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北海道の郷土資料館で独立した展示スペースを設けられている探検家といえば北海道の名付親として知られる松浦武四郎がいる。和人地と呼ばれた地域や早くに開けた海岸線は近藤重蔵や最上徳内が優勢という印象もあるが内陸部では松浦武四郎の独壇場という感がある。そんな中にあって「えりも町郷土館」では松浦武四郎の展示スペースは広く、加えて「猿留山道」に関する記録を拡大し展示している。また武四郎は安政三年と安政5年にホロイズミに止宿しているが、止宿先と思われるホロイズミ会所鳥瞰図(のような絵)の展示もあった。また「猿留山道」は伊能忠敬が測量した道、北海道の名づけ親松浦武四郎が探検した道という事でえりも町文化財にしていされている。山道は復元され標識も設置されているというが、山岳ロードでもあり事前にえりも町役場に問い合わせるのが無難です。日高管内では松浦武四郎の展示に関してはここが1番でしょう。また「猿留山道」の情報館という側面もあるようです。◇所在地:えりも町新浜207-1
西口の山道起点は冬島川にかかる「押木橋」なのだが、コトニ小休所だけが目的の場合は「東冬島トンネル」を抜けて左折(山側に入る舗装路)し山道に入る。突き当たりに様似山道と林道の看板がある所で林道側に左折すると昆布干し場の奥にコトニ小休所の看板が見え、右折すると様似山道につながる。コトニ小休所の由来書によると2間に3間の小屋で往来の人達はここで焚火をして暖をとったり、時には仮眠もしたという。松浦武四郎の東蝦夷日誌に「コトニ(小川、小休所)此処より会所元よく見ゆ」「昔コトという胡女爰にて死せりしが、其墓印より木目萌出しをもて號しと」とある。廻浦日誌では「昔此処に土人小屋有、其先祖コトニと云へる女の子到て美女なりしとかや、その女の子此処にて死せしより号る也」と、地名の伝承があったようです。◇所在地:様似町コトニ
幕府は諸外国との関係が緊張したことで1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄とし、様似山道を完成させ翌年にエンルム岬の麓にあった松前藩の油駒運上屋をシャマニ会所と改めた。1821(文政4)年には蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、1855(安政2)年には再び幕府直轄としている。文化10年以降は駅逓業務も請負制になり、会所(運上屋)が人馬継立、継立馬の飼育、旅籠屋の業務を担った。かつて和人地の奥、東西蝦夷地は本州の婦女子立ち入り禁止とされていたが、安政2年に函館奉行はそれまでの政策を変え妻子同伴を可とした。様似最後の場所請負人(漁場持ち)は万屋(佐野)専左衛門(シツナイ、ウラカワも同様)でした。今は会所町という地名と碑が残っている。松浦武四郎の東蝦夷日誌-シャマニ編では「シャマニ会所、地名エンルンなるを、シャマニベツ住する土人を遣う處故に此如改りし也。元は松前家臣蠣崎蔵人の窮地なり」とあり。松浦武四郎は安政3年9月と安政5年7月に宿泊しているが、弘化2年の知床往復の時も宿泊したと思われる。◇所在地:様似町会所町1
江戸幕府は享和2(1802)年に蝦夷地入りしている和人の宗教行事の執行、宗教政策として場所で働くアイヌ民族のと教化と宗門改め、キリスト教の侵入防止やアイヌ民族の親ロシア化対策などのため蝦夷地に5寺院の建立を決定し、先だって有珠、様似、厚岸の3カ所に建立する事を決めた。有珠は善光寺(浄土宗)、様似の等澍院(天台宗)、厚岸の国泰寺(臨済宗)を指定、蝦夷三官寺と呼ばれる。等澍院は1811(文化8)年に護摩堂を建立するも、官寺故に檀家制度の貧弱で明治維新後に一時廃寺となるが明治30(1897)年に再建。熊の被害や川の決壊、国道建設などにより何度も移転改築があり、かつての面影を残しているのは護摩堂だけという。等澍院の古文書や百万遍念珠箱がなどが平成17年に国の重要文化財指定、聖観世音菩薩像や薬師如来三尊仏像は様似町指定文化財となっている。松浦武四郎の「東蝦夷日誌」シャマニ編に「天台宗東叡山末、享和二年台命にて建立-中略-地所七百坪、建坪百十二坪を立。境内、鐘楼、観音堂」とあり等澍院に熊が出ている絵が添えられている。◇所在地:様似町本町
かつて静内にはシビチャリ場所と東方の海岸部を中心にしたシツナイ場所が有ったと云うが東蝦夷地が幕府直轄地となった寛政11年時に統合され、運上屋は元静内川の河口部(春立)に設置されたが、安政5年に東静内(モンヘツ)に移転、場所請負人では文政以降は万屋専左衛門の独占場所でした。会所跡碑は国道235号線沿い山側にの民家前に設置されている。幅3mの台座に高さ1m前後の青石二つが並べられ、碑文のほかに会所建物の当時の造作を刻んだ銅版の副碑もある。松浦武四郎の東蝦夷日誌に「シツナイ(会所・勤番所・板蔵・馬や・蝦夷雇蔵・備米・土人七軒)弁天舎(金比羅・いなり社)下に小流あり、是を以て號し、本名フツナイ也・・・・船は会所前五六石を繋ぐ」とあり、弁天社は後に移転して金刀比羅神社となっている。松浦武四郎は弘化2年の旅で静内会所に泊まっているようですが、安政の踏査行は三石での宿泊だった。◇所在地:新ひだか町東静内61番地13
松浦武四郎は六度に渡って蝦夷地を踏査、そのうち三度、新ひだか町を訪れている。以下は碑文より転載「新ひだか町と松浦武四郎 松浦武四郎は今の三重県松阪市に生まれ、幕末にアイヌ民族に深い交わりを保ちながら6度にわたり蝦夷地を踏破した。武四郎はこの静内地方には3度訪れて詳細な記録をのこした。弘化2年(1845) には海岸沿いを歩き、地形、産物、歴史を記録。安政3年(1856) には新ひだか町の各地の特徴に目をむけ、安政5年(1858) の調査ではシベチャリ川、捫別川、三石川、鳬舞川を遡ってすべてのコタンを訪れ、その地に住むアイヌ民族の名を後世に伝えるとともに「心情の素直で素朴なことはことはたとえようがない。世の方々にアイヌ民族の美しいことを知って頂きたい」と絶賛した。アイヌ民族に導かれて蝦夷地内陸部深くまで踏査した松浦武四郎の150冊を越える調査記録には、随所にアイヌ民族が大地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には9800ものアイヌ語地名が納められている。明治2年(1869) 蝦夷地を改称するにあたり松浦武四郎はその名を「北加伊道」と選定した。これは「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めたものである。北海道の名付け親・松浦武四郎が新ひだか町を訪れてから150年以上経過したが、我々の祖先と松浦武四郎の絆は今なお燦然と輝いている。我々は、新ひだか町のアイヌ民族と松浦武四郎の民族を越えた交流と、ともになしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖なる地、真歌の丘に記念碑を建立する。2012年5月12日 北海道アイヌ協会 新ひだか支部長 大川 勝」国指定史跡「シベチャリチャシ跡群」を含む一帯が公園でアイヌ民族にとっては聖なる地、英傑シャクシャイン像、神器カムイパスイを形取ったというユカルの塔、シペチャリチャシ跡の看板奥に柵で囲われたチャシがみえ、中に入るとシャクシャイン城址の碑がある。展望台もあり見晴らしはそれなりによい。◇所在地:新ひだか町静内真歌441 真歌公園内
新冠町発祥の地と呼ばれている判官館の前浜(崖下)の3基の墓標。江戸時代に新冠会所で勤務していた武士であることが判明しています。1858(安政5)年のは石坂与十郎の墓。1841(天保12)年のは大崎千蔵の墓、他の1基については無名。1812(文化9)年から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合され、ニイカップ場所は箱館の浜田屋が1813(文化10)年から1869(明治2)年の請負制度廃止まで独占した。会所廃止後は駅逓として使用されたようだ。武四郎は安政3年10月と安政5年の7月と8月に訪れ「竹四郎廻浦日記」に「峨々たる断崖の岬を廻りて砂浜の上に会所一棟」と、東蝦夷日誌には「船々遠浅にて潟無故に、産物積取時も沖掛り、時化荒候時は逃船とす」「満汐また風波の日には、会所元より九折を廻り此峠を判官館と云、四方よく眺望す」とある。干潮時は馬で川を渡ったようです。静内会所跡には節婦漁港の東側、昆布干し場用道路入り口からはいり判官館ふもとまで徒歩30分程です。松浦武四郎は安政3年9月と安政5年7月に宿泊しているが、弘化2年の知床往復の時も宿泊したと思われる。◇所在地:新冠郡新冠町字高江
「平取町百年記念史跡 歴史の散歩道」で平取町アイヌ博物館前のブック型レリーフより転載『幕末、維新期の北方探検家で著述家。開拓判官。幕末に蝦夷地を探検踏破した幕吏武四郎は「北海道」の名付け親としてしられる。アイヌに案内されての数度にわたる探検により「東西蝦夷山川地理取調日誌」「東西蝦夷地理取締図」などを著した。沙流川筋には安政5年(1858年) 来訪。門別の奥から貫気別川に入り、岩知志方面に抜け、そこから沙流川の本流を下る経路を探査し、地名・人名・続柄・年齢などコタン(集落) ごとの状況を詳しく記した。ホロサル(現振内付近) でアイヌの人の立派な居住まいに驚きつつ次の和歌など5種を残した。世ばなれし 保路さる山の 奥えみし 都の手ぶり いつならひけん」とあった。東蝦夷日誌では「ニブタニ(東小川 畑有 人家廿七軒)名義、昔し此處の細工人小太刀を作り、其柄に金物を三ッ附て奉りしと云故事有」と二風谷昔から名工がいたようですね。歴史の散歩道には平取と縁のある教育、文化、福祉などの分野で活躍した9人を讃えるため二風谷湖の管理道路に平成11年10月に碑を建立し歴史の散歩道として整備した。金城マツ・金田一京助・イザベラ・バード、近藤重蔵・ジョン・バチラー、エディース・メアリー・ブライアント、ニール・ゴードン・マンロー、違星北斗諸氏のレリーフがあった。金田一京助は萱野茂アイヌ資料館前に、違星北斗は二風谷小学校敷地に歌碑がある。◇所在地:沙流郡平取町二風谷
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