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かつては羅臼観光のシンボルでもあったヒカリゴケで有名なマッカウスの洞窟の入り口脇に松浦武四郎歌碑があったがトンネル化され現在は通行止め、徒歩でなら行けそう・・但し自己責任で!! 碑には「松浦武四郎の宿の地 仮寝する 窟におふる 石小菅 葦菖蒲と みてこそハねめ 安政五年五月四日武四郎 開基七十周年記念 昭和四十五年九月建立 羅臼町 戸川幸夫書」と刻まれていたが今は文字の判読が難しい。平成7年に「松浦武四郎について」という説明板が設置されており転載した。「文政元年(1818年) 伊勢国(現在の三重県) 川南須川村に生まれた松浦武四郎は若い頃から日本全国を歩き回り、後に北海道や樺太に渡り、安政2年(1855年) 以降は幕府から蝦夷山川地理取調を命ぜられ、当時の北海道(蝦夷地) の状況を書いた本を多数著している。文久三年の著書「知床日誌」には5月5日にマッカウスの洞窟で野宿したところ、洞窟の壁に岩管やハマナス等の草花が咲いていたので石碑の詩を書き残した」としている。また夜中に熊が出てきて捨てた魚骨をバリバリ食べるので心細い思いをしたとも記されている。なお、明治2年(1869) 9月に命名された「北海道」という地名は彼が探検中に使っていた「北海道人」という雅号から用いられたもので、武四郎が名付け親である。平成7年1月 羅臼町教育委員会」知床日誌にはマッカウスで宿泊とあるが実際はチトライ番屋に宿泊した様です。◇所在地:羅臼町字共栄・マッカウス洞窟横
標津町望ヶ丘森林公園内に桑田立斎の石碑が有ります。桑田立斎の名は松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌 参編 巻の上」にある「窮民トミアンテ」登場する。近世蝦夷人物誌は無理としても現代語訳された「アイヌ人物誌」が簡単に手に入る。「窮民トミアンテ」には「昨巳の年公より種痘の医師を遣はされしかば・・・彼六太郎を連れてシツカリといへる所まで医師桑田氏を迎出て、第一番に其術を乞ふて申ける・・・此トミアンテのすゝめに依て先々の場所も一統何事もなく其術を受け、又桑田氏から着せるものを脱て与へられし其志に感じ、いとも有難き事と・・・其術を受けしぞ理りなりけるなり」とある。蝦夷地へ和人が入るとともに天然痘で亡くなるアイヌの人が激増。そこで幕府は桑田立斎に蝦夷地での種痘を命じ、そのとき大きな力を発揮したのが松浦武四郎と親交の深かった通辞の加賀伝蔵、別海町ではなく標津町に桑田立斎の石碑があるのはやや意外である。◇標津町・望ヶ丘森林公園内& ◇標高 15m
江戸時代末期に別海町野付半島などで活躍した加賀家の一族が残した「加賀家文書」と呼ばれる古文書資料約1100点が寄託されています。加賀家文書の原本やレプリカの展示のほか、野付通行屋のジオラマコーナーなどを設置。松浦武四郎が近世蝦夷人物誌で描いた加賀伝蔵がこの地で果たした役割と業績が良く分かる資料館です。松浦武四郎のコーナーもあり武四郎から直接贈呈されたという知床日誌なども展示してあります。武四郎のファンは是非立ち寄ることをお勧めします。マンモスの臼歯化石や別海の大自然に棲む動物たちの剥製を展示した自然コーナーの有る郷土資料館はとなり。◇別海町別海常盤町
碑文の一節から引用「野付半島は元禄年間に開設されたキイタップ(霧多布)場所に含まれ松前藩政下の天明年間には子モロ(根室)場所のニシン漁場の1つとして開けた。1799(寛政11)年に駅家が置かれ国後島への渡海の拠点となる。松浦武四郎の「知床日誌」によれば藤野喜兵衛の漁場支配人加賀屋伝蔵が1858(安政3)年にはヲンネニクル(元オンネニクリ)に雑穀、野菜類27種類を植種、本町「農業発祥の地」でもある--中略--日本の固有の領土たる国後島は、ここから、わずか16Kmの位置にある--以下省略--」道内各地の記念碑では松浦武四郎の紀行録が引用される事が多いがこの碑もそのひとつです。ここで問題なのは固有の領土という表現、松浦武四郎はアイヌ民族が住んでいるから日本の領土と云ったが、明治政府は蝦夷地と北蝦夷地を無主地として天領にした以上、新政府は明治2(1869)年7月に北蝦夷地と蝦夷地を「無主地(実際にはアイヌ人の土地)」とし、天領とし内国植民地として再開発にのり出したのであって、蝦夷地を日本固有の領土と主張する根拠を自ら捨去ったに等しい。まして六代も遡れば和人の定住が殆ど無い地を固有の領土という厚かましさ、かつて先住の民であったアイヌ民族の末裔が言うなら理解できるが・・・千島樺太交換条約の経緯から日本領土として返還を求める事に異論は無いが、固有の領土と云える程の歴史も無ければ根拠もない。碑は「トドワラ」の遊歩道入り口に有る。
◇別海町野付 野付ネイチャーセンター横
幕府は1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄地とし場所請負制を廃止、運上屋を引き取り会所と改め、幕府の行政機構として幕史が常駐、駅逓機能を強化し交通上の要衝や中継点には通行屋を配置した。野付通行屋もそのひとつで国後島への渡海と標津、目梨への海陸交通の要衝であり、ロシアの南下政策に備え武士も常駐していたとされる。1798年に択捉島に渡った近藤重蔵も帰路に野付宿泊というので、1798年以前から宿泊施設はあったようだ。通行屋は天保4年に新規建直しがあり、その後2度ほど増改築されているという。弘化2年に当地を訪れた松浦武四郎の蝦夷日誌では「ノッケ止宿所・・番屋有。此処は只止宿所二なる計にして漁猟は無也。弁天社有。又傍二蔵々有り。夷人小屋弐三軒有。此処南向。子モロと対して椴木立原にして住の江にもまされり」その頃の風景は今とは違い椴の生い茂っていたようで、武四郎はここに一日滞留しその風景を楽しんだとあった。安政3年の廻浦日誌には「魚番屋又出稼ぎのもの多し」と、また安政5年の東部志辺都誌では番屋守・加賀屋伝蔵や当地の畑作について触れている。加賀屋伝蔵とはその後も厚誼が続いていたようで、本人に直接贈呈された知床日誌が別海町の加賀屋文書館に展示されていた。松浦武四郎は国後にも渡っているがその時はモユルリ島経由で野付からではない。また野付半島先端部外海側のアラハマワンドには50~60棟の鰊番屋・蔵などが立ち並んでいた時期もあったようで敷石が残り「荒浜岬遺跡」と呼ばれている。また昭和30年代後半に砂嘴先端部で所在が確認された幻の町キラク、土塁や井戸の跡、墓石など約1万点の遺物が確認されているそうだ。◇別海町野付 野付半島先端部付近
標茶郷土資料館は旧釧路集治監だったが戦後は標茶農業高校の庁舎として使用され高校新設時に解体され標茶発祥の地に復元された施設で標茶町の文化財となっている。この中に松浦武四郎の釧路川奥地探査行当時をパネルで表示。中でも久摺日誌にある塘路での出来事を描いた「夜中酒宴」の図が拡大展示してあるのが目を引く。武四郎の書いた塘路と、紀行文を紹介して当時の塘路がよくわかる展示となっています。また郷土館隣に復元された塘路駅逓が有ります。◇現住所:川上郡標茶町字塘路
北方四島の領土問題に関する話題の提供と世論の喚起、北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)に居住するロシア連邦国民との交流を図る北海道立施設です。一般展示室の他に文化ルーム、展望室、北方資料室があるが、1番の見所は展示室で北方四島の生活やビザなし交流の様子なども紹介されている。幕末の探検家の資料や展示も揃っているが、中でも松浦武四郎のコーナーが充実しています。◇根室市穂香 ◇標高 26m
さてこの碑を知っているのはよほどの武四郎ファンか岬マニアと釣師くらいでしょう。霧多布岬(湯沸岬)展望台から灯台まて遊歩道があり、灯台を越えて更に降った断崖上に歌碑が建っている。“かねてよりあらきしほ路きりたふの島根にたかくよする志らなみ”個人的には松浦武四郎の歌碑がここほど似合う所はないと思っているが、岬を訪れる人は多い割にはこの歌碑まで行く方は少ないようです。岬にはキャンプ場と温泉があり近くにはアゼチの岬がある。元禄14年にキイタップ、後の霧多布場所が開かれるが、根室に会所(運上屋)が出来るまでは霧多布が集積所となっていた。榊町は幕末の頃はアシリコタンと呼ばれていた所(松浦武四郎の蝦夷日誌ではヲタノシケであり、後の納沙布日誌や戊午日誌にアシリコタンがでてくる)で遅くなってから開けたようです。松前藩や知行主は殆ど場所に関しては干渉しなかったので、請負人は専制的な支配権を行使しアイヌ人に有無を言わせず集め、過酷な労働条件で酷使をした略奪的な植民地経営方式であり、良心的な現地支配人であってもその制約は大きい。そんな中にあって松浦武四郎が現地で聞いた支配人に関する話。「“惣て山田屋(厚岸場所請負人・山田文右衛門)の番人(支配人)に、此処の親方の如く土人を憐れみ呉れる者なし。恐らくは此者我等を如ゝ面倒見て呉れられゝば、やがてしくじるべし”と云しも、実に理りならずや」と記している。場所請負人や現地支配人(番人)に対してとかく厳しい批判をしていた松浦武四郎が評価した数少ない現地支配人だったが、山田文右衛門の場所請負を引き継いだ最後の漁場持、榊富右衛門は違っていたようで、日高地方のアイヌ人を強制的に移住させているが、過酷な労働と疫病などにより壊滅状態に陥ったようで明治2年に和人の漁民を募集しアシリコタンに定住させたのが榊町のはじまりという◇浜中町湯沸岬 先端部
厚岸神社は最上徳内が幕府に上書して道東の中心地である国泰寺境内に神明社を創立したのが始まり。これはアイヌ教化(同化政策)と北辺鎮護の為で、寛政10年に近藤重蔵が社殿を改修、その後に亀甲神社等と呼称された事もあったが明治8年に厚岸の総鎮寺とし厚岸神社と改称し現在に至る。厚岸の歴史と重なるのは最上徳内や近藤重蔵であり松浦武四郎の影は薄い。国泰寺の横を登った神明宮跡の説明板に松浦武四郎が安政五年に参拝し“はるかなるこの此島かげにいかにして鷲の山風ふきかよいけん”と詠んだと記してあるが、納沙布日誌ではバラサンの展望地に登り詠んだ歌。◇厚岸町湾月町1丁目&
アッケシ場所の開設は1604(慶長9)年頃らしいが、場所請負人は飛騨屋が最初のようです。飛騨屋は1774(安永3)年、松前藩への貸金回収の代わりに20年契約で厚岸、室蘭、霧多布、国後の4場所請負い貸金回収のため無理をしアイヌ酷使へとつながったとされ、これが寛政のクナシ・メナシの戦いの原因として罷免される。ロシアの南下政策を警戒した幕府は、1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄地とし場所請負制を廃止、運上屋を引取り会所と改め(西蝦夷地は文化4年より直轄地となるが場所請負はそのまま)られる。東蝦夷地の場所請負制を廃止した幕府だが、経済的な理由から文化7年に場所請負制を部分的に再開、文化10年から場所請負制度を再開。幕府は1821(文政4)年に蝦夷地を松前藩に戻すが、復領後も東蝦夷地では会所と呼ばれたが西蝦夷地では運上屋と変わらず。再び緊張が高まった1855(安政2)年に渡島半島の一部を除いて幕府の直轄地とし諸藩に地域を割り当て警備を担当させた。飛騨屋罷免後は村山伝兵衛、幕府直営後は米屋藤兵衛、竹屋長七の請負、1830(天保元)年から明治2年の場所請負制が廃止されるまで山田文右衛門であった。場所請負制下で場所請負人は徹底した植民地経営方式で専制的な支配権を行使、アイヌの人達に有無を言わせず集めて過酷な労働条件で使役した。松浦武四郎は「廻浦日記」で「日夜の差別なく苛責し、寒飢のために身を苦しましむる故に、春夏に移るときには是皆病を生じて死す」と記している。場所請負商人は厚岸のアイヌ人口が減ると沙流地方や勇払地方からアイヌを連れてきて漁業労働に従事させた。弘化2年の蝦夷日誌には「運上屋、止宿所有り」とあり安政3年は3泊、安政5年は2泊というだけあって厚岸の記録は細かい。◇厚岸町湾月町・厚岸水産高校角地
安政4年4月松浦武四郎により八幡大神を、真龍に1祠を建て奉安したのがその始まりと伝わる。その後祠跡の修復や社殿の建立などを経て昭和16年現在地に移転。ただ松浦武四郎の日誌類からは安政4年に厚岸を訪れた記録は見あたらなかったが、納沙布日誌現代語訳をされた丸山道子氏がその前書きで、同年に極秘で根室の方に行った様であると書いてあった。内陸踏査の前に行ったのなら季節は一致する。◇厚岸町字宮園町146番
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