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江戸期の宿駅は日本海岸では運上屋、太平洋岸では会所が設置した止宿場(通行屋)ですが、明治維新後に運上屋(会所)は開拓使へと引き継がれる。旧蝦夷地では一部を除いて場所請負制が漁場持と名を変えて実質温存され、制度廃止になるまで漁場持が駅逓を請負う事が多かったが、分領支配時や地域によって違いがあり藩吏や村役人という場合もある。胆振地方の駅逓に関して海岸線では明治初期は江戸期と余り変わらない駅逓運営だったが、札幌本道沿いに開設された新規駅逓と旧宿駅より引き継がれた駅逓も民営化路線で幹線路の重要駅逓以外は経営難であったようで早々に姿を消している。日高地方では明治初期は漁場持ちと支配藩による運営だが、三石を除くと1郡1漁場持ちという弱小経営であってまともな駅逓運営は困難な状態あったようだ。明治初期に駅逓所在地の移動が最も激しかったのも日高のようです。内陸部に関してはその多くが明治28年の「官設駅逓規定」成立後や公費援助が復活した明治33年以降のようです。 Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.Maps :G.Maps
線豊浦町大岸(国道37号)からニセコ方面に抜ける道道32号線(豊浦ニセコ線)を通り、小鉾岸川沿いを遡る未舗装の道で峠を越え蘭越町との境界に近い尻別川の支流、昆布川の最上流部の森林が開けた豊浦町新富に上昆布駅逓所跡碑ある。この新富地区に明治40年、富樫茂助氏が入植しその2年後に駅逓を開設している。はじめは5人ほどであったというが大正年間は200戸を超えたという事から、駅逓の果たした約割は多大であったと思われます。
碑文 『この地に官設の駅逓所が設置されたのは、明治42年(1901)から、昭和17年(1942年)までの33年間であった。取扱い人は、富樫茂助、富樫正吉であり、地域の繁栄に尽力した。歴史的遺産として、その功績を称え後世に伝えるものである。平成二十四年十月十日建立 富樫家』
碑の裏側には「富樫茂助 宮坂常次郎 小林加治 富樫正吉」と記されていて、記念碑の設置者は駅逓関係者だったようです。上昆布駅逓跡の他に札文華駅逓跡、弁辺駅逓跡、下山梨駅逓跡が豊浦町指定文化財と豊浦町史にありましたが史跡には指定されていないので碑のある可能性は少なそうです。◇沿革と歴代取扱人 ◇開駅年:明治42年12月 ◇廃止年:昭和17年09月 ◇初代取扱人:富樫茂助 二代:富樫正吉 ◇所在地:豊浦町新富202番地 ◇N42°66’55.25” E140°58’83.37” ◇G.Maps :G.Maps
道道779号線沿いにあり松の木が目印、伊達市が紹介看板を設置ししています。 ◇紹介文より『有珠に会所があった頃より、道南方面から道東方面へ通ずるこの道は、交通の要路として往来しきりであった。会所から会所へ、逓送物を継送する人や旅人は、ここで休憩、あるいは宿泊し、また馬の継立も行なった。駅逓は、昔の郵送業務の重要施設である。開基百年記念物指定 昭和44年8月23日』紋鼈駅逓の歴史は古いようですが、官設の駅逓としては明治16年の開駅となっているようです。初代取扱人は松倉行政、2代目は松倉健一郎でした。廃止年は分かりませんが鉄道開通の頃と思います。◇所在地:伊達市北稀府町 ◇N42°26’35.41” E140°53’18.61” ◇G.Maps :G.Maps
旧駅逓で書いているので詳細は省略、ここでは旧大滝村にあった他の駅逓について書いておく。大正4年開設の官設三階滝駅逓所は駅逓敷地内に旧道路元標が設置されたというも、現在は不明。駅逓の記念碑などもない。明治42年開設の徳舜別駅逓所は現在の優徳町から円山町への曲がり角にあったようですが碑などはなし。かつて大滝村にあった駅逓で遺稿の残っているのは久保内に移転した共徳(久保内)駅逓所だけでした。一部改築された建物は個人住宅として利用されているため非公開です。◇沿革と歴代取扱人 ◇開駅年:大正09年12月◇移転改称:大正14年 礼留駒別駅逓に改称 ◇移転改称:昭和04年久保内駅逓に改称 ◇廃止年:昭和11年08月 ◇初代取扱人:田村義次 二代:田村米(末?)次郎 ◇所在地:壮瞥町久保内112-11 ◇N42°36’46.01” E140°57’43.74”
明治6年、札幌本道(現登別小学校の前の通り)が開通すると、通行人を対象に旅籠屋(はたごや、旅館)を経営し、人馬継立業をする者が増加した。滝本金蔵は私財を投じ登別温泉への道路を整備、湯宿を開くなど登別温泉の開発に尽力した。この地は滝本金蔵が宿泊所を設け、人馬継立所として逓送を行った場所。◇沿革と歴代取扱人◇開駅年:明治6年 ◇廃止年:詳細不明 ◇初代取扱人:滝本金蔵 ◇所在地:登別市登別本町2丁目3番地3
白老~徳舜瞥間の連絡道路が開通し大正年間に、白老市街から徳舜瞥(現大滝村)に向かう約14kmの地点に開駅された駅逓所で取扱人は曽根一で駅逓と郵便業務も取り扱った。昭和18年にホロケナシ駅逓を森野駅逓と改称、旧駅舎は無いが白老大滝線の森野地区にあるホロケナシ駐車公園にモニュメントが有る。
ホロケナシ駐車場公園の案内板より一部抜粋
「明治22年に駅逓制度が始まり昭和22年3月の同制度廃止までの80年間に、全道に660ヶ所設置され、そのうち白老には白老駅逓とホロケナシ駅逓(後に森野駅逓と改称)が置かれていました。ホロケナシ駅逓は、大正3年に白老と徳舜瞥(現大滝村)を結ぶ道路が開通したのを機に、同13年4月現在地から150m北(標柱を設置)に開設され、昭和19年10月までの21年間にわたり業務が行われていました」この場所から150m北のところが駅逓があった場所という。 ◇沿革と歴代取扱人 ◇開駅年:大正13年04月 ◇廃止年:昭和19年10月 ◇駅逓取扱人:曽根一 ◇記念碑:モニュメント ◇所在地:白老町森野 ホロケナシ駐車公園 ◇N42°63’25.85” E141°24’73.88”
昭和初期に困難をおかして当地を視察した駅逓係長(北海道庁)の決断で滑若(現若園、新栄、泉)に駅逓が設置される。駅逓所での業務は郵便物の配達、山道を行く馬の飼育、旅人の宿泊で、駅逓取扱人は我妻勇作氏。北海道の駅逓制が廃止となる昭和23年まで業務を行っていました。この駅逓所の建物と廊下でつながれいた建物がありました。これは、ハンス・ハンターというラトビア国名誉領事の別荘で、ハンターは例年、初夏に新冠に訪れ、アイヌの方々の案内で趣味であったマス釣りを楽しんでいたという。◇所在地:新冠郡新冠町字若園 ◇N42°29’04.50” E142°25’59.51”
三石会所が開拓使に引き継がれた時の駅逓取扱人は北海道宿駅制の研究では小林某となっているが、文政年間三石場所請負人だった小林寅五郎の一族で、1868(明治元)年に箱館町年寄になった小林重吉と思われる。小林は明治10年に姨布村(現三石町)に刻み昆布製造所を開設、後に本拠地だった函館で明治12年に函館商船学校を設立している。三石駅逓は明治18年に姨布(おばふ)駅逓と改称、廃止年は不明だが、明治33年に再設置されたときの駅逓取扱人も小林重吉で、大正14年に廃駅となった。
三石駅逓と関連深いといえば三石羊羹、三石羊羹の創始者は明治30年後期に現在の三石に単身移住し、明治41年より菓子製造を始めたという。店舗の近くの駅逓を兼ねた旅宿の主人より茶菓子の制作を請われ、京風の味わいを鋭意工夫し試作したのが三石羊羹の創始という。年代からすると再設置後の駅逓ということになりますが、駅逓跡を示す遺構や碑等はなく、三石羊羹が当時の様子を伝える唯一のもの。◇所在地:新ひだか町三石本町35 八木菓子舗
旅籠屋という名前が残されている駅逓跡は他になく希で貴重な存在ですが、旅籠屋 原田宿は北海道宿駅制の研究や旧札幌本庁の駅逓取扱一覧(明治15年)にその名は見当たらず。また遺構らしきものは殆どなく宿の礎石も見えるようで見えない。東口山道起点より3km地点より少し前に史跡標柱と由緒書きがある。原田宿だけが目的なら山中からのエスケープルートから往復する方が早そうです。以下は由緒書より「様似山道の古址 原田旅宿跡 1873(明治6)年、浦河開拓使出張所は山道が非常に危険なのでここを護る人を探しており、静内に居住していた旧淡路稲田藩士の原田安太郎夫妻が応じて4間に7間の家を建て宿泊させたり相談役になったりして12年間人々の安全を護ってきたもので時には凶悪犯人を捕えたこともあるという。明治18年に辞退して様似へ転出したがその功績は非常に大きかった。点在する石は建物の土台に用いたものである 昭和57年11月1日 様似町教育委員会」◇所在地:様似町幌満と山中境界付近
様似山道越に江戸期は会所が、明治以降は駅逓がその重要な役割を果たすが、様似市街からは距離があるため開設されたようです。様似郷土資料館には幌満駅逓所で使用された貴重な備品が保存展示されています。幌満駅逓所は交通網が整備され昭和7年に廃駅となり、かつての駅逓跡には遺構や碑はないようです。駅逓開設は明治40年、初代駅逓取扱人人は高雄道徳、2代目取扱人は佐藤八三郎でした。◇所在地:様似町会所町1
浜厚真への本格的な和人の移住は明治3年の新潟県人、青木与八がはじまりという。青木与八は浜厚真の開拓に着手するとともに、明治6年に駅逓を開設(北海道宿駅制の研究では明治33年に浜厚真駅逓開駅)し渡船場も営んでいたというが、駅逓に関しては厚真町史にあるだけで詳細は不明、私設の駅逓と思われる。高さ1.27mの記念碑は、浜厚真自治会が昭和3年に浜厚真開拓の祖として、その功績を称え建立したもの。◇所在地:厚真町字浜厚真 浜厚真神社境内
◇N42°36’19.88” E141°50’15.27”
鵡川の駅逓は一時の中断を挟んでいるが一貫して布施家によって経営されていた。第一次鵡川駅逓所所在地に関する詳細情報は持ち合わせていないが、旧布施旅館は鵡川駅逓初代取扱人であった布施建蔵氏が明治43年頃に建築され昭和30年に増築という。駅逓舎としての利用は改築前の事になるが今の建物に当時の面影が残り中村記念館と併せて鵡川町の歴史的建造物といえます。明治28年に佐留太から高江迄の道が開削され(現・国道の原型)その旧国道沿いに建物がある。大正2(1913)年に鉄道が開通しているが駅逓はその後も継続され大正10年に廃止された。以後は旅館業を営んでいたが2009年に廃業。※建物は新潟の大工、本州の材木を選び抜いて使用、三面が障子の部屋、珍しい曇りガラス、暖はまきストーブなどはそのままで、ほとんど手は加わってない。◇明治18年07月~明治38年12月(第一次鵡川駅逓) ◇明治40年12月~大正12年08月(第二次鵡川駅逓) ◇初代取扱人:布施建蔵 第二次駅逓~2代:布施健次郎 3代:布施明 ◇所在地:むかわ町松風1丁目18付近 ◇42°34'29.7"N 141°55'53.3"E(旧布施旅館・鵡川駅逓)
遠浅の歴史は明治に始まるが最初は林業が盛んだったようで、市街地は今より東側だったようですが鉄道開駅で駅側に移ったようだ。遠浅は湿地帯が多く本格的な開拓が始まったのは昭和に入ってからとなるが、初期の入植者であった吉村要三郎氏は明治38年開設の遠浅駅逓所の取扱人としてその名がある。明治35(1902)年に鉄道が開通した跡に駅逓が開設されたのは遠浅から厚真(振老後に知決別)を経由して穂別に抜ける往来者が多かった事によるようだ駅逓跡地の詳細情報はないが古い地図に今の遠浅東部付近に駅逓印があり、東遠浅神社に吉村要三郎氏記念碑があって毎年7月に吉村要三郎氏記念碑祭が挙行されているとの事、数ある駅逓取扱人でも多分この方だけでしょう。明治前期の開設と思われる遠浅便取扱所の初代局長、郵便局の向かいはかつて吉村要三郎氏が経営していたという西田商店で昭和3年建築というがそんな感じには見えない。 ◇開設年:明治38年3月 ◇廃止年:明治45年6月 ◇初代駅逓取扱人:吉村要三郎 ◇所在地:安平町遠浅508◇42°44'01.0"N 141°47'28.8"E ◇遠浅開基百年記念碑◇所在地:安平町遠浅1(遠浅駅前)◇42°43'44.4"N 141°46'10.9"
菅野駅逓というのは初代駅逓取扱人だった萱野藤助に由来する。真狩村の南端に位置する南御保内(現、川崎地区)に御保内駅逓所が創設されたのは、明治34年4月で真狩別~弁辺間道路の開削間近の頃、南御保内は造材、流送の拠点でもあり川崎農場創設期で農民の入植が行なわれていた時期で廃駅は昭和16年だった。駅逓の目印は川崎土場神社から川迄の間で平坦になっている所ですが駅逓跡を示す碑などはなく笹原になっている。川崎の地名は神奈川県人の川崎芳之助氏が入植し川崎農場が開設されたことによる。 ◇沿革と歴代取扱人 ◇開駅年:明治39年9月 ◇廃止年:昭和16年10月 ◇初代取扱人:菅野藤助 ◇二代:矢野盛吉 ◇三代:柏原志津馬 ◇四代:佐野吉三郎 ◇所在地:真狩村字川崎
開拓使が引き継いだときの駅逓取扱人は大沢周次郎となっています。会所の時代からの駅逓は引き継がれてきた訳ですが詳細はわかりません。またイザべラ・バードがこの地を通過した明治11年の記録では「本道脇の白老駅逓で百頭以上の馬の群れが走る音で目覚た」「非常にきれいな新しい宿屋で部屋も快適」とあり、駅逓は札幌本道の開通した明治10年頃に本道脇に新規移転(北海道宿駅制の研究では明治7年)していたようです。明治14年に明治天皇が北海道を巡幸した際、大沢周次郎宅(駅逓)を行在所(宿泊所)として使用したというが大沢宅は火災で焼失、後に大沢宅敷地内に明治天皇巡幸の記念碑が建立されが、今は白老神社に移されている。駅逓は今の三好商店とカネイ佐藤商店のあいだの空き地にあったという。廃駅年は不明だが明治34年前後と推測されている様です。すぐ近くの「しらおい創造空間・蔵」の道路沿いにイザべラ・バードの説明板があります。◇所在地:白老町本町1丁目4番地~5番地?
◇N42°32’59.00” E141°21’02.26”
江戸期のえりも町には会所(運上屋)が3ヶ所、他に通行屋が1ヶ所置かれていたようだが岬地区には番屋だけのようです。幕末にえりも(小越)に定住していた和人は、慶応年間に渡道した青森県出身の柳田勘次郎を含め数名だったという。明治から大正期の交通事情でえりもは海路に頼ることが多いが岬は海の難所、山道を利用するにしても難所が多くあったため駅逓が必要とされ1916(大正5)に小越駅逓所設置された。駅逓取扱人は漁師から廻漕業に転身し船宿もあった柳田伊之吉~柳田伊之介でした。駅逓は交通網の発達により1928(昭和3)年に廃駅となったが、廃止後も駅逓旅館の看板を張っていたという。その後も「柳田旅館」として営業していたが、世代を重ねての老巧化には勝てず平成六年に旅館を解体、現在は場所を移転しモダンなクリフハウス柳田旅館となっている。◇所在地:えりも町字えりも岬59
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