更新情報など
トップメニューとレイアウトの一部変更、見直しをしています。
中央道路構想は札幌から空知~上川~十勝~釧路をへて根室に至る内陸縦貫道という構想だったというが、途中で上川より先のコースが変更され北見峠~遠軽~北見~網走~釧路~根室に変わったという。このなかで上川道路、北見道路、釧路街道とも呼ばれた区間は囚人道路とも呼ばれ囚人達の血染めの道でした。中央道路を狭い意味で北見峠から網走迄(北見道路)をいう場合もあるようですが、その区間は網走湖西岸をとおり~北見市端野地区~北見市街~北見市留辺蘂地区~佐呂間町花園~遠軽町生田原~遠軽町~遠軽町丸瀬布~遠軽町白滝~北見峠迄でした。中央道路仮道路は空知監獄署の囚徒を動員して明治22年に旭川から湧別まで開削し湧別から網走間は既往のサロマ湖砂嘴を通る北海岸道を補修して約60日で完了させた。翌明治23年4月より忠別太から伊香牛迄の改良工事をしているが、囚徒不足で伊香牛から上越の間は民間請負だった。この間の空知監獄での死亡者は189名とあるが、幌内炭坑での死亡者も含まれるので道路開削での犠牲者は明らかでは無いが犠牲者は多かった思われる。上越から網走間は北海道集治監釧路分監が受け持ち遠軽からは仮道路とは異なる生田原~留辺蘂~北見を経て網走へのコースで、明治24年4月に網走側から起工し200人以上の犠牲者をだして同年12月末に完工している。中央道路の上川側の沿線は明治24年、北見側では明治25年に仮督の置かれていた近くに官設駅逓が設置されたが、当所は無人で人と官馬が配置されるのは少し遅れ、内陸部で駅逓が本格的に利用されるようになったのは明治28年頃からのようです。居住者も無く利用者の殆どない駅逓というのは駅逓としては異端で有り、多数の犠牲者も顧みずに強行された中央道路開削は軍用道路の側面がより重視された事を物語っている。ここでは網走から旭川までの中央道路沿いにある12ヶ所の官設駅逓所跡(碑のある所)をメインに駅逓と中央道路開削犠牲者の慰霊碑を紹介する。碑文は文字種の変更、句読点の追加などで読みやすいようにしたが内容の変更はしていない。
網走刑務所への唯一の通路~鏡橋を渡り敷地内に入っていくと左側に「私の手は厳しいけれど わたしの心は愛に満ちている」アムステルダムの刑務所の門扉の刻字からと書かれた大きな碑がある。碑文の一部から「明治23年3月 原始林に覆われ笹と葦の茂るこの地に 中央道路開削の拠点として、釧路監獄署網走囚徒外役所が開設された。以来 百年 この地で 罪を問われた人々が 厳しい試練に耐えて更正に励んだ」と有るように網走刑務所は中央道路開削のため全国の監獄から移送された1200人の重犯罪受刑者を収容するために造られ、非人間的な強制労働により200名前後が死亡、1000人以上の囚人が行方不明とのことで中央道路沿線各地に慰霊碑がある。北海道暗黒史の一翼を担った網走刑務所、どんな言葉を持ってきても人間を使い捨てにした権力犯罪の免罪符にはならない。中央道路開削工事をした明治24年に北海道集治監網走分監と改称されている。
明治24年ロシアの南下に備え北方警備と北見地方の開拓を目的に網走~旭川間の開発道路として開削されたが、網走側の起点は網走川右岸の網走刑務所前で『中央道路開削工事網走分監工区起点の碑』がある。中央道路は札幌から北海道の中央部を縦貫してオホーツク沿岸に達する路線で、網走から釧路へ通じる道でもあった。北見峠から網走を経て釧路にいたる道は北海道集治監網走分監の囚人使役と犠牲によって完成した道路で北見道路、通称・囚人道路とも呼ばれている。開削された中央道路(北見道路)の網走~北見市端野町緋牛内迄は道道104号線・緋牛内~北見~留辺蘂地区間は国道39号・留辺蘂地区~佐呂間町花園間は道道103号線・佐呂間~旧生田原町間は共立峠(現在はルートが異なる)、旧生田原町~北見峠までは国道333号がほぼ当時の経路。中央道路開削起点のある所に網走駅逓があったという。網走駅逓は北海道宿駅制の研究では漁場持の藤野番屋から明治5年に駅逓の性格を持って独立したと云うことのようです。明治15年の旧札幌本庁駅逓取扱人一覧にはないが、中央道路開設期には稼働していたと思われるのも詳細は不明・・明治37年に再設置され取扱人は田野国重でした・・大正14年廃駅となっています。◇N44°00’51.50” E144°14’09.41” Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.Maps :G.Maps
明治100年、北海道開拓100年にあたって何をするか決まらずにいた時、慰霊碑の建立運動をしていた留辺蘂にある白龍山遍照院の隆弘尼僧が、町村会に訴え満場一致で建立が決まったという。碑には囚人の埋葬地と思われる場所から集められた各地の土がおさめられているとの事だ。
「碑 文 百年にわたり、開拓者精神に燃えた父祖先人の高い理想と労苦が今日の網走管内の発展となってあらわれておりますが、とくに当地方開発の端緒となった網走と旭川とを結ぶ国道建設は、明治二十四年四月、東北海道貫通中央道路として工事を開始し、当時現在の網走刑務所に服役中の受刑者の多数の血と汗の協力により完成したものであります。北海道百年の意義ある年にあたり、殉難者に慰霊の誠をささげるため国道創設殉難慰霊の碑を建設しさらに近年とみに増嵩しつつある交通事故の減少と交通安全を祈念し「交通安全観音像」を建立したものであります。 昭和四十三年十月 国道創設殉難慰霊の碑建設期成会 会長 佐藤 忠吉」慰霊碑に非人道的な囚人使役に対する告発がないこと、生命が消耗品として扱われた囚人を殉難者にすることで国家権力の犯した罪を後方に押しやってしまった。殉難とは国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすることあり、銃剣下での強制労働による死は殉難ではなく犠牲者であり、留辺蘂や北見は犠牲者慰霊碑となっている。殉難とした気持ちは理解出来るが・・・ ◇設置場所:網走市字二見ヶ岡 ◇GPS:N44°00’02.67” E144°10’23.11”
網走から二見ヶ岡までくると「国道創設殉難慰霊の碑」が有り、左折して嘉多山地区の丸山公園の交差点へ。道道嘉多山美幌線に入り坂道を下りた右手に荷揚坂跡(早春以外は分からなさそう)があります。明治24年(1891)釧路集治監網走外役所の受刑者1200人を使って、網走と石北国境に通じる中央道路開削という難工事が始まるが、この時に網走から工事のための食糧や資材を船に積んで、網走川をさかのぼり、網走湖を渡って嘉多山の坂の下の船着き場に下ろした。集治監ではここに仮監とよぶ宿泊所をつくり、受刑者が目の前の山をけずって沢伝いに丘の上まで道をつくり、馬で荷物を運びあげました。荷揚坂の名はその時についたというが、明治30(1897)年に網走のポンモイに上陸した屯田兵たちが、野付牛(北見)や端野に入植する時にこのコースを辿り、船から上陸し荷揚げをしたので荷揚坂という名前がついたとも。荷揚坂からの道(今は廃道で痕跡も殆どわからない)を登り切った所が第壱号越歳駅逓跡という。荷揚坂前の船着き場はアイヌ語で「チペヤニ=舟つき場」といわれ、いまも現役の船着き場として使用されている。 ◇設置場所:網走市嘉多山・網走湖西岸 ◇GPS:N43°56’25.5” E144°07’26.7”
「説明碑の全文
明治24年ロシアの南下に備えた北方警備と北見地方の開拓を目的に開削された中央道路は、札幌から北海道の中央部を縦貫してオホーツク沿岸に達する路線であり、北海道集治監、特に網走監獄の囚人の労役によって完成したものです。この旭川~網走間(225km)の道路が整備された事により、明治25年3月15日網走の一号越歳駅逓をはじめとして旭川の12号駅逓まで中央道路沿いに12カ所、駅逓が順次設置されました。駅逓とは、北海道にあまり人が住んでいない時代に、開拓のために北海道に渡ってくる人や旅をしている人に宿泊所として、人や馬を貸し出したり、更に郵便業務の取り扱いを行っていました。その起源は、江戸時代の1779年に置かれ、駅逓運営者は取扱人と呼ばれ、旅人たちにとって旅の疲れを癒す処として、まだ見ぬ未開地の生活や現状を知るうえでかけがえの無い助言者であり指導者でした。開拓者たちの寄り合い場であるなど、開発の先鞭としての駅逓の存在意義は交通の面からだけでなく北海道の開拓とは切り離すことのできない関係にあったのです。とりわけ、越歳一号駅逓は、屯田兵や開拓移民が網走湖を船で渡り内陸へ入るための最初の第一夜であり、旭川方面からの旅では最後の宿となったこの駅逓で、先人達はどんな夢を描き、そして現在、私達はその夢の果てに生きています。しかし大正元年網走~北見間に鉄道が開通すると同時に駅逓利用者は減り大正2年駅逓は廃止され、その役目を終えたのです。駅逓碑建設は網走の歴史の原点である「網走監獄」と中央道路との深い関わりの中で、網走の歴史を蘇らせる事業であり、博物館網走監獄開館20周年記念事業として、オホーツクの歴史への追憶と先人の思いを糧に未来に繋げる架け橋となる事を祈念し、駅逓跡地真向かいに建立します。 平成十五年十一月 財団法人網走監獄保存財団 博物館網走監獄館長 小野塚 正衛」※駅逓に関しては碑文にあるとおりだが、和人入植者皆無の時に開削された中央道路に関しては軍用宿泊施設という意味もあったでしょう。
沿革と取扱人
明治25年3月開駅、取扱人・内山清吉 大正2年4月30日廃駅 ◇二見ヶ岡から北見方向に進み丸山公園を過ぎてまもなく左側に大きなモニュメントと碑がある。駐車は6台前後可能なスペースが有ります。◇設置場所:網走市字嘉多山 ◇N43°56’26.6” E144°06’49.3”
鎖塚供養碑 碑文
「端野町開基八十年記念 明治24年北海道長官永山武四郎氏は、網走と旭川を結ぶ国道開設の急を感じ網走、空知両監獄の囚人凡そ千人を動員し、5月上北両端より着工12月完成の突貫工 事をした。此の道路が北見の開発に貢献した事は言うまでもないが、工事の際死亡し路傍に埋められた墓標なき囚人は三百に余るとも云う。此の三基も亦(また)彼等を縛った鎖だけがその上に残されてあり是を鎖塚と呼ぶようになった。此処に供養碑を建て尊くも哀れな御霊を永く弔う。 昭和五十一年十月 端野町緋牛内鎖塚慰霊奉賛会一同建立」
北見市指定文化財「鎖塚の区域」案内板
「明治24年(1891)、網走・上川間に中央道路が開削された。この工事には約1500人もの釧路集治監の囚人が使役されたが、4月から12月という短期間に約163kmもの距離を開削するという突貫的な難工事のため200人以上の囚人が倒れて亡くなった。この鎖塚の土饅頭はそのとき亡くなった囚人の墓標のひとつとされている。ただし地形の変化等があり、その形状については現在よりもかなり低かったと考えられる。端野町の開拓は明治30年(1897)の屯田兵の入地により、本格的に始まったが、その入地に至る道路はこの工事によって作られた。 平成4年2月27日指定 北見市教育委員会」
墓標と云っても実際に遺骨が埋められていたという事ではない。土饅頭の高さは道路工事などで基盤が下がったため相対的に高くなったと云うことの様だ。ただ丸鉄の附いた鎖の場合は、脱走したり抵抗したりして斬刑や銃殺された囚人は見せしめのため鎖をつけたまま葬られたという事で意味は変わってくる。 ◇設置場所:北見市端野区緋牛内 菊池坂 ◇GPS:N43°52’59.91” E144°01’06.24”
2号駅逓跡案内板
「端野町の駅逓は中央道路開削翌年、明治25年(1925)二区に設置された。その後美幌端野間の道路が開通した事により、明治38年(1905)中央道路との合流点である現在地に移転した。当時の駅逓取扱人は斉藤嘉藤次で有り、大正11年(1992)駅逓としての役目を終えた。石碑の位置は当時の駅逓の井戸の近辺にあたり、石碑のある高さが、当時の道路の高さでもあった。」 平成5年3月 端野町教育委員会」
2号駅逓跡碑文
「明治38年1月浜網走、緋牛内間の道路の開通にともない中央道路との分岐点にあたるこの地に、2区東17号線から2号駅逓が移設され、斎藤嘉藤治が駅逓取扱人となった。 昭和58年10月建之 端野町長安田智幸」
道路は切通しで右の階段の上、道路からは約3mほど高い位置でかつてあった道の高さとおなじ場所に碑があり、まわりには厳重に柵がめぐらされている。二代取扱人の斉藤嘉藤次氏は根室屯田兵を現役満期となった時に野付牛屯田設置があったようで端野に移住、兵村の井戸造りなどに従事するが、生田錫三郎(罷免?)の後を継いで明治36年8月より駅逓取扱人となる。
沿革と歴代取扱人
明治25年3月開駅、取扱人:生田錫三郎 明治38年2月移転『緋牛内』と改称 明治36年8月~斎藤嘉藤治 明治43年9月~斎藤正雄 大正11年2月10日廃駅 ◇設置場所:北見市端野区緋牛内 ◇N43°53’03.47” E144°00’10.25”
「碑文 中央道路が開通されるやこの地に第二号(端野)駅逓が開設され、宿泊を本業とし人馬継立と郵便物逓送にも従事したのである。雨来 明治38年1月緋牛内に移設されるまでの間、取扱人として生田錫三郎が就任、官馬6頭、傭人五名が配置されていた。 昭和五十九年十一月 建之 常呂郡 端野町長」
中央道路開削翌年、明治25年(1925)に二区(東17号・中央道路沿)に設置されているが傭人の人名は不詳、手当は24円という記録が残っているという。明治37年に美幌端野間の道路が開通すると同時に、中央道路との合流点である緋牛内に移転というも公示では明治38年となっている。取扱人の生田錫三郎氏は端野に明治36年の屯田兵移住とともに生田錫三郎商店を開業した人でした。2号 端野駅逓所の沿革と取扱人は第二次端野逓所跡にまとめました。旧2号駅逓所跡碑は国道沿いでバス停東17号線近くの民家前に有る。沿革と取扱人 ◇2号駅逓所跡を参照してください。◇設置場所:北見市端野区緋牛内 ◇GPS:N43°52’10.50” E143°57’02.04”
野付牛駅逓所記念碑は8.5.4号野付牛モール(石北線敷地跡を利用した遊歩道)に平成8年に設置された「碑文 明治34年1月、広島県出身の田尾民五郎氏は当地点の北側、国道39号線沿いに私設駅逓を設置し、宿泊、人馬交替、郵便物取扱の営業を開始した。明治25年に北海道庁が中央道路沿い12ヶ所に設置した官設駅逓とは若干異なり、村民の集会施設として利用されるなど、大正12年9月の廃止まで、地域の大切な公共施設としての役割も担った。北見市開基100年の意義有る年に当たり往時を回顧し記念碑を建立する。平成8年7月15日 北見市長 小山健一」通称は田尾駅逓ですが正式名称は野付牛駅逓所で私設駅逓というも道庁公報告知第14号にもその名があることから官設駅逓ということでも間違いではなさそうだ。官設の三号相内駅逓は実質15年程で廃駅となっているので、三号相内駅逓なき後は重要な駅逓といえそうです。駅逓の性格も12箇所の官設駅逓とは違い地域密着型であったようです。 ◇設置:明治33年01月 ◇廃駅:大正12年09月 ◇初代取扱人:田尾民五郎 ◇現住所:8.5.4号 野付牛モール 東4号線高架下横 ◇GPS:N43°48’44.41” E143°54’16.40”
国道39号線沿いラーメン寶龍さん横の角地(北見市東相内町210)に平成8年に碑が設置された。「碑文 北海道庁は明治24年、網走、旭川間に建設された中央道路沿い約4里半(18km)毎に計12ヶ所の駅逓を設置し、宿泊、人馬交替、郵便物取扱の業務を開始した。明治25年3月、網走側から3番目の3号駅逓は当地点から国道39号線に沿って約60m東側に立てられ屯田歩兵第4大隊第3中隊1区兵村に近接、仁頃街道の分岐点に位置していたことから、地域の旅宿、郵送施設として大切な役割を担った。北見市開基100年の意義有る年に当たり往時を回顧し記念碑を建立する。平成8年7月15日 北見市長 小山健一」駅逓としての稼働期間は短かった官設の駅逓で明治25年開駅で明治40年頃廃駅となっている。駅逓の位置図を見ると碑のある所から側道を挟んだ反対側にあったようでようです。取扱人の菅原兵蔵氏は秋田県出身の人で狩猟と畜産を生業としていたという。また菅原兵蔵氏が和人定住の初めとも伝えられているとのこと。かつての相内が今の東相内です沿革と取扱人◇明治25年3月開駅 ◇明治40年頃廃駅 ◇初代取扱人:菅原兵蔵 ◇設置場所:北見市東相内町210 ◇GPS:N43°48’13.01” E143°48’49.49”
慰霊碑碑文 北見市
「明治24年春、北海道長官永山武四郎は拓殖と北辺防備のため、旭川網走を結ぶ中央道路の建設を急ぎ、網走集治監の囚人を使役し開削工事に着手した。約8ヶ月間の難工事に動員された囚人千百余名中想像を絶する苛酷な労働により相次ぎ亡くなられた犠牲者は200名を超え、その多くは路傍に仮埋葬され墓標なきまま今日に至っている。平成4年7月、第5区仮監跡と考えられる当地国道の南側、豊田569番地の畑地から一体の遺骨と共に鎖錠前が発掘され手厚く供養のうえ改葬した。北見市開基百年の意義ある年に当たり当市の発展の端緒となった中央道路、現国道39号へ感謝を捧げつつ未だこの地に眠れる尊い犠牲者のご冥福を、お祈りし慰霊碑を建立する。 平成八年七月十五日 北見市長 小山 健一 揮毫 久保観堂」 国道39号線沿い、相内市街端にあざやかな案内板が見えます。駐車駐車は路肩に可能。 ◇設置場所:北見市豊田 ◇N43°47’43.1” E143°43’55.5”
丸山峠の留辺蘂四号駅逓をアイヌはルペシュペと呼んでいたという。取扱人は北村七平から千葉新太郎に代わり、明治35年9月に宮下町ヘ移転、駅逓の宿泊の部分は宿屋とし、郵便・荷物を運ぶ部分を郵便局に分離して留辺蘂郵便局を開設している。初代局長は次女の夫千葉能章であった。千葉能章は後に町会議員議長を歴任、留辺蘂の功労者とされる。第2次第四号駅逓所跡の碑は留辺蘂宮下町市街で国道103号線沿い
沿 革
明治25年3月16日開駅 管理人:北村七平、取扱人・千葉新太郎 明治35年9月2日移転 明治28年10月5日~千葉新太郎 明治35年9月~光永勝助 大正12年3月31日廃駅 ◇設置場所:北見市留辺蘂町・丸山峠&宮下町 ◇第四号丸山:N43°49’29.4” E143°38’05.9” ◇第四号宮下:N43°47’20.1” E143°37’29.0”
慰霊之碑 碑文 丸山峠
中央道路開削犠牲者慰霊之碑 留辺蘂町長坂本悟朗書
明治24年、旭川・網走間に網走監獄の受刑者使役し、粗食と過酷な労働により、約1000名の従事者中200名以上の犠牲者を出し、この中央道路が開削された。昭和59年6月3日、当町花園55号で遺骨2体を発掘した。留辺蘂町発展の端緒となった道路への感謝と犠牲者の冥福を祈念するため開町70年の意義ある年に当り追悼碑を建立する 昭和60年11月15日 中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会 留辺蘂町」※以上碑文の内容で説明に代える。慰霊之碑は丸山峠の佐呂間側、第四号駅逓跡の碑を過ぎて間もなく。国とか北海道庁建立の慰霊碑はないのだろうか、有って当然というのが普通の感覚だが全くみられず、まるで歴史から消え去るのを首をすくめてまっているかのようだ。 ◇設置場所:北見市留辺蘂町丸山・丸山峠 ◇標高316m・N43°49’48.5” E143°38’23.4”
丸山峠から若狭に向かい佐呂間町の境界より少し手前の花園、遠藤氏宅敷地内に五号佐路間駅逓所跡の碑と説明板がある。遠藤氏宅は駅逓の特徴を残し、上藻別駅逓スタッフの話では駅逓そのものというが、改築して60年ほど経ているというが外観は駅逓そのもの、個人宅なので撮影はしておりません。佐路間駅逓が実際に人馬の継立てを行ったのは明治28年からで和人が定住して人煙を上げたのもこの年からであると。
説明版より
「元 佐呂間 5号駅逓 跡 網走-旭川間に中央道路が開通されるや明治25年(実際に業務が行われるようになったのは明治28年)この地に佐呂間5号駅逓が開設され、宿泊、人馬の継立、郵便物の逓送等の業務が行われた。初代取扱人に永井友吉が就任、官馬6頭、雇人1名が配置されていた。」当時の地名は野付牛村字佐呂間
沿 革
明治25年3月16日開駅、管理人:永井友吉 明治44年11月16日『上佐呂間駅逓所』に改称 明治30年頃~改田秀吉~大友明友 明治36年~遠藤藤次郎 大正13年3月31日廃駅。 ◇設置場所:北見市留辺蘂町花園 遠藤宅敷地内 ◇所在地・N43°55’39.9” E143°38’20.9”
留辺蘂町郷土研究会が平成3年に設置した5号峠の説明板よりより「中央道路は札幌~網走間を結んで北海道の内陸を東西に横断する大動脈として開削され、1891(明治24)年に完成した。この峠は麓に設置された「5号佐呂間駅逓」の名をとって「5号峠」と呼ばれた。1919(大正8)年に旭峠を迂回する道路が開通して廃道となっていたが、1982(昭和57)年に佐呂間町共立から峠までが林道に改良され「共立峠林道」となった。中央道路は開拓促進のための産業道路であると同時にロシアから北海道を防衛するための軍事道路であった。開削を急いだ明治政府は囚人を使って工事を進めたが短期間の強制労働で多くの犠牲者を出した。1984(昭和59)年に旧「5号佐呂間駅逓」の近くから2体の遺骨を発掘した。林道の一部には100年前に削られた片崩し法面がそのまま残っていて中央道路の「秘められた歴史」を今に伝えている。1991年は中央道路開削100周年と、その中央道路を開基のルーツとする留辺蘂町が開基100年を迎えた年である。1991年(平成3年)建立 留辺蘂町 留辺蘂町郷土研究会」林道入口の看板は共立林道となっているが旧中央道路が林道として一部復活したものでカーブの連続する荒れ気味の道はオフロードタイプでないと通行は難しい。説明板にあった法面などは今は分からないが説明版の所には駐車スペース有り、生田原側への通り抜けは出来ないようです。北見市留辺蘂町花園 郡堺付近◇所在地・N43°55’39.9” E143°38’20.9”
白龍山遍照院については網走二見ヶ岡の国道創設殉難慰霊の碑でも触れたが、北見道路犠牲者の慰霊に関しては白龍山遍照院と先代の隆弘尼僧を省く事はできない。また常紋トンネル工事で斃れた労働者の遺骨掘り起こしの際、菅笠を被って読経し続けたのは他ならぬ白龍山遍照院の尼僧達だった。遍照院本堂の隣に「慈弘塔」という仏堂があり不遇な運命に弄ばれた「囚人の位牌」が納められている。北見方面からは留辺蘂市街地の手前でJRと交差する橋梁手前から入る。◇住所:北見市留辺蘂町泉369
明治24年開通となっている中央道路を翌年に旅した松田六兵衛の『諸国名勝誌 北見紀行』によると5号峠一帯は囚人が改修工事の最中で有り通れるような状態では無く野上から湧別に向かったという事からも想像できるように中央道路有数の難所でした。旭峠は1919(大正8)年頃にドイツのゲルドル商会がナラ材の造材をし原木を安国に搬出するために造材道を付けたのを利用して五号峠から旭峠に切り替えられ大正11年1月に旭峠駅逓所が開設されたという。大正13年の仮製陸測図に旭峠の尾根上に「駅逓所」と記載されている。
旧道となっている旭峠の通行は可能だがトンネルで抜けるので尾根上に有った道や駅逓の痕跡は殆ど残っていない。生田原町の歌碑ロードに旭峠駅逓の詠んだ碑があるが、先に開削された五号峠と比べると尾根付近の勾配は旭峠の方がありそうな印象だった。大正13年の仮製陸測図を切り取った地図で5号佐呂間駅逓から続く点線部分は旧中央道路で今の共立峠林道とほぼ同じ、また道が変わった旭峠の尾根部分に「旭峠駅逓所」が記されている。 駅逓取扱人は藤野栄太郎氏でした。
北見道路開削では特に北見と遠軽間で強制労働による囚人の犠牲が多かったが、教員をしていた宇野佐平治氏の妻、宇野シゲさんが殉難者の供養として高野山から御像をもらい受け大正4年3月21日、旭野に建立したと言う大師堂。大師堂は仏堂の呼称で、大師号を贈られた僧を礼拝の対象として祀るが、真言宗の開祖である空海(弘法大師)を祀っている仏堂が多い。堂内に木版の弘法大師御堂建立寄進帳を掲げてありこの大師堂も弘法大師を祀っていた仏堂ですが、建物の傷みが激しく、掛け軸や仏像などは別に保管されているようでした。ただ寄進者の名前に宇野さんの文字と大正と有ったので、宇野シゲさんの建立した大師堂という事は間違いないようですが、建物自体は修復を重ねているようです。大師堂は国道333号線沿いで生田原町安国から旭野トンネル方面に進み生田原川を越えてまもなく左側の林の中に大師堂が見えますが作業小屋のように見え見逃してしまうかも。現在「弘法大師堂」と呼ばれているようです。大師堂から150Mほど西側に八号仮監があり、近くに囚人の墓があったと伝えられている。地形図には神社マークがついてます。◇所在地:遠軽町生田原町旭野 ◇N43°59’07.34” E143°32’37.16”
佐藤文八氏が下生田原駅逓所取扱人として明治34年にイクタラ原野へ人地した時は「昼なお暗い密林中をくぐり時には川を徒渉し目的の地にたどり着いた」という。明治34年には北見道路本道も出来ていたが、これが当時の北見道路の実態だったようです。佐藤文八氏が居住したのは北見道路の難所であった5号峠(共立峠)下の旭野で下生田原駅逓所、郵便継立所の初代取扱人、下生田原駅逓所の詳細は不明だが旭野大師堂のすぐ上手にあったようですが今は牧草地に変わっている。佐藤文八氏の跡を受け継ぎ郵便継立所の2代目取扱人が宇野銀蔵氏でした。北見道路開削の殉難者を供養するため宇野シゲさんが呼びかけ、大正4年に建立された大師堂の寄進帳に宇野銀蔵氏と角谷栄政氏の名前がある。言い伝えによると大師堂の近くに鎖で囲まれた墓があり、また仮監舎もあったと云う話もあるが今はその痕跡も面影もない。中央道路からは外れるが上生田(現・生田原)にも大正元年に官設上生田原駅連所が開設されているが碑などは見かけなかった。遠軽町生田原町
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