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さ屈斜路湖畔で超有名な露天風呂(コタン温泉)がある屈斜路古丹のすぐ近く、屈斜路コタンアイヌ民俗資料館の敷地内に松浦武四郎の歌碑が建立されています。☆松浦武四郎は安政5年4月10日、和人ではじめて屈斜路湖にはいる。久摺日誌(丸山道子現代語訳)には「クッチャロについた。ここがこの湖の落ち口である。人家が二軒有って、それから川を東岸に越えるとまた七軒の人家が有った。この辺りの家々は、“湖水に枕して家居す”の言葉通りに、風景がまことに素晴らしい」と記す。翌日は船を雇て湖中見物、東岸を廻っている。その時に詠った一首“汐ならぬ 久寿里の湖に舟うけて 身も若がへる こゝちこそすれ”左側に「安政五年五月 松浦武四郎ここに来たる」と小さく刻まれている。碑の裏面に「古丹の人々と共に建立す 平成15年8月吉日 寄贈者 磯 里明」とあり此の地方では新しい碑となります。◇弟子屈町字屈斜路古丹
昔からアイヌの人々が暮らしていた屈斜路湖畔のコタンに建つ前衛的な外観の建物。かつて松浦武四郎が安政5年に此地に訪れた時にはここで七軒のアイヌが暮らしていた。展示物はユーカラの森、コタンの大地、コタンの移り変り、山野を駆ける、コタンを支える人々の5つのテーマからなり、マルチスコープの上映もあります。また松浦武四郎の紹介と日誌や地図を目立つ所に展示しています。◇弟子屈町屈斜路古丹 TEL:0154-84-2128
説明板パネルに「久摺日誌」の屈斜路湖と日誌を引用して当時のことを紹介している。パネルより「赤茶けた地肌を見せている湖岸には多数の硫気口があり、温泉も噴き出しています。1858(安政5) 年3月。この地を探検した松浦武四郎は、「火杭(ボッケイ) が黒煙を吹き出し、響きは遠くからも聞こえる。日暮れにはその火が湖面に映って昼のように明るい」と久摺日誌で驚嘆しています。このような自然の驚異を感じる土地を国立公園に指定しようとする動きは、1870年にアメリカのイエローストーンにおいて間けつ泉が発見された探検からです。武四郎もおなじような感動を覚えたことでしょう。」とありました。この自然の驚異はまた噴火することもあるかもしれないという危険もはらんでいると云うことです。和琴半島の溶岩ドームはオヤコツ溶岩円頂丘と呼ばれ、北端のオヤコツ地獄には噴気孔群あり今も火山活動が続いていて、自然観察路途中の展望台がら見下ろす事が出来る。◇弟子屈町字屈斜路和琴 和琴半島
野湯マニアには結構有名な池の湯右奥の松屋旅館敷地内に松浦武四郎の歌碑あるも草が伸びると見えない。松浦武四郎が屈斜路湖を訪れた翌日の4月11日に小舟で東岸を見て回っている。丸山道子・現代語訳「久摺日誌」より『湖の東側の温泉(セセカ) についた。これは岸に巾20間ほどの池になっており、底は岩盤で、その間から温泉が噴き出していた。~中略~ちょうど水乞鳥が一羽そこに来ていたので「あの鳥の名は・・」とたずねると、ここでも「ヲユユケ(あかしようびん)」と言うそうでよく見かける鳥だそうである。』とあり、この水鳥を見て詠んだ歌がが刻まれている。「寿里乃湖 岸のいで湯や あつからん 水乞鳥の 水こふて鳴く 桂山書」と刻まれ、右側に小さく「派水乞鳥立 註和名赤ショウビン 夷名オユユケ」左側には安政五年四月十一日 竹四郎」とあった。碑の建立は裏面に「釧路北三國有志代表 紀元二千六百一年記念 世話人 佐々木米太郎」とあり昭和16(1941)年に建立された碑のようです。世話人の佐々木米太郎氏は釧路市会議長を努めるなど釧路政財界の実力者だったようで、松浦町生みの親でもあるが、阿寒や弟子屈池の湯の碑などの延長線上にあるのが釧路にある阿寒国立公園の父として顕彰した松浦武四郎蝦夷地探検像なのかも。最近は整備が行き届いてるとは言いがたいが、読めない歌碑は苦痛なだけで説明板は欲しいものだ。池の湯の広い温泉は夏は適温だが、冬は温度が低すぎて入浴は無理◇弟子屈町池の湯 ◇標高 122m
春木南華の碑(七言絶句)は摩周湖第一展望台の左高台(外輪山中)に有るのだが、2010年の再訪時は残念ながら地震で碑文が刻まれた正面を下に歌碑が倒壊、土台部分が破壊されただけなのだが碑文は見えないのは残念。物が物だけに重機でないと修復は難しいとの事だったが、国立公園内で重機の持ち込みは出来ないらしい。春木南華は武四郎のスケッチを元に最後の清書をした絵師で、1818年生まれというので武四郎とは同年代の方です。その流れから武四郎の記録は読んでいた事は極めて自然あり「松浦武四郎著の久摺日誌を読んでの碑」というのも頷ける。写真は石碑の倒壊している所から摩周湖を撮影したものです。
“讀多気志樓主人久摺日誌 南華稿”
“七里澄湖擁絳巒 摩周山時勢龍蟠 洞熊欲吼斜陽際 讀到那邊膽気寒”
◇弟子屈町 摩周湖第一展望台左上 ◇標高 555m
武四郎一行は安政5年4月6日に清里町清泉から清里峠を越え、ケネカ川源流から摩周の外輪山に登り反時計回りに外輪山をほぼ一周。ヨロウシと呼ばれた所から摩周湖畔に下りホロと呼ばれた大洞窟に一泊、翌日は西別岳を通り西別川上流のコトンナイに抜けた。久摺日誌で湖畔に下る様子を「左の方湖辺を指して下る(凡八丁)。是神岳の東の方なり。ヨロウシと云るなり。此処神岳の山根高数千仞掌を立し如く、木幣を作り立て拝す。小の磯は岸皆赭石の礁たるなり。依て其水辺浅き所は血を流せしが如し(三丁)。行てホロとて大岩窟の高さ一丈に巾弐丈も有、入る事五六間にて又内広く二ッに分れ其奥に幽邃にして知り難し。是を雌雄の神と云」と記している。赤い岩壁で衣服などが擦れると赤く染ったという洞窟は、アイヌ達の猟小屋として利用されていたが地震で崩壊し埋まってしまった。クスリ日誌の挿画と写真を見比べてみると今でも降れそうな雰囲気だが立ち入り厳禁区域。◇弟子屈町 摩周湖湖岸
ビジターセンターからボッケに向かって遊歩道を進むと坂を少し下った右側に松浦武四郎漢詩碑があり、釧路らしく啄木の歌碑も有る散策コースになっている。説明板には「松浦武四郎 江戸時代末期北海道中に足跡を残した探検家です。安政5年(1858年) に阿寒湖畔を訪れており、著書の「久摺日誌」のなかで阿寒の豊かな自然について記しています。」とあるだけで漢詩の説明は無く手元に「久摺日誌」でも無ければお手上げかも。“水面風収夕照間 小舟撐棹沿崖還 忽落銀峯千仭影 是吾昨日所攀山 安政戊午三月廾八日即作 松浦竹四郎源弘□ 桂山書”とあるようですが、丸山道子・現代語訳「久摺日誌」に漢詩の解説がある。武四郎の漢詩碑は他には知らないが、岩見沢市北村で碑文に七言絶句が刻まれた碑をみている。碑は釧路北三國有志代表 世話人 佐々木米太郎により昭和16(1941)年に建立されたが説明板でも無ければ読めそうにない。ここでは釧路らしく啄木の歌碑も有る散策コースになっている。◇釧路市阿寒町 阿寒湖畔ボッケ遊歩道
阿寒湖温泉から弟子屈、釧路方面に少し走り、阿寒湖から流れ出る阿寒川にかかる滝見橋の近く、雄阿寒岳登山口に松浦武四郎の歌碑がある。☆碑には「いつまでも ながめは尽きじ あかぬ山 妹背の中に 落る瀧津瀬 安政五年三月廾八日 □□ 松浦武四郎詠 桂山書」と刻まれています。久摺日誌には“3月28日 快晴 アカン滝を見に行こうと考えていると、首長のエコレがもう湖畔で小舟にさおさして私を待っていた。・・中略・・滝は那智の滝に似ていて、華厳の滝の何倍も有りそうである”と記されているが、今となってはどこの滝かもはっきりしない。阿寒湖の滝口は水門で水路が変わり当時の滝はみらないが、滝見橋の滝とは比較できないほど大きな滝のようで、この滝だったのかもしれない。建立年と建立者は阿寒湖畔の碑と同じで、この日も手元に「久摺日誌」でも無ければとても読めない、説明板がほしいと思うのは僕だけではないだろう。◇釧路市阿寒町滝見橋付近 雄阿寒岳登山口
松浦武四郎の像は小平町、天塩町、釧路市の三箇所に有るが幣舞公園のが一番古い。台座正面にある銅板の碑文に「松浦武四郎蝦夷地探検像」に続けて「北海道及び釧路の名付け親、松浦武四郎は幕末に未開の蝦夷地探検の急務を説き一身を賭して苦難と闘いアイヌ民族の協力を得て東西蝦夷地山川地理取調等蝦夷地開拓計画の基礎資料を作成し為政者に供して諸種の献策を行いその促進をはかる。安政5年(1858年) 阿寒国立公園地帯を探査して久摺日誌を記述せしより百年目にあたりクスリ酋長メンカクシの砦跡たりしサウシチャシコツに像を建て北海道開発先駆者阿寒の父として永えに顕彰せんとするものである。昭和33年(1958年) 阿寒国立観光協会 釧路市公民館長丹葉節郎撰 北海道学芸大学教授山口野竹書」と記してある。像の制作者は中野五一氏、平成6年にチャシ跡という公民館小広場から幣舞公園に移転されたという。運上屋の城下町である釧路に運上屋に抗してアイヌの擁護者であった松浦武四郎の像が有るのは意外な印象だったが、碑文をみると武四郎が阿寒の地を調査し景勝を紹介した功績をたたえ、北海道の開拓と阿寒国立公園の父として阿寒国立公園観光協会が顕彰したのであった。是が当時の松浦武四郎に対する一般的な評価であったのであろう。ただ気になるのはメンカクシと思われる人物像が座っていること、旭川の風雪の像も同じで何となく印象がよくない。◇釧路市幣舞公園
松浦町松浦町は松浦公園、松浦通り、松浦橋、松浦郵便局と、ここではなんでも松浦である。松浦郵便局には弊舞公園にある松浦武四郎蝦夷地探検像の記念スタンプスタンプ(写真の絵柄)が有り、使用開始は平成10年10月10日。付け加えると松浦武四郎は釧路市の名付け親でもある。☆武四郎が釧路に足跡を印したのは弘化2年、安政3年、安政5年の三度であり、久摺日誌、蝦夷日誌、竹四郎廻浦日誌、戊午日誌の中で当時の状況を克明に書き記している。その中にあった一文を見て「松浦武四郎は不毛の久寿里場所即ち此町の如き泥炭地たりとも東蝦夷地第一の都会たるべしと絶叫したるは超達見として敬意を表すべきである此の因縁を記念の意味に於て松浦町」と武四郎の達見に敬意を表すため昭和7年に西幣舞とよばれる町名の一部を改め松浦町としたと云う。発案したのは釧路市会議長の佐々木米太郎氏とのこと。当時の釧路における松浦武四郎爺に対する評価の尺度は現在とは凡そ違っているが、当時の松浦武四郎への一般的な評価であった様だ。松浦武四郎にちなんだ名は厚真町字富里の松浦橋、大雪山系松浦岳(緑岳)、仁木町のまつら滝、旭川の武四郎街道などがある。◇釧路市松浦町
江戸時代にクスリ(久寿里)と呼ばれていた場所は松前藩主直領で、安永3(1774)年に飛騨屋久兵衛が絵鞆・厚岸・霧多布・国後場所を請負い、安永4(1775)年に宗谷場所も請負うが、この頃に釧路場所も請負ったと考えられている。飛騨屋のアイヌ酷使による場所経営が寛政元(1789)年のクナシ・メナシの戦いの原因となったとされ飛騨屋は罷免、寛政3(1791)年より大黒屋茂右衛門の請負になる。寛政11(1799)年に東蝦夷地は幕府直轄地となり場所請負制は廃止され「運上屋」は「会所」と改称され幕府の機関となった。会所は幕府の行政機関となるが、漁場の経営や交易のほか旅宿所としての機能も有った。漁場の経営や交易は運上屋の番人などが会所に再雇用され従来通りの業務を担ったようで、アイヌ民族のおかれた状態はそれほど変わらなかったようです。享和2(1802)年頃に白糠場所が釧路場所に編入され、旧白糠会所は番屋となる。文化9(1812)年に幕府はそれまでの直轄を廃して場所請負制に戻し、川内屋長十郎、近江屋九十郎が釧路場所請負人となるが、会所の呼称はそのまま使用された。文政5(1822)年に新潟県寺泊出身の米屋儀兵衛(二代目米屋孫右衛門)が釧路場所請負人となり、以後は代変わりはあるが場所請負制廃止の明治2年まで米屋の独占場所だった。明治に場所請負制が廃止となるも漁場持という名で実質温存され最終的には明治9年に廃止された。久寿里会所跡は会所が置かれていた跡で佐野氏紀功碑、久寿里会所跡の碑、石川啄木歌碑などがあり佐野碑園と呼ばれている。◇所在地:釧路市南大通8丁目2
白糠駅から約徒歩5分に有る白糠公民館敷地内の国道側に白糠運上屋(白糠番屋)跡の石碑が立っている。白糠は元々は独立した場所のようで1786(天明6)年頃には2カ所の運上屋があり、白糠運上屋は元々は音別の方にあったと云うが波が高く不便だった為に白糠に移設されたらしい。1799(寛政11)年に通行屋(駅逓)が出来、寛政13年頃の場所請負人は大和屋惣次郎というが、享和2(1802)年に白糠場所は釧路場所に編入され、旧会所は釧路場所の番屋となったという。白糠番屋を経営していた佐野孫右衛門が明治7年に駅逓も含めて漁場持を返上、駅逓業務は豊島三右エ門が引き継ぎ、その施設を白糠駅逓所として利用していたという。釧路は運上屋の城下町という感じですが、白糠は会所だった頃からの気概と伝統があると云い釧路とは違う印象もある。些細な事は判らないが松浦武四郎は弘化二年(推定)と安政三年、安政五年に白糠で宿泊、武四郎の記録によると享和の頃は300人以上も有った人口が安政の頃には120人前後に減少、ここからアイヌ民族がいかに厳しい環境に置かれていたかを想像できる。◇現住所:白糠町東3条南1丁目1-21
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