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開拓使に引き継がれた運上屋(会所)はその殆どが海岸沿いにあったが、その絶対数からみると史跡指定は少なく遺稿も殆ど残されていない。また江戸期からの宿駅が継承された所も多いようですが詳細不明という事も多い。明治以降の駅逓碑は海岸では少なく内陸に入るほど多くなるという傾向は道南部を除けば共通した特徴です。宗谷地方に史跡として設置された駅逓碑は南宗谷に集中しているようですが、浜頓別町、中頓別町、猿払村に駅逓関連碑はなく豊富町には発祥の地碑があるのみ。また駅逓碑設置後に所在不明となってしまった碑も少なからずある。また漁場持ち廃止後の明治初期の駅逓は旧場所請負人関係者がほぼ独占する形になっているが、交通不便な辺地にての駅逓運営は彼ら抜きには困難だったということだろう。
宗谷は貞享2年に松前藩が宗谷場所を開設したという古くから知られた地域、松浦武四郎が弘化3年、安政3年と5年にチエトマイ通行屋(漁場請負人藤野家設置か?)に宿泊している。宗谷村は明治12年に戸長役場が設置されたが、その頃の東浦(杖苫内)は陸路の終着点で、その先は明治末期でも手つかずの状態で海浜を行くか船運を利用するしかなかった。明治9年に漁場持ち廃止でそれまで漁場持ちだった伊達林右衛門に手当を支給し宗谷、枝幸両郡の駅逓運営に当たらせた。明治11年の北見国駅逓御手当金増減調に枝幸、猿払、チカフトムシには手当支給するが抜海とチエトマナイ止宿所は無給とあり廃止年は不明だが、明治15年の宗谷駅逓取扱人は小田幸太朗に変わっている。杖苫内駅逓跡の碑文には明治15年に開設とあり、この頃に漁場持ちの駅逓付属止宿場が廃止され、村民が引き継いだのか新規開設となったと思われるも詳細不明、私設駅逓として継続され後に官設駅逓に昇格したというのが考えられるストリーだが・・宗谷拓殖要覧に明治26年開設、北海道宿駅制の研究では明治28年開駅とされている。そういう意味では猿払も同様といえる。
※稚内市には宗谷の外に稚内駅逓所、宗谷村字峯岡に時前駅逓所(峯岡は今は無人で通行止)、江戸期よりあった抜海駅逓所、夕来海岸の夕来駅逓所、内陸には更喜苫内駅逓所と上声問駅逓所が有ったが遺構や関連する碑などは確認できなかった。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治15年(記念碑) ◇再設置:明治28年2月13日 ◇廃駅年:大正7年3月31日 ◇取扱人:情報を確認出来ず ◇記念碑:東浦開基90周年記念碑 ◇建立年:昭和47年8月25日 ◇建立者:東浦開基90周年記念協賛会 𗧥所在地:稚内市宗谷村宇座東浦 東浦会館前 ◇Map:45.412606, 142.037534
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サロベツ原野から道道444号を日本海に向かい、道道106号(稚内天塩線)を稚内方面に右折、約200mの直進で「砂丘のえき」があり、その駐車場海側に以前は止宿所跡説明板があったが倒壊撤去され再建の話もない。稚咲内は稚内と天塩の中継地で、旅人の休息と給水の地として1840年代に止宿所が設けられ井戸も掘られたが、それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。明治以降も止宿場は継続されていた様で、幌延町史年表には明治3年官設宿泊所設置とあり「北海道宿駅制の研究」では明治32年に止宿所が官設稚咲内駅逓所に昇格したとされ、明治20年代初頭の北海道全図には稚咲内に駅逓マークがあったが、明治15年の駅逓取扱人名簿に稚咲内はなく当時の経営実態は不明な事は多いようです。実際に止宿所が有ったのは説明板が設置してあった砂丘の丘より2kmほど北上したツツミ川に架かる長沼橋(地元では富士見橋と呼んでいるらしい)より約200mほど北にある浅い窪地が稚咲内駅逓所跡と聞いたが、草地改良と水路改修などで痕跡はわからなくなってしまった。明治初期の駅逓は漁場持ちによって維持されていたのは宗谷と同じようです。
※豊富町には兜沼にあった上サロベツ駅逓所の他に陸測仮製図にも記されているエベコロベツ駅逓所、上福永で開設され昭和7年に有明に移転した有明駅逓、植民軌道の本流が駅逓敷地というだったという下エベコロベツ駅逓、今は使われていない旧目梨別保育所付近にあった目梨別駅逓所、現在の豊田地区となるアチャルベシベ駅逓などがあったが、駅逓と関連有るような痕跡や碑等は見られなかった。豊富町史では上サロベツ駅逓所に附いては詳しいが他の駅逓に関しては余り情報がなかった。
※駅逓基本情報
◇設置年:明治3年:官設宿所 ◇再設置:明治32年3月18日 ◇廃駅年:昭和4年6月30日 ◇取扱人:初代:和井輝慶 二代:稲田金太郎 三代:成田稲太郎 四代:成田米三 ◇記念碑:史跡説明板 倒壊撤去 ◇建立者:北海道豊富町 砂丘のえき ◇所在地:豊富町稚咲内
◇Map:45.087040, 141.63034
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猿払にはかつて駅逓が4ヶ所あったが関連碑はないようです。浜鬼志別には江戸期には小休所があり明治以降も道路開発の遅れた地域で鬼志別駅逓所があったが駅逓跡を示す遺構や痕跡はない。猿払河口右岸には江戸時代より止宿場が有り絵図では少し高い所に描かれているが、明治に入って伊達林右衛門が取り扱った駅逓以降に設置された官設駅逓(第二次猿払駅逓)が出来る前に数件の人馬継立(民営の駅逓?)所があったという。駅逓の有った場所は古い地図などから止宿場があった所と同じようにも思えるが、河口の位置が度々変わっているのではっきりしない。この駅逓は宗谷線(天北線)の全通で廃止になっている。他に上猿払駅逓があるも痕跡はなく大地は殆ど自然に戻っている。山軽駅逓は当時の測量図によると浜頓別と猿払の境界部分の猿払側海岸部で位置はほぼ確認できるが、碑や痕跡は皆無で一帯には原生花園が広がり一部は海岸の侵食で消えているようです。
明治28年開設という事になっている頓別駅逓所の開設時期に関しては諸説あるようですが、現在の頓別橋と頓別郵便局の中間付近に所在していたようですが碑も痕跡もありません。古い地図や植民区画図を見ると地形は様変わりしているが、明治初期の道は海岸線で仮定県道となった頃の道は内陸側の湿原際を通り、今もベニヤ原生花園(浜頓別)の遊歩道として残され浜頓別町史によると駅逓道路ともよばれたらしい。江戸期より引き継がれた駅逓としては斜内止宿所があったようですが、明治11年に取扱人もなく廃止されたもようで痕跡も碑もない。昭和8年の設置の似達内駅逓所は岩屋農場との関係が深いが道路改良などで昭和16年に廃止された。頓別原野駅逓所は内陸部に設置された駅逓で2代目と3代目取扱人は名前からみて女性と思われ当時としては珍しい。現地観察で手掛かりとなるような情報は殆どなく、旧天北線の駅跡はあるが駅逓の痕跡や関連碑はない。遅くまで残っていた駅逓も鉄道が全通した大正11年以後になってその役割を終えて徐々に消えていく。
旧枝幸町には7駅逓があったが海岸部に駅逓に関連する碑等はなく所在地跡がほぼ確定しているのは枝幸と乙忠部、音標の3ヶ所だけのようです。枝幸は明治3年に開拓使直轄となり開拓使事業報告によると枝幸と宗谷は「漁場持ち伊達某駅逓を扱う」とあり枝幸駅逓は伊達林右衛門の請負であったが明治8年に漁場持ちを返上、改めて枝幸・宗谷郡の駅逓取扱人、廻船取扱人として任用されているが、明治12年に当地を旅した酒井忠邦の記録に「枝幸駅ハ栖原右衛門出店ニ於テ止宿取扱」と有り、明治15年には宗谷駅逓取扱人が変更されてるので枝幸も同様とおもわれるが?、栖原右衛門出店跡が枝幸町役場となるようです。明治初期の人馬継立料金では枝幸と宗谷間が道内の駅逓では最高額でそれだけ当時の交通事情が良くなかった所でした。幕末には渡船場と小休所があったという徳志別駅逓所の所在跡地や姥苫内駅逓所は後に目梨泊に移転しているが所在跡地は詳細不詳、昭和になって開設されたケモマナイ駅逓所跡への道は途絶えている。乙忠部駅逓所(清水旅館)と音標駅逓所(石山旅館)は集落の中心部に有り廃駅後は旅館を営業していた。再設置の枝幸駅逓は町政要覧の昭和6年版、枝幸官内図では北浜側にあるが所在跡地の詳細は不詳。植民区画図や明治33年の北海道全図に駅逓マークのある礼文駅逓所は明治27年に建物が造られ、明治28年より乙忠部駅逓として営業したと思われ、駅逓名は違うが幌内駅逓までどちらも5里9丁で同じ駅逓と思わ移転の記録もない。?乙忠部駅逓は宗谷管内拓殖要覧では明治22年、駅逓協会報では明治36年の設置となっている。
チカフトムシ駅逓付属止宿所に関して明治11年の北見国駅逓御手当金増減調の手当支給にその名前が有るも明治21年には多くの駅逓が整理され、必要とされる駅逓は人馬継立所として設置されその中に枝幸も含まれる。チカフトムシ駅逓付属止宿所は明治15年頃に廃止されているかもしれないが、北海道植民状況報文に「オレタラプに礼文駅舎あり」とあるのは江戸期より継続していたチカプトムシ止宿場を誤認したか、それとも私設駅逓があったものか?、そのチカプトムシも今は今はバス停にその名をみるだけ。植民区画図にある礼文駅逓付近に青森県人の竹内徳助氏が明治28年ころ?に牧場を開設し枝幸で初めて牛を飼育したという酪農草分けの地。竹内徳助氏は雄武草分けの一人となった苫米地元次郎氏の実兄と思われる。旧歌登の駅逓所は個別に紹介する。 ◇G.Maps :G.Maps
町史では駅逓開設が大正10年となっているが、告知は大正11年で少しズレがある。最初の取扱人となっている長村秀氏は駅逓運営に関わること無く枝澤氏に譲渡、芦別から移住して実際に駅逓の業務に就いたのは大正10年という。大正11年からは枝澤国太郎が芦別新城の農場などを処分して駅逓の運営(取扱人名は変わらず)にあたったようです。歌登町営軌道の歌登・小頓別間が全通した昭和8年にその役目を終えて廃止されました。駅逓廃止後も旅館として営業していたが、昭和12年に火災で建物は焼失している。旧歌登町の駅逓跡には総て碑が建っているが、駅逓の正式名称ではなく通称(取扱人)名となっているのが特徴で写真の碑は総て通称名となっている。上幌別六線駅逓跡の碑は道道12号線沿いで歌登市街、民家前の歩道端にある。道路を挟んでイデオスのスタンドです。
※駅逓基本情報
◇通称名:枝澤駅逓所 ◇開駅年:大正11年1月18日 ◇告示年:昭和10年12月10日(廃駅) ◇取扱人:初代:長村秀 二代:枝沢武八郎
◇記念碑:史跡標柱(石柱) ◇建立年:昭和59年10月建立 ◇建立者:開基88年記念受彰者一同 ◇所在地:枝幸町歌登西町 ◇Map:44.842091, 142.474884
明治40年に枝幸から音威子府に通じる道路が開削されているが、その道路沿いで歌登市街から近い上幌別と咲来と上幌別の中間、本幌別に駅逓が設置されている。小頓別に鉄道駅が開駅して物流も人の往来も小頓別経由になって利用者は次第に減少したと思われ大正12年に廃止された。歌登最初の上幌別(渡辺)駅逓は歌登市街から一番近い駅逓で道道220号線沿い、旧幌別中央小学校前の道道がカーブする前で消火栓看板に並んで駅逓跡が有ったが、国道の切り替え工事で碑は移転している。本来の場所とは異なるが廃校となった旧幌別中央小学校体育館前のミニ花壇前に移転再設置され、地域の歴史を大切にしている様子が伝わってくるが、幌別中央小学校の校門も道路脇に保存されている。
※駅逓基本情報
◇通称名:渡辺駅逓所 ◇開設年:明治37年月25日(告知) ◇廃駅年:大正12年3月31日 ◇取扱人:渡辺 ◇記念碑:史跡標柱(石柱) ◇建立年:昭和59年10月建立 ◇建立者:開基88年記念受彰者一同 ◇所在地:枝幸町歌登中央 ◇Map:44.808751, 142.439355
歌登の駅逓では遅い開設で、碑文によると昭和4年から昭和15年までの間ここにあったようだ。駅逓所の碑は道道220号線が直角カーブを避けるように改良されたので、旧道側に入ると本幌別の集会所脇に有る。碑の文字が天野とも見えるが取扱人は矢野浅一なので矢野駅逓所跡で問題なさそう。矢野氏は兵庫県から明治42年に前年に本幌別に入植していた父親のもとに移住。父親は農業の傍ら商店を営んでいたという。駅逓は昭和3年12月に認可された駅逓でかなりの借金を作ったが(酒もあるが)駅逓の山林で立木を伐採して返済したという。昭和15年頃には駅逓利用者は少なくなった昭和16年に廃止され、普通旅館になったが本幌別では先行き不安という事で昭和17年に建物を歌登市街に移転して旅館業を続けていたが昭和54年頃より休業、矢野氏が亡くなって建物の所有者が変わったというが所在は不明。
※駅逓基本情報
◇通称名:矢野駅逓所 ◇開駅年:昭和4年5月3日(告知) ◇改称年:昭和7年8月20日 上幌別26線を本幌別に改称 ◇廃駅年:昭和16年10月31日 ◇取扱人:矢野浅一 ◇記念碑:史跡標柱(石柱) ◇建立年:昭和59年10月建立 ◇建立者:開基88年記念受彰者一同 ◊所在地:枝幸町歌登本幌別 ◊Map:44.765037, 142.376906
◇G.Maps
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こんな所にと思うような所で駅逓の碑を見かける事がある。それは峠の麓などなのだが道道220号線沿いの本幌別で見た大友駅逓跡の石碑もその1つで笹の中に埋もれていた。建物は平成初めまで残っていたようですが今は痕跡もない。大友駅逓所は開設年代と位置から見て上幌別と音威子府(咲来駅逓)との中継地だった事はわかる。「北海道宿駅(駅逓)制の研究」では明治37年の開設だが、碑文には明治41年から大正15年迄の間となっているので私設駅逓の期間も有る様です。小頓別に鉄道駅が開駅して物流も人の往来も小頓別経由になって利用者が少なくなったようで大正13年に廃止された。歌登町にある駅逓跡の碑には総て「昭和五十九年十月開基八十八年記念受彰者一同 建之」と記されている。最近は笹の侵入が激しく石碑の頭が辛うじて確認出来るだけです。
※駅逓基本情報
◇通称名:大友駅逓所 ◇開駅年:明治41年4月1日 ◇廃駅年:大正13年6月30日 ◇取扱人:大友金吉 ◇記念碑:史跡標柱(石柱) ◇建立年:昭和59年10月建立 ◇建立者:開基88年記念受彰者一同 ◇所在地:枝幸町歌登字本幌別 ◇Map:44.740953, 142.355355
旧歌登町は駅逓所の設置数は多く、設置された駅逓跡全てに記念碑があるのが際立っている。駅逓取扱人だった堀新蔵氏は秋田県天王子村出身で明治43年8月に志美宇丹原野に80戸分、400町歩の払い下げを受けて堀農場を開設したが、8戸分4町歩と牧場のみ認められたという。農場開設としては成功しなかったようだ。当時は真面な道は無く浜徳志別から徳志別川沿いに歩くか、ヒグマにおびえながら峠を越えて上幌別六線に出るという状態で食料や日用品の調達もままならなかったようです。昭和大正10年に上徳志別に駅逓を開設し取扱人となるが昭和2年に志美宇丹原野駅逓所と改称する。簡易軌道の上幌別六線 ~志美宇丹間(歌登町営軌道幌別線・廃止は昭和44年)が開通した昭和8年に志美宇丹市街地に移転し名称も志美宇丹原野駅逓所と改称している。町営軌道が開業してから駅逓廃止まで6年間も続いたのは、奥地の大曲地区(松田駅逓)や海岸にある乙忠部駅逓所との中継地になっていたからでしょう。碑は乙忠部から歌登に抜ける道道120号線沿いの志美宇丹郵便局横に碑が有ります。
※駅逓基本情報
◇通称名:堀駅逓所 ◇開駅年:大正10年12月28日 ◇改称年:昭和2年10月5日 上徳志別駅逓所を志美宇丹原野駅逓所と改称 ◇移転年:昭和8年4月14日 志美宇丹市街に移転 ◇改称年:昭和13年6月9日 志美宇丹駅逓所と改称 ◇廃駅年:昭和14年10月25日 ◇取扱人:堀 新蔵 ◇記念碑:史跡標柱(石柱) ◇建立年:昭和59年10月建立 ◇建立者:開基88年記念受彰者一同 ◇所在地:枝幸町歌登志美宇丹 ◇Map:44.768824, 142.577818
歌登最後で再奥の駅逓で碑は道道120号線の旧道沿いで加須美峠と旧道が大曲峠へ向かう分岐点にある。ここから牽牛橋で徳志別川を渡りパンケカヨナイ沢沿いに大曲峠を越えて風烈布川筋にでる旧道道120号線はまだ開通していないので仁宇布方面への物流ルートは考えられず、大曲地区の入植者と造材事業や丸太流送などに従事する人々にとって必要とされたと思われる。旧道は車では滑り落ちるような急坂で2つの峠を越える難路だったが天野川トンネルが完成してから、牽牛橋から先を天野川林道と名を換えているが廃道同然で通行止になっている。
※駅逓基本情報
◇通称名:松田駅逓所 ◇開駅年:昭和10年2月9日 ◇廃駅年:昭和20年7月30日 ◇取扱人:松田鹿蔵 ◇記念碑:史跡標柱(石柱) ◇建立年:昭和59年10月建立 ◇建立者:開基88年記念受彰者一同 ◇所在地:枝幸町歌登大曲 旧道沿い ◇Map:44.670610, 142.577857
中頓別町史では「新潟県人の菅井鉄之助氏が道内各地で板前修業をしたあと、大正2年に小頓別で菅井旅館を開設したが、旅館の傍ら道庁から官馬2頭を借り受け枝幸と小頓別に馬宿を設け毎日双方から馬車を1便ずつ出して旅行者の便をはかっていた」とあり。町史に駅逓に関する記載は見なかったが、官馬による馬車便といえば通称・駅逓馬車を連想するが、当時の小頓別には人馬継立業者は一件、旅館が4軒(菅井旅館を含めて)とあるが、旅人宿と人馬継立(馬車便)の両方を備えていたのは菅井鉄之助氏だけのようで、大正11年開設の小頓別駅逓は菅井旅館を駅逓舎(官設駅逓所であっても駅逓舎の官設は約5割程度)として設置されたと考えてよさそうです。鉄道開通で駅逓廃止となるのが普通だが、ここでは1914(大正3)年に国鉄駅が開業し、音威子府から枝幸への人の流れと物流ルートが小頓別から枝幸へと変り駅逓が設置されたと思われる。この沿線上に小頓別駅逓と同時に上幌別六線駅逓、翌年には枝幸駅逓(再設置)が設置され歌登町営軌道の歌登・小頓別間が全通した昭和8年に両駅逓が廃止、枝幸駅逓はその前年に廃止になっているが駅馬車を乗り継ぐシステムがあった事を暗示している。大正2年頃に開業した「菅井旅館」は「和館」と昭和3年に増築された3階建ての「洋館」からなり、当時は稚内にもないといわれたしゃれた和洋旅館ですが経営者が変わり「丹波屋旅館」と改称され継続、1989(平成元)年のJR天北線廃止に伴って旅館としての役割を終えた。建物は小頓別のシンボル的な存在でで和館・洋館ともに平成12年2月15日に国の登録有形文化財に指定された。そして宗谷に残る唯一の駅逓舎、旧官設小頓別駅逓所(建物は私設)であったかもしれない建物です。中頓別には外に平安駅逓も有ったが情報は殆どなく駅逓所在跡地は町政要覧図で概略は解るも現地では痕跡や関連碑等はみなかった。
※駅逓基本情報
◇開駅年:大正11年11月1日 ◇廃駅年:昭和8年7月31日 ◇取扱人:菅井鉄之助 ◇記念碑:旧丹波屋旅館(旧小頓別駅逓舎?) ◇所在地:中頓別町小頓別 ◇Map:44.828156, 142.299125
現在の浜里、国道106号線沿いでオトンルイの風車群と防雪シェルターの中間部で、廃業したソフトクリームの看板が有るドライブイン前に幌延町が開基100年事業として設置した駅逓跡の碑があり近くには風車公園と北緯45度のモニュメントか有るだけ。幌延には四ヶ所の駅逓所があったが海岸側の駅逓開設が早く、1887(明治20)年頃より天塩から稚咲内に通じる仮県道稚内線(浜道路)が開削され人馬の往来が増え天塩駅逓と稚咲内駅逓の中継駅として1899年(明治32)年にオトンルイ駅逓が設置されている。1907(明治40)年頃より、下田牧場、水口牧場、笹原牧場などの牧場経営が始まっているが、今はその痕跡を航空写真に留めているのみ、大正12年の仮性図には駅逓所と下田牧場の名が載っている。1911(明治44)年の戸数は3戸、1919(大正8)年でも5戸にすぎず、本格的に定住者の増加するのは昭和の終戦後になってからだった。
※駅逓基本情報
◇開駅年:明治32年3月 ◇廃駅年:昭和4年6月30日 ◇取扱人:初代:定平平太郎 二代:大庭金次 三代:佐木嘉七 四代:植村留助 ◇記念碑:幌延町史跡標柱 ◇建立年:平成10年6月建立 ◇建立者:北海道幌延町 ◇所在地:幌延町浜里 ◇Map:44.998090, 141.683907
下サロベツ駅逓は天塩郡幌延村字下サロベツに、山田権左衛門が取扱人となって1907(明治40)年4月に設置され、天塩駅逓から5里24町、ウブシ駅逓から2里23町、オノブナイ駅逓から4里18町、大曲駅逓から2里15町に位置していた。1909(明治42)年に発生した下沼の大火により駅逓舎が焼失し1912(明治45)に再建された。 下沼の開拓は1899(明治32)年頃より始まるが1900(明治33)年に現・福井県越前市大谷町出身の山田権左衛門が地主として入植し、100万坪(約330ha)とも言われている土地貸付を受け多数の小作人を移住させ1911(明治44)年の総戸数47戸になっていた。1926(大正15)年に天塩南線下沼駅が開業すると駅前付近に商店もできるが、下サロベツ駅逓はその役目を終えて廃止されている。山田権左衛門は数多くの公職を歴任し、下沼地区の開拓功労者ですが温内尋常小学校(後の下沼尋常小学校)の校舎移転改築の際、自己の土地1500坪を寄贈するなど教育にも熱心でした。国道40号線と道道972号線の交差点を浜里方向に約1kmほど進むと日東エフシー株式会社 天北工場があり正門の右横15m程で塀の際に下サロベツ駅逓所跡標柱があるが、イタドリが伸びると史跡標柱がイタドリに埋もれてしまうので、見るなら草の伸びる前に。下沼には下沼駅近くてかつては下沼郵便局で使用していたという「下沼の湧水」「サロベツの湧水」などと呼ばれていた無名の湧水があったが、駅逓管理人の名前を頂いて「湧水 サロベツ 権左衛門」と命名され、成分も天然ミネラル水として合格点とのことだ。
※駅逓基本情報
◇告示年:明治40年4月12日(開設) ◇廃駅年:大正15年3月10日 ◇取扱人:山田権左衛門 ◇記念碑:幌延町史跡標柱 ◇建立年:平成10年6月建立 ◇建立者:北海道幌延町 ◇所在地:幌延町字下沼225番地 ◇Map:45.021868, 141.758692
鉄道開通前は天塩川が物流の中心でかつて大曲に船着場が有ったという元町は幌延町の旧市街、駅逓の他に戸長役場も大曲に設置されたという。人と物資の流れが天塩川だった事で船着き場が町の入口になっていたのは開拓初期の大河流域では共通した特徴のようですが、鉄道が開通し中心街は幌延駅前付近に移動した。1911(明治44)年に入植した赤松小太郎が取扱人となって同年12月に開設された大曲駅逓所は、天塩駅逓から5里22町、オノブナイ駅逓から4里18町に位置し、下サロベツ駅逓から2里15町に位置し1926(大正15)年7月に歴史的な役目を終え廃止されている。大曲付近は本願寺農場が開設された頃より入植が本格化するようですが1911(明治44)年に来箕浦武一所有に代わり、駅逓敷地は箕浦氏より提供されたという。船着き場のあった旧市街地一帯は大曲と呼ばれていたが幌延町は開基100年事業として1998(平成10)年にオトンルイや問寒別とともに大曲駅逓所跡に史跡標柱を設置している。史跡標柱は道道121号線と道道256号線の交差点から国道40号線方向に約110mほど進んだ右手、セイコーマート横のアパート脇で元町バス停前にある。
※駅逓基本情報
◇開駅年:明治44年12月28日 ◇廃駅年:大正15年7月31日 ◇取扱人:赤松滝太郎 ◇記念碑:幌延町史跡標柱 ◇建立年:平成10年6月建立 ◇建立者:北海道幌延町 ◇所在地:幌延町元町27-3 大曲バス停横 ◇Map:45.011775, 141.846341
駅逓は大正2年にトイカンベツ8線65番地(殖民軌道・国越駅近くで後の八線付近)にて開設されるが、宗谷本線問寒別駅を起点として上問寒別16線(豊神付近)に至る約13.8kmの馬力線が敷設され昭和7年に上問寒別市街地(豊神)に移転再開している。トイカンベツ駅逓所跡の標柱を幌延町役場で見た標柱設置時の写真を目安に何度か探索するも見当たらず、設置後に道路変更があったようで設置場所が少し移動していたようで標柱設置時の写真と見比べると電柱や道路標識の位置が異なっている。幌延町開基百年事業として設置された史跡標柱はT時交差点近くにあるが夏場はイタドリに埋もれて見えない。この辺はトイカンベツ川の蛇行が激しかったようで軌道の走っていた築堤跡が見られる。
※駅逓基本情報
◇開駅年:大正2年12月10日 ◇移転年:昭和7年12月23日 上問寒別に移転 ◇廃駅年:昭和18年8月31日 ◇取扱人:初代:佐藤勝三 二代:有井喜代田 三代:有井達夫 ◇記念碑:幌延町史跡標柱 ◇建立年:平成10年6月建立 ◇建立者:北海道幌延町 ◇所在地:幌延町字中問寒別 ◇Map:44.980728, 142.075297
トイカンベツ8線より上問寒別市街地に移転し上問寒別駅逓と名称変更を変更、廃止時の住所は豊神となっているが場所が変わったと言うことではなさそうだ。碑のある場所は旧豊神小学校より少し先の14線入口の看板より右折して30mほど進んだ右側の切り通しの上にあるが夏の間は樹木の葉やイタドリに隠れて見えない。1940(昭和15)年の水害で運行休止になっていた軌道を日本白金クローム㈱が借り受け終点から20線を経て採鉱現場に至る路線を建設して鉱石輸送に使用。昭和16年9月に天塩鉱業㈱が全線を借り受けて、日本白金クロームの延長区間を買収して路盤の強化を行い昭和17年に動力化されガソリンカーが走り、20線から北海道大学演習林への路線もあって、駅逓は歴史的な役割は終え昭和18年に廃止された。豊神付近には植民軌道に使われた橋台が残り、軌道終点には史跡標柱がある。
※駅逓基本情報
◇開駅年:大正2年12月10日 ◇移転年:昭和7年12月23日 中問寒別より移転 ◇告示年:昭和18年8月18日 ◇取扱人:初代:佐藤勝三 二代:有井喜代田 三代:有井達夫 ◇記念碑:幌延町史跡標柱 ◇建立年:平成10年6月建立 ◇建立者:北海道幌延町 ◇所在地:幌延町字上問寒別 ◇Map:45.018346, 142.080910
天塩駅逓の開設は明治5年と有ったが実際は場所請負人が駅逓業務も請け負っていたので運上屋廃止後の駅逓業務は開拓使に引き継がれているのだが廃駅年は詳細不明、明治15年の駅逓取扱人一覧に天塩運上屋現地支配人だった菊地和三郎の名があるので廃止は明治15年以降、駅逓への官費援助が廃止された明治18年以降かもしれない。鉄道開通前は天塩川を利用した船運が物流の中心で天塩はその入口。駅逓取扱人が廻漕店を経営していたことは駅逓業務を遂行する上では有利な条件だったのでしょう。再設置は最終的な駅逓制度が確定し官費援助が再開される前年の明治32年となる。空白期間があり最初の駅逓と再設置後の駅逓の場所は異なっているかもしれない。※天塩にあった他の駅逓として産士駅逓と作返駅逓は隣接地で当時の交通の要衝でもあるが河川環境の変化で渡船場の変更が度々あり、駅逓もそれに合わせて移動する事もあったようだ。明治37年の北海道全図のウプシ駅逓マークは位置的には振老より、最初の駅逓はサクカイシ付近に有ったようで取扱人の名前から石沢駅逓とも呼ばれ渡船場も併設されていた。再設置されたウブシ駅逓は昭和20年まで続いていたが碑などは無い。雄信内には渡船場跡の碑があり駅逓の取扱人も同じで渡船場の近くに駅逓もあつたようですが碑はない。南雄信内の駅逓跡に関しては情報がありません。 ◇設置年:明治5年 ◇廃止年:詳細不明 ◇駅逓取扱人:菊地和三郎 松岡隆三 ◇再設置:明治32年06月 ◇廃止:大正13年06月 ◇初代取扱人・鈴木栄三郎 ◇所在地:天塩町海岸通2丁目23番地の1 ◇N44°52’54.6” E141°44’37.5”
御料地区の「恵比寿橋」近くで、道路脇の高い所(旧道の入り口?)に増毛町が設置した史跡標柱が有ります。説明文より「元来この山道は信砂越え(※雨竜越しの別名もある)と云われ自然発路である。石狩方面に出るにはどうしても通らなければならない道でもあった。又、この山道に下駅逓が建てられ当時の幹線道路としてにぎわいをみせていた。」とあり古くから増毛や留萌から石狩方面に抜けるいくつかのアイヌ古道があり、文化5年に信砂越えの開削が行われ、翌年に会津藩兵が山道を通って石狩川筋に出て帰藩したあと殆ど利用されず廃道化した。
仁奈良駅逓は殆どが囚人によって開削(※一部請負あり、完成は明治25年)された増毛道路の開通にあわせ明治24年に設置された三駅逓の一つで、他に尾白利加、恵岱別の駅逓がある。道道94号線増毛稲田線は増毛道路と重複区間は多いが仁奈良山道と呼ばれた部分にかんしての詳細は良く判らない、石油沢からという説もあるが明治後期の地図はほぼ道道94号線増毛稲田線と同じで信砂川の扇状地で標高の低い西仁奈良と東仁奈良(三角点)の中間を通っており、武四郎が越えた道とは少し違っているらしい。旧増毛道路の山道区間は廃道となり痕跡も殆どみられないが、仁奈良駅逓所が廃止された頃には既に廃道寸前だったらしい。
松浦武四郎が1856(安政3)年に敢行した信砂越えは津軽藩士と同じルートなら石油沢の二股を左側(※右はチバベリで留萌方面に出る)にはいり東仁奈良(三角点)から北側に延びる尾根を越えチャチャ沢沿いに信砂川筋に抜けた印象だが、松浦地図に石油沢と思われる位置にルルモッペルベシベ、ヌプシャルベシベなどがあり地名から石油沢が古の通路だったのが解る。江戸時代の記録には 仁奈良峠は出てこないと云うが、松浦武四郎はルチシ(峠の意味)と記している。空知地方史研究協議会編の「空知の歴史散歩」に仁奈良山道と増毛の間にガロー駅逓が有ったとあったが、現地ではガロー駅逓に関する情報は皆無、官設駅逓の一覧にもなく手掛かり無し。地名にはないが沢が狭くガレ場のような所をガローというが、仁奈良駅逓と舎熊との中間付近で沢の狭まった所に我路橋がある。◇設置年:明治24年06月 ◇廃止:明治36年02月 ◇所在地:増毛町御料 ◇N43°47’25,9” E141°40’52,8”
増毛山道は増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶ全長約26.8kmの山道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削した。工事費用は濃昼山道と合わせ現在の貨幣換算で2億円以上と商人が拠出する金額としては半端ではない。増毛山道は江戸時代に開削された山道では最も険しく唯一1000mを超える山道という。増毛町の岩老から海岸伝いに岬を越え、雄冬に達した経路が新増毛山道、岩老に降りず、別苅から山間を直行して浜益に至るのが旧増毛山道。昭和25年頃迄は建物が残っていたという武好駅逓は、新旧の増毛山道にあわせ設置場所を移動している。明治期の山道は郵便物をやり取りする重要路となり、山道途中の武好駅逓で雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達がここでお互いの郵便物を交換し、また戻っていくという業務が繰り返された。駅逓には管理人が置かれ(常駐していなかった期間もある)旅人の宿泊などにも利用された。増毛山道は交通網の発達に伴い廃道になって70年以上になるが「増毛山道の会」によって復元が進められ、新旧の武好駅逓跡も確定されたという。新武好駅逓跡は岩尾から約7.7kmの距離、新武好駅逓跡まではいけるらしいが登山装備が必要。増毛山道と武好駅逓所は大正8年の陸測図に載っている。 ◇設置:明治29年09月 ◇廃止:昭和16年06月 ◇所在地:増毛町別苅~石狩市幌
本願寺道路開通の1871(明治4)年~翌年にかけて開拓使は定山渓、簾舞、三樽別、厚別に通行屋を設置した。通行屋や駅逓は交通網の発達で次第にその役目を終え廃止されていくことになります。明治4年設置のサンタロベツ通行屋は小樽、銭函方面から来ると札幌の入口に位置し、旅人の休憩地になっていた所で、付近には餅屋や馬具店などがあったという。通行屋の家守は岩手県出身の吉田新兵衛という人で休憩所、宿泊所業務を取り扱っていた。廃止年はわかりませんが明治13年に手宮~札幌間の鉄道開通、翌年には軽川駐車場(手稲駅)ができ、中心地は軽川に移ることから、この頃に廃止されたものとおもわれる。通行屋跡の史跡表示板は二十四軒手稲通にかかる二条橋袂にある。明治2年に場所請負制廃止、明治3年の全道駅逓人馬供給仮制度創設後に開設したサンタロベツや簾舞を駅逓ではなく通行屋と呼称した理由は何だったのか?◇所在地:札幌市手稲区富丘2条5丁目2
松浦武四郎の戊午東西新道史に「(島松)川をこえて小休所二棟、是去年鎮台通行の時立たしとかや」とあり、安政4年に勇払六場所の請負人の山田文右衛門が休憩や宿泊のために設置した小休所でした。1873(明治6)年の札幌本道開通に伴い駅逓設置が決まり、初代の駅逓取扱人は漁場持ちの山田文右衛門でしたが、明治8年の漁場返上で元勇払場所総支配人の山口安五郎氏が2代目駅逓取扱人となる。明治10年より中山久蔵氏が請負人となり取扱人は鶉谷新治郎氏(北海道宿駅制の研究では2代目・松原岩吉、3代目・山口安五郎、4代目・鶉谷新次郎、5代目・中山久蔵氏)に変わっています。説明板がある後方に初期の島松駅逓の建物が広がっていたという。明治17年に中山久蔵氏が正式に駅逓取扱人となり、同位置に近接する中山邸が駅逓所となり現在地に変わったようです。明治10年にクラーク博士が島松で農業実習をし「青年よ大志を抱け」と有名な言葉を残し学生たちと決別したクラーク記念碑が旧島松駅逓舎横にあるが、北広島と恵庭を含む島松沢が舞台でした。◇所在地:恵庭市島松 ◇N42°92’28.85” E141°53’82.64”
梅村庄次郎氏は明治36年に岐阜から入植した移住民のリーダーで、明治41年に豊富町で最初の郵便取扱所を開設、翌年に上サロベツ(通称兜沼)駅逓所を開設しているが同年5月の大火発生で駅逓焼失、再建までは梅村氏の私宅が駅逓を兼ねたと思われるが廃駅は昭和3年となっている。最初は梅村庄次郎氏の自宅が郵便取扱所として利用されていたようですが大正7年には兜沼郵便局となり、昭和9年に2代目局長・梅村喜久三氏が現在の局舎を建て、3代目も梅村氏が局長を勤めます。昭和55年からは梅村家私設郷土館となり、平成3年に一部が町に寄贈され「兜沼資料室」として豊富町の資料室となっています。現在残っているのは昭和9年築の郵便局舎とで関東甲信越式木造「兜造り」という梅村氏の私宅で駅逓舎を2階建てにしたのではというほど駅逓に似ているが、旭川の養蚕民家と同じ形式のようで駅逓関連の遺構は残っていません。
旧兜沼郵便局横に豊富町発祥の碑があり梅村庄次郎氏の功績を讃えているが、郵便取扱所や上サロベツ駅逓所には触れていない。駅逓業務に逓送や郵便業務と書かれているのを時々見るが、駅逓業務に公用状の継立はあるが郵便(私書)の取扱は含まれず、明治5年に駅逓から郵便が分離され、郵便路線の確立した明治9年頃より公用状(公文書)継立も郵便取扱所(後に郵便局と改称)に移った。原則は郵便取扱所の業務なのだが交通未発達な地域で郵便取扱所間が遠距離の場合は郵便継立所を設置し郵便物を中継、逓送も郵便取扱所になると云うことですが、辺地での逓送業務を遂行出来るのは駅逓運営者くらいしかいなかった事から、駅逓運営者が郵便継立を請負う事はあっても制度上は別で駅逓所で郵便物の取扱をしたことはない。兜沼は郵便継立所では無く郵便取扱所となっている。蛇足ですが樺太、眞岡の郵便局で散った9人の乙女を題材にした日本テレビドラマ「霧の火」のロケ地。◇豊富郷土資料室「兜沼資料室」 ◇開間5月~10月 期間中の土・日曜日 ◇所在地:天塩郡豊富町上サロベツ3863
厚田駅逓所の開設は嘉永5年とされるが、明治2(1869)年に場所請負制度が廃止され明治2(1869)年から明治7(1874)年まで開拓使出張所が置かれ、運上屋は本陣になるも明治5年に本陣を廃し駅逓取扱所になり明治17年に厚田に移転している。古潭の教育に貢献をされたという佐藤辦蔵氏は、津軽温湯村に生まれ安政4(1855)年厚田に移住。厚田、古潭の寺子屋、教育所を創設、剣道場の開設などに貢献をされ村総代、郡総代、学務委員などを歴任。また通行取扱からその後に続く駅逓取扱人でもあった。明治9(1876)年当時に駅逓取扱人でもあった佐藤辦蔵氏が自費で教員を雇い、駅逓で児童への教育を始めたという。初期の駅逓は運上屋や運上屋付属の通行屋を駅逓として使用されることが多かったが、ここでは古潭小学校の始まりと云う事で古潭小学校創立90周年記念事業協賛会で昭和40(1965)年に顕彰碑を建立したようです。碑文にある寺小屋は具体的に云うと駅逓の事だったのでしょう。◇所在地:石狩市厚田区
明治元年当時に豊平川渡し守をしていた「志村鉄一」氏で札幌に初めて定住した和人と言われ、札幌開祖とも呼ばれている。安政4年に銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)の開削が始まると、豊平川の渡船場と通行屋(宿泊・休憩所)の渡守として、家族3人で豊平川沿いに住居を構えていたという。明治2年に通行屋の建物は解体・移設され開拓使仮本陣り代わり、通行屋と渡し守の役目を解任されるという、札幌開拓の功労者としては不孝な結末でした。豊平川右岸にある橋台小公園に「札幌開祖志村鉄一碑」と記された石碑が建立されています。この碑は現在地より約120m下流の住居跡にあったというが豊平橋架け替えで昭和42年に移転、通行屋として使われた住居跡碑は豊平川の土手車道際にある。箱館奉行など幕府役人や松浦武四郎がこの通行屋に宿泊している。◇所在地:豊平区豊平4条1丁目
吉田茂八は明治元年当時に豊平川左岸の渡し守をしており、札幌に初めて居住した和人であり、志村鉄一と吉田茂八の二人を札幌開祖と言う事になっているという。幕府の石狩役所が設置された際、主人の亀谷丑太郎と共に石狩へ移住した吉田茂八は、安政4(1857)年に豊平川に渡船場が出来た際に、石狩役所調役荒井金助より志村鉄一と同様に渡し守として任命されました。当時の居住者は吉田茂八家は4人、志村鉄一家は3人、札幌はこの2戸から始まりました。明治2年の豊平川右岸通行屋廃止後は吉田茂八が引き継ぐことになります。豊平端左岸側にある小さな公園に石碑が有るが、茂八が定住したのは南4条東4丁目辺りという。◇所在地:南5条東4丁目
1871年(明治5年)に開拓使本庁所在の北海道最大規模の駅逓所として木村某氏を初代取扱人として「札幌本陣」を開設、開設後は移転を繰り返し移転の都度、駅舎の改築が行われた。経営も不安定で取扱人も長く勤めた人はいないようで、1889(明治22)年に廃止。開拓使本陣は駅逓所になっていた他、御雇外国人の宿舎としても利用され「脇本陣」も駅逓所、通行屋として使われていた。住友生命札幌中央ビル前に銅板?をはめ込んだ碑がある。
説明板より転載 「宿舎の役目を持つ本陣は、明治5年に竣工し建築面積800㎡の木造平屋建ての当時としては最大の建物であった。8年からは主にお雇い外国人用として使われ土木工学技師ホイラーなども居住していたが12年に焼失した。クラーク博士は終始この本陣に居住し、ここから農学校の開校式に臨み又、建築間もない札幌の様々な施設などを視察している。明治10年4月16日、クラーク博士は本陣前で馬上の人となり札幌に別れを告げ帰国した。」◇所在地:札幌市中央区南2条東1丁目 創成川河畔 住友生命札幌中央ビル前
千歳川会所は明治2年11月の本陣から明治5年5月に駅逓取扱所(駅逓所)と変り駅逓から郵便業務が分離された。勇払場所請負人・山田文右衛門は請負で駅逓を勇払、白老、苫小牧、千歳、島松に設置、明治8年の漁場返上で石山専蔵が駅逓取扱人となるが、戸長就任で駅逓経営を離れるも再び取扱人となっている。駅逓廃止は明治22年以降、明治33年より前のようだ。郵便業務は明治5年に早くから千歳で旅館を経営していた新保鉄蔵が引き継いでおり、駅逓看板は千歳最初の郵便局(郵便取扱所)で有った事を示す千歳市有形文化財(個人所有-非公開)に指定されている。1806(明治39)年に再設置された官設千歳駅逓所の取扱人は新保福治でした。新保旅館創業者の新保鉄蔵は、宿泊者へのサービスと郵便業務のため馬を所有しており、繁忙期で駅逓所(旧千歳会所?)での手伝い、駅逓廃止後も駅逓と同様の仕事もしていたと云い駅逓開設の条件が整っていたのでしょう。前期、後期ともに千歳駅逓所や駅逓取扱人の碑はないが、関連碑としては明治初期の駅逓は千歳会所跡、千歳駅逓所跡は明治14年に明治天皇の北海道巡行時に新保旅館に宿泊したのを記念して昭和11年に建立された駐蹕之碑があるだけのようです。 ◇所在地:千歳市本町5 新保宅前 ◇N42°43’59.06” E141°38’57.89”
現存する旧駅逓に関しては旧運上家と旧駅逓所に掲載したので地域別の駅逓跡では簡単に触れるにとどめた。オロロンラインの遠別町、初山別村、羽幌町、苫前町、小平町、留萌市に関して。遠別町には4駅逓が有ったが痕跡や駅逓碑はないが遠別駅逓所は植民区画図に載っている。また大成地区開基60周年記念碑には明治45年入植者が刻まれその中に通称「野村駅逓」と呼ばれた上遠別駅逓取扱人であった野村喜登見氏の名前があった。初山別には風連別に江戸期から続いて駅逓があったが痕跡や碑はない。風連別廃止後に設置された聚参別駅逓跡碑が旧初山別郵便局前にあったが、郵便局の新築移転で更地にされ撤去された。羽幌町には羽幌駅逓所と羽幌御料駅逓所が有ったが所在跡地が確定していない。苫前町には市街地に苫前駅逓所、苫前町霧立に古丹別駅逓所が有った(植民区画図で大まかな場所は判明している)が所在跡地は確認出来ず。小平町には鬼鹿駅逓所、中森駅逓所、小平蘂原野駅逓所が有ったが駅逓碑は存在せず駅逓敷地跡は公園として活用されているという。留萌市は明治初期の駅逓関連跡は留萌川河口部にありそのほとんどが留萌港の中に消え、大町へ移転後の留萌駅逓跡に痕跡や碑はない。ポンルルモッペ駅逓所は旧峠下小学校付近に設置されたと云うが関連碑はない。江戸末期から明治初期の増毛山道復元で武好(ぶよし)駅逓跡が確認されているがこの駅逓は陸測図に載っている。史跡でも碑設置後の管理が不十分な場合は消えてしまう。
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