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トップメニューとレイアウトの一部変更、見直しをしています。
江戸期の駅逓は通行屋や会所になりますがそれらを模して建てられた施設は、古い設計図を元に厳密に復元した建物でないため、復元ではなく「再現施設」としました。駅逓では往時の姿で現存する施設と「復元修復」「修復改変」「部分改築」「再現施設」に区分しました。そういうわけで厳密には駅逓ではない施設も含まれますが、その点はご了解の程をお願い致します。非公開施設でも外見を見るだけなら可能でしょう。同じ会所という名称でも蝦夷地と和人地ではその機能や役割、性格が異なりますがあわせて掲載してます。
余市川を挟んで上ヨイチ、下ヨイチと二つの運上屋があったが、現存するのは下ヨイチ運上屋で松前藩が80ヶ所ほど設けた運上屋の中で唯一現存するもの。運上屋は竹屋林長左衛門が1853(嘉永6)年に建てたもの。北海道の宿駅制研究の明治編に「運上屋で駅務を行う」とあり、明治15年の旧札幌本庁駅逓取扱人一覧では青木善松となっているので、駅逓廃止はその後となるのでしょう。運上家の間口は22間あったというが1889(明治24)年の改修で16間に縮小される。1976(昭和51)年に嘉永6年(1853年)に改築した当時の古図面を基に改修復元がなされ1980(昭和55)年から公開されている。竹屋林長左衛門は1811(文化8)年からヨイチ場所の請負人となり1812(文化9)年には場所共同請負人。アブタ、次いでアッケシ場所経営、ヨイチ場所請負は1869(明治2)年の場所請負制度廃止まで至る。普通は運上屋とするのが一般的だが運上家でも間違いではないようです。◇駅逓請負人:竹屋長左衛門 引き継ぎ後は戸長役人 ◇記念碑:建造物一式他 ◇所在地:余市町入船町10 Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.Maps :G.Maps
横町あたりにあったとされるイシカリ十三場所の勤番所と元小屋(運上屋)、その元小屋をスケールダウンし現代風に再現した観光案内所(観光協会事務所)です。元小屋とは石狩川および支流に設置されたイシカリ十三場所の元締めであったので元小屋と称されたが、通常は運上屋(会所)という施設。史跡ではありませんが、ここでは準運上屋として扱いました。明治の初めは石狩本陣とも称したが、場所請負制廃止でその役目を終えます。石狩場所請負人であった村山家は屋号を「阿部屋」といい、初代伝兵衛は元禄期に蝦夷地に渡ったと言われています。廻船業から場所請負に手を広げ最盛期は三代目伝兵衛の頃で東蝦夷地11ヶ所、西蝦夷地7ヶ所の請負であったという。1806(文化12)には石狩十三場所を請負うが、6代目伝兵衛の時に場所請負制度が廃止され一漁場の経営者となる。場所請負人についての評価は色々とあるが、現代風に云うなら政商でブラック企業(立場で見方は違うかも)と云うところでしょうか。◇所在地:石狩市弁天町38
シコツ16場所とも呼ばれ、白老、千歳、苫小牧、鵡川、門別などに運上屋があり、勇払は河海両域の交通の要で交易の拠点であり、交易品の集積地として栄えていた。1799(寛政11)年に幕府は蝦夷地を直轄領とし勇払川の東側にかつての運上屋を会所と改め設置した。このとき15場所を統括し勇武津会所として統一、従来の交易施設だけでなく幕府の役所としての機能をもつようになる。翌1800(寛政12)年には、八王子千人同心一行50人が勇払に移住して開拓と警備に従事した。1804(文化元)年、波浪浸食により石碑建立地に移動、下宿所三棟、倉庫七棟、弁天社一社があった。幕府は1821(文政4)年に蝦夷地直轄を解除し松前藩に返還したが1855(安政2)年に再び直轄化している。1869(明治2)年に開拓使勇払役所が置かれ、1872(明治5)年、開拓使出張所となるが、出張所は翌年苫小牧に移り廃止となる。勇払場所請負人は山田屋仁右衛門で明治8年に漁場返上するまで、勇払、千歳や島松駅逓の取扱人、実際の経営は現地支配人がしていた。近くに勇払会所を模した勇武津資料館がある。◇所在地:苫小牧市字勇払132番地の32
江戸末期にこの地方には鷲の木、山越内、長万部に会所(通行屋)があり、山越内会所は1773(安永2)年開設で山越内関所より一世紀近く早いが、1864(元治元)年に山越内場所が村並となり、伊達林右エ門が山越内場所請負を返納、会所は村民に引き渡され、旧幕府の命で人馬継立等を取扱っていた。維新後の明治5年に会所を駅馬と改称「取扱費用ハ明治六年三月十五日マデ官費支給、后チ民費ヲ以テ取扱フコトトナリシガ、明治十二年十月駅法改正シ、人馬継立所ヲ置カルルニ及ンデ之ヲ止ム」とあり官費支給は明治6年まで、そのあとは村営の駅逓となるが財政基盤が貧弱で人員配置はなかったようだ。後の駅逓制度変更で明治12年に「人馬継立所」となるようですが、旧道庁駅逓取扱人名簿(明治15年)に山越内はみあたらない。 ◇歴代駅逓取扱人 ◇元治元年以前:場所及び駅逓取扱人:伊達林右エ門 ◇元治元年~(平民)谷五郎と(平民)庄助→(平民)良太→野村金蔵→(平民)喜八 ◇明治6年~村上清蔵→山田喜八→工藤清蔵→佐野庄助→澗山浩平→松岡甚吉→浅山直方。(平民)庄助は佐野庄助、(平民)喜八は山田喜八と同一人物と思われる。◇山越内駅逓所廃止年・詳細不明
会所の井戸解説板には関所跡の絵図を参考に推測復元したと書かれている。処刑の石の解説板に関所跡の石碑に付随して「夜泣き石」が置かれ、その解説板も設置されている。関門・会所跡より200mほどのJR山越駅は、関所をイメージした駅舎で観光と休憩スポットになっている。◇所在地:八雲町山越 JR山越駅付近
1845年建築で、2001年4月に復元、建て替え、その際に旧町会所の建材も用い、木造平屋建で地下1階もある。1993年11月に新庁舎に移転するまでの約150年間は江差町役場としても用いられた。中歌地区の拠点でもありインフォメーションセンターで、町会所の歴史を展示している。和人地の会所は行政機関ということで蝦夷地の運上屋や会所とは役割や性格は異なるが、かつては駅逓事務と取り扱ったであろうと考えて掲載した。江戸期には松前や函館とならび産業や行政の中心地でもあり、駅逓業務の中で宿の需要は民営でも可能だったと思うが飛脚任せに出来ない公用状(公金なども含めて)の継立などは必須だったと思われる。国道227号線、228号線、229号線、276号線、277号線の交わる交通の要衝で建物横に1928年に設置されたという道路元標がある。◇入場無料、4~10月の9:00~16:00オープン。◇所在地:江差町字中歌町
道道251号線沿いに駅逓制度が終了した昭和22年迄残っていた駅逓で現存する旧駅逓舎。道道の改修工事の時に若干移動し、一部改築されて残されたという。駅逓の特徴的なデザインとはやや異なるが当時の様子がうかがえる。ただ痛みは相当で俗に言うナマコ鉄板で覆われたりシャッターの付設などかなり様変わりしており、旧駅逓を示す標柱がなければ気付かないでしょう。 ◇設置:昭和03年10月 ◇廃止:昭和22年03月 ◇初代取扱人:玉置栄吉 ◇二代:玉置富一 ◇所在地:士別市温根別北18線 ◇N44°15’58.7” E142°15’14.9”
明治19年に上川郡農作試験所事務所として建設され、明治20年に樺戸監獄署に移管された。高畑利宜は明治22年に道庁を辞して人馬継立兼宿泊所の設置を道庁に請願し岩見沢、奈井江、空知太、音江法華、忠別太の5駅逓の一括取扱人となり、駅逓を第一美英舎から第五美英舎と命名し営業を開始した。高畑利宜のに貸し下げられた忠別太の建物は第一美英舎となり明治36年(北海道宿駅制の研究では明治34年)の駅逓廃止まで物資輸送と交通の要であった。高畑は空知太に居住し他の駅逓には管理人を置いていたというが、忠別太駅逓所の管理人は疋田新助氏でした。道庁時代の高畠利宜は第3土木課の属官で、北海道庁長官だった岩村通俊の命を受け樺戸集治監の囚徒を動員し約3ヶ月で仮上川道路(三笠市~旭川)を開削している。仮道路は辛うじて人馬が通行出来る程度であったらしく、明治21年より工区を二つに分けて改修工事に着手、樺戸監獄署と空知監獄署の囚徒を大量動員して明治23年12月に竣工するが、その時には高畑利宜を取扱人とする5駅逓が既に開設されていたことになる。一人の取扱人が5駅逓所を取り扱うというのは高畠以外に例が無く特別な扱いだったようです。建物は上川地方に現存する最古の建物で、昭和62年解体調査。昭和63年現在地に復元展示される。また旭川地方気象台の前身で明治21年開設の上川二等測候所でしたが明治23年に移転独立している。◇所在地:旭川市神居1条1丁目 1-30
沼田町の国道275号線沿いにあるで、明治27年(1894)に開設され、明治33年(1900)に官設の駅逓となり、大正5年に廃駅となっている。官設駅逓所は外観と間取りが類似するのが普通だが、仁多志別駅逓所は切妻屋根で、白漆喰塗りの真壁、竪繁格子、1階前面の蔀戸などがある「セガイ造り」という手法で建てられた歴史的建造物で、北海道内に現存する駅逓のうち旧態をとどめた数少ない遺構の一つであり昭和46年に道指定有形文化財に指定される。開設地は仁多志別ですが、本願寺農場用地に位置していたので一般には「本願寺駅逓」と呼ばれた。隣は北竜地区活性センターで駐車スペースも十分、見学は可能だが管理人は常駐してません。バス停は「本願寺前」。 ◇現住所:雨竜郡沼田町字北竜第1
明治3年に東本願寺の現如上人が中心となって札幌と伊達を山越えで結ぶ道路開削に着工、1年3ヶ月後の明治4年10月に完成。開拓使は旅人の宿泊、休憩の便宜を図るため札幌と定山渓間に宿泊所が必要と考え、翌5年1月簾舞通行屋を設置し明治17年に廃止されるまで利用された。明治19年の新道完成に伴い明治20年頃現在地に移築し東半分を農家として増築した。家守の黒岩家は農業のかたわら大正7年、定山渓鉄道が開通するまで宿屋を営業、以後は昭和57年に新宅に移るまで住宅として利用された。本願寺道路は国道230号線の原型となったが、簾舞中学校の体育館裏に当時の旧街道跡が残っている。建物は昭和59年3月に札幌市の有形文化財となり、翌60年に解体修復工事が完了し往時の姿が再現されている。通行屋の部分はキングポスト・トラストの小屋組が架けられ、開拓使の洋小屋としては最初の遺例で建築学的にも注目されているという。昭和61年の文化財公開時に建物の一部を簾舞郷土資料館とし関係資料を展示。屋守であった黒岩清五郎氏は安政年間に来道し有珠善光寺の寺侍となり、その後は函館在「軍川」に定住し水田試作を試み函館奉行所からその他の通行屋を任されたが、明治5年開拓使より簾舞通行屋の「屋守」を特命された。当時平岸以西定山渓までは黒岩家一戸のみで、簾舞の開祖といえる。一般的に通行屋は江戸期の宿駅を云い新設駅逓に通行屋の呼称は珍しいが、明治5年は駅逓の名称がめまぐるしく変わった年で、その直前に簾舞通行屋が設置されたのでサンタロベツや簾舞は数少ない遺例。◇所在地:札幌市南区簾舞1条2丁目4-15
双渓珠駅逓所は明治40年に喜茂別村と大滝村の中間地点に設置された官設駅逓所で、荷物の搬送や郵便、宿泊などの業務を行い、北海道の開拓に大きな役割をはたした。駅逓としての実働期間は明治42年~昭和9年で、明治45年に長家国太郎に引き継がれたが、鉄道の開通により廃駅となっている。双渓珠駅逓所は喜茂別町双葉の千葉商店前にあったが、北海道の開拓を知る上で貴重な建物であるため、昭和55年に北海道開拓の村へ駅逓所建築物と厩舎建築物が移築復元なされた。駅逓初代取扱人は水沼菊三郎でした。駅逓舎は復元や一部改変を逢わせると道内に19件があるが厩舎は旧ソーケシュオマベツ駅逓所と旧奥行臼駅逓所以外ではみていない貴重な遺例といえます。北海道開拓の村には馬車鉄道もあり当時の様子がよくわかるようになっている。 ◇所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌(開拓の村) ◇旧所在地:虻田郡喜茂別町双葉14番地
明治45年4月松田与三氏によってこの場所に開駅されと有るが、官設駅逓としてはと云う事なのか?交通不便な地域文化の発展に大きく貢献した。昭和5年夕張鉄道の開通に伴い、昭和6年11月廃止となる。北海道宿駅(駅逓)制の研究では開始年が明治42年と異なっていることから私設駅逓の期間が有ったののか。平成18年登録有形文化財に登録された事を記念した碑がある、かつては水害の常襲地帯ということで駅舎の土台が高く、内部の床もかなり高くなっているのが特徴です。駅舎内には「先祖の仏壇を置いてあるだけ」「文化財に指定されても何もいいことは無い」と管理人さんが呟かれていた。行政の支援が必要でしょうね。 ◇開駅:明治42年12月 ◇廃止:明治06年10月 ◇初代取扱人:伊藤菊松 ◇二代:松田長五郎 ◇三代取扱人:松田謙一 ◇四代:松田保 ◇所在地:南幌町元町3丁目3-19
丸瀬布上武利に有る神居滝簡易郵便局の北側にかつてムリイ駅逓所だった施設の一部(二階部分)が住宅として活用されている。上藻別駅逓はこのデザインを一部採用しているというが、トタンが張られ外側からでは原型を推測するのも難しいが、美深の旧駅逓に似ている印象。現在は無住の館となっているが管理はされている様子。ここはかつて湧別アイヌ一族のコタンがあった所で近くにカムイコタンの碑が有る。◇設置:大正14年05月 廃駅:昭和17年09月 ◇初代取扱人:徳正亀太郎 ◇二代:藤本勝治 ◇三代取扱人:徳正高之助 ◇所在地:遠軽町丸瀬布上武利 ◇N43°54’56.4” E143°19’44.9”
かつて開拓使により北海道開拓のため重要な道路に駅逓所が配置され、東洋一と言われた鴻之舞金山の開発に伴って上藻別にも駅逓が設置された。上藻別で復元された旧上藻別駅逓所は紋別市中心街から南約23kmの上藻別にあります。旧上藻別駅逓所は大正15年に官設駅逓所として開駅、昭和9年に増築されている。初代駅逓取扱人は高地登氏。入母屋造鉄板葺平屋建(鉄板葺は後の事で最初は柾葺き)の本館と寄棟造鉄板葺2階建の増築部からなり、外壁は下見板張で二回窓には装飾的な額縁が取り付けられ、内部は中廊下式で客室を配置、紋別地方に現存する駅逓舎で北海道独特の様式を残す代表的な古建築物。上藻別駅逓は昭和15年、駅逓業務廃止の後は昭和24年まで高地旅館として営業した後住宅として使用された。その後上藻別駅逓保存会の手により修復され、現在は開拓資料や鴻之舞鉱山資料などを展示公開、当時の鴻之舞を知る上では大変貴重な存在。展示スペースは駅逓本館内と別棟の他、三塔のサイロを使用した展示スペースを確保。鴻之舞鉱山坑道で使用された機動トロッコなども屋外展示(屋根有り)など、展示物に関しては他の駅逓施設とは比較にならないほど充実している。平成20年に国の登録有形文化財になっている。子供が退屈しないようにブランコや吊り橋などもあるなど至れり尽くせり。 ◇所在地:紋別市上藻別 上藻別駅逓保存会 ◇TEL:0158-26-5110 ◇GPS:N44°11’17.1” E143°20’093”
大正9年、官設駅逓として開駅、取扱人は佐野準一郎氏。昭和11年廃止、建物は佐野氏に無償譲渡され住居として使用されていた。昭和45年、佐野氏の子息が住宅新築を機に留辺蘂町に寄附。留辺蘂町(現・北見市)は駅逓開設時の様子を復元、開拓史料も展示し、開拓資料館として開放。武華駅逓は国道39号線沿い、温根湯温泉の西8km、国道を挟んで滝の湯温泉が220mと至近距離にある。
沿 革
◇官設武華駅逓開駅:大正09年 ◇昭和06年増築
◇官設武華駅逓廃止:昭和11年 ◇昭和59年解体修復
閲 覧
◇開館日 金曜日・土曜日 ◇開館時間 09~17時 ◇閲覧料 無料
※入館希望者は前日までに留辺蘂教育事務所0157-42-2723に連絡
◇所在地:北見市留辺蘂町字 滝の湯 ◇N43°43’54.0” E143°25’28.3”
斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになった駅逓で、市街東部の星印刷所向かいに建物が現存しているが一般的な駅逓とは異形。補修を繰り返している様で昔の面影もあまり残っていない。斜里から越川を経て峠越えで標津、別海を経て根室に結んだ。昭和4年の鉄道開通で駅逓所廃止。知床博物館・学芸員のお話では運営の実態がよく分かっていないとの事だった。近い位置に「シャリ運上屋(会所)跡」がある。いずれも知床博物館から徒歩圏内です。 ◇設置:明治21年04月 ◇廃駅:昭和04年06月 ◇初代取扱人:清水一郎 ◇二代取扱人:清水条三郎 ◇三代:下川玉三 ◇N43°54’49.1” E144°39’58.1”
大正5年10月に現上武佐地区に官設駅逓所として開駅する。初代取扱人は伊藤繁喜氏。昭和2年に殖民軌道が中標津市街から中央武佐地区まで延び、それに伴って駅逓所は上武佐地区から武佐中央地区に移築。駅逓所の移築に合わせて、駅逓所建造物の右側に、木造2階建ての泊施設宿が併設される。昭和6年5月10日、武佐官設駅逓所が廃止となり。伊藤正信氏(繁喜氏の長男)に無償付与され以降は民営駅逓所として運営。昭和11年に併設部分を含む駅逓所施設の所有権が土田有一氏に移る。国鉄標津線の開通により上武佐地区にふたたび移築、駅逓所は廃止。昭和12年から移築した駅逓舎を活用し「土田旅館」営業開始。昭和60年廃業。 平成13年に北村久美子氏が所有者となり、建造物を修復し居住。修復の際には、大正11年建築の駅逓所部分はすべて解体され、昭和2年に併設された宿泊施設部分のみ現存、建造物の修復と内部の一部が改築が行われ一般住宅として活用されている。北海道駅逓制度としての歴史を伝える遺構であり、中標津町で最古の建造物のひとつで国の「登録有形文化財」となる。 ◇所在地:標津郡中標津町字武佐957-6◇※個人住宅・非公開 ◇N43°36’57.8” E144°59’57.5”
駅逓は交通不便な地に駅舎と人馬を配置し、宿泊と運送の便をはかるため設置された北海道独特の制度で其の起源は寛政年間と言う。奥行臼駅逓所は当地草分けの山崎藤太郎氏を取扱人として明治43年に開設されたもので、別海町に設けられた9ヶ所の駅逓所のなかで唯一現存する建物で、大正年代に大正期に増築され、一部2階建てという駅逓制度最盛期の姿を伝える。駅逓所時代に使われていた調度品や文書、厩舎や道路跡も残っており、駅逓所当時の景観が良好な状態で保存されている。このことから北海道の指定文化財と国の史跡に指定されている。奥行臼は根釧原野の中でも歴史が古く、別当賀と別海の中間にあり、上風連方面への分岐点で、明治末期から入植が行われ開拓者の交通の要であった。またすぐ近くに樹齢500年というミズナラの巨木が有ります。ここはNHKのドラマ『ハルとナツ』や『エトロフ遥かなり』のロケ地としても使われた。 ◇開館:五月から10月 ◇休館日:第1と3月曜日 ◇閲覧無料:期間中管理人常駐 ◇所在地:別海町別海奥行15-12。
標茶の塘路駅近く旧釧路集治監本館(標茶町郷土館)の右横に塘路駅逓が復元保存され夏季限定で中をオープンしている。旧塘路駅逓はかつて塘路湖畔漁業番屋、越善啓作宅だったもので、標茶町内にあった14駅逓のうち唯一現存する建築物であり標茶町指定有形文化財。旧塘路駅逓は開駅から40年ほど駅逓として活用されていが鉄道開通のため廃駅となった。番屋形式の駅逓はここと斜里だけと思うが、公開されているのは塘路駅逓だけ。二代目取扱人の越善啓作は遠矢駅逓所の四代目取扱人としてもその名がある。◇開駅:明治23年06月 ◇廃駅:昭和03年06月 ◇初代取扱人:中村サト ◇二代:越善啓作 ◇三代取扱人:越善清 ◇所在地:北海道川上郡標茶町字塘路
島松駅逓所は、北海道各地に設置された駅逓の一つで、1873(明治6)年、箱館~札幌間の札幌本道の開通に伴い島松川の右岸に設置されたのが始まりというが、その元になったのは安政4年に勇払六場所の請負人の山田文右衛門が島松川を挟んだ対岸の島松沢に設置した小休所でした。1873(明治6)年の札幌本道が開通したのに伴い駅逓設置が決まり、明治6年に小休所が駅逓に昇格、初代の駅逓取扱人は漁場持ちの山田文右衛門でしたが、明治8年の漁場返上で元勇払場所総支配人の山口安五郎氏が(北海道宿駅制の研究では2代目・松原岩吉、3代目・山口安五郎、4代目・鶉谷新次郎、5代目・中山久蔵氏)引き継ぐ。1877(明治10)年から中山久蔵が請人となり鶴谷新治郎が取扱人?となります。1884(明治17)年から中山久蔵が正式に駅逓取扱人となり、同位置に近接する同家が駅逓所となり(北広島市の年表では明治13年から島松駅逓継替所となっている)、島松駅逓が廃止される明治21年まで、駅逓業務は中山家によって行われた。現在の木造平屋建ての建物は1873~1880(明治6~13)年に建てられた中山久蔵居宅・客室に1881(明治14)年増築の行在所にあてられた座敷が保存されている。史跡内にはハス池、井戸などの附属施設と水田跡があり、明治初期の姿を残す駅舎として貴重な遺構とされている。中山邸は1881(明治14)年の明治天皇北海道行幸に際して行在所(あんざいしょ)となったことで知られる。 ◇施設概要:敷地面積 4.180.30平方米 ◇建物面積 333.96平方米、構造 木造平屋建 木端葺 ◇所在地:北広島市島松1−1
大正9年に徳舜別の長流川上流の西七線31番地で開駅し取扱人は田村米次郎氏。開設数年後(大正14年)には後集落の離散でレルコマベツに移転し礼留駒別駅逓と改称する。礼留駒別駅逓はその後(昭和4年)中久保内に移転し久保内駅逓と改称。昭和11年廃駅となっている。共徳駅逓の誕生地は大滝区だが久保内は現・壮瞥町になる。大滝村の町史によると建物が子孫の手により保存されているとあったが、地元で聞いた話では数年前まで駅逓の看板があり公開されていたというが、現在は持ち主が代わり住居として利用され非公開となっている。建物の一部が改築、塗装で色も変り原型とは異なるが、もと駅逓の面影を色濃く残している。◇沿革と歴代取扱人 ◇開駅年:大正09年12月◇移転改称:大正14年 礼留駒別駅逓に改称 ◇移転改称:昭和04年 久保内駅逓に改称 ◇廃止年:昭和11年08月 ◇初代取扱人:田村義次 二代:田村米(末?)次郎 ◇所在地:壮瞥町久保内112-11◇N42°36’46.01” E140°57’43.74”
昨年の島牧村訪問では賀老駅逓の所在地を確認しただけで栄浜旧駅逓所は気づかず通過してしまった。かつて島牧に有った4駅逓の中で永豊駅逓は他駅逓より古く運上屋から本陣、明治5年に駅逓という経過のようです。江戸末期には開設していたという千走駅逓所ですが、山越えだった頃は重宝されていたが海岸道路ができて衰退したようです。賀老と栄浜の駅逓所は昭和に入ってからの開設、旧栄浜駅逓所は80年以上の年月を厳しい潮風に耐え現存している、奇跡的です。 ◇開駅:昭和05年11月 ◇廃駅:昭和20年02月 ◇初代取扱人:佐藤幸吉 ◇2代目:佐藤勝太郎
Googleマップで見ると道道83号線沿いで新川汲トンネルと矢別ダムの中間付近で、その間は川汲山道駅逓所のある所以外に人家らしきものはない。赤レンガの建物と道を挟んだ反対側にあるという。駅逓舎は御子孫が当時の設計図と写真を元に平成3(1991)年に復元されたものという。南茅部と湯川を結ぶ旧川汲山道でしたが、今はトンネルで容易に抜けられるようです。近くのバス停は「紅葉山」とか。今年の訪問リストにいれました、運が良ければお話を聞けるかもしれません。 ◇開駅:大正15年12月 ◇廃駅:昭和15年06月 ◇初代取扱人:藤野清次? 藤野清さんかも・・ ◊所在地:函館市紅葉山町 ◇GPS:N41°85’45.37” E140°92’23;57”
国道から約6km、上和訓辺入口に現存する駅逓風の無住民家。「北海道宿駅(駅逓)制の研究」には掲載されていない、また駅逓としての記録がどこにも無いので詳しいことは分からないが、聞いた話では駅逓のデザインを施した個人住宅の事だった。外観は典型的な駅逓の様式で、上藻別駅逓所を少し小さくした様な雰囲気で、建築物としては貴重な存在と言える。この地域は過疎化が進んで昭和51年に小学校は閉校、今は牧草畑だけで殆ど無人の地域です。紋別市で確認出来た現存駅逓建築物は上藻別だけでした。 ◇所在地:紋別市上渚滑町上和訓辺 ◇N44°14’21.5” E143°11’48.6”
丸山峠から若狭に向かい佐呂間町の境界より少し手前の花園、遠藤氏宅敷地内に五号佐路間駅逓所跡の碑と説明板がある。遠藤氏宅は駅逓の特徴を残し、上藻別駅逓スタッフの話では駅逓そのものというが、改築して60年ほど経ているという。その外観は藻別駅逓所によく似ており駅逓そのものです。佐路間駅逓が実際に人馬の継立てを行ったのは明治28年からで和人が定住して人煙を上げたのもこの年からであると云い、現在は駅逓取扱人であった方の御子孫が守られている。 ◇所在地:北見市留辺蘂町花園 ◇標高109m ◇N43°55’39.9” E143°38’20.9”
国道274号線と道道133号線のと交差点近に隣接してあり、クテクウシの駅逓の跡に駅逓を模した「クックガルデン」のヒサシの内側(屋外になる?)に、クテクウシ駅逓とウリマク駅逓看板の写真が配置された説明板、鹿追町内の駅逓配置図や鹿追4駅逓の説明が書かれ、敷地内に新、旧の「鹿追発祥の碑」が建立されている。クックガルデンは地元住民の特産品販売所でそば店も営業している。 ◇開駅:大正03年03月 ◇廃駅:大正15年07月 ◇初代取扱人:藤井九助 ◇所在地:鹿追町鹿追南1線8番地 ◇N43°05’00.1” E142°59’43.7” ※道内の旧駅逓は平成初期に前記の他に五カ所の旧駅逓が現存していたが、地震による倒壊(旧生花苗駅逓所)、暴風雪による倒壊(旧上興部駅逓所)、他の旧駅逓は(旧有明駅逓所、旧手師学駅逓所、旧知布泊駅逓所)は保存の希望もあったようですが解体され姿を消しています。
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