁が衰退した後に運上家の脇本陣(通行屋か?)として建てられた施設を利用し旅館業をはじめたのが元というので、脇本陣という呼称から駅逓と考えるのは自然な成り行きだがだが建物は世帯交代して現存していない。場所請負制度が明治2年に廃止され、運上屋の役割も大きく変わり、役所の出張所、宿泊施設、運送などが主体になり、名称も運上屋(元)は本陣、それに変わる施設(江戸期の通行屋、止宿場、番屋など)は脇本陣となる。この名称は2年間だけで、その後の紆余曲折を経て最終的に駅逓所となる。松浦武四郎の蝦夷日誌2編と竹四郎廻浦日誌にも記載され、安政3年にはこの地を通過。その時に見た番屋、おかむいなど、当地の様子を記している。また地名にある「シシャモラエキシ-来岸」というのが何となく気になる。◇所在地:積丹町来岸町42 ◇N43°19’49.85” E140°23’41.26”
フルウ運上屋の跡地に神恵内開村百年を記念して建立された碑。フルウは江戸時代から漁業で栄えた場所で産物はニシン・アワビ・ホッケ等などとあり江戸時代よりニシン場でもあった。幕末時には運上屋があり場所請負人は近江商人田村新十郎で維新後に運上屋は開拓使に引き継がれるが、駅逓業務も行っていたようで北海道宿駅制の研究の明治前期編で「田村某宅にて駅努を扱う」と有る。明治5年に本陣が廃止され駅逓所が置かれた。明治3年に官の取扱とすとあり、明治15年の駅逓取扱人一覧には須田善兵衛とあるので廃止は明治15年以降となるようです。駅逓廃止は不詳だが明治21年4月に人馬継立所が設置されているのでこの頃の廃止かもしれない。明治21年4月に設置の人馬継立所は殆どが民営で旅人宿を備えている。碑は国道229号線沿いで神恵内村役場の角地、1594(文禄3)年創立という北海道としては歴史のある神恵内厳島神社参道側にあります。幕末の頃の松浦武四郎の蝦夷日誌では松前商人、福島屋新右衛門となっておりここは古くから神恵内の中心地だったようです。後に駅逓所になっていても古い名前の運上屋とか会所というのが普通で本陣という名称の史跡は後志地方だけで珍しい。◇開設年/廃止年:詳細不明 ◇変更年:明治21年 人馬継立所設置 ◇場所請負:田村新十郎 ◇駅逓取扱人:須田善兵衛 ◇所在地:神恵内村 神恵内村役場横 ◇43°14’37.48”N 140°43’06.32”E
岩内場所に場所請負人がいたのは寛文5年(1665)迄溯る事が出来るらしいが、近江商人の恵比須屋弥三右衛門が場所を請負った寛延3(1751)年を岩内町の開基としている。本陣跡の碑の碑は岩内場所請負人制度を象徴する史跡で建造物は無ないが明治初期の駅逓を示す貴重な旧跡といえる。1869(明治2)年に場所請負制度廃止で会所(運上屋)は開拓使に引き継がれ、官営の事業となるに伴い会所(運上屋)は本陣に、運上屋と番屋、通行屋が同所にある場合、通行屋、番屋を脇本陣と呼称した。岩内では明治3年に駅逓所となっているが、他の所では明治4年に本陣は廃止されている。本陣に始まった明治の駅逓は旅篭屋並、旅篭屋、人馬継立所等を経て最終的に「駅逓所」に落ち着いた。本陣(運上屋)の廃止で駅逓として継続する所もあったが、漁場持ち廃止や駅逓への援助打ち切りなどで廃止された駅逓も多い。北海道宿駅(駅逓)制研究の明治前期編で「請負人佐藤某に駅努を取扱はしむ」と有り駅逓業務の記載があるが、明治15年の駅逓取扱人名簿に取扱人は異なるが岩内が有るので駅逓廃止はそれ以降かもしれない。◇場所請負人:佐藤仁左エ門 ◇官設駅逓取扱人:水谷行忠 ◇開設年:嘉永6年頃? ◇開駅年:安政3年 佐藤某駅務を取り扱う ◇改革年:明治3年10月 本陣と称す ◇改称年:明治6年 駅逓所と称する ◇変更年:明治21年4月 人馬継立所設置(民営化) ◇廃止年:詳細不詳 ◇所在地:岩内町万代 ◇42°59’01,33”N 140°30’64,53”E
嘉永5年に歌棄磯谷両場所請負人の佐藤定右衛門は、場所請負人としては桝屋栄右衛門と称した。初代定右衛門の没後は定右衛門の甥、伊三右衛門が磯谷場所を継ぐ。伊三右衛門は行成網を発明し漁法の改革でこの地方の繁栄の基礎をつくったと云われる。歌棄場所は初代定右衛門の実子重三郎が引き継ぎ、佐藤家は歌棄と磯谷の両家に別れます。江戸末期には島古丹、歌棄、寿都の3カ所に運上屋があり、磯谷の中心地は島古丹で、江戸時代には旅籠が10軒以上あったという。島古丹の運上屋はのちに横澗(磯谷)に移転、移転先の横澗漁港に横に磯谷場所運上屋跡の碑が建立されている。維新後の場所請負制廃止で運上屋は廃止、駅逓業務は開拓使に引き継がれるが、旧和人地や後志などでは駅逓業務の取扱は村役人となり、従来奥蝦夷と呼ばれた地域とは異なる。明治4年に開拓使生から磯谷郡詰となり、明治5年に四村戸長になった佐藤伊三右衛門は駅逓取扱人となって島小丹にあった運上屋を磯谷に移転して駅逓を再開したと思われ明治12年の改革で人馬継立所(民営)に移行しているが廃止年は不詳、明治初期の駅逓には馬が配置されていなかったというが磯谷の地形では馬は漁場以外では余り役に立たなかったでしょう。明治31年に再設置された駅逓は別棟だったようです。
◇設置年:嘉永6年 請負人佐藤某駅務を取り扱う ◇藩支配:明治2年 米沢藩支配 ◇改革年:明治5年 本陣廃止・駅逓所を置 ◇廃止年:明治13年 人馬継立所設置(民営化) ◇再開年:明治31年 ◇廃止年:明治39年 ◇所在地:寿都町字磯谷町横澗 横澗漁港 ◇N42°50’43.33” E140°19’40.47”
最初は歌棄にあった運上屋を有戸に移転し明治になって潮路等に移転した。宿駅は幕末期から多少の中断は有っても継続されており、明治12年の改革で人馬継立所(民営)に移行しているが、明治13年3月に潮路(大正の陸測図は歌棄の一部が潮路になる)に移転している廃止年は不明。明治24年に再設置されて以後は廃駅となるまで潮路にあったようで、古い北海道全図にある駅逓マークは歌棄の追分寄りの位置にあるも、移転した潮路駅逓に関しての関連碑や情報が殆どない。現存する角十佐藤家漁家住宅は運上屋本陣の跡に1892(明治25)年頃新築(佐藤家の口伝によると明治3年頃)されたもので、駅逓の経過からみて駅逓が潮路に移転してからの建替えとすると明治25年頃という方に説得力がある。潮路村はかつて歌棄郵便局のある一帯だったようですが北海道二級町村制の施行で歌棄村になり、昭和30年の合併で寿都町になったが潮路は小学校名にあるだけで地名として今は使われていないようです。運上屋時代の面影を留めているのは有戸の厳島神社と行成網記念碑だけのようです。◇開設年:嘉永6年頃? ◇開駅年:明治2年 請負人を廃し本陣とす、駅務を取扱 ◇改革年:明治5年 本陣を駅逓所と改め ◇変更年:明治6年 本陣を買上げ駅所とす ◇改革年:明治12年 人馬継立所設置(民営化?) ◇移転年:明治13年 潮路(ウショロ)に移転改称 ◇再設置:明治24年 人馬継立所再設置 ◇廃止年:大正15年 ◇所在地:寿都町歌棄町歌棄
松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」によると「マシケ場所」は現在の浜益と増毛を含むエリアだっが、天明5(1785)年に「マシケ場所」と「ハママシケ場所」に分割されたという。また蝦夷日誌(弘化3年)では「此ハママシケと云は此地の惣名なり。則其を今用ひて此運上屋元の名となす」とあり「松浦図」では今の川下がハママシケ、茂生がヘロカロウシで「蝦夷日誌」では運上屋があり「通行屋は岸の上に立出だし風景宜し」と、運上屋は茂生の本沢川河口付近の海岸際にあったようですが港湾工事で河口部が変わり痕跡は微塵もない。「西蝦夷日誌」にヘロカロウシ(茂生)より「少し行きてモイ(番屋1棟、カヤ倉1棟)、此處ポンクンベツ(群別)迄風荒の時には山道あり」と記されたモイに浜益郷土資料館の旧白鳥番屋がある。マシケ場所(浜益・増毛)で最初の請負人は村山伝兵衛ですが、伝兵衛失脚後の寛政8(1796)年に伊達屋林右衛門が引継ぎ幕末まで伊達屋が独占、最後の請負人(明治初期)は中川屋勇助でした。白鳥番屋は運上屋の下請鰊漁業番屋が始まりのようで安政3(1856)年に浜益に来住した羽後・酒田の白鳥栄作は運上屋の下請負で鰊漁業経営を始め、後を継いだ甥の白鳥浅吉が漁業の拡張をはかり、狭くなった番屋を明治32(1899)年に新築したが、昭和30(1955)年以降の鰊漁業の衰退で番屋は放置されていたのを、浜益村開拓百年の記念事業の一環として昭和46(1971)年に「はまます郷土資料館」として復元された。嘉永6年頃の開設とされる駅逓も漁場持ち廃止で郡立駅逓のような性格に変わり、増毛に至る山道を抱える浜益では駅務が村民に強いた負担はそうとうなものだったようで、永住者代表として白鳥浅吉が駅務軽減の申し立てを開拓使にだしているなど駅逓との関わりもある人物でした。◇所在地跡:石狩市浜益区浜益(茂生) ◇N43°61’24.91” E141°37’39.42”
アツタ場所で最初の請負人は阿部屋のようですが、文化7(1810)年頃より松前の浜屋与三右衛門、天保から弘化にかけて宮川増蔵、嘉永5(1852)年より場所請負廃止まで浜屋与三右衛門となっているようです。運上屋は元々アツタ(厚田川口)に有ったが不便なので天然の良港であったオショロコツ(押琴)に移転したと云う。オショロコツには多くの弁財船が停泊、運上屋や弁天社があり、江戸期から明治の頃迄は厚田の中心地だった。押琴の入江には当時の地図にある弁天のソリと中瀬と呼ばれた水中の張り出し(Gmap航空写真で確認出来る)の間にあったが今のオショロコツに人家は無く痕跡もない。運上屋の規模は現存する余市運上家と同程度というが、古潭に当時の繁栄を物語る弁財船投錨地の碑が「厚田村発祥の地」と並んである。 蝦夷日誌に「弁天社運上屋の上にあるなり」と記されていた元押琴弁天社の手水鉢、唐獅子は八幡神社に最設置され、龍沢寺に村山伝兵衛が寄進したという鰐口があり、アツタ運上屋からの文化遺産が残されている。松前武四郎の「西蝦夷日記」でオショロコツの項によれば、和人は1万人もいたとなっているがこの狭い湾内に1万人はどう見ても無理そうに見えるが、厚田全体で見るならオーバーな数字ではなさそうだ。約300年前から和人が往来し明治時代から昭和初期までニシン漁で栄え、最盛期の明治14(1881)年には人口は1万2000人を超えたというがニシン漁の衰退で過疎化が進んだようです。駅逓の開設は嘉永6年とされ、明治17年になって厚田に移転、昭和8年の廃止となっている。◇所在地:石狩市厚田区古潭52
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