更新情報など
トップメニューとレイアウトの一部変更、見直しをしています。
碑文の漢数字から算用数字への変更を少し、句読点の追加等で読みやすいようにしたが、内容の変更はしていない。文字の判読困難な部分は?で示した。旧漢字は一部常用漢字に変更。
野上駅逓百年記念碑
大正2年7月、六号駅逓は下生田原(現安国)に移し4年4月に下生田原駅逓と改称し、旅人の便を図った。しかし大正12年9月、下生田原駅逓も惜しまれつつ駅逓の役目を解かれ廃止となった。平成3年には野上駅逓が設置されてから100年目を迎えるにあたり、時の流れの大きな節目としてこの貴重な歴史を後世に伝承するために、野上駅逓100年記念碑建設期成会を組織し、関係機関や多くの町民各位の協力により記念碑を建立。
「沿 革
明治25年に、中央道路と基線道路が完成され、北見国より石狩国に通ずる内陸への交通が開かれるようになって、網走から上川までの沿道は、うっそうとした樹木に包まれる228kmの区間に、12kmから16kmおきに駅逓舎を設けて交通の便が図られ、北見国には越歳・端野・相内・留辺蕊・佐呂間に続いて、この駅逓が6番目に置かれていたから、別に「六号駅逓」とも呼ばれた。駅舎は木造平屋で、113平方m、ここには宿泊施設もあって、官馬七頭が配置され、旅行者の求めに応じて、次の駅(滝の下)まで乗せた。荷物の運送は、主に駄馬送によったが、後に荷馬車を使い、積雪期にはそりも利用され、また郵便路線は3段階に分かれて、中央道路と基線道路は、三等路線区間になっていた。駄馬送は小包専送で、騎馬送及び人夫送は小包・郵便の併送で、約6kgと決められていたが、この駄馬送はこの駅逓にはなく、騎馬送と人夫送によった。荷物の運送重量は、騎馬の場合30kgキロまで、人夫のときは15kgまで背負うことになっていた。その後この駅逓は、湧別鉄道が大正元年に留辺蕊まで開通し、交通は木町を通り、湧別・紋別を経て名寄方面に行く者が増えたので、大正2年6月、安国に移転され廃止されている。なお、この駅逓の取扱い人角谷政衛氏は、新潟県魚沼郡神立村出身で、湧別から明治25年11月、野上に移住して来た。ここにおいて、本町に初めて和人の炊煙が上がり、これが原野開発の糸口になった。 遠軽町史より 平成三年十一月一日建立 野上駅逓百年記念碑建設期成会」
普通は仮定県道が出来てから駅逓舎を建てるのだが六号から八号の駅逓は仮定県道完成前に建物を建てたため結果的に駅逓としては不便な場所になってしまったという。六号に関しては野上が遠軽方面との交差部になると予測して建てられたが見込み違いがあったと云うことだろう。駅逓舎は明治33年頃に離れを私費で追加して六部屋となっている。建物の建設を請け負ったのは網走の土建業だった野坂良吉でその関係で石上藤蔵が野上駅逓で馬借をする事になるが角屋政衛の世話で北見峠休泊所の取扱人として就任した。明治35年9月に当地を旅した松田六兵衛の『北見紀行』に六号駅舎の近傍囚人出役の地にて様子を尋ぬるに『六号より網走までの道路は高草生繁りて道路を隠し、尚熊の出ること多く尤も危険なれば、六号より直ちに湧別に出、サルマ、常呂を経て網走に至るこそ安全にして、殊に海岸駅舎あり』とあり、中央道路が開通したとはいって補修工事が続いており五号峠方面は通れるような状態ではなかった。
沿革略史◇明治25年3月設置 ◇初代取扱人:笛田茂作・代人:角屋政衛 ◇※初代取扱人:笛田茂作:明治26年7月没 ◇二代取扱人:明治26年7月~角屋政衛 ◇三代取扱人:明治30年1月~角屋栄政 ◇移転年:大正2年7月 下生田原に移転(現・遠軽町生田原安国59番地付近) ◇改称年:大正4年4月 霜生田原駅逓所と改称 ◇設置年:大正11年8月 霜生田原駅逓遠軽出張所開設(遠軽町大通南4丁目付近) ◇廃止年:大正12年4月 霜生田原駅逓所廃駅 ◇設置年:大正12年10月 遠軽出張所が遠軽駅逓所 ◇昭和4年6月廃止 ◇石碑所在地:遠軽町野上 ◇N44°01’26.2” E143°30’17.5” Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.Maps :G.Maps
山の神建立の由来碑文
「明治24年に開削された国道333号中央道路旭川~網走間は別名囚人道路とも呼ばれた。北方警備を急ぐ明治政府は大量の囚人を工事に納入し北見峠から網走までの約163kmを一年で仕上げる超突貫工事であった。劣悪な条件下で犠牲者も多く明治27年駅逓の責任者としてこの地に入った佐藤多七が旧囚人宿舎を住居にあてた際に裏に67本の墓標が立ち並んでいた。また夜毎「助けてくれ」との声やうめき声が聞こえたので、慰霊に努めたが同31年の大洪水で墓標が流出した。雪の深い2月のある日佐藤多七は野うさぎを追って薬師山に入りふと目に入った雪に隠れた見事な岩をみつけ息子鶴松と近所の農民と力をあわせ巨岩を運び出し石碑を建てた。そして死後も囚人と呼ばれたのは気の毒と考え山の神と刻入した。婦人たちは雨や風にあたらぬよう石碑に屋根をかけた。明治38年のことである。開拓農民が生命を収奪された囚人への心からの手向けであった。現在は三代目が供養を続けている。 昭和58年10月 佐藤幸平」
これは石碑建立当時に判明している犠牲数であり実際はもっと多くなると思われます。『山神』碑の建立は遠軽町史では明治38年となっているが、実際は明治41~42年頃だったらしいとの話も伝わっている。薬師山から石材を下げそれを運んで建てたが、集落総出で5日程かかりお祭り騒ぎだったという。ここには「山神」の他に「山の神建立の由来碑」「薬師山八十八ヶ所の由来碑」と薬師山八十八ヶ所札所がある。目印は薬師山入口バス停です。目印は薬師山入口バス停 ◇設置場所:遠軽町瀬戸瀬東町 薬師山バス停 ◇標高123m:N44°00’38.1” E143°27’04.2” ◇G.Maps :G.Maps
6号野上駅逓跡から2kmほど丸瀬布側に進んだ瀬戸瀬に昭和33年5月、瀬戸瀬青年団(団長・大島一郎)が中央道路開削当時、埋葬されていた遺体46体を発掘し瀬戸瀬墓地へ埋葬した。遺体はすべて納棺され生前と並べて埋葬されていたという。昭和51年、発掘跡に「殉難者の慰霊の碑を建てよう」と瀬戸瀬婦人会(会長・枝松ミサコ)が発起し、町をはじめ趣旨に賛同した300余戸から143万円の寄付を得て発掘跡に慰霊碑を建立した。
「殉難慰霊之碑建立の趣旨
中央道路は政府の北辺警備と北見地方の開拓促進のため明治19年に着工され、明治24年に完成された札幌、旭川、網走、釧路を結ぶ当時の大動脈でした。このうち、明治24年4月から同年12月にかけて集治監網走分監の囚徒を1970人使役して工事を行いました。網走、中越間163.7kmの開削では難工事を極め激しい労働と栄養失調のため238人に及ぶ死者を出しております。この場所は、仮監跡で67体が仮埋葬されておりましたので、昭和33年46体を発掘いたしまして供養を続けてまいりましたが、未だ21体地下に眠っております。こうして北見地方開発の【判読不能-労を担った-か?】犠牲者をこのまま放置したのでは忘れられ霊が浮かばれないのではないかと思いつき、暗い歴史は歴史として真実を後世に残すのが70年代に生きる私達に果せられた義務と考へ、囚徒の霊の安らかに永眠されることを祈念いたし、ここに46体の遺骨を納め地下に眠る21体と合わせて殉難慰霊碑を建立するものであります。 昭和五十一年九月 瀬戸瀬婦人会」
※碑文によると46体の遺骨は整然と納められているとしても、発掘出来なかった21体の遺骨はどこにあるのかわかりません。むやみに歩き回らない方がよいと思います。 ◇設置場所:遠軽町瀬戸瀬東町 ◇標高116m:N44°00’29.1” E143°26’51.1”
滝ノ下駅逓開設百年記念碑碑文
「明治24年北見地方の警衛と開発のため旭川~網走間の中央道路が開削され、合わせて沿線に1号~12号官設駅逓が建設された。入植者や旅行者の便のため旅館と運送店を兼ねた施設である。ここは七号駅逓と呼ばれ、無人休泊所として利用に供されていたが、明治26年6月30日滝ノ下駅逓として開業した。しかし通行宿泊者は月数人ていどという状態のため、隣駅まで五里という未開の地に在って、自給自足を余儀なくされ苦難に耐え忍んだのである。北見地方の開拓に駅逓の果たした役割は大きく、その貢献を讃えるため、ここに記念碑を建立するものである。平成十年十月建立 七号滝ノ下駅逓開設百年記念碑建設期成会」駅逓説明板と逓所跡碑は丸瀬布南丸のパーキング内にある。
七号滝ノ下駅逓初代の取扱人は札幌の馬具商・亀屋卯之助であり、佐藤多七は駅逓取扱業務を代行していたが明治27年4月に七号駅逓を辞し瀬戸瀬へ入植し農場経営をした。二代目取扱人の八木愛之助はかつて東京でオランダ公使館で場丁をしていたというが駅逓を辞してから釣りに行って海で亡くなったという。三代取扱人は中島重次郎氏で網走郵便局長を務めた人物と云うが部下の不始末の責任をとって辞めたという人、4年ほどで七号 滝ノ下を去っている。四代取扱人の国沢歴蔵は2年ほど当地にいたが、馬が寄生虫(馬虻病)によって次々と死んでいくので大変だったと。五代取扱人だった気田和三郎は大沼で初代地崎組の地崎宇三郎と知り合いその後は地崎組の帳場をしていたという経歴の持ち主。明治31年に施工した北見峠と野上間の中央道路改良工事を最後に袂を分かち丸瀬布に定住し旅人宿(万竜館・私設駅逓?)を経営している。地崎組が大正14年に石北線の丸瀬布・遠軽間新設工事を請け負った時は気田の旅館を常宿として利用したという。官設駅逓取扱人としては明治38年から大正4年までだった。 最後の取扱人は塩田覚治氏で駅逓廃止後はだった駅逓敷地や用地が払い下げられている。
歴代取扱人
明治26年6月30日 佐藤多七 同27年5月 八木愛之助 同32年 中島重次郎 同36年4月 国沢歴蔵 同38年6月 気田和三郎 大正4年9月10日 塩田覚治 昭和2年4月30日廃駅 ◇設置場所:遠軽町丸瀬布南丸108番地 ◇GPS:N43°58’11.1” E143°17’58.6”
八号滝ノ上駅逓の初代取扱人は中沢兼三郎となっているが、実務は兼三郎の養子だった中沢沢治が勤めた。中沢沢治は七号駅逓の佐藤多七と一緒に札幌を出発してそれぞれの駅舎に移り住んだ。八号駅逓の取扱人が白滝最初の定住者だったようですが、白滝開拓となれば北見峠駅逓の取扱人だった石神藤蔵氏が現「旧白滝地区」に入植したのが最初のようです。石神氏の後に北見峠駅逓所を引き継いだ二代取扱人は滝ノ上駅逓所取扱人の中沢兼三郎(現地支配人は中沢沢治)でした。碑は湧別川と八号沢合流部下流にある八号沢橋上流側右岸付近にあります。
「碑文 滝の上駅逓は明治26年に設置が告示され、当時の札幌月寒に居住していた長野県人、中沢兼三郎が駅逓取扱人として任命され、駅馬10頭の貸付けを受けて同26年に開駅したが、養子の中沢沢治が代って着任した。明治45年3月風呂場からの失火により全焼し現在地よりおよそ2.2kmほど白滝寄りの地に再建された。これよりさき明治42年3月、沢治の死去により3男の中沢三平が跡を継ぎ、同年5月8日駅逓取扱人となった。大正13年3月に開催された全道駅逓所取扱人会議、およびその後に行われている取扱人等の会議には滝の上駅逓の名がなく、白滝駅逓所となっているところから、資料が皆無で絶対的確証はないがあるいは大正8年、上湧別村より遠軽が分村し2級町村制をした折りに滝の上駅逓を白滝駅逓と名称変更したものと思われる。このようにしてこの駅逓もわずかな利用者ながら旅行者にとっては適当な憩いの場であったが昭和7年10月石北本線全によって駅逓所は廃止となった。」
官報の告示では明治26年6月となっているが、七号駅逓の佐藤多七と同時に着任と言うことで実際は4月に開駅したと思われる。峠を控えた難所が配慮されたようで支給された官馬は10頭と多いが斃死して3代目の頃は私馬2頭ともあるが、単に需要が少なかっただけかもしれない。碑文の下部に滝ノ上駅逓所の平面図を添えて客間は3室で坪数の記載は無いが類似の平面図からみて40坪はなさそうに見える。駅逓は取扱人の名前から中沢駅逓と呼ばれていたようで、移転した駅逓は現在の白滝神社より少し東方のようだが、別な記録によると駅逓は昭和8年迄あり廃駅後は上白滝駅付近に建物を移動したという。奥白滝開拓記念碑によると、奥白滝地区にも出入りは多く戦後を含め通算百戸に及ぶ入植者があったと記されている。
沿革と歴代取扱人
◇設置年:明治26年4月? ◇告知日:明治26年6月30日 ◇初代取扱人:中沢兼三郎(管理人:中沢沢治) ◇二代取扱人:明治33年5月~中沢沢治 ◇三代取扱人:明治42年3月~中沢三平 ◇移転年:明治45年3月 全焼にて移築 ◇改称年:大正4年4月 白滝駅逓所と改称 ◇廃止年:昭和8年6月 ◇設置場所:遠軽町奥白滝 ◇GPS:N43°52’45.4” E143°07’30.2”
北見峠のパーキング傍にある。文字が流れて読めなくなっていたが、近年更新されて読みやすくなっている。碑文の漢数字をアラビア数字に変更し句読点を適宜追加した。
中央道路開削経過碑文 北見峠
中央道路は網走に起こり北見、留辺蘂、佐呂間、野上を経てこの「北見峠」を越え、上川、愛別、旭川に至当時全長57里14町11間(225粁402米)の植民道路であり、拓殖と北辺防衛上極めて重要視されて開削されました。しかもこの道路の北見側その大半が釧路集治監より網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役して開削されたものであり、明治24年春着工以来わずか7ヶ月余りを圣た同年11月にはこの北見峠まで網走から39里(156粁)の道路が完成を見るに至り、その作業能率は今にして見れば驚異的なものでありました。したがって作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使、不眠不休の労役が続けられ特に最も惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた死者八百十余名にも及び、死亡者は路傍に仮埋葬されたまゝ弔う人もなくそまつな名もない墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従消え去り、今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました。その後、昭和32年春白滝村字下白滝で6体を発見収容、昭和33年遠軽町字瀬戸瀬で46体を発見収容、更に昭和48年10月白滝村字白滝東区で6体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる霊の多いことを想い、こゝに殉難者慰霊の碑を建立し、この道路建設のいしずえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります。 【慰霊之碑裏面】 昭和四十八年八月建立 白滝村長 國松 一敏 ◇設置場所:遠軽町白滝 北見峠パーキングエリア
明治33年5月に開設された北見峠休泊所は民営という記述もあるが支庁の依頼で角谷政衛が準備し取扱人に野上駅逓で馬借をしていた石上藤蔵の身元保証をして就任させた。場所は北見峠より1kmほど白滝よりの小川沿いと云い廃道になった中央道路沿い(北見峠の東側はルートが変わり中央道路は廃道となって一部が林道として残っている)で十三号仮監の建物を使ったと考えられている。20坪程の駅舎で官馬は配置されていないが、補助金も支給されており最初から官設宿泊所だったが明治34年に改めて公示したもの。厳しい気候と利用者の少なさに石上藤蔵氏が当地を離れ白滝に入植したので、明治35年3月より中沢兼三郎氏が取扱人となり上川側の上越(北見峠チカルベツ)に移転、駅逓舎は36坪とあるので新たに建築し再開したようで、その後に北見峠駅逓から峠駅逓所と改名、駅逓牧場もチカルベツにあり駅馬には4馬だった。駅逓牧場は7代目取扱人の時には白滝に移転していたようです。
駅逓所跡の碑は上川側だけで北見峠駅逓所と刻まれているが、ヘアピンカーブ沿いで近くには駐車スペースは無い。峠駅逓は石北線の全通で昭和10年に廃駅となっている。石上藤蔵氏に関しては白滝村開拓記念碑で紹介。碑の説明文では明治31年私設駅逓設置とあるが石上氏が赴任するまでは無人舎だったようです。
沿革と歴代取扱人
◇設置年:明治33年5月 ◇初代取扱人:石上藤蔵 ◇二代取扱人:中沢兼三郎:明治35年3月~(現地支配人・中沢沢治) ◇移転年:明治35年3月 上越に移転 ◇取扱人:中島安寿:明治36年1月~(峠郵便継立所) ◇改称年:明治38年2月 名称変更 ◇四代取扱人:明治40年~中沢勝 ◇五代取扱人:明治43年~小林九平 ◇六代取扱人:明治44年~高橋仙太郎 ◇七代取扱人:大正14年~青野七藏 ◇廃止年:昭和10年12月 ◇設置場所:上川町字上越 ◇GPS:N43°52’45.6” E143°01’09.2”
駅逓は明治25年秋頃に上越(留辺蘂川とポンルベシベ川合流部より西方400m付近の上二股、五の橋付近)に設置され、明治34年7月に現在の中越信号所付近(シビナイ川付近)に移転、チカルベツに50戸ほどの植民地区画が開放された大正7年にチカルベツ拓殖地入口のあるチカリベツ(茅刈別川)河口付近に移転した。第二次駅逓碑は移転後のシビナイ川から近い中越信号所入り口横、第三次中越駅逓跡碑は知刈別林道入口と国道を挟みすぐ見えるアメダス?の横にあるが最初の駅逓所在地にはない。中越信号所前の碑は第二次駅逓でシビナイ川口から駅逓牧場用地で中越信号所付近に駅逓舎があった。チカルベツ移転後の放牧場は中越橋より西方で林道(ニセイカウシュッペ登山口にいく)の入口付近一帯でした。
中越駅逓の名称は上川市街裏にあるアイヌ語のルベシベを意訳した越路駅逓と上越の北見峠駅逓の中程にあり中越となったようですが中越に峠は無い。上越には9年、中越には18年、知刈別では昭和9年の廃駅まで17年の期間でした。開設当初は宿泊者は少なく明治30~40年代になって増加し大正年代になって減少傾向で経営は厳しかったようです。建物は記録では36坪5合とあり当時としては平均的な駅逓舎で官馬は三頭とあった。碑は第二次と第三次中越駅逓跡だけで上二股にはない。
沿革と取扱人
明治25年秋頃開駅、取扱人:亀谷卯之助 明治25年12月当時~鬼沢賢蔵 明治30年当時~佐藤幸之助 明治33年10月~中河浅治郎 明治34年7月シビナイ川口へ(信号所付近)移転 明治35年3月~滝田熊次郎→滝田繁富 大正7年知刈別入り口へ移転 昭和2年~滝田俊雄 昭和9年5月25日廃駅 ◇設置場所:上川町字中越:中越信号場前 ◇GPS:N43°52’01.8” E142°54’18.9”
駅逓は明治25年秋頃に上越(現在の上二股橋より500mほど中越側)に設置され、明治34年7月に中越信号所付近に移転、チカルベツに50戸ほどの植民地区画が開放された大正7年にチカルベツ拓殖地入口のあるチカリベツ(茅刈別川)河口付近に移転した。名寄本線の開通で中央道路を通行する人は減少し経営は楽では無かったようですが、昭和4年に石北線開通、昭和7年には全通、昭和9年にその役割を終え廃駅となる。旧拓殖地は地理院マップに「ちかる」とあるが移転前の中越小学校跡の碑が道路際にあるだけで人家は無く殆ど自然に戻っている。移転後の小学校跡の碑は中越信号場近くのパーキング場横にあり昭和36年には最高80名の学徒がいたが、木工場が同41年に無くなり人口は激減、昭和48年に廃校となっている。今は中越信号場の建物があるだけで他の施設はなく住む人もない。中越信号場の前に「第二次中越官設駅逓跡」の碑と「石北線全通記念碑」がある。JR中越駅は周囲が無人となり、チカル別に入植した人も既に無く利用者が無くなったので平成13(2001)年に廃駅となり信号場になった。この駅逓は第三次中越駅逓ということになるが、中越駅逓の沿革と取扱人に関しては前記九号 中越駅逓所を参照。 ◇設置場所:上川町字中越 茅刈別川河口付近 ◇GPS:N43°51’56.6” E142°57’24.2”
この中央道路は明治22年計画着工となっているが、明治22年に空知監獄署の囚人を動員して仮道路が湧別経由で網走まで完工しており、明治23年に改修工事(本工事)に入るが、このときは囚人不足で忠別太から伊香牛まで、伊香牛から上越までは業者、佐藤倉吉の請負で改修工事をしている。そのルートは伊香牛を過ぎてからは石狩川の右岸沿いを通り愛別の難所、安足間を避け(ここを通ると大きな橋が二カ所必要になる)てエチャナンケップ川筋から越路峠(上川公園)を経て留辺蘂川筋に抜けた。碑には「旭川に空知監獄署出張所が開設され、北見道路開設の工事に囚人が従事した」とあるが、囚人使役の実態は不明、上川側の区間に関しては、北見側の様な囚人酷使は伝えられていず道路工事の犠牲者が公式記録として残っていないだけで、空知監獄署は2年間で180人以上の死亡者を出しており、この中に上川道路に動員された犠牲者(54人?)が含まれているようで犠牲者は多かったようです。 ◇設置場所:上川町字越路・上川公園。 ◇GPS:N43°51’24.46” E142°46’05.80”
当時の道は現在の国道筋とは少し異なって伊香牛で石狩川を渡った後は石狩川右岸を通りを上川公園になっている尾根を越えて留辺蘂川沿いに北見峠に向かっていた。当時は橋を造るのを極力避けて道路開削するのが一般的な方法。当時の旅人が残した「北見紀行」によると『小春より五里、越路と云。未開の山中人跡なく不弁を極むる故、顧りて駅舎を守る人なし。故に一号、三号、九号(十)、拾号(十一)の四舎のみ居住人ありて其他無住也』つまり食料はあらかじめ確保、携行が必要だった。加えて釣り具まで持参する事を勧めている。十一号伊香牛駅逓と同時に開設された駅逓で初代を除けば取扱人の交代が多く6代目取扱人は当地に入植していた方で廃駅となるまで取扱人を務めた。駅逓は石北線の開通で愛別駅逓と同じ年に廃駅となっている。碑は道道となっている旧中央道路沿い立っている。明治25年9月にこの地を旅した松田六兵衛の『九号駅舎を尋るに人不在」とあり駅逓舎はできたが越路からは取扱人はまだ赴任していなかった。
沿革と歴代取扱人
◇明治24年6月20日開駅、取扱人:菊地利左衛門 ◇明治26年12月31日当時~中島利信(三浦武之助)◇明治33年9月5日~前田富吉 ◇明治36年3月~藤田信次 明治38年5月16日~宮地金十郎 ◇明治41年5月15日~長田嘉吉 ◇大正14年1月31日廃駅 ◇設置場所:上川町字越路 ◇GPS:N43°51’57.1” E142°44’49.6”
中央道路沿線駅逓で最初に開設されたのは明治24年の12号旭川、11号伊香牛、10号越路の三駅、翌25年に中央道路を通った松田六兵衛の『諸国名勝誌 北見紀行』の中で「上川郡にして忠別より三里、旭川より一里半永山より一里也。字小春永山村の属地にして北見新道の駅所也。石狩川端也(移転前の記録)」と有り、伊香牛駅逓は美人で愛嬌の良かったという渡船場の取扱人・山中半七の娘小春になぞらえて「小春の渡」と呼ばれた事から、駅逓も「小春の駅逓」と通称され公文書にも用いられていたと云い、伊香牛山地先端部の「小春隧道」に当時の小春の名を残している。平成29年に「北海道遺産見学愛別同好会」の手によって「伊香牛駅逓と渡船場跡」標柱が設置され中央道路・旭川~網走間に設置されたすべての駅逓跡の碑がそろった。正確には11号伊香牛駅逓所と500m、渡船場とは100mほど離れているが人目に付く場所に設置し説明を加えている。渡船場跡には石碑があったというが洪水で流出したのだという。下愛別駅逓は大正11年の石北線愛別駅開駅は、大正12年の上川駅開駅のあとその役割を終えて大正14年に廃止されたいる。
北見道路が永山から当麻を経て石狩川を渡ったのは中央道路開削と駅逓資料によると「古老近藤伊平氏の話では建物は明治37年に当麻灌漑口水門より少し下流に駅逓の建物が有り、駅逓付近を小春といって地名になっていた」とあり、昔とは地形や道は多少変わっているが伊香牛山脈の西側で現・石狩川大雪頭首工付近(愛別町東町)であったようだが、比布道路の開通や石狩川の洪水などにより明治34年に比布と愛別の分岐部の下愛別(現・愛別町金富地区)に移転し下愛別駅逓所と改称。駅逓所は大正5年の火災で建物が全焼し愛別村六線一号に新築移転、建物の図によると二階建八部屋で、現・愛別町本町で旧愛別橋と国道の交差部付近にあったようです。取扱人が秋田文蔵で代理人は山中半七とあるが札幌在住で不在、実務は秋山照正が取り仕切っていたという。
沿革・取扱人
明治24年6月開駅 ◇大正14年1月31日廃駅 ◇取扱人:秋田文蔵(明治31年死亡)/代理人:山中半七 ◇明治32年~取扱人:秋山照正(水戸出身・明治34.8死亡) ◇明治34年6月20日下愛別へ移転・下愛別駅逓所と改称 ◇明治34年8月~秋山信之進(養子) ◇大正4年5月24日全焼 移転建替
旭川で最初の二階建建築物という旭川駅逓所の開設時は人馬車継立がなくで宿泊だけの施設駅逓だったらしいが、旭川と音江法華間の料金に駄馬、乗馬、乗車、荷馬車があるので普通に駅逓業務をてしていたことになる。駅逓の場所が永山という説も有るようだが駅逓開設時は1条通5丁目で移転したという情報はない。丸瀬布町史の別巻・中央道路開削と駅逓資料によると永山駅逓と呼ばれた所は旅人宿で人馬継立はしていなかったという。駅逓開設月が旭川市史、駅逓協会報、上川開発史で異なっているが明治24年開設は同じ。取扱人に安部格太郎と高橋格太郎が出てくるが同一人物のようです。
十二号旭川駅逓所跡の碑はなくワークショップ旭川(品田商店)の店舗外壁(自動販売機横)に史跡プレートが固定されてあるだけ。当時の紀行録「北見紀行」では「字小春 永山村の属地にして北見新道の駅所也。石狩川端也。北見新道、則中央道路は小春迄駅伝十一あり、則小春は十一号駅伝たり。当舎の外人戸弐戸あり」となっており実質的な起点が小春(伊香牛)という様子で書かれていて、この頃は旭川駅逓での人馬継立はまだ始まっていなかったようにも受け取れる。明治36年頃は下愛別駅逓所との間に必富官設駅逓所(現・比布町)と渡し場があったというが場所は不詳。旭川駅逓所は明治36年に廃止されている。 設置場所:旭川市1条通5丁目右2号 ワークショップ旭川
野上開拓記念碑は地域集会所、野上神社(魚沼神社)の入口横にある。「建立の由来 野上の開拓は新潟県魚沼郡神立村出身で、六号野上駅逓取扱人の角屋政衛が明治30年11月24日、147,027坪の払い下げを受け隣接の駅逓付属地と合わせ127,890坪と合わせ角屋農場を創設したのが濫觴である。角屋農場は大正5年以降順次解放されたが、先人の労苦を讃え開拓90周年を記念してこの碑を建立する。昭和63年11月吉日 野上自治会 在遠軽角屋家一同」野上神社は角屋家の出身地が魚沼だった事から魚沼神社とも云うようです。野上の開拓が野上駅逓と密接な関わりがあったのがよくわかります。六号野上駅逓の初代取扱人だった笛田茂作は明治14年に渡道し官吏としては明治17年頃より戸長役場の書記が最初のようで紋別村の総代だった時もあるようだが、明治22年頃に役人を辞して酒造家に転じ、紋別場所の元請負人だった紋別藤野出張所に出入りする酒造業を営んでいた有力者の一人。
生糸や酒造で失敗した角谷政衛は家屋敷を処分し栄政を本家に預け紋別で成功していいる従兄の笛田茂作を頼って明治24年に渡道、笛田の経営する酒造業で働いていたが、野上~湧別間の基線道路が完成し駅逓設置の話が決まり、笛田の勧めで駅逓取扱人を出願することにしたが競争が激しく普通の人では見込みがないとの事で笛田茂作に頼んで出願してもらい、無条件で笛田茂作に決まって角谷政衛が代人として明治25年に開駅したが、翌年に笛田茂作が無くなり角谷政衛が後を引継ぎ取扱人となる。明治後半から大正にかけて理想の農場作りを目指した角屋農場も今はなく地域の伝説となり語り伝えられている。◇所在地:遠軽町野上 ◇44°01'08.2"N 143°28'13.5"E
石上藤蔵氏の入植100年を記念し関係者によって平成8年に建立された碑で北泉農場前にある。『由来 石上藤蔵(安政1年4月7生)は明治33年、石北峠休泊所(石北峠駅逓所の前身※峠駅逓所の事)の取扱人として来往、同35年、峠休泊所をあとに旧白滝17号地に入地開拓の鍬大いに振るった。この時、いまだ白滝原野は解放以前で、石上の親代わり的存在であった野上(遠軽町)駅逓取扱人であった角屋政衛の尽力で網走支庁に出願し許可を得て旧白滝に入地したのである。これが本村開拓農家の始祖といえよう。石上藤蔵入地後、明治43年春、山本治作が旧白滝に入ってきたが、おおよそ7年間全く孤独に近い生活を営んできた石上の開拓根性には、いまさらながら頭が下がる思いがする。明治43年11月太田熊吉、吾妻祝吉、翌年43年、青山右近、内田三蔵らがあいついで旧白滝原野に移住、ここにわずかな集落が形成されたのである。「樹林生い茂る未開の地に開拓の汗をながした往時を偲ぶとき、厳しい自然の中に大きな夢と志しをいだき、血のにじむような艱難辛苦に耐えて開拓に精励することにより、今日の繁栄をもたらしたことを忘れてはならない」この史実を確認。白滝村の開拓農家第1号入植者石上藤蔵の遺徳を後世に伝えるため、その証としてここに碑を建立する。』
※「ますほろ原野・石上正子著」では相内に仮監のあった頃、食料運搬を担当していた(義父)石上藤蔵が沢山の餅をつかせ仮監に運び看守の手前うどんと言いつくろって集監者に食べさせ「涙を流して喜ばれた」と、看守は黙認していたのであろうと書かれ、石上氏の人物像が垣間見える。「中央道路開削と駅逓資料」から要約すると、石上藤蔵氏は石川県出身で安政元年生まれ、生家は加賀藩士という。成人して各地を廻り医師、池垣幸蔵氏に仕え、そのご従兄の石上平助とともに明治16年に渡道、箱館にいた時に七飯官園で働き農業や牧畜に関する知識を習得したようだ。明治20年に網走に転住し野坂良吉(中央道路沿いにある駅逓舎を建設した人)の知遇を得て明治30年頃から六号野上駅逓に勤務、このとき野上駅逓取扱人の世話で明治33年に未亡人と結婚し官設北見峠宿泊所の取扱人となる。明治35年に北見峠宿泊所を辞し角屋政衛の尽力もあって白滝基線130(旧白滝)に入植した。ハッカ栽培などを手がけ、その傍ら二股渡船の渡し守りをも努め、狩猟や獣医のような事もしていたという。大正4年に天塩サロベツに移転、大正8年に稚内(声問)に移り馬具屋を開業、大正11年に渡樺し野寒で鍛冶屋を営むが77才で波乱に富んだ生涯を閉じた。 GPS:43°52'51.7"N 143°01'25.9"E
ここには天幕駅跡の説明板があるだけですが、天幕という名前についてはいくつかの説があるが一番有力なのが「清水三次郎が天幕を張って暮らし、自称天幕三次郎と名乗った」とする説。「愛別町史」や「国沢歴蔵自伝」によると本名を清水三次郎といい明治23(1890)年頃からこの地に定着し猟業を生業としていたようです。明治29年8月に北海道庁技師の田辺朔郎が鉄道敷設調査のため旭川からルベシベ河畔(天幕)に至った時、小屋を調査隊に供し自らは天幕を張って過ごしたという。その事が縁で鉄道が開通した時に駅名を天幕と命名されたようです。明治30年頃になると広い家を建て馬を数頭飼い私設駅逓もしていて繁盛していたようですが、明治36(1903)年に家を棄て駆落ち、逃避行先の六号野上駅逓で働いていたが、そこをやめて瀬戸瀬の隠れ沢に移り、再び猟業の生活に入りそこで亡くなったという。田辺朔郎は後に2代目道庁鉄道敷設部長を経て京都帝大教授となる。天幕は木工場や天竜鉱山付属精錬所でそれなりに繁栄したという集落だったが今は無人化しリサイクル施設が近くにあるのみ。◇上川町天幕
碑は道道90号旭川環状線沿いの神居交番前に碑がある。以下碑文より「ここより東200Mの地(現美瑛川の中州)にあったといわれている。明治22年から明治24年にわたり忠別太から網走口に通ずる北見道路開設の工事が行われたが、この工事に空知監獄署出張所の囚人が従事して文字通りの苦役悪闘をしたと伝えられている。上川開拓の上で忘れることができない場所である。旭川市教育委員会」碑文では網走口とあるが、空知監獄署出張所は明治22年に旭川から北見峠を越えて遠軽を経て湧別まで仮道路を開削、湧別からは海岸沿いに既成の北海道を補修して網走までを約3ヶ月で到達した。翌年は改修工事で伊香牛までを担当、囚人不足で伊香牛から現上川町上越までの区間は請負業者が施行している。
北見・網走側は明治24年に北海道集治監網走分監が担当し多大な犠牲者を出し道内を縦断する中央道路を貫通(正確には中央道路の一部で現・国道12号線、国道39号線)させた。碑は空知監獄署出張所跡となっているが、明治14年に集治監が開設され明治20年に監獄署と改称され、明治23年に再び集治監と改称されるが、翌年の明治24年に北海道集治監制となり本監は樺戸で空知・釧路・網走は分監となる。中央道路の上川側の工事は監獄署となり、明治24年の北見側は北海道集治監網走分監ということですが、役所の所属が変わって呼び名が変わっただけで中身は基本的におなじです。こうして囚徒達が開削した道に沿って駅逓が設置されていきます。◇所在地 旭川市神居2条6丁目 神居交番前
碑文より転載する「明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第1美瑛舎)に樺戸監獄出張署が置かれた。ただし、獄舎看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は新道工事のほか屯田兵屋の建築にいたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。」とある。上川仮道路の開削では樺戸集治監や空知集治監が主役ですが改修工事の時は監獄署と呼称が変わっています。道路開削や屯田兵屋の建築など開拓初期のインフラ整備は、囚徒の強制労働で多大な犠牲をだしなが推し進められましたが、この悪弊は民間のタコ部屋労働に引き継がれていきます。◇所在地 旭川市忠和3条7丁目1 ◇市営住宅敷地内
トップメニューとレイアウトの一部変更、見直しをしています。