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内陸部で上川や空知地方の駅逓は中央道路沿線以外では殆とが明治中期以降に開設されており残されている碑も多い。道北と道東で設置された全ての駅逓跡(複数以上)に碑があるのは7町村(合併前を含めて)となるが海岸では少なく内陸ほど多くなるのは共通しした傾向で、道北は史跡として設置された駅逓碑が最も多い地域です。ただ史跡と云っても管理されなければ消えてしまう事もあるのが実情のようです。ここに掲載している碑もその素材によっては残っていない可能性も有り、その点はご了解ください。現存する旧駅逓所は専用ページを設けたのでここでは省略します。
鉄道開通前で当時の常磐村に明治37年に、現在の咲来地区に開設された。音威子府村史によると駅逓取扱人の長村秀がこの地に移り住み、これが音威子府村の開基という。「北海道宿駅制の研究」で初代取扱人が塚田喜之治となっているが、駅逓の実質的経営は長村秀か・・音威子府の史跡は総てスチール製の看板で高さがあり目立つように配慮されている。「咲来駅逓所跡」の看板は咲来地区の南端、国道の咲来交差点の信号より踏切を超えた交差点の左側角地にあります。 ◇設置:明治37年03月 廃止:明治13年06月 ◇改称:明治38年02月 パンケサックルを改称 ◇初代取扱人:塚田喜之治 ◇所在地:音威子府村咲来 ◇GPS:N44°41’21.7” E142°15’51.1” Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.Maps :G.Maps
恩根内市街地端で恩根内大橋寄りの手塩川堤防近で松の木がある近くの民家建物脇に美深町が設置したオンネナイ(森内)駅逓所の史跡標示板がある。恩根内唯一の商店で民家は駅逓の建物と聞いたが、土台がコンクリートで建物は少し駅逓風ではあるが駅逓舎とは違うな印象だった。美深町史を見ると改築などをしているため形が変わっているが一部の骨組みなどはそのまま使われているとあり聞いたとおり駅逓だった。明治35年に美深まで達していた仮定県道が恩根内迄竣工、仮定県道とは云っても橋は殆どなく渡船頼りで、恩根内でも明治34年に恩根内大橋の少し下流側(恩根内16線)に官設渡船場設置が設置され遅れて私設の渡船場が根内18線に開設され小車方面への往来も便利になった。明治35年に開駅したオンネナイ(森内)駅逓所ですが、大正元年には鉄道が音威子府まで開通し、駅逓の役目を終えて大正3年に廃止された。駅逓跡は堤防に近い松の木が目印。◇設置年:明治35年12月 廃止年:大正03年03月 ◇改称年:明治38年02月 オンネナイを森内と改称 ◇初代取扱人:板東髙三郎 ◇所在地:美深町恩根内 ◇N44°35’42.9” E142°18’09.5”
近くの宮岡食堂で聞いた話では建物の歴史的な証明は難しいが、美深町に残された明治唯一の建築物で、今は何もないが昔は駅逓の看板も掲げていたという。外観は化粧トタンに覆われ、窓はアルミサッシに変わり駅逓舎として確認するのは難しい印象だった。美深町史や北海道官設駅逓所によると明治4年に現在の美深二線(恵深橋付近)に設置され明治37年に全焼再建、明治41年に9線(現在地)に移転、駅逓廃止後も旅館を続けていたようですが建物は昭和3年の大火で焼失している。
その後に建物を再建し旅館を続けられたようですが、その後は下宿や算盤塾などにも使われていたという。建物の明治年代という根拠は不明だが、駅逓看板は唯一残った駅逓の誇りだったのかもしれない。建物前の角地路面に美深町が史跡表示銅板を埋め込んであり駅逓跡で有る事を示している。国道沿いで美深町北四丁目の信号前の建物角地で冬期は降雪もあり確認は困難てしょう。美深町に明治期の建築物はないというのが公式見解のようです。◇設置:明治34年 ◇廃止:大正11年01月 ◇改称:明治38年02月 ピウカを川端に改称 ◇N44°29’09.0” E142°20’40.7”◇美深町大通り北5丁目
仁宇布には明治42年に数個が入植者がいるが、雄武町と美深町の中継地として明治45年に仁宇布駅逓所が開駅、昭和8年から蓮沼靖氏を取扱人として荷物などの運搬、宿泊所の役割を担った。駅逓は昭和18年に廃止、平成3年に美深町文化史跡に登録されていたが、建物の老朽化で維持が難しくなり解体された。駅逓の所有者だった蓮沼優裕さんは、駅逓跡に仁宇布駅逓所史跡のモニュメント建立し美深町に寄贈、モニュメントは高さ3.7m、幅4.1四m、奥行き1.4m、総工費は1244万円と駅逓の記念碑としては破格。仁宇布は未開通区間を残して廃線となった旧国鉄・美幸線の終着駅で、廃線後を利用したトロッコが運行されているトロッコ王国美深がある。◇設置:明治45年01月 ◇廃駅:昭和18年08月 ◇初代取扱人:矢敷和佐 ◇二代:蓮沼靖 ◇美深町仁宇布 ◇美深町文化史跡 ◇N44°32’42.10” E142°34’04.34”
名寄とシカリベツ(一ノ橋)の中継駅逓として、明治37年(36年?)に上名寄23線にパンケヌカナン駅逓所が開設され、明治38年に下川駅逓所と改称された。上幌内駅逓との関係では、入植者は下川町側からのルートで上幌内に入った人も多く、上幌内駅逓所との中継もしたと思われる。官馬は8頭で名寄川対岸の川向(現・北町)と思われる。下川町西町の旧称は通称・元町で駅逓を中心に市街が発展していったが、鉄道開通で中心街は駅周辺に移動。大正9(1920)年の下川、上興部間の名寄線開通で歴史的役目を終えて廃駅となっている。下川駅逓所跡の記念標柱は国道239号線(下川国道)沿いの下川町立病院横(病院敷地内)にあり平成12年 ◇所在地:下川町西町・国道239号線沿い ◇N44°18’15.7” E142°37’57.4”
明治37年に然別8線の名寄川右岸にシカリベツ駅逓所が開設、翌年に一ノ橋駅逓所と改称している。大正9(1920)年に下川~上興部間の名寄線が開通するも森林開発などで奥名寄への往来が有り一ノ橋駅逓所は大正13年まで営業を続けた。駅逓の有った場所は今の一の橋より天北峠よりで一ノ橋(橋の名前)の峠側、名寄川右岸に史跡標柱がある。一の橋では後に奥名寄まで森林鉄道が開設され関東大震災の復興材として大量の木材が輸送された。当時は駅逓を中心にして小集落を形成していたと云うが今は鬱蒼とした森になっており面影は微塵もないく、鉄道駅に中心市街地が移っていく典型的な例と云えそうです。廃校となった「一の橋小学校」施設を利用した「札天山(さってんざん)収蔵館」という下川町の資料館が有り駅逓の資料もあるかも。 ◇設置:明治37年03月 廃駅:大正13年03月 ◇初代取扱人:石丸滝蔵? ◇所在地:国道239号線天北峠 ◇N44°18’51.4” E142°47’14.6”
名寄市風連町下多寄地区で通称基線と呼ばれている天塩川近くに開駅され、駅逓所を中心に船着場、店屋、病院など10数戸の集落を形成していたと云う。駅逓取扱人は大谷幸輔で、上川支庁から3頭の馬が配置されていた。かつての天塩川河畔にあった小集落跡は今の河川敷内で風連教育発祥の地と風連駅逓発祥の地の木碑が建っていたが今は石碑に更新されている。ここは小集落ができた頃より今川良策が自宅に子供を集め勉強を教えた教育の始まりの地てもあるという。基線はすぐ堤防に突き当たり、風連カヌーポートの入口から河川敷に入り左折、ラジコン飛行場の入口に碑が有るが、船崎場跡の碑はないようです。◇設置:明治33年08月 ◇廃止:明治41年06月 ◇所在地:名寄市風連町 天塩川河川敷 ◇N44°19’13.5” E142°23’38.7”
明治42年に剣淵村ペオッペ14線(現・和寒町西和)に官設駅逓所が開設され、昭和3年に廃止になる迄、和寒から幌加内を結ぶ車馬道の重要な中継地であったが、深川から幌加内までの鉄道が開通してからは利用者が減少し歴史的役目を終え昭和3年に廃止された。幌加内峠は当時は難所でもあり駅逓の果たした役割は大きかった。駅逓廃止になってから80年以上が経過し当時の痕跡は残されていませんが、駅逓所跡に自然石の碑と和寒町が設置した説明板がある。駐車スペースもあり。 ◇設置:明治42年02月 ◇廃止:昭和06年05月 ◇初代取扱人:和田常太郎 ◇二代:佐藤竜吉 ◇所在地:和寒町西和14線 ◇N44°00’11.8” E142°17’44.0”
美瑛町唯一の上俵真布駅逓所跡を探していて、土地の方に駅逓跡に親切にも案内して頂いた頃には碑は無かったが最近になって史跡標柱が設置された。現地は藪で駅逓の痕跡は皆無だがそこだけ大きな木はなく開けた感じになっている。昔は尾根を超え忠別から駅逓に買い物に来ていた、志比内より近かったからだろうとの事だった。駅逓廃止後に別の方がニジマス養殖を営んだが続かず廃業、養魚池の跡がわずかに残る。俵真布中央から直線道路を進み橋を越え左側にはいると史跡標柱がある。美瑛町の郷土資料館には駅逓看板が保存されている。 ◇開駅年:昭和13年01月 廃止年:昭和19年09月 ◇取扱人:馬場孫作 ◇俵真布駅逓所跡:美瑛町俵真布 ◇GPS◇N43°36’145”E142°40’35.8”
下富良野官設駅逓所は富山県人を率いて下班渓(芦別)に入地していた兜谷徳平氏が取扱人となって明治32年に開設され、富良野の交通網が一通り出来上がった頃の明治41年に官設駅逓は廃駅、その後は民営で明治44年まで継続されていたようです。駅逓は移住民の通行の便をはかるため一定の距離で設置されるが普通ですが旭川と下富良野の間に駅逓は設置されていない。当時の幹線道路開削は鐵道建設と並行してして進んでおり、交通上の要衝となる所だけに駅逓が開設されたようで、富良野盆地に開設された駅逓所の殆どは鐵道開通と前後している。空知川沿線道路が整備され馬車が通れるようになったのは明治39年頃、空知川沿いに鐵道が開通したのは大正2年というので、島ノ下方面への入植者にとっては不可欠な駅逓だったようです。富良野へ至るルートは旭川(忠別太)経由で入るルートと、空知川沿いのルートがあり、開拓早期の入植人は安全な旭川経由で入る人が多かったようです。富良野市が下富良野と呼ばれた頃の「駅逓」記念碑が、富良野市街、新谷菓子店前の角地にあります。◇開駅:明治32年08月 ◇廃駅:明治41年08月 ◇所在地:富良野市朝日町4-7 ◇N43°20’50.9” E142°23’17.5”
兜谷徳平は富山県西礪波郡(現・富山県小矢部市)出身で明治27年に富山県人の移民団体を率いて現・芦別市福住町に入植したが後に富良野にはいり芦別、富良野の開拓功労者とされる。大正中頃に「富良野用水土功組合」を組織し灌漑用水路、排水溝建設などの泥炭地の開発を行った中心人物で、像は下富良野開発の功績を讃え昭和13年に建立、現在の胸像は昭和25年に原型から作り直されたものという。明治32年に設置された官設下富良野駅逓の取扱人に就任、このときは芦別郵便局長も兼務していた。◇所在地:朝日ヶ丘公園
南富良野町の史跡マップには四カ所有った駅逓の全てが掲載されおり、その中のひとつ金山駅逓所跡にある史跡標柱で金山市街外れの国道脇にある。金山駅逓所は鐵道の開通する前年の明治32年で廃止は昭和3年でした。明治20年代の砂金ブームが去った後も地名にもあるように十梨別流域で砂金採取が続いており、入植者以外の往来も多かったようです。金山駅逓所の初代取扱人は松野寿氏で2代目は武田孝一ですが、南富良野村史に武田孝一が出願して許可がおりたとあるのは金山郵便局の事か?明治明治40に金山郵便局が開局し武田孝一が初代局長となっている。金山駅逓所は占冠への入口となっており荷物の往来も多かった事から駅逓の継続期間が長くなったようです。 ◇開駅:明治32年08月 ◇廃駅:昭和03年10月 ◇初代取扱人:松野寿 ◇2代取扱人:武田孝一 ◇3代取扱人:大野広 ◇4代取扱人:館内由蔵 ◇5代取扱人:館内猛 ◇6代取扱人:館内クニ ◇所在地:南富良野町金山市街地 ◇GPS:N43°08’09.01” E142°24’53.92”
南富良野町の史跡マップには南富良野にあった4駅逓を掲載していたが、現地で史跡標柱を確認出来たのは金山駅逓所と落合駅逓所となっています。落合駅逓所跡は国道からJR落合駅入り口の角地付近で解りやすい。明治32年から昭和2年まで駅逓業務を継続していました。駅逓開設は鐵道開通の前ですが、鐵道開通後も長く駅逓業務を継続、串内駅逓所が明治42年に廃駅となっておりトマム方面への中継もあって廃駅は昭和になってからでした。また北落合への入口でもあり、入植者の他林業に従事する人の往来が多かったようです。 ◇開駅年:明治32年08月 廃駅年:昭和02年06月 ◇初代取扱人:茂木虎徹 ◇二代取扱人:秋田勘平 ◇三代取扱人:秋田清一 ◇所在地:南富良野町落合 ◇GPS:N43°07’25.94” E142°40’04.74”
史跡説明板によると、金山側に旅宿が有ったように占冠側のこの地には茶屋が二軒有り、旅館と飲食店に馬宿となれば人馬継立もあっただろう。一件は明治43年に開設され「じいさんばあさんの茶屋」と呼ばれていたというが、その後経営者が変わり、3代目の経営だった時に廃止された。私設の駅逓そのものですが普通なら碑等は残らなかったと思うが岩崎某が開設した茶屋には「おにばば」という有名人がいて「おにばば」の顔を見ると風土病のコロリが落ちるとか、また「おにばば」見たさに占冠に転勤を希望した役人もいた、役人が泊まったという話も伝わる。官設駅逓が僅かの輸送しかしなかった背景にこの様な人達の存在があった。全文は写真で見てください。◇所在地:占冠村字占冠 金山峠 ◇GPS:N43°04’53.0” E142°23’41.1”
南トマムからまもなくの所に上トマム駅逓跡の碑がある。ここは石狩水系と鵡川水系の分水嶺であり、かつては石狩と胆振の国境で国標もあったという。今は占冠と南富良野の境界で記念碑以外に何もない穏やかな地形でも海抜約570mで金山峠よりも高いが、かつては商店もあったという。説明板によると駅逓は最初は中トマムにあったと云い、中トマムは開拓時代トマムの中心であったが次第に集落の中心が上トマムに移るとともに(駅逓も)この場所に移転したとある。この駅逓も郵便業務は担当せず宿泊がおもで輸送はわずかという。碑は道路際で側溝の方部分に有り気を付けていないと見逃す。トマムという地名が道内各地にあるので混乱するが文字にすると占冠がトマムで陸別は斗満(トマム)となる。 ◇開駅:大正03年11月 ◇廃駅:昭和16年02月 ◇初代取扱人:森数三郎 ◇GPS:N43°02’54.5” E142°39’58.3”
石碑は道道夕張新得線から石勝高原幾寅線に若干入った所の右手にあり樹林のしたになるが、下草は刈られてきれいに管理されている。下トマムトマム駅よりも少し占冠側の地域で此処から幾寅峠を越えて鹿越に抜けられるが峠はダートで急カーブが続く道。この辺は釣りをする人は魅力的な渓相が続いているが、熊もいそうな雰囲気です。◇開駅:大正14年05月 ◇廃駅:昭和22年03月 ◇初代取扱人:山下要助 ◇二代:十塚利三郎 ◇所在地:勇払郡占冠村字下トマム ◇GPS:N43°04’02.7” E142°31’54.9”
国道237号線と道道136号夕張新得線の交差点より占冠中央側に若干寄った青い屋根の物置と民家の間に碑と説明板(平成28年にはなし)があり脇にポールが立っている。駅逓の時代は占冠の中心地だったが鉄道駅や高速道路の普及で、今は占冠中央とトマムにその座を明け渡す形になっている。説明書きによると普通は郵便局開設前は郵便も駅逓が担当しているが占冠の駅逓は郵便の取り扱いはせず、主に宿泊(旅館)であり荷物の輸送を僅かにしていたとある。占冠駅逓所は上トマム駅逓所と下トマム駅逓所の中継駅逓でした。 ◇開駅:明治37年06月 ◇廃駅:昭和08年07月 ◇初代取扱人:岩崎勝治 ◇二代:吉田正美 ◇三代取扱人:永井彦一 ◇所在地:勇払郡占冠村字占冠 GPS:N43°00’15.7” E142°24’22.9”
かつてニニウ集落であった真ん中を高速道路が貫通し、キャンプ場は廃止されている。そんなニニウの入口でサイクリングターミナルの広告塔と一緒に碑があるのは痛ましくもあり何とも皮肉な風景だ。駅逓時代は徒歩で越えたという鬼峠は既に廃道となり、占冠側にある鬼峠民有林道(本来の鬼峠ではない)の急斜度にその一端を垣間見る。説明板には「鵡川を渡り鬼峠を越えるこの地は陸の孤島の中のまた離島といわれ交通の不便なところであった」とあり「日本のチベット」とまで言わしめた秘境のような場所だった。駅逓は昭和20年に廃駅となっているが、廃止後は阿部旅館となり若干の日用品を扱っていたという。従来の道が占冠から鵡川沿いに続くがニニウで通行止で高速道路からの出入り口はなく今も孤島に等しい。◇開駅:大正06年12月 ◇廃駅:昭和20年09月◇初代取扱人:小林昇之助 ◇二代:三船留七 ◇所在地:勇払郡占冠村字ニニウ ◇GPS:N42°57’27.0” E142°19’50.6”
徳富ダム近くで左手の林に幌加徳富駅逓跡の碑が有るという情報で古い幌加徳富駅逓跡碑の写真を見た事があったが、周囲が農地再開発で様相が少し変わって道路も変わったのか、駅逓碑も更新され道路に近い所に立っていた。駅逓の改廃年が北海道宿駅制の研究とは異なっており民営の期間があったようです。かつての小学校が有った所かもしれないとのことだが、すぐ近くに廃屋の痕跡もみられた。碑は草が伸びるとみえないかもしれません。この地域は今では道が行き止まりとなっているが、かつては清水峠(標高513m)を経て浜益川支流の泥川沿いに下って泥川駅逓とつながっていた。泥川旧名は留別内とあり元々はルベシベだったのか?◇開駅:明治42年01月 ◇廃止:大正12年03月 ◇初代取扱人:青野源治 ◇所在地:新十津川町北幌加 ◇GPS:N43°34’46.80” E141°39’13.86”
南幌加小学校跡より数百メートル手前で右折し、徳富ダム方向に進み徳富川を越えて道路がカーブし登りにさしかかる所で左法面に中程に碑がある。北海道宿駅制の研究より碑の方が一年早い開始年となっており民営の期間があったものか?この先は農地の再開発と現場関連の事業所があるだけで無人地帯。碑の位置は見上げる高さにあるので離れた距離から見た方が探しやすいかもしれない。付近の白樺林は元々は水田だったようで段々となっていた。◇開駅:大正08年02月 廃止:昭和16年10月 ◇初代取扱人:菊田馨太郎 ◇二代取扱人:菊田清兵衛 ◇現住所:新十津川町南幌加 ◇GPS:N43°33’53.77” E141°40’54.62”
新十津川から浜益に抜ける途中、吉野小学校の隣に「西徳富駅逓跡」が有ります。吉野小学校は既に廃校となっており、現在は「風の美術館」となって碑は「風の美術館」入り口の左側、道路脇で目立つところにある。小集落の中心地なので碑は割と簡単に見つけられると思います。かつてこの辺よりワッカウェンベツにかけてアイヌ給与地があって約50年ほどコタンがあったという。近くに中空知コタン跡入口の碑が近くにある。 ◇開駅:明治37年04月 ◇廃止:大正08年03月 ◇初代取扱人:中垣隆太郎 ◇所在地:新十津川町吉野 ◇GPS:N43°35’44.77” E141°43’53.21”
明治24年の増毛道路開削にあわせて明治24年に設置された三駅逓の一つで他には尾白利加と仁奈良の駅逓がある。恵岱別駅逓所跡碑は雨竜川支流、恵岱別川左岸側の道道94号線で「ふぁ~む ふかせ」敷地内で道路際沿にあり北竜町にはいる。恵岱別駅逓所の開設場所は雨竜側の恵岱別に設置されたというのが定説だが、最近は最初から北竜の恵岱別に設置されたという説が有力視されているようです。増毛道路は尾白利加から直進して途中から西側に入り山越えで恵岱別に抜けていた事と、取扱人が後藤喜代治だった事もあり疑問視される事もなかったようだが最終確定には至っていないようだ。明治36年に仁奈良駅逓が廃止された頃は増毛道路の山間部が廃道化していたようで、雨竜への幹線道路が出来た明治40年に和へ移転再設置、和(やわら)駅逓所と改称された。駅逓の取扱人は後藤喜代治であり北竜町史に取扱人とあるのは実質的な駅逓管理者だろうという。増毛道路は一度は廃道になっていたが現在は信砂に抜ける道道となって復活、今は峠を迂回して低い所を通っている。なお仁奈良駅逓は増毛町の史跡になる。 ◇開駅:明治24年06月 ◇廃止:大正05年08月 ◇初代取扱人:後藤喜代治 ◇GPS:N43°42’50.2” E141°49’34.8”
明治24年、増毛道路の開削にともない尾白利加駅逓が置かれ滝川、増毛方面への物資や郵便物の輸送を取り扱っていました。旧増毛道路は現在とは違いオシラリカよりほぼ直進し恵岱別川の手前から恵岱別川右岸側を西に向かっていた。尾白利加駅逓所は尾白利加川の河口近くの北側にあり、増毛道路開削に使われた囚人の宿泊小屋が駅逓舎として利用されたというが、国道と堤防道路がY字形交差している所(後藤橋付近)にあった説明板とハト場跡は撤去され、北200m程の距離にある雨竜町発祥の地に移動して再建されている。駅逓取扱人の後藤喜代治は同時に恵岱別駅逓の取扱人だったが恵岱別駅逓は代理人をおいていたようです。江竜橋(旧橋の有った方)のたもとには伏古渡船場跡の記念碑がある。。 ◇開駅:明治24年06月 ◇廃止:明治39年06月 ◇初代取扱人:後藤喜代治 ◇所在地:雨竜町字尾白利加83-3 ◇GPS:N43°37’24.0” E141°52’50.1”
碑は浦臼町の道の駅から国道275号線を少し北上した「道の駅鶴沼まで2km」の表示板がある所で、浦臼からだと国道275号線の左側、廃業した古い商店の建物の脇、碑は平成10年に更新されている。この付近では石狩川の船着き場に近い所に駅逓が有るような印象が有り、石狩川の船運とは密接にかかわっていそうです。同じ所にあるもうひとつ碑は「稜位」「浦臼先住者為 青木六蔵氏贈之」と刻まれている。樺戸川駅逓所の初代取扱人、青木六蔵氏が寄贈したようで先住民族に敬意を示したものか? 松浦武四郎の日誌(安政五年)ではウラシナイに数人のアイヌの方々が住んでいたと記されている。樺戸川駅逓所は増毛道路の開通に伴い開設された駅逓で、取扱人は青木六蔵氏で浦臼町で農場を開設した浦臼開祖の一人。松浦武四郎の十勝超日誌(安政五年)ではウラシナイにアイヌの方々が数人の住んでいた。 ◇開駅:明治24年06月 ◇廃止:大正01年10月 ◇初代取扱人:青木六蔵 ◇所在地:浦臼町於札内 ◇GPS:N43°28’01.33” E141°50’57.96”
北海道庁の命を受けた高畑利宜は樺戸集治監の服役者を使い旭川までの仮道路を作った。その高畑利宜が役人を辞して明治22年に開設した5駅逓の一つで音江法華駅逓所-第2美英舎と名付けられ、上川街道の中継点として人馬を備え、宿泊と運送の便をはかった。建物には本館をはじめ、きゅう舎などの付属施設がありました。説明板は国見峠へ向かう市道(旧上川道路)わき、敬徳寺斜め向かいにある。国見峠展望公園の視界は以前と比べると良くない。 ◇設置:明治22年04月 ◇廃駅:大正11年07月 ◇初代取扱人:高畠利宣 ◇二代:沼田覚兵衛 ◇三代取扱人:山本弥太郎 ◇四代:疋田与惣治 ◇五代取扱人:高橋惣吉 ◇所在地:深川市音江町1丁目12番22号 ◇N43°41’52.38” E142°04’46.74”
高畑利宜が役人を辞して明治22年に開設した5駅逓の一つで第三美瑛舎ともいう。国道沿いで滝川に向かって空知大橋を渡り最初の信号を右折すると、ふじ観光と中央バス滝川営業所の境界で道路際にある ◇開駅:明治22年03月 ◇廃止:明治39年05月 ◇初代取扱人:高畠利宣 ◇所在地:滝川市新町3丁目1番 ◇N43°33’01.4” E141°54’46.2”
砂川から道々114号へ入り、市役所を抜けてから赤平駅へ抜け道々691号の手前で、道々から3本ほど山側に入った所で左折すると歌志内商工会パーキング前に歌志内駅逓所跡の史跡標柱がある。地元の方によると旧道はこちら側を通っていたと、かつては赤平と芦別に抜ける分岐点近くだったのかもしれない。歌志内駅逓が設置されたのは明治37年、赤平と芦別は大正2年に根室本線が開通したが、芦別の奥地は歌志内から峠越えの方が近かったのか? ◇開駅:明治37年04月 ◇廃止:昭和05年08月 ◇初代取扱人:田中次吉 ◇二代:高瀬藤七 ◇所在地:北海道歌志内市字本町 ◇GPS N43°31’22.8” E142°02’24.0”
高畑利宜が役人を辞して明治22年に開設した5駅逓の一つで第四美瑛舎ともいった。国道12号沿いで、奈井江川を渡る橋の近く、札幌から旭川方面に向かい橋を過ぎ左側で最初の商店横空き地に、奈井江町開拓記念碑と説明版がある。駅逓そのものを記念する碑ではないが、説明版の中で第四美瑛舎が当地に明治22年開設され明治24年に廃止されたと記してあった。鉄道開設準備のため設置された駅逓という側面もあるようで、鉄道は明治24年に砂川まで開通している。◇開駅:明治22年04月 ◇廃止:明治44年11月 ◇初代取扱人:高畠利宣 ◇所在地:奈井江町106−7 ◇GPS:N43°25’14.17” E141°53’09.13”
はっきりしないが岩見沢発祥の地公園に関して、明治11年官設駅逓所が開設されたが幌内鉄道の開設で廃駅、狩野末治に払い下げられ明治16年頃より旅人宿と渡し守をしたとされている。高畠利宣の駅逓(第五美瑛舎・明治22年)とは開始年が異なりこちらが岩見沢最初の駅逓のようで、この駅逓と渡し場を中心にして市街地が開けた。また岩見沢の地名起源(数説有り)となった浴沢(ゆあみさわ)もこの近くという。場所が少し複雑だが便利な公園です。 ◇開駅年:明治11年 廃止年:明治15年? ◇初代取扱人:狩野末治? ◇所在地:岩見沢市北本町東1丁目 幾春別川右岸の幾春別川リバーパーク内
士別など音威子府以南の天塩川流域の開拓は道路開削と鉄道開削が相前後して進行する地域で、それ以前の物流や交通は川舟が主体で駅逓は基線道路(今の国道)が天塩川に突き当たる天塩河畔の左側にあり道を挟んで右側に士別最初の大内渡船場があったという。士別駅逓は取扱人の名をとって矢口駅逓と呼ばれていたというが鉄道が開通して明治35年頃に停車場通り角(現・士別市大通西7丁目)地に移転したよう(士別よもやま話より)ですが取扱人の詳細な資料は残っていないようです。経営実態の詳細も不明だが鉄道開通後も駅逓を営業していたのは上士別方面への需要があったためか? 今のぶどう公園付近一帯は駅逓牧場だったようです。河川敷や移転先を確認しましたが駅逓に関連する碑等はなく隣にあったという渡船場の説明板がありました。渡船場を営んでいた大内勇記は宮城県出身で1898(明治31)年につくも橋下流に越冬小屋をつ作ったとされる。◇設置年:明治33年06月◇廃止年:明治41年06月◇所在地:士別市北町 天塩川緑地公園
幌加内町堺に近い江丹別町中央、江丹別市民交流センターに隣接する小公園に明治開拓記念碑があるが、大正7年に江丹別神社参道入口付近に建立されたのを平成16年に現在地に移設したという。碑は明治の開拓者4人を顕彰する意味も込められているようで酒井茂作氏を初め4名の名が刻まれ、特に江丹別の草分けとなった酒井茂作氏の功績が絶大であったようです。酒井茂作氏は文久3年に新潟県で生まれ、明治22年に単身渡道し札幌にて商売を営み明治25年頃に現・厚真村に転住、農場経営に乗り出し開墾は成功するも殆どの財を失い厚真村の農場を売却、明治28年に単身で江丹別で入植地の調査をし明治30年に上江丹別の貸下地を購入、明治31年になって妻子、小作人を伴って入植したというが明治開拓記念碑では28年を入植としている。当時の上江丹別は鷹栖村の一部であったが道も無く開拓は困難を極め、地主で有りながら喰うにも困る有様で死守した土地は6戸分ほどという。酒井氏は私費で仮道路開削、学校、医療私設などへの敷地提供など公共事業にも尽力、今の江丹別中央は酒井茂作氏の努力で形成されたと云ってもよい。酒井氏は多くの公職をも歴任しているが駅逓取扱人となって明治35年に上江丹別駅逓所を開設、明治38年に江丹別駅逓所と改称、2代目取扱人の酒井波之助氏の代だった昭和7年に廃止されている。駅逓の有った場所は碑のある近くだったようです。
碑文より一部転載「明治21年5月、安藤彦松氏が入地し開拓の鍬がおろされた。以来時移り人かわれども、たくましい開拓精神を受け継ぎ素晴らしい郷土と強い郷土愛が生まれる。百年の節目に先人の尊い遺業を讃え、未来に向けての栄光を顕彰する。」先人を讃えた顕彰の碑でもあり昭和63年に建立された。旧駅方面にて旅宿を営んだ安藤彦松氏は明治21年の入地で移住民第1号、駅逓取扱人となる岡和田仁太郎は明治24年の入地で移住民第2号でした。鉄道開通後に2人は協力して神居古潭に最初の吊り橋を架けたという。忠別太駅逓と音江法華駅逓間の距離が長く坂も多かったため通行に難儀し駅逓官設の要望が強く、岡和田仁太郎氏を取扱人として明治24年6月に神居古潭駅逓所が設置され明治44年に廃止された。駅逓と多少関連あるのはこの碑だけで駅逓跡を示す痕跡などは皆無。
明治19(1886)年に国道12号の前身となる市来知~忠別太間の87.9kmの上川道路(札幌・岩見沢間は含めず)が着工され3ヶ月で仮開通、工事には樺戸集治監の囚人が駆り出された。翌年から本工事が開始され樺戸、空知集治監の囚人らが動員され明治23(1890)年に全線開通。軍用道路という性格を併せ持っていた事もあり人力による突貫工事で多くの囚人達が犠牲になった。開道百年を記念して昭和44(1969)年に空知太神社境内に、囚人の慰霊のため砂川市と北海道が「上川道路開鑿記念碑」を建立しているが、当事者の北海道が犠牲になった囚人の為に建立した碑は他にしらない。◇撮影地:砂川市空知太 ◇GPS:N43°32’35.38” E141°55’11.73”
駅逓数は七駅逓と中川町は上川管内で開設数が多かったが今は形跡も殆どなく碑などもない。集団離村して今は誰も住んでないワッカウェンベツ、町道ワッカウェンベツ線を辿った奥にあったワッカウェンベツ(大和)駅逓所は大和小学校のあった敷地内と同じようですが、この地に行くのはオフロード車でも難しいかもしれない。大和小学校の痕跡はまだ残っているようですが、人々の記憶から消えるの防いでくれるのがワッカウェンベツ(大和)駅逓の木彫看板、エコミュージアムセンターに展示されています。◇設置年:昭和06年12月 ◇廃止年:昭和22年03月 ◇昭和16年04月,大和と改称◇初代取扱人:高野正盛 ◇二代取扱人:高野孫市郎 ◇三代取扱人:東浅雄 ◇現住所:中川町大和 大和小学校跡にほぼ同じ。
中川町はその面積にしては駅逓の開設数が多かった町で、かつてはハッカ景気などで活況を呈していた時代もあった。安部志内川沿いで通り抜けの出来ない最奥にあった板谷駅逓所は大正15年設置で昭和19年廃止の経過をたどり建物は既に無いが、駅逓前に植栽していたという外国産の松並木(ストローブ松?)が残っている。記念碑こそないが板谷から恩根内への分岐手前の「駅逓の松」にかって存在した駅逓の痕跡を見る。斉藤茂吉小公園近くに有った志文内(共和)駅逓所は駅逓廃止後には営林署の宿舎として平成まで利用されていたが今やその痕跡も殆ど無い。※駅逓の総数で6駅逓が開設された中川町は上川管内では駅逓所開設数が多いが、駅逓跡も板谷と大和、共和以外は詳細な位置特定出来ていない様で碑などもない。今の国道沿いにある田村川はかつては沼の名残らしくトートマナイ駅逓所の出所らしい。駅逓の場所は不詳だが船着き場付近にあったと思われる。アベシナイ駅逓所は当時の地図にアベシナイ河口左岸近くに駅逓マークがあるが実際は安川三の学校の沢にあったという。駅逓取扱人は中川最初(明治29年頃?)の入植者だったという北村恭助氏でした。 ◇設置年:大正15年10月 廃止年:昭和19年12月 ◇改称年:昭和16年04月 板谷農場を改称 ◇初代取扱人:渡辺仁太郎 ◇所在地:中川町板谷 ◇板谷駅逓所跡 ◇GPS・N44°39’42,1” E142°03’11,7”
天人峡温泉の開湯は1897(明治30)年、松山多米蔵がアイヌの人から滝と湧泉の話を聞き、案内を受けて忠別川を遡り温泉を確認した松山多米蔵にちなみ「松山温泉」と呼ばれた。3年後の1900(明治33)年に松山温泉旅館(現・天人閣)が完成し営業を開始。1923(大正12)年に松山温泉から旭岳、層雲峡から黒岳、縦断登山道の開削、山小屋や旭平、雲の平に石室設置など登山環境が整い「忠別渓駅逓所」が開設。1936(昭和11)年に地元と大雪山国立公園観光連盟が協議し天人峡温泉に統一され駅逓も「天人峡駅逓所」と改称、昭和13年に廃駅。駅逓取扱人は西村治太郎氏、松山登氏でした。観光スポットの天人峡には国内2番目の落差を誇る「羽衣の滝」がある。 ◇開駅年:大正12年10月 改称年:昭和16年06月 ◇廃止年:昭和22年03月 ◇初代取扱人:西村治太郎 ◇二代取扱人:松山登一 ◇所在地:上川郡東川町天人峡
温泉は1900(明治33)年に塩谷水次郎氏、古宿小八氏らによって確認され、のちに湯小屋などが建てられ温泉宿の原型となる。1922年(大正11)に明治から有った温泉宿で塩谷温泉の経営が塩谷水次郎より荒井初一に変わり石北線鉄道工事・従業員の仮宿泊場として利用された。大正12年に黒岳登山道が開削され、層雲峡は登山基地としての需要が高まり塩谷駅逓所?を(現・層雲閣敷地内)開設、駅逓取扱人は荒井孝忠であった。昭和3年に層雲峡駅逓所に改称、昭和13年廃駅となっている。駅逓舎は洋風2階建てあったという。駅逓廃止後も温泉宿は継続され層雲閣に継承されている。◇開駅年:大正12年12月 改称年:昭和03年05月 ◇廃止年:昭和13年10月 ◇初代取扱人:荒井孝忠 ◇所在地:上川郡上川町層雲峡温泉
吹上温泉の開湯は1937(明治39)年頃というので、硫黄鉱山開発が始まってからの事。吹上温泉の経営は1922(大正11)年に中川三郎から、吹上温泉までの道路開削をした飛沢清治に経営が変わった。1926(大正15)年の十勝岳大噴火では被害を受けなかったと云うが山麓では泥流で甚大な被害をうけた。大爆発以来幾度もの小爆発で山岳研究者の外に利用者は絶無で温泉経営が成り立たず閉鎖状態に陥り十勝岳火山観測も中止状態に。火山観測など山岳利用者のため1927(昭和元)年に吹上温泉宿を官設硫黄山駅逓所とし官馬3頭が貸し付けられた。硫黄山駅逓所は昭和7年に「十勝岳駅逓」と改称、昭和16年廃駅。駅逓開設の趣旨が一般的な駅逓とその性格は異にしている。廃駅で駅逓の建物は軍が解体し接収、温泉宿も泉温の低下あったようで1943年(昭和18年)に廃業、露天風呂は放置された。1988(昭和63)年の十勝岳噴火以降の湯温上昇があり露天風呂(野湯)の利用者が増え、1991年に「吹上露天の湯」として露天風呂が再整備された。◇開駅年:昭和02年08月 改称年:昭和07年07月 ◇廃止年:昭和16年11月 ◇所在地:上富良野町吹上温泉
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