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松浦武四郎の碑を巡る
石狩川下流域と支流域にみる松浦武四郎の碑‼

松浦武四郎翁顕彰碑岩見沢市MAP

岩見沢市北村碑文「松浦武四郎翁諱は弘字は子重幼名は竹四郎北海と号し別に多気志楼とも号した。文政元年寅2月6日伊勢国一志郡須川村松浦圭介の4男として生れた。筑紫松浦候の裔といわれている。津藩の塾に学んで国学及び漢籍を修めた。弱冠21歳の春長崎に赴いて衹性寺の僧侶となったが弘化2年蝦夷地の風雲が急であることを聞き、松前に渡り進んで西蝦夷地の太櫓や瀬田内に行ったが、官の禁制厳重で奥地へ入ることができなかったので箱舘に赴き、同地の商人加賀屋孫兵衛の手代となり東蝦夷地の沿岸を巡り知床に至った。翌弘化三年漁夫となり庄蔵と称した。更に医師西川従庵の従僕となり樺太勤蕃の一行に加わって西蝦夷を経て樺太に航し晩秋江差に帰った。その後三度松前に渡り国後色丹択捉の諸島を巡歴した。当事世人は翁を遇するに蝦夷気違又は蝦夷雀の綽名を以ってした。燕雀 焉ぞ大鵬の志を知らんやである。安政二年幕府蝦夷地を直轄するに当り翁を御用雇に挙げた。安政3年5月9日石狩定役立石元三郎シノロ乙名エンリシウ外アイヌ8名と共に現中島に宿泊し雨竜越をして西蝦夷を探査した。安政四年四月蝦夷地山川地理取調場所見立新道切開等を命ぜられ石狩川を遡り5月13日トック乙名セッカウシ外三名と共に再び中島に宿った。“江辺草作褥 一夜枕東流 戛々水禽叫 悠々道客愁”と書き残している。此の行で石狩岳(大雪山)に登り石狩川水源を見定め翌潤月5月21日3度宿泊して付近を踏査し石狩に帰った。翁の足跡は遍く全道に至らざる所はない。翁は博学多織でその著書21類161種に及んでいる。明治21年2月10日没した。享年73歳。特旨を以って従五位に叙せられた。札幌創建の献策者で道国郡名々付親由縁の地中島に標柱を建て更に開村六十年に当り此処に碑を刻みて永遠にその功績を顕彰する。 昭和34年9月5日」

岩見沢市役所 北村支所の横の目立つところに碑があるので探すのは容易。漢詩は開拓記念碑と同じものだが、顕彰碑の裏面には石狩日誌の“柳を切り、是を曲げて一枚のふきを被せて篷にかへ、櫂に附帆となし”と松浦武四郎が描いた絵が彫られている。松浦武四郎碑で絵が彫られているのはここと中札内、留萌の歌碑だけのようです。この絵は丸山道子現代語訳「石狩日誌」にある「図5 石狩川をさかのぼる図」が描かれている。◇岩見沢市北村栄町 北村支所

北村開拓記念碑(松浦武四郎漢詩碑)岩見沢市MAP

岩見沢市北村-022度目の北村訪問で偶然に発見した碑で碑文の冒頭が松浦武四郎の漢詩で始まっている。文字判読不能な部分もあったのだが、岩見沢市の石碑で判明したので全文を掲載。漢数字は算用数字に変え句読点を追加してある。「碑文 江辺草作褥 一夜枕東流 戛々水禽叫 悠々動客愁 是安政4年丁巳5月13日探検家松浦武四郎石狩川水源調査の途次ビバイヌタッフに宿りし時書き遺したる絶句なり。当時上川アイヌの宿泊地たりしに過ぎず 、明治17年4月雁来の人滝本千代吉を以って入植者の嚆矢とす。其後逐年入植者あり 、越えて明治26年山梨県人北村雄治団体移住開拓経営をなす村名実に之に職由す。明治33年6月13日岩見沢村より分村独立す。爾来50閲年戸数1107戸、人口7千有余、水田1500町歩畑2100町歩を算するに至る。自然景観一変して文化景観を現出し汪洋たる前途を象徴す。 盛なる哉題  北村 石狩長流水拍天 雲涯一抹樽前煙  半百歳前榛莽 萬頃農功麗穂鮮 昭和25年6月13日 」石狩日誌を見ると安政4年5月12日にニイルヲマナイで宿営したときに「ふと傍らを見ると去年野宿した同じ場所なのに気づく。そこに私が書き残した年月日や姓名を書き付けておいた木も残っていたので、その横にまた詩一絶を書き残しておくことにする」と有った。武四郎ファンはフキの葉を被った絵を彫ってある松浦武四郎翁顕彰碑と松浦武四郎宿泊地記念碑は見ていくが、開拓記念碑にある武四郎の漢詩に気付く方は少ないと思う。昭和25年建立で武四郎関連碑としては北村で1番古い碑ですが、隠れ武四郎碑としておく。◇所在地:岩見沢市北村栄町 北村支所前庭

松浦武四郎宿泊地碑ニイルヲマナイ 岩見沢市MAP

岩見沢市北村中央碑文「安政3年5月9日シノロ乙名(酋長の意)エンリシウ外9名、安政4年5月13日トツク乙名セッカウシ外3名、同年閏5月21日上川(この地より上流の意)アイヌニホンデ外1名とともにこの処に宿泊。昭和30年9月5日 為 北村60年記念建 築堤工事のためこれより45米先より移設し、開村80年を記念してここに石碑を以って建之する。 昭和54年11月3日」岩見沢市北村市外から新篠津村に進み突き当たりのT字路を右折(ここにはバス停と二本のポプラ“不動尊記念保護樹”が有る)してすぐに左折、旧石狩川を越えて道なりに進み分岐点を右側に進むと赤川排水機場。赤川排水機前から堤防方向を見るとオンコの木がありそこに碑が有ります。昭和30年の開村60年記念時は、赤川排水機構近くの土手下に木標が建立されたが、堰堤工事で移転しその後石碑となって再建された。武四郎はアイヌの小舟に乗って石狩川を往来し、北村沿岸を4回航行して、安政3年から5年までの間に計3回、ニイルヲマナイに宿泊していました。特に安政5年の踏査時は仮小屋を造り雪の上でゴロ寝をしたところ体温で雪が溶け、夜も更けると体が30cmほど雪の中に沈み、朝には耐え難い寒さに唇がしびれてものも言えないと、踏査行の厳しさを書き綴っている。◇所在地:岩見沢市北村中央 瀬能牧場地先

対雁番屋 対雁駅逓所跡史跡標柱 江別市MAP

江別市・対雁駅逓所跡享保年間に石狩13場所のひとつとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と石狩川を利用した内陸への交通と舟運の要衝となっていた。駅逓所の開設は明治12年で翌年対雁・江別両村戸長役場が置かれたが明治15年の鉄道開通で市街中心地は江別や野幌に移る。主な輸送手段が舟運から鉄道に変わった明治18年に対雁駅逓所は廃止となった。また樺太アイヌが強制移住をさせられ、明治19~20年にはコレラの流行により、300人以上の犠牲者を出す悲劇にみまわれた歴史がある。榎本公園は戊辰戦争で旧幕府軍として戦った榎本武揚の営んだ農場跡で榎本武揚の像やコレラなどで亡くなられた方の慰霊碑も建立されている。幕末の探検家、松浦武四郎は安政3年から安政5年までの間に当地には5回訪れ計6泊している。安政4年の夕張踏査の時は支配人の横暴な振る舞いを告げ朽ちされるのを警戒して武四郎と懇意の案内人を出さないなど色々な妨害工作があったようだで、幕府役人に知られたくない事が多々あったようだ。武四郎はアイヌ達に災いの及ぶのを心配し公にはしていない。新石狩大橋に近い国道337号沿いの榎本公園に記念碑と説明板がある。◇現住所:江別市工栄町

弁天歴史公園 運上屋棟石狩元小屋-再現施設 石狩市MAP

弁天歴史公園 運上屋棟元小屋とは石狩川および支流に設置されたイシカリ十三場所の元締めである事から、元小屋と呼ばれたもので普通は運上屋(会所)と称した。イシカリ十三場所は松前藩主を含め13名の知行主の交易所が元になり寛政の初め頃に固定されたとも云われている。そのイシカリ十三場所の元小屋(運上屋)をスケールダウンし再現され観光案内所(観光協会事務所)となっています。従って史跡ではありませんがここでは運上屋として扱いました。石狩場所請負人であった村山家は屋号を「阿部屋」といい、初代伝兵衛は元禄期に蝦夷地に渡ったと言われ、廻船業から場所請負に手を広げ1706(宝永3)年に宗谷、留萌場所のほか、石狩場所を請負う。最盛期は三代目伝兵衛の頃で東蝦夷地11ヶ所、西蝦夷地7ヶ所であった。1806(文化12)には石狩十三場所を請負うが、6代目伝兵衛の時に場所請負制度が廃止され一漁場の経営者となる。場所請負人についての評価は色々とあるが、特に飛騨屋と村山家、藤野家は問題が多かったようで、現代風に云うと政商でブラック企業という云うところか。石狩元小屋は明治初期に石狩本陣とも称したが、場所請負制廃止でその役目を終えます。幕末の探検家松浦武四郎は安政3年から安政5年にかけてヌプシャ越し、十勝越し、石狩上流見聞などのため石狩元小屋に連続して訪れている。松浦武四郎が指定した案内人は病気で行けないと出さない、番屋に食料などを届けず渡さず、宿泊も断るなどの嫌がらせや妨害工作があったことが日誌にかかれている。全ての運上屋ではないが石狩では多かったようだ。松浦武四郎は安政3年から安政5年にかけて連続して訪れ計16泊と群を抜いて滞在日数が多いが、それだけ事がスムーズに運ばなかったと云うことか?。◇所在地:石狩市弁天町38

阿寒湖畔の松浦武四郎北海道庁旧庁舎

北海道庁旧庁舎(通称・赤れんが庁舎)は1818(明治21)年に建てられた建造物で国指定重要文化財となっている。その北海道庁旧本庁の二階廊下に、北海道出身の岩橋英遠画伯が描いた「阿寒湖畔の松浦武四郎」の大きな絵が掛けられている。カムイヌプリやカムイトウの景色の中に武四郎の人物像が描かれているもので、以前にみた摩周湖第一展望台にあった絵と同じ構図だった様な記憶がある。摩周湖第一展望台の絵は展望台の改修工事で無くなってしまった。松浦武四郎が阿寒地方を踏査したのは、松浦武四郎蝦夷地最終第6回目の1858(安政5)年で「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」の「安加武留宇智之誌 壱・弐・参」にある。「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」は出版禁止となったため、戊午東西蝦夷山川地理取調日誌を元にした「久摺日誌」を出したという。岩橋英遠画伯はほかにも松浦武四郎を描いたものに「憂北の人-屏風4曲1隻」が北海道立近代美術館にある。◇所在地:札幌市中央区北3条西6丁目 北海道庁旧本庁舎 ◇Gmap:43.063946, 141.348001

東西蝦夷山川地理取調図松浦武四郎制作 松浦図

夕張郡由仁町西三線旧庁舎の文書館には松浦武四郎の資料があり「近世蝦夷地地図作成上の一大傑作」と賞賛された「東西蝦夷山川地理取調図」が展示されている。北海道の外周詳細は伊能忠敬とその弟子間宮林蔵が作られた「伊能図」によって明らかにされたが、内陸部は松浦武四郎がアイヌの人たちの案内で空白を埋め尽くした。国会議員の故萱野茂氏は「アイヌ民族は松浦武四郎にならどんな小さな川、山、岬をも教えた」と言われたというが、松浦武四郎がアイヌ民族から信頼されていたからこそ可能だった事を証明している。松浦図に9800ものアイヌ語地名が掲載されているが、今の地図で云うとおよそ20万分の1と同じで、掲載できる地名には限りがあり実際にはその数倍のアイヌ語地名があったと思われる。地質学者ライマンも松浦武四郎の地図を使って北海道内陸部を調査したという。屈斜路湖畔のアイヌ民俗資料館にも26枚を合わせた「東西蝦夷山川地理取調図」がある。◇所在地:札幌市中央区北3条西6丁目 北海道庁旧本庁舎

札幌開祖志村鐵一碑&住居跡札幌市MAP

志村鐵一碑明治元年当時に豊平川渡し守をしていた「志村鉄一」氏で札幌に初めて定住した和人と言われ、札幌開祖とも呼ばれている。信州の出身で石狩役所調役である荒井金助の誘いにより幕末に蝦夷地に渡る。安政4年に箱館奉行によって、銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)の開削が始まると、豊平川の渡船場と通行屋(宿泊・休憩所)の渡守として、家族3人で豊平川沿いに住居を構えていたという。明治2年に通行屋の建物は解体・移設され開拓使仮本陣り代わり、通行屋と渡し守の役目を解任されるという、札幌開拓の功労者としては不孝な結末でした。豊平川右岸にある橋台小公園には「札幌開祖志村鉄一碑」と記された石碑が建立されています。この碑は現在地より約120m下流の住居跡にあったというが豊平橋架け替えで昭和42年に移転されたという。通行屋として使われた住居跡には豊平川の土手に車道にギリギリの位置に立っています。渡船場は苫小牧や千歳と石狩や小樽を結ぶ交通の要所で、箱館奉行などの幕府役人もここの通行屋に宿泊、松浦武四郎は「去織部正殿休まれしとて、二ッの茅小屋を立有り、依って是に止宿なす」と戊午東西新道史に記し、安政5年6月18日に宿泊、ここで訪ねてきた知己と一夜を楽しく語らい勇払に向け出立した。◇所在地:札幌市豊平区豊平3条1丁目1

札幌ふるさと文化百選 本願寺街道札幌市MAP

本願寺街道本願寺道路(本願寺街道・有珠新道ともいう)は東本願寺の現如上人が中心となって札幌と伊達市 尾去別とを山越えで結ぶ街道として明治3年に着工し、1年3ヶ月後の明治4(1871)年10月に完成、国道230号線の原型となった。本願寺道路をベースに直線化や拡張された旧国道や本願寺道路は定山渓から中山峠、簾舞などにその一部が残されている。簾舞では本願寺道路の新道が開通した時点で、それまでの本願寺道路が「旧道」となり、後にその「新道」部分が拡幅され「国道230号・現旧国道」になった。旧本願寺道路の一部が保存整備され、簾舞中学校を挟む形で、離れて二箇所あり説明板に『安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家、松浦武四郎だった』とあり、旧簾舞通行屋(駅逓)は本願寺道路開削の翌年に開設されているが明治19年の新道開通後で現在地に移転した。一般的に通行屋は江戸期の宿駅だが明治初期に開設された札幌圏内の駅逓は通行屋と称していたが明治5年以後に名称が変更されている。◇所在地:札幌市南区簾舞

岩戸観音前案内板定山渓温MAP

岩戸観音前案内板岩戸観音前の「定山渓温泉の由来」に『調査のため、アイヌを道案内として虻田より中山峠を越えてこの地に到着、岩間に浴槽を掘り旅の疲れを癒し一泊した。これが温泉のはじめである』とある。「戊午東西蝦夷山川取調日誌・上の第二巻・東部登呂留守知之誌」(松浦武四郎著・秋葉実解読)に『ヨイチヲマフナイ(白井川)川口巾三間、滝に成りて本流に落ちる。惣て山は岩山に椴の木陰森としたり。此川源はヨイチ岳の方より来るが故に号。惣て此辺の北は蛾々たる絶壁、南岸平地にして椴木立、川は皆大岩簇々としたり。其川岸二丁も下る哉、川中に温泉有るをト子ンバク、ショウロク見当り。一同驚嘆し、先は此処に来たりせば、最早三四日にして石狩へ下る事必せり。此間中の草臥(くたびれ)を此処にて休むべしと、未だ四つ頃なるに、此川に止宿する。然るに、温泉はこの川北岸其よく涌き出る様に見しまま椴の木五六本倒し、其をもて石より石へわたし橋として、一同雪中に涌出ず温泉に浴して、先達て中よりの癒ける』とあり、今はカッパが占拠している。◇所在地:札幌市南区定山渓温泉西3丁目

美泉定山像定山渓温MAP

美泉定山像美泉定山は岡山県出身(1805年~1877年)の僧侶で、嘉永6(1853)年に松前に渡って布教活動を行い、江差で観音寺を再興、次いで大成に至り「宗健」と名を改め太田山大権現で住職を務め参詣道の開削に着手するが、この工事の途中に松浦武四郎と出会っている。武四郎は宗健に工事の件を函館奉行に申し出るよう薦めたが、定山はこれを謝辞したという。西蝦夷日誌には太田山(現・太田山大権現)で「1人の僧有、備前の産にて宗健と云よし。三四年住て頗土地の事に委敷故、新道の事を談ずる」とある。これは安政3年の事で、宗健は後に張碓へ渡りアイヌ民族から温泉の事を教えられ、1868年に温泉の存在を確認、現在の定山渓で湯治場を開設した。これが「定山渓の開湯」で、温泉の名は定山渓地区の開拓に貢献した美泉定山の「定山」に由来している。松浦武四郎が1858(安政5)年に道路適地調査のため、アイヌ民族を道案内として虻田より中山峠を越えこの地に到着、温泉をみて一泊しその時の様子を記録に残しているが、これが定山渓温泉最初の記録。後方羊蹄日誌(丸山道子現代語訳)では「湯の温かさが心地よく、冷え切った身体の疲れも一度に消えていく想いであった」と絶賛。◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目

円山神社 開拓記念林説明板 栗山町MAP

円山神社 開拓記念林開拓記念林の説明板に「先住民はこの地をタツコフ(円山)と名付けた。幕府の探検家松浦武四郎はここを道標として訪れ原住民コトラン家にとまったという。住民はここを地域のシンボルとして「アカマツ」を植栽して守護神を祀り先人の労苦を忍んで、地域の発展を祈念している。丸山神社 開基100年記念 栗山町」とある。タツコフとは丸山神社のある標高80mの小山で、丸山と呼ばれ神社の鳥居が目印。アイヌ民族や先住民ではなく原住民となっている説明板は他で見た記憶がない。ここから夕張川の傍にでコトラン家に宿泊(3泊)、コトラン家をベースに下流は由仁付近まで、上流は最初は船で、船が無理になると陸行で滝ノ上付近、今の於兎牛の滝より少し手前でまで行きそこで引き返しているようだ。夕張日誌ではコトラン家て聞いたユーカラなどを詳しく記している。◇所在地:栗山町円山 丸山神社

千歳街道由仁町MAP

千歳街道千歳街道の標柱には「松浦武四郎が通過したと言われる道 1857年頃」とシンプルそのもの。夕張日誌ではクッタリからタッコブまでの川筋と江別川二股からタツコブへの道を記すが、武四郎が通過したのは後者の方で、石狩番屋を出て対雁で一泊、江別川に入り千歳川を遡って宿泊予定だった魚川口のイサリブト番屋で宿泊を拒否され千歳の釜加までいき野営、翌日には長沼のヲサツ沼、マオイ沼を経て幌内付近(道の駅付近か?)に上陸、陸行で馬追丘陵を斜めに超え由仁川、ベリベツ川を渡って円山に到着。その時にこの街道を武四郎が通ったということになるが、実際はもう少し山側になるのかもしれない。碑のある場所は地図で見ると馬追丘陵の松浦碑と丸山神社の間でほぼ一直線に見える。◇所在地:夕張郡由仁町西三線

タンネトー記念碑長沼町MAP

タンネトー記念碑碑文より「長沼町開基の第一鍬者、吉川鉄之助氏が明治25年の村名選定にあたり当時平田農場内に細長い沼があるのをもつて「長沼」と名付ける。これはアイヌ語で「タンネトーという」長沼町の開拓に関わる記念碑での町名由来となった沼ですが、開拓前の状況を松浦武四郎の夕張日誌より引用している。「この地名については安政4年夏、松浦武四郎がこの地を通ったときの夕張日誌に『タンネトーありその巾六~七丁 長さ一里余』と記されている。また明治19年、植民地選定事業の報文及び図面にこの沼ありと示されている」とあり、下段にタンネトーの地図を刻む念の入れようです。農地開発でかつての沼は姿を消し今では古文献にその名を見るのみとなった。◇所在地:長沼町西2線北

松浦武四郎紀行足跡之碑長沼町MAP

長沼町 道の駅マオイの丘・武四郎碑国道274号線は北海道の国道の中では圧倒的に山岳が多く俗に樹海ロードとも言われるが、その274号線と国道337号分岐近の丘陵に有る「長沼町 道の駅マオイの丘」には想像を遙かに超えた大きさの松浦武四郎紀行足跡之碑が有る。普通は歌碑と碑文というのが定番だがここは大銅神鏡、鍋、夕張日誌表紙、経路図、歌、碑文と多彩。碑の題字は「松浦武四郎紀行足跡之碑 長沼町長 板谷利雄書」、碑文は所々が掠れて不鮮明なので全文を転載しておく。「松浦武四郎阿部弘は文政元年、現三重県三雲町に生まれる。16歳から全国を遍歴し、弘化2年(1845) ついに蝦夷地に渡る。以来4航し6度蝦夷地と樺太及び千島を探検。その関係著書は383種に上り、近世北海道の探検、警世家の集大成者と表され、この間水戸9代藩主斉昭の厚い知遇をうける。安政4年7月(旧暦) 札幌~夕張新道の調査を命ぜられ、石狩川より千歳川を遡上、旧オサツ、マオイ沼を船行してこの幌内に上陸、馬追山を越え、その帰途またこの地に泊して詠ず。“出るよりやがてかたぶく月影の移り行く世のならひをぞ思う”明治2年開拓判官、北海道国郡の区画、道名・紺郡名を選定し「北海道の名付け親」として不朽の名を残す。またアイヌ民族に対する深い愛情は胸を打つものがあり、そのまれに見る人間性は現代に生きる我々に人間のあり方を啓示す。明治21年70歳で卒す。死するに先立ち従五位に最叙せられ、こえて昭和13年札幌神社・開拓神社に祀られる。この碑は翁の神仏崇敬と、早逝の長女を追悼して明治8年東京上野東照宮に奉納した大銅神鏡を模し、また旅路にあって分身の如く携帯した鍋(鍋塚) の意を汲んで碑中に納む。けだし、安政の昔、新道見分けの任を負い、この地を踏査した足跡にかんがみ、まこと国道274「樹海ロード・道の駅」に相応しく、その高き志を形象し、由緒を刻みて建立す。平成8年7月7日 松浦武四郎紀行足跡之碑建立期成会」古くは馬追丘陵を越えるアイヌ道が有ったと云う事で明治年代の地図にもあると云う。夕張日誌によると武四郎はこの道を通って安政4年7月10日に馬追丘陵をユウニ(由仁町)方面に越えているが、同行したのはシリカンチウ、アシュイト、ヤエタルコロ、アフンデクルでした。夕張川を遡りカムイコタンまで行き、その帰路にここで宿営し陸行して千歳会所に戻っている。夕張日誌より「十七日発(先達ての山道)ヤムワツカ平(マヲイ沼の上)に戻り宿す。五ッ時過にもあるべし。東山より出る月ヲサツマヲイの沼に照わたりて、其眺望言ん方なし。暁近くなれば葦原に露置わたして実に目覚しくぞ覚へける」であった。碑の右側面に協力者の名前と団体が記され、三重県三雲町が印象的だったが長沼町を初め地元町内の協力もあった。碑の裏面には松浦経路図が描かれている。◇長沼町東10線南7番地 道の駅 マオイの丘公園141

イサリブト番屋と船着場説明板 恵庭市MAP

イサリブト番屋跡千歳川と漁川との合流点から漁川の方に入り800mほど上がると林の中に鳥居と石灯籠、恵庭神社遥拝所跡の碑がある。イサリブト番屋(通行屋)と船着場の図によると昔と川の流路は変わっているようだがこの一角が番屋跡のようだ。かつてのイザリブト番屋の様子は解説パネルに描かれているイサリブト番屋の図(松浦武四郎の再航蝦夷日誌)で容易に想像できる。平成18年に番屋と船着き場の範囲が特定されたようでパネルの説明文も更新され松浦武四郎等の紀行文引用はなくイサリブト番屋の図のみとなったが、1807年には幕府によって官吏のいる番屋が設けられ、大きな本陣風の茅葺きの建物があり、まわりには蔵やアイヌの人々の家が立ち並んでいたという。新説明パネルの内容は写真で代えます。

松浦武四郎の「夕張日誌」「再航蝦夷日誌巻之二」にも記録有り「イサリブト従ツイシカリ十一里。此処漠々たる広野にして此々沼有。又枝川も網を曳けり。沼は左右に有て到而湿深きところ也。此処に到り四面とも山と云は少しも見ることなし。蔵の屋根え登らばシコツ山見ゆる也。番屋は大きく建たり。弁天社、蔵々有。チトセ支配所也。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人熊、鷲を多く飼えり。また鶴多きよし。・・・此処より、公料のせつはチトセ迄陸道有し由なれども、今は其道絶たり。実ニおしきものぞと思ふなり」と記している。

恵庭神社遥拝所は1996(平成8)年まで社があり、地域の人々は稲荷と呼んでいたというが松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」では弁天社となっており何度かの変遷を経て現在に至っている。◊所在地:恵庭市林田 恵庭神社遥拝所跡

千歳川会所跡説明板 千歳市MAP

千歳川会所跡千歳川とその周辺はサケやシカ等の天然資源に恵まれシコツ場所と呼ばれ、かつては四ヶ所の出張番屋があったと云うが、文化元年に2カ所の会所、文化6年に千歳川会所になり、のちユウフツ場所に編入されたという。最後の場所請負人は山田屋文右衛門のようで、千歳川会所と船着場は現在の千歳橋の近く、ホテルかめやの所に有ったという。松浦武四郎の夕張日誌に「昔シコツと呼んだ川で、その音が「死骨」を連想させるので不吉な感じがするからと・・・・・千歳と改名されたのである」と、地名でこのような事は良くある話です。

千歳川会所説明板より

『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々と交易をする独占的な権利を与えました。やがて藩士たちはこの権利を商人に預け運上金(税金)を納めさせます。権利の及ぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物がたてられました。寛政十一年(1799)年、幕府は蝦夷地を直接支配し「運上屋」を「会所」と改名します。「会所」は幕府の役人もいて交易の他に役所の出張所の役割もしました。千歳では文化元(1804)年、売場会所と買場会所がたち蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。文化6年(1809)二つの会所は1カ所にまとめられ「千歳川会所」となりました。安政4年、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(1818~1888)は千歳を訪れ千歳川会所のにぎやかな様子を上図(説明板の上半分の絵)のように描いています。絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。昭和65年5月 千歳市教育委員会』昭和54年に千歳神社が碑を設置したのが最初のようです。◇所在地:千歳市本町1丁目 ホテルかめや前

松浦武四郎の銘板千歳サーモン橋 千歳市MAP

銘板・松浦武四郎紹介千歳サーモン橋の欄干に松浦武四郎のレリーフ(銘板)が三カ所組まれている。住吉の上流側に千歳川番屋の図、下流側に千歳川番屋の図の説明と松浦武四郎の紹介、丸山道子現代語訳・夕張日誌の一文が、花園の上流側は千歳川を詠んだ和歌が刻まれている。「サーモン橋」は「インディアン水車」の下流に掛かる橋で、周囲は住宅街ですが交通量は多い。

銘板 千歳川番屋の図
安政4年7月 松浦武四郎画 石場高門跋文
この図は千歳川会所の説明板にある絵と同じ絵のようです。

銘板・千歳川番屋の図サーモン橋・住吉上流側
銘板 松浦武四郎(1818~1888)
北海道の名付け親で6度にわたる探検を行い、道内の山川の様子を瀬に紹介した功労者でした。彼が最初に千歳を通ったのは弘化3年(1846)二度目の蝦夷探検の時でした。そして安政4年(857)5度目の北海道探検のとき著した(夕張日誌」の中でその頃の千歳のことをくわしく紹介しています。千歳川番屋の図もこの年7月に訪れたとき篆刻家でもあった武四郎が描いたもので、これに石場高門が跋文したものです。

跋文読解
ここの名を改められし 事とも思出て
あしたつの跡ととめたる
ちとせ川ちとせの後も かくてすむらむ
丸山道子訳「夕張日誌」より

銘板 千歳川
里遠き しこつの湖に 筏より 棹さしゆけば 魚のよりくる
安政4年7月 松浦武四郎

銘板・松浦武四郎和歌 「ここの名を改られし」とは「夕張日誌」にある「シコツと云しを其呼声不宜とて文化二丑年鎮将羽太君此地に鶴多きをもて千歳川と改めらる」のことで、シコツは死骨に通じ縁起が良くないという事だろう。千歳会所については「此所文化度迄は纔の漁場なりしが、山田屋某ユウブツへ新道を造り、爰の荷物は牛馬にてヒホユカリ(陸路二り)迄運び、其より船にて濱に下る様にし、また石狩へも樋平越新道開け、東西の新道出来、漁時には頗る繁華の地となりし也」の説明がある。短歌にある「平日人を知らざる」という歌の場所は「志古津日誌」によると「ヲコタヌンベツ-此川湖中の一大河也、エニワの西に当る也」とあり、恵庭岳西から支笏湖へ流れ込むオコタン川河口付近のようです。 ◇所在地:千歳市花園~住吉 サーモン橋

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