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松浦武四郎の碑を巡る
道南・檜山と渡島地方の武四郎碑や説明板など‼
太田山神社太田山観音霊場 瀬棚町MAP
太田山観音霊場入り口に観光協会設置の太田神社の由来、菅江真澄の歌碑と太田神社の注意書きがある太田山神社(太田大権現)の由来を書いた説明板より「太田神社の由来 日本海を直下に、屏風の如く聳え立つ太田山頂上近くの洞窟が神を祭る本殿。松浦武四郎は本殿まで辿る道のりを猿がよじのぼり、蟹が歩むが如く・・・三百余間・・・その険しさを描写、その様子は今も昔も変わらず太田神社の開基は、享徳3年(454) 松前の祖武田信広、霊験あらたかなこのお山に太田大権現の称号を贈った事に始まる。蝦夷地最古の山岳霊場太田山は神仏混淆のお山、全国から修験者、信者等の参拝者絶ゆることなし。寛文年間(1661~1666) 円空上人、洞窟にこもり仏像を刻む。およそ百年後、寛政元年(1789) 民俗学者菅江真澄太田山に上る。その歳、情景細やかに記録し、絵も残す。絵の中に本殿前に円空仏数体描きとめる。・・中略・・大祭は毎年6月27日宵宮、28日本祭が厳粛に執行される。瀬棚町・大成観光協会」とあります。松浦武四郎の「西蝦夷日誌」を引用して険しさを説明しているが、そのまま書くと「ヲンカミノボリ(上り口)、トリイを立、擧ゝ首巌崖谺然欲゠飛墜-、左右翠塀横立、其中一峰屹々・・・・是より猿攀蟹歩凡三百余間、樹皮岩角釣ゝ衣冒髪、草鞋濯濺ゝ血、辛うじて岩壁の下に到に、一條の鉄鎖懸る。攀る事十余尋、洞口に到る」となる。また太田山の神については「笛・太鼓・三味線等を好み玉ふ由にて、ここを通る如鳴物を持行ば、必ず風変りて此所に吹附ると。其時は其鳴物を宝前に納め。順風を乞ふに霊験著しきと。又奥地へ持行んと欲せば、二品を持来りて、一つをここに納め、一つを持行に、必ず海上にて過有事なしと。依て宝前に種々の鳴物を積上たり」と書いた。またその険しさ故に太田神社の注意書には参拝に行かれる場合には何があっても一切責任は持たないと明記。今の参道は139段の石段に続き狭い道幅の峻険な登山道をロープを頼りに登り、最後に垂直に近い壁を越えて本殿となるが、自信のない方は麓の少し離れた所にある拝殿のほうで。◇所在地:瀬棚町大成区太田
松浦武四郎歌碑太田神社拝殿 瀬棚町MAP
太田山観音霊場は無理でも太田神社拝殿なら誰でも立ち寄りが可能だ。ここには菅江真澄と円空の歌碑があるが、松浦武四郎が太田山観音霊場へ参詣した際の歌もある。碑には「太田山 太きくさりの 一筋に 頼まざらめや 君の恵みを 松浦武四郎 西蝦夷日誌詩より」左側に小さな説明碑があり「松浦武四郎 文政元年~明治21年(1818年-1888年) 世界的な北方探検家・開拓判官。また北海道の命名者、伊勢国出身。旧暦4月に太田に滞在し「西蝦夷日誌」著書の中に、右の歌をのこしています。」とある。隣接して「太田山神社年表」板があり「弘化2年(1845年) 松浦武四郎一行巡視する・安政3年(1856年) 松浦武四郎一行再び巡視する」と記している。西蝦夷日誌の太田領によると太田神社に参拝した時に1人の僧に出会い「1人の僧有、備前の産にて宗健と云よし。三四年住て頗土地の事に委敷故、新道の事を談ずる」とある。真言宗の修験僧であった「宗健」は3~4年程住職を務めていたが、小樽内の張碓村へ移りアイヌの青年から温泉の事を教えられ、後に定山渓温泉の開祖となった美泉定山(1805年~1877年)の事でした。定山渓という地名は定山に由来するが、世に定山渓温泉を知らしめた最初の書は松浦武四郎の「後方羊蹄日誌」でした。◇所在地:瀬棚町大成区太田
奇岩雲石と熊石番所跡八雲町MAP
熊石市街で熊石漁港の西側、岸壁の際で雲のような形をした奇岩雲石の上に鳥居と1615年建立という「八雲神社」が建っている。「今から約480年前、この地方を支配していたアイヌの酋長タナケシが蜂起し日本海岸を攻め下ってきた、松前藩主の義広は部下のに命じてこれを討たせたが敗走してしまう。追い詰められた松前軍はかろうじてこの岩陰に身を隠した。この時黒雲が岩の間から湧きあがり、地鳴りと共に辺りが真っ暗になった。アイヌの軍勢はこの奇怪な現象に恐れをなして逃げ去り、松前軍は九死に一生を得た」という伝説がある。享禄2(1529)年、瀬田内の族長タナケシが蜂起した際、松前藩主の蠣崎義廣は部下の工藤祐兼を大将に攻撃したが戦死、その弟工藤祐到は敗走して熊石に逃れ一命を全うした。フィクションとノンフィクションが混合した口碑であるが当時は和人が徐々に勢力を拡大していたころで、熊石付近が和人地の北限だったようです。その奇岩雲石から遠くない国道229号線から熊石第1中学校への通学路登り坂の右側付近にかつて熊石番所が有ったと云うも史跡標柱等はない。松前藩成立当時は松前地と蝦夷地は区別され、元禄期の東蝦夷は亀田に、西蝦夷は熊石に番所(関所)がもうけられ、熊石は西側の和人地では最北であり西蝦夷地への入り口だった。松浦武四郎は「其熊石も本命はクマウシにして、魚棚多との訛りなりし也。村人は夷言たることを忘れて、雲石とて雲のごとき石有故號といへり」としたが、雲石は町名として残った。ここでは「ふみわくる 岩根そばだち けだものの 住かもしるき 熊石の里」と奇岩雲石を歌に残してている。武四郎は安政3年に熊石の名主宅に止宿している。◇所在地:八雲町熊石雲石町
にしん街道八雲町MAP
説明板より転載します。『ここ八雲町熊石は、「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町のひとつです。道南の町のなかでも漁獲量が多く「にしんの万石場所」と言われいました。1845年4月、漁の最盛期に熊石を訪れた探険家「松浦武四郎」が、漁家が連立し、船の帆柱やにしんを干す竿が立ち並び、沖と岸を行き交う船の人たちのはやし声が村中に響くという活況は「真の宇宙の壮観なり」と西蝦夷日誌に記載しています。・・以下省略』松浦武四郎は安政3年に熊石を訪れ『余は(安政3年4月11日)陸行す。扨其熊石村たる哉、漁檐櫛比、帆竿排立、棹歌互答、漁業の壯なること眞に宇宙之壮観也』と熊石の活況ぶりを西蝦夷日誌に記し、武四郎廻浦日誌には「人家三百弐十六軒、人口千六百七十二人」とあり、現在の熊石を遙かに凌ぐ繁栄ぶりが想像できる。ニシン街道碑は平成19年に八雲町ライオンズクラブが設置。
◇所在地:八雲町熊石鮎川町50番1 国道229号線沿い
百印百詩顕彰碑江差町MAP
碑の全面に「百印百詩」左側に石板がはめられていて武四郎の赤い刻印の篆刻と百印百詩の第一首が刻されている。「清晨(篆刻)」左側2行に「山青斬月薄(山陵は青く月影は残っている)灯白古邦寒(常夜灯は白く古い港町は寒々している)橋霜人未過(橋の上の新雪はまだ誰も踏んでいない)満耳水珊々(聞えるのは澄んだ水の流れだけ)」とあり、裏面には題字揮毫 齋藤鴎洲後商 齋藤裕志氏 平成12年10月 町政施行百周記念 江差町の歴史を紀行し友好を進める会 会長 本田義一」隣接して百印百詩碑の由来を記した石板があり、その碑文より「1846年(弘化3)10月14日、齋藤鴎洲ゆかりの雲石楼に多くの雅人が集い詩会がひらかれた。頼三樹三郎が詩を詠み、松浦武四郎が詩題を印石に篆刻し「百印百詩」を1日で完成させた。その文芸史上画期的な偉業を顕彰し、この碑を建立したものである。洋洞書」ここでは篆刻家、松浦武四郎の面目躍如という舞台だったようですが、篆刻で身を立てていた武四郎の姿を示す道内では唯一の碑にもなっているようです。五言絶句で詠まれた詩碑は他ではあまり見ない。百印百詩は江差町の歴史を紀行し友好を進める会が平成12年に刊行した『百印百詩を読む』で百印百詩の全貌を手軽に知ることができるようだが絶版で手に入らなかった頼三樹三郎は東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親しくなった。のち京都に戻り尊皇攘夷運動に加わり、運動が昂揚するなか危険人物と見なされ、安政の大獄で捕らえられ橋本左内や飯泉喜内らとともに処刑された。尊皇攘夷の志士たちと交友のあった武四郎は蝦夷地に渡っていて運良く難を逃れたということかもしれない。◇所在地:江差町字本町 町道馬坂線 法華寺江差保健所交差点脇
賴三樹三郎碑
百印百詩の碑と同時に建立された碑。三樹三郎が江差に滞在したのは弘化3年10月から翌年8月(22歳から23歳)まで。25歳で帰京した後に政治活動に入り、やがて安政の大獄で35歳で亡くなる。弘化4(1847)年5月に「江差八勝」を詠む雅会が開かれ、頼三樹、釋日岱、西川雍、本多覃、簗瀬存愛、原元圭、高野慊、齊藤鴎洲らによる八詩は、頼三樹の揮毫によって齊藤鴎洲に贈られ姥神神社に献納されたという。三樹三郎の揮毫した真筆の江差八勝の額は、姥神大神宮の社務所に掲額されてある。江差にはもう一基、頼三樹の文学碑があり、この碑は8人の詩業を顕彰し江差の栄華を後世に伝えるため建立された。頼三樹三郎は東北地方から蝦夷地へと遊歴し松浦武四郎と親しくなった。のち京都に戻り尊皇攘夷運動に加わり、運動が昂揚するなか危険人物と見なされ、安政の大獄で捕らえられ、橋本左内や飯泉喜内らとともに処刑されている。揮毫 題字 宮下正司 碑文識 齊藤裕志(齊藤鴎洲後裔) 建設年:平成15年9月13日除幕 建立者:江差町の歴史を紀行し友好を進める会 会長 本田 義一 建立場所:北海道檜山郡江差町字中歌町112(旧檜山爾志郡役所前) ◇Gmap:41.866072, 140.125207
松浦武四郎踏査の地今金町
今金町花石の「元気の森公園」に松浦武四郎踏査の地と記された標柱と高札がある。松浦武四郎は4年の秋8月14日に国縫アイヌのトサンル、シイトン、メチヤシ、サンバの4人を案内人に同行者一名が陸路と丸木船の二組に分かれて出立。丸木船が遡行出来なくなると陸行で稲穂峠(美利河峠)を越え美利河に出て南下しリウコタン(クロイワ)の丸子屋に宿泊、翌日はここから丸木船で北檜山(利別川河口付近)まで下り8月17日には引き返し8月18日には住吉付近より上陸、北岸を陸行し尾根越でジンゴベの沢に下り花石に抜け、後利別川を渡り上流域を見聞した後に南下して前述の丸子屋に宿泊。翌日には国縫に戻っている。かつては珍古辺と呼ばれていた花石は、武四郎が往復ともに陸行くした区間で、砂金で栄えていた頃から、運上屋に同族の人々が浜に下げられ難渋する老アイヌの苦悩を記している。◇所在地:今金町花石 ◇Gmap:42.437901, 140.161729
山越内関所・会所跡史跡標柱MAP
江戸末期にこの地方には鷲の木、長万部に会所(通行屋)があり山越内には関所があった。関所は元々亀田にあったのを享和元年に山越内に移転し設置たもので日本最北の関所でした。かつては蝦夷地だった山越内に関所が移転された背景には箱館六箇所場所と呼ばれた地域に多くの和人が住むようになり、警備上でも重要な地となって享和元年に野田生以南まで村並となり、和人地と蝦夷地の境が野田生と遊楽部場所の境に改められそれに伴って移転したものです。時代が進み安政年間に入ると関所は蝦夷地開拓の障害とり文久元(1861)年に廃止されている。山越内会所は安永2(1773)年開設で山越内関所より一世紀近く早いが、元治元(1864)年に山越内場所も村並となり伊達林右エ門が山越内場所請負を返納、会所は村民に引き渡され、旧幕府の命で人馬継立等を取扱っていた。維新後の明治5年に会所を駅馬と改称、人馬継立を行うが官費支給は明治6年まで、以後は村営の駅逓となるが財政基盤が貧弱で人員配置はなかったようで廃止年の詳細は不詳。松浦武四郎が蝦夷地を探検した頃は関所があり山越内、西海岸では熊石の関所を通過しなければ蝦夷地には入れないので旅人は熊石か山越内を必ず通ることになります。武四郎は弘化2年と安政3年から安政5年にかけて山越内で宿泊している。会所の井戸解説板に関所跡の絵図を参考に推測復元したと書かれているので、会所の井戸跡から会所跡を推測しても正確さには欠けるが周辺一帯に関所と付属施設があった。関門跡より200m程のJR山越駅は関所をイメージした駅舎で観光スポットになっている。◇所在地:八雲町山越 JR山越駅付近 ◇Gmap:42°13'48.9"N 140°19'46.2"E
松浦武四郎説明板由追稲荷神社 八雲町MAP
国道5号線沿い(海側)で漁港近くにある赤い鳥居が目印、平成22年に創建200年記念に奉納された大きな石碑、正一位由追(ユヲイ)稲荷神社の陰に稲荷神社と松浦武四郎と題した説明板があるが以前とは位置が変わり少し見えにくい。説明板より「由追地区は享和元(1801)年山越内に関問が設けられた頃から住民が増え始めた所です。嘉永元(1846)年頃には、漁場に働きに来る人や往来する人で春夏秋は大いににぎわい、番屋、宿屋、茶屋、仕立屋、私塾などが建ち並び、山越内とともに東蝦夷地屈指の繁華な所として栄えました。この稲荷神社は文化2(1805)年頃に建立されたものと考えられています。幕末の探検家で、地理学者で有り北海道の名付けの親でもある松浦武四郎は数度にわたり蝦夷地を探検し、安政5(1858)年にも、東蝦夷地探検の命を受けて1月25日箱館から第6回の探検に旅立ちました。1月25日この社に詣で、余はいつもこの社に捧げものをし道中の安全を祈って通っているといって、"天地の 神も知りませ 国の為 千島の奥に 思ひ入る身を"と詠じています。八雲町教育委員会」武四郎は稲荷神社を参拝してから、そのお宅で一時の休息を得て出発したと伝えられているという。元々は諏訪神社のあった場所で文化2年の創設というが、後年に現在地に移転したらしいも移転年は不詳。◇所在地:八雲町山越131
箱館六ヶ場所 オサツベ開拓の地函館市MAP
東海岸道の宿駅で隣接する箱館六箇場所臼尻の碑は旧ウスジリ会所跡に近くに碑が建立されていたので、オサツベ会所も同じように近接地あったと思われる。和人地の会所は蝦夷地の運上屋と同じように公設の宿泊所であったが、蝦夷地とは違い村役人が運営するのが普通でした。松浦武四郎の蝦夷日誌に「飯田助五右衛門二宿す。此家二代程会所を相勤」とあり、弘化2年8月22日にオサツベ会所に宿泊したと思われる。元々の箱館六箇場所は小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追のようですが、幕府は享和元年に六ヵ場所の村落を「村並」としたが分村などで村数は増え、安政5(1858)年に分村した掛澗、森、尾白内を加え、正式な「村」と認可されるまで箱館六ヶ場所の呼称は継続していたという。◊所在地:函館市尾札部町
雷公神社の杉(上雷神社) 知内町MAP
雷公神社は寛元2(1244)年に建立された上賀茂社と下賀茂社の2社が、長禄2(1458)年頃合併して現在の上雷神社の場所に再建されたと言われているが、大正4(1944)年に元町に遷宮するまで上雷にあった。神社として創建された社として北海道最古というが、宗教施設として見るなら函館船魂神社(観音堂)が1135年起源と北海道最古となるようです。境内の杉は樹齢は330年前後でいつ誰によって植えられたかは不明という。碑文の一部『幕末の探検家であり、北海道の名付け親である松浦武四郎も弘化2(1845)年この地を訪れ、朱塗りの鳥居が建ち、巡検使が立ち寄るところと「蝦夷日誌」に記している』杉の木の他に、赤い鳥居と綺麗な拝殿がある。◊所在地:知内町字上雷6
大野会所跡北斗市
説明板より「1805(文化2)年、大野は幕府の手により諸国から集められた農民500人によって庚申塚(本郷)に90町歩(90ha)、文月に50町歩(50ha)が開田された。それには箱館奉行の山田鯉兵衛、村上次郎右衛門、石坂武兵衛、代島章平らの役人が当たった。広い敷地内に開田の役所である会所を置いた。それが後に大野小学校の敷地になったのである。周辺には多くの杉がそびえていたが、その大木の切り株の一つがこれである。文化財指定になっている。「大野村絵図」には元御本陣跡と記され、会所の建物のあった所が示されている。以下省略 平成6年10月 大野町教育委員会」とあり、松浦武四郎の渡島日誌では『人家132軒、文化度97軒、小商人5,6軒、はたごや有』『本郷村人家28軒、当時(安政3年)36軒、是大野村の本郷地と云えり』と、竹四郎廻浦日誌では『当所に会所あり。通行人皆此処にて止宿す』とあり当時は一村一駅(宿駅・継立)が基本であったが、村民の少ない所では三ヶ村で補い合った形で宿駅(江戸期の駅逓で村営・人馬の供出は半ば義務化されていた)業務を担っていた。大野は道南の主要街道が交差する場所で宿駅の規模も大きかったようで、武四郎は安政3年から安政5年の旅で止宿している。会所(本陣)の廃止は明治5年頃のようです。◇所在地:北斗市本町2丁目 ◇Gmap:41.886077, 140.640939
旧相馬哲平邸函館伝統的建造物 函館市MAP
元町公園のすぐ傍、港を見下ろす展望の良い場所に黒の板塀に重厚な和風の外観が印象的な旧相馬邸がある。かつては函館の中心地だったようで、真下に旧イギリス領事館が建っていることに驚く。創立者の相馬哲平は1861年に越後の国から渡道して事業を始め、よほど商才に恵まれていたのかた成功をおさめ、函館一の豪商として知られる。また数々の公共建築に多額の寄付を行うなど篤志家としても知られる。函館大火の翌年に相馬哲平(1833~1921)の邸宅として立てられた和洋折衷の建物で函館市の歴史的建造物です。展示室もありオーナーが長年かけて集めた蠣崎波響の「アイヌの酋長」の絵、松浦武四郎「丁巳」原本「東西蝦夷山川地理取調日誌」より第23巻、武四郎著の「久摺日誌」、絵師小玉貞良による270年前の江差の町を描いた「江差屏風」、小玉貞良のイヨマンテから「蝦夷絵巻」、西郷隆盛、勝海舟、榎本武揚等の筆による掛け軸など貴重な相馬コレクションの一部が展示(常設展示ではない)されている。旧相馬邸・館長 東出伸司。◇所在地:函館市元町33-2
箱館奉行所跡(亀田番所跡)元町公園 函館市MAP
中世の函館山北東麓の高台上には道南十二館のひとつ宇須岸館(別名・箱館)があり、遠くから見ると箱に似ていた所から「箱館」と呼ばれ函館の地名由来となった所。松前藩時代には亀田番所があり、江戸時代後期の幕府直轄領時の安政2年に江戸幕府が北辺防備の拠点として箱館奉行所を設置、元治元(1864)年に五稜郭内に移転している。その後は旧北海道庁函館支庁庁舎が置かれていたように政治の中心地で、元町公園には旧開拓使函館支庁書籍庫と旧北海道庁函館支庁庁舎があり旧庁舎は観光案内所、2階は函館市写真歴史館になっている。松浦武四郎が蝦夷地探索の本拠地とした箱館奉行所は碑の処で、渡島日誌 巻の一 東部に「役所三千二百六坪」とかなりの大きさだったようだ。また「五稜郭を営造に相成候よしにて、当時建築最中なり」と記している。◇所在地:函館市元町12-18
探索で徒労に帰した運上屋&会所跡
瀬棚町史で史跡表示板設置のリストに入っていたヲモナイ(利別川河口付近)に有ったという運上屋、明治初期は瀬足内に本陣(運上屋・駅逓)があったという運上屋や駅逓跡は、予定のまま時が過ぎ史跡表示板設置の可能性は殆どなさそうな印象。以前に古銭で話題となった太櫓運上屋跡の場所は判明しているようだがそれを示す造作物はない。久遠運上屋は本陣川という地名に面影を残すも当時の遺構や碑は確認出来ず、太田も同様。島牧の永豊に有ったという運上屋や駅逓もその痕跡は確認出来なかった。胆振では登別市の史跡として旧登別市のWebサイトで紹介されていた幌別会所跡碑は道路が変わり既に失われたよう。見落としの可能性はあるかもしれないがこれ以上は専門家の領域と考えて終了としました。
松浦武四郎碑を巡る
松浦武四郎碑MAP
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