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オタルナイ運上屋の設置に関しては定かではないが享保年間と考えられ、元々はヲタスツにあったらしいと云うことだ。知行主は松前藩重臣の氏家氏、場所請負人はの恵比寿屋岡田家でしたが、慶応元(1865)年にオタルナイ場所が村並となり場所請負廃止となり、運上屋は本陣に変わっているが、引き続き駅逓を運営していたが慶応2(1866)年の火災により建物は消失、運上屋の本陣は1年程の期間で、移転再開と思うがその後については不詳。メルヘン交差点側に「史跡オタルナイ運上屋跡」の碑がある。小樽が山越内や長万部と同年に村並みになったのは場所請負人だった恵比寿屋が新政府(開拓使)に協力的でなかったからともささやかれていたようだ。北海道の名付け親、松浦武四郎は弘化3年、安政3年に1泊、安政4年には2泊し、その時の様子を書き残している。西蝦夷日誌(松浦武四郎著)では「上に弁天社・地蔵堂、階段敷級を上がる。ここより諸方を眺望する風景宜く、一眸に石狩までよく見ゆ」とあり蝦夷日誌(松浦武四郎著・西蝦夷編)ではヲタルナイという所は元々クッタルシという所でヲタルナイは石狩との境界になっている小川であると記した。◇所在地:小樽市堺町6
碑文より(句読点を付け足)「日本書記によって伝えられる、斉明朝5(西暦651)年 阿部引田臣比羅夫は大和朝廷の命を受け船師180艘を卒いて渡島に来り。時に問う兎の蝦夷胆鹿島兎穂名の二人進んで曰く、後方羊諦を以って政所と為すべし。焉胆鹿島等の語に随い遂に郡領を置いて帰るとあり、この後方羊蹄なる地の解明については長い間歴史家の課題であるが、明治大学法史学研究地方史研究室長・滝川政次郎博士、同理事・島田正郎博士の現地調査報告、並びに余市郷土研究会の研究調査の結果、後方羊蹄はシリパヨウチ即ちシリパ山のあるヨイチとなるとの結論を得た。依って政所を置いた地は余市と想定し北海道文化財保護協会理事・今善作氏の?出金により、ここに阿部引田臣比羅夫の記念像を建立する」具体的な物証はなにもないが、日本書紀によると西暦659年、肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(シリベシ)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとあり、阿倍比羅夫らが秋田の蝦夷を支配した後に北海道に渡り、シシリコに至り政所をおいたらしいとし、余市はそのシシリコであるとしている。松浦武四郎のファンや羊蹄山麓の人は後方羊蹄をシリベシと読むが、ここでは後方羊蹄をシシリコと読んだということか
阿部引田臣比羅夫之像には北海道人松浦武四郎と刻まれた歌碑も含まれているが碑文には説明もなく。比羅夫に進言したという問兎(トウヒ)の蝦夷では、武四郎の記録に「トウヒ」という地名(現・飛生)がある。松浦武四郎は比羅夫熱の火付け役だが、和歌の読みは蝦夷日誌などにも見当たらず判然としないが一応載せておく。「こ□□き松? ひまなくつとふ 餘市の濱 里乃名志るき を?くとも 忘れさる」「北海道人 松浦武四郎」北海道人という雅号を使用した碑は他で見た事なく貴重な碑なのかもしれない。稲荷神社跡に碑を建立したのは昭和30年?頃の様です。◇所在地:余市町港町 旧稲荷神社跡
余市には余市川を挟んで上ヨイチ、下ヨイチと二つの運上屋があったが、現存しているのは下ヨイチ運上屋で松前藩が80ヶ所ほど設けた運上屋の中で唯一現存するもの。運上屋は竹屋林長左衛門が1853(嘉永6)年に建てたもの。北海道の宿駅制研究の明治編に「運上屋で駅務を行う」とあり、明治2年から本陣、続いて旅籠屋並みに改められ駅逓として機能していた。竹屋林長左衛門は1811(文化8)年からヨイチ場所の請負人となり1812(文化9)年には場所共同請負人。アブタ、次いでアッケシ場所経営。ヨイチ場所請負は1869(明治2)年の場所請負制度廃止まで至る。普通は運上屋とするのが一般的だが運上家でも間違いではないようです。松浦武四郎は弘化3年、安政4年ヨイチ運上家に宿泊しているが「丁巳第2巻 曽宇津計日誌」(秋葉実解説)では「運上屋え入一宿の無心ぞ至しけり」と武四郎らしい・・・運上屋の様子は蝦夷日誌(西蝦夷)、西蝦夷日誌に記録を残している。◇所在地:余市町入船町10
国道5号線を仁木町側から倶知安方面に向かい稲穂トンネル手前で右側広場に入ると看板あり、駐車場の山寄りに新道の見分に訪れた松浦武四郎の歌碑があり、一段下に島義勇の碑がある。歌碑は松浦武四郎の訪地100年を記念し建立されたとも云い、三角おにぎりのような岩に。「岩ほ切 木を伐 草を 苅そけて みちたひらけし 山のかけとも」「松浦竹四郎源弘誌」と刻まれた石盤がはめ込まれ歌が刻まれている。台座の石盤にある「建立之誌」には「竹四郎(後に武四郎とも言う) は、安政4年(1857) 旧暦の5月10日、岩内領よりこの山の上の新道稲穂峠を越え、その出来栄えを感じて和歌を一首書き記した。いまここに往時を回顧し、これを記念してこの碑を建立した。なお松浦竹四郎源の弘誌は自筆の署名である。昭和63年5月14日 建立者 久保武夫 揮毫 海原斉観洋 石工 和田一成」と刻まれている。
説明板の内容を転載した「幕末の蝦夷地探検家で有り、北海道の名付け親でもあった松浦武四郎は、文政元年(1818年) 2月6日伊勢国一志村(現三重県三雲村小野江) の郷士松浦桂助の4男として生まれる。本名は弘、幼名は竹四郎が通り名になった。13歳から儒者平松楽斉の塾に学び、天保4年以来諸国を遊歴し、各地の名士を訪れ見聞を広め探検家としての力量をみがいた。弘化元年の春我が国の北辺が外寇の危機にあるとの風説を聞きエゾ地(北海道・樺太・千島) 探索の緊要性を感じ、弘化2年(1845年) 武四郎28歳、初めて蝦夷地に渡った。以来安政5年まで前後6回に亘ってエゾ地全域をくまなく探索して膨大なエゾ日誌類と詳細な地図を作成した。安政4年、箱館奉行よりエゾ地山川地理取調方の命を受け、同年5月14日その巡検の途次、岩内から余市に至る新開の余市越え山道を見聞しながら稲穂峠を越え、七曲り、然別、オサルナイを経て余市に向かったが、先ず新道の出来栄えを和歌に託し、次いで現在の仁木町にあたる地域の山野に着目して、その豊富な樹木や余市川の水利に恵まれた広い沃土、それに余市や小樽を控えた地理的好位置などを挙げ、早期に開墾の必要性を説いている。けだし仁木町にとっては松浦武四郎は、その開拓の黎明を告げた先覚者と云うべきである。明治3年、官を辞して野に下った武四郎は以後北海道関係の出版指導や開拓計画に参与したが明治21年2月10日永眠された。」これだけ長い碑文や説明文でアイヌ民族に一言も触れていない武四郎碑も珍しい。安政4年に余市から岩内へ開削された道は、古くはアイヌの人たちが岩内から余市への道として使われていた峠で天候が変わる事が多く、イナウ(木幣)を捧げ無事を祈ったので「稲穂峠」と呼ばれたというが、今はトンネルであっという間に過ぎてしまう。◇所在地:仁木町大江 稲穂トンネル入口手前右側広場上
新道の見分に訪れた松浦武四郎の歌碑とともにと滝名碑(まつらの滝)があるが、松浦武四郎の名前を附した滝名とおもわれる。確か武四郎の手紙か何かで松浦と書いて「まつら」としたのを見た記憶がある。九州の方では松浦を「まつら」と読むことはそれほど珍しいことではない。松浦武四郎は竹四郎、源の弘、多気志郎、多気志楼、北海道人など様々な名前をもちいているが松浦を「まつら」と称したこともあったのか?残念ながら御影石の滝名碑は傾いているが・・・◇所在地:仁木町大江 稲穂トンネル入口右側
行盡一山還一山 風寒日暮尚躋攀 隔渓忽聞豺狼吠 峰上蕭然月一彎渓雲蔵月暗前程 脚下亦聴怒水声 忽喜人携樺皮到 炬光千點照吾行と刻まれてます。誰か訳してください(^^; 佐賀藩士だった島 義勇は「北海道開拓の父」と呼ばれ、札幌の街を計画したことで知られる。開拓使判官として明治2年にとして赴任、札幌を本府と決め建設に着手するも、後の開拓長官と意見が対立、翌年には下野、後に士族の反乱ともいわれる「佐賀の役」(明治7年)で非業の死を遂げるている。松浦武四郎の良き理解者の1人でもあった。◇所在地:仁木町大江 稲穂トンネル入口右側
シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~1875(明治8)年迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。積丹は神威岬から北は女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊への陸路は岩田金蔵が開いたという。場所請負制度は明治2年に廃止されるも、廃止反対が強く「漁場持」と名を変え実質的には明治9年迄温存された。松浦武四郎は安政3年に当地を陸行し運上屋で宿泊、記録にはシャコタンは元々はクッタルシという所で、シャコタンは近くの川の名であるとも記している。◇所在地:積丹町日司町
フルウ場所の開設は詳細不明というが寛延3(1750)年頃の場所請負人に岡田家の名がある。近江の豪族、田付新助は宝暦2(1752)年から明治まで断続的に古宇の場所請負人となっており、屋号は福島屋で代々新助を通称、退隠して新右エ門と称したという。松浦武四郎の蝦夷日誌は福島屋新右衛門で産物はニシン・アワビ・ホッケ等などとあり、江戸時代よりニシン場で、古くから神恵内の中心地だった。松浦武四郎は弘化には海路で、安政3年は海岸沿いに陸行し運上屋で地形に詳しい案内人をえて積丹に抜けている。碑は開村百年を記念してフルウ運上屋の跡地に建立、国道229号線沿いで神恵内村役場横の一角にあり、その奥側に1594(文禄3)年創立という神恵内厳島神社があった。◇所在地:神恵内村
奇岩と磯釣りのメッカ神恵内で国道229号線沿いの神恵内商工観光センターの建物の前に松浦武四郎の歌碑がある。碑は全く読めないが松浦武四郎記念館で出している「図録」では「志はらくの 晴間も見えで 婦るふの海 里の名志るく 五月雨なり 松浦武四郎」とあるも、時事新書の蝦夷日誌(下) の西蝦夷日誌三篇 フルウ領では「しばらくの 晴間も見えで ふるふの海 里の名しるく 五月雨なり」と微妙に違っていて説明板もおなじ、眺望もそれなりに良く歌にあった場所だ。碑裏には「建立の誌 松浦竹四郎(後に武四郎ともいう) は、安政3(1856)年 に4回目のえぞ地調査を行い西蝦夷日誌をまとめた。この中に神恵内(当時はフルウと呼ばれた) の自然や風物を和歌に残しているので往時を回顧する記念としてこの碑を建立した。平成元年12月建立 神恵内村 神恵内村商工会」と刻まれています。積丹半島の神威岬と岩内町の中間に位置する神恵内はかって「フルウ」と呼ばれ「西蝦夷日誌」によると「海岸は断崖。山堅雪のときしか越えられず」の状態であったらしいが、安政3年頃にフルウ場所請負人によって岩内からの道が開削されている。フルウについて廻浦日誌では昔は川が大岩の穴の所に流れていて水が赤くなるからと記し、西蝦夷日誌では「運上屋の傍の大岩穴の下に流込水色赤く成て出る故號くともいえり」と、また「傍に大なる奇岩有り風景よろし」としるす。◇所在地:神恵内村ヘルカルイシ 神恵内村商工観光センター前
岩内場所に場所請負人がいたのは寛文5年(1665)迄溯る事が出来るらしいが、近江商人の恵比須屋弥三右衛門が場所を請負った寛延3(1751)年を岩内町の開基としている。本陣跡の碑の碑は岩内場所請負人制度を象徴する史跡で建造物は無ないが明治初期の駅逓を示す旧跡といえる。1869(明治2)年に場所請負制度廃止で会所(運上屋)は開拓使に引き継がれ、官営の事業となるに伴い会所(運上屋)は本陣に、運上屋と番屋、通行屋が同所にある場合、通行屋、番屋を脇本陣と呼称した。松浦武四郎は安政4年に岩内から真狩付近(真狩川支流)まで行き、そこから引き返し国富より稲穂峠を通り余市に抜けている。武四郎は後方羊蹄山日志で「運上屋でも、アイヌ達もそれぞれ何か私に隠し事をしているらしくて、どうしようもないきがする」とあり、運上屋もアイヌ達にもそれぞれに幕府役人には知られたくない事情があったようだ。松浦武四郎はソーツケ(現・倶知安町)へ入るのに難渋し、3度目の挑戦でやっと成功。その様子は「丁巳 曾宇津計日誌」に詳しいが、西蝦夷日誌や後方羊蹄日誌にも記されている。調査の出発地は岩内でアイヌの人たちが運上屋には秘密にしていたサーモンロードをたどったようです。蝦夷日誌(弘化3年)に「運上屋元は平坦にしてうしろに沼あり」「また運上屋の前に川ありイワナイ川という」とある。◇所在地:岩内町万代
岩内町郷土資料館の「山岸正巳画伯作 安政4年4月27日 松浦武四郎、アイヌの人たち スイカ、スケノカロ、和人、常吉、松前富次郎を伴い、磯谷から雷電難所を越えて岩内に立つ」の絵は当時の姿が迫ってくる圧倒的なスケールではあるが、展示場所が変更されており以前と比較すると若干見にくいのは残念。その他に岩内領ニベシナイ熊野社の額がある。本来であれば焼かれる運命の物だが、神社の統廃合で合祠を繰り返ししているうちに郷土館へ流れ着いたらしい。この額の表は堀部奉行、裏面は松浦武四郎の直筆で奉額の文言が記されている。かつての雷電越の山道は廃道になり場所を知る人は既に無く幻の熊野社だが、額だけが唯一残った歴史の証人となった。松浦武四郎一行絵も元々は敷島内の島野神社にあったのだというが、この神社も今はない。◇所在地:岩内町清住5−3
江戸末期には島古丹、歌棄、寿都の3カ所に運上屋があり、磯谷の中心地は島古丹で、江戸時代には旅籠が10軒以上あったという。島古丹の運上屋はのちに横澗(磯谷)に移転、移転先の横澗漁港に横に磯谷場所運上屋跡の碑が建立されている。維新後の場所請負制廃止で運上屋は廃止、駅逓業務は開拓使に引き継がれる。松浦武四郎は『西蝦夷日誌』に島古丹の繁栄ぶりを記しているが、磯谷についても「イソヤ運上屋 本名イシヤウヤにて岩磯岡也。此辺惣て暗礁多きが故に號く。地形後に山有。前ライデン岬に対して湾をなし、海中小嶋有。弁天社を立、船板を以て橋として、其眺望又奇也」と。
松浦武四郎は安政3年に訪れ運上屋に止宿、陸路で岩内にでた。この時は磯谷運上屋では案内人を出さなかったと言い、歌棄の運上屋よりやっと出してもらったらしい。当時は海路が主で道路開削は請負人負担になり、道路が出来ると継立業務に人手を取られるため敬遠された事もあるかもしれないが、磯谷からの雷電越えの陸路はなかったので元々継立に必要な人手がなかったのかもしれない。安政4年には黒松内新道が出来きその見聞に再度訪れているが、雷電は人がやっと通れる道のようで「去年に異なり道は出来たけれども、其難渋中々、馬足は両三年の間は立難ぞ覚えける」と丁巳志利辺津日誌に記した。現存するカクジュウ佐藤家の建物は運上屋本陣の跡に新築(佐藤家の口伝によると明治3年頃)されたというが、明治2年に運上屋本陣となり、明治6年に本陣を買上げ駅所とし、明治13年に潮路(ウショロ)に移転し潮路駅逓となるので、建築年は明治12年以降になると思われるが、口伝に従えばカクジュウ佐藤家は歌棄(有戸)の運上屋跡という事になる。◇所在地:寿都町字磯谷町横澗 横澗漁港
倶地安町にゆかりのある短歌を後世に伝えていこうと、白木厳氏(白木建設工業株式会社)が平成9年に設置した倶知安町内で6番目の歌碑。碑の右側は「武四郎 あやうしと しりべつ川の 白波を 命にかけて けふわたりけり」と和歌が記され、左側には「松浦武四郎がソーツケ(宗助川)探索のため、尻別川を渡ったのは安政4年(1857)5月10日(陽暦6月1日)であった。ソーツケ川はサケ、マスの豊庫として名が知られていた。岩内の乙名セベンケが棹をとり、松浦は丸木船に乗って渡った。松浦はのち「西蝦夷日誌」にこの時の印象を和歌にして残した。」「西蝦夷日誌」では「水勢吼ごとし。雪解水にて濁れり。其危うき事筆の及ぶ處にあらず」とまさに命を預けて渡ったという事になる。裏面に「父白木慶一は、昭和8年国鉄の軌道砂利納入業者として事業を始めた。幾多の辛酸を重ね、多くの人たちの協力をえて、現在の会社の礎を築いた。この地は当時砂利採集を行った尻別川のあった所なので、松浦武四郎が初めて渡った日に思いをはせ、この碑を建立した。平成9年6月1日 白木建設工業株式会社 代表取締役 白木巌 以下7名氏名省略 白木建設社員一同 協力者 武内一男 脇山 忠 文 武井静夫 書 中野帰山」と建立のいきさつが記されている。素材はは南アフリカ産のラステン石で菊池石材店。碑は後方羊蹄山を背景にして白木建設の庭に立っており高さ 1.6m 横 2.3mです。◇所在地:倶知安町南3条東7丁目4-1 白木建設工業株式会社 前庭
名水で知られるふきだし公園近くの京極温泉前に建物と向かい合うようにして大きな松浦武四郎歌碑がある。碑の左側は「松浦武四郎歌碑」右側に「天津風 胡沙吹き拂へ しりべしの 千代ふる雪に 照る月陰見む 北海道知事 町村金吾書」とあり、歌碑の裏には「安政5年2月 松浦武四郎が氷雪の中を虻田から札幌へ踏査する途中、後志羊蹄山を仰いでこの碑の一首を詠じた。雄大、豪放、その格調の高さに於いて、稀に見る名歌である。松浦武四郎弘は伊勢國一志郡須川村の人。文政元年2月6日生、16歳の時、国内周遊を志、あまねく足跡を印したが、當時、蝦夷地の重大さを知り、前後6回に亘って縦横に踏査し、その結果を詳細に日誌及び地図として天下に紹介し、その開拓方策を要路へ献じ、明治となるや、最高の蝦夷地通として新政府に用いられ、国郡の選定にあたった。北海道の名及び国郡名は実に武四郎の原案によったもので、北海道民としては忘れることのできない先駆者である。武四郎は又、国士、学者、画家、文人、宗教家として當代一流の人物であった。深く羊蹄を愛し、前後3回に亘って後志川の全貌を明らかにしたばかりか、この山を中心に道を四方に開き、神を祀って蝦夷地空きたく精神の中心をこゝに於こうと努力した。終生僻地開拓のことを忘れず、その熱意は明治21年三月10日71歳をもって東京の自邸に没するまでつゞいた。後従五位を贈られ、北海道開拓神社に合祀されたのも所以なしとしない。昭和39年9月 撰文 北海道大学教授 農学博士 高倉新一郎」と流れるような文面ですが、松浦武四郎と行動を共にしていたアイヌの人たちに一言も触れていないのは「旧土人保護法」を絶賛したという方だけに当然なのかもしれない。◇所在地:京極町川西68 京極温泉敷地内
松浦武四郎は三度に渡って尻別川の探索をしているが、安政4年の5月6日に現地のサケノカロ、スイト、五右衛門、甚四郎に先導され二艘の丸木船で尻別川を遡り現在の名駒橋下流付近に上陸し宿営、翌日は石淵付近まで遡るが雪解けの激流とテッシに阻まれ引き返している。標柱は上陸地ではなく誰の目にも触れる場所ということで名駒生活改善センター横に設置したと云うが、標柱は経年劣化で消失し更新もなく標柱跡の窪みが残っているだけ。元々はメナと呼ばれた地域で蘭越でも早くに開けた所で、駅逓や戸長役場もあったがその跡に蘭越発祥の碑がある。写真は現在の場所の写真に碑が建っていた頃の写真(蘭越町郷土研究誌・追録より)を合成したものです。◇所在地:蘭越町名駒町210番地
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