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ぐるっと道南プチ旅
太田山から虻田まで・菅江真澄の碑を訪ねる‼

菅江真澄歌碑太田山神社参道口MAP

菅江真澄歌碑天明8年に松前に上陸した菅江真澄は青森に送り返されることになったが一首の歌で例外的に在島をゆるされ、松前を去る寛政4年秋までの間に2回の旅をしている。最初の旅は寛政元年で西海岸の太田山神社まで、2度目は寛政3年の有珠善光寺を越えて有珠山まで旅をしたが、西海岸の浜街道を出立したのは4月18日(旧暦)で4月30日に到着、帰路に臼別温泉に立ち依り一泊した後に泊川まで戻った所で泊川の増水と体調を崩し暫く滞留、松前に戻ったのは6月30日とほぼ2ヶ月間の旅でした。太田神社参詣のために訪れた時に読んだ中の一首で「行くやらで ここにくれなば苺むしろ しきて太山の花のしたふし」と記された歌碑が太田山神社本殿参道入口横に建立されています。ここで菅江真澄が宿泊したのは太田運上屋でした。

道内にある菅江真澄の歌碑は管理人が確認出来たものだけで9基(石碑2基・木碑7基)あり、滞在や来訪を示した説明板や標柱が2基あり、ここではその全てを掲載しました。◇所在地:せたな町大成区太田 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑太田神社拝殿MAP

菅江真澄の歌碑菅江真澄の太田山参拝の旅は往路は半分は船行で到着した日は太田運上屋に宿泊、当日は雨の合間に桜を見に出かけている。その後に太田山権現に参拝しているがはそこには別な修行者がいて高足駄をはいて山巡りをしていたとあるが、あの険しい岩場からは想像は出来ない。太田山権現を後にして復路は陸行で久遠に至り久東運上屋で宿泊、西海岸で運上屋に宿泊したのはこの2カ所だけのようで他の宿泊先は一般の民家か寺院のようです。太田神社拝殿横に「雲のうち 三のみのりを鳴とりの こえかすかなる山のたかけん」と記された歌碑が松浦武四郎の歌碑と並んで立っている。また太田とい地名由来をアイヌ語のヲタが訛って太田と呼ぶようになったと聞き書きを残した。◇所在地:せたな町大成区太田 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑相泊地蔵堂横MAP

菅江真澄歌碑太田山権現からの復路でこの地を通過しているが、帆越を越えて下った所が相泊で地名は富磯だが川名は今も相泊川。太田への山道開削は山僧宗健が当地に居住した嘉永元年以降、松浦武四郎が当地を再訪した安政3年以前には太田神社拝殿の前後1里ほどが出来ていたようだが、菅江真澄の帆越こえは日記を見ると完全な藪漕ぎ状態で道らしい道はなかったことがわかる。安政4年に鈴鹿甚右衛門が関内~開削、工事は長坂庄兵衛が請負で人が通行出来る道は出来るが、難路であることには変わりなく旅人の無事と海難者の慰霊のため道中に地蔵が建立されたという。最も多いときは33体に及んだが激しい波浪のため流されたり不明になったりして残ったのを1カ所に集めたのが相泊地蔵堂横で菅江真澄の歌碑はその隣に「あら波の からきおもいよふねはやみ かかる帆ごしの山めぐりして」と記されひっそりとたっている。◇所在地:せたな町大成区富磯 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑せたな町大成本陣MAP

菅江真澄歌碑菅江真澄は往路、帰路とも久東運上屋で泊まっているが、その運上屋の名残が地名の本陣と本陣川に残る。運上屋は明治初期に本陣となりその後に駅逓に変わるので、本陣地区に運上屋があったという事なのでしょう。太田山からの帰路には雨天という事もあって久東運上屋に2泊しているようだ。碑は町道白浜通り線の完成記念碑、昭和43年建(昭和62年再建)立の魚族供養塔と並んで立っている。歌碑の文字は消えかけて判読は難しいが「雲のうち 三のみのりを鳴とりの こえかすかなる山のたかけん」と記されている。運上屋の主として下国、厚谷がいて話をしたとも書かれているが、この二人は知行主であったのかもしれない。5月3日に運上屋を出立し平田内まで来たがその先は陸路がイタドリが高く生い茂り陸行を断念して、ここで民家に宿泊している。◇所在地:大成区本陣 ◇Gmap:マップコード

臼別の大人伝説と菅江真澄湯とぴあ臼別MAP

湯とぴあ臼別翌日の5月4日になっても風向きは良くなく船も出せず、宿泊先の主人が臼別の温泉に行くというので同行するが、来た道を少し戻り臼別川に沿って入るが温泉への道はなく半遡行であり、雪代で冷たい上に増水もしており苦労したようす。今は国道229号を北桧山方面へ向うと「湯とぴあ臼別」の小さな案内板が有り、国道から案内板にしたがって進むとまもなく臼別温泉・湯とぴあ臼別に到着する。湯とぴあ臼別の前に案内板があり利用上の注意事項と菅江真澄の蝦夷喧辭辨(エミシノサエキ)にある「臼別の大人伝説」を紹介している。臼別温泉は古くから存在する温泉地でもう一つの説明板には『寛政元年に菅江真澄がこの温泉で湯浴みし歌を詠み文を記す。-/文は割愛し歌のみ/-“いずる湯のけぶりの末にさくら花 こずゑは はるの色にかすみて”』湯とぴあ臼別は臼別峡谷に位置するログハウス風の日帰り温泉施設で冬期間は閉鎖となります。温泉横の沢を遡航すると落差5mほどの滝があります。◇所在地:せたな町大成区平浜 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑あわび山荘前庭MAP

菅江真澄歌碑大成区貝取澗のあわび山荘前庭に菅江真澄歌碑があり「めずらしな五月のけふの花ざかり いずれあやめの匂いなるらん」と記されている。平田内では臼別の温泉に行く前と温泉からの帰路に同じ家に宿泊している。この歌とあわび山荘とは直接の関わりはなさそうですが、日記の平田内に「五月の節句ではヨモギやカンゾウをふいていたがこの辺にはアヤメのないことが知られた」とあり。貝取澗の語源はアイヌ語の「カイェ・ウトゥル(折岩・の間」と蝦夷語地名解にあるが、袋澗の事だと書いてあるサイトを見た記憶がある。石積堤の袋澗発祥地ともいえる瀬棚だが、アイヌ時代に袋澗は疑問で、しかも袋澗の殆どはせたな町元浦以北にあり、袋澗説は納得しがたいが何か伝承でもあったのかもしれない。菅江真澄は貝取澗は通過で宿泊していない。◇所在地:せたな町大成区貝取澗 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑親子熊岩前MAP

菅江真澄の歌碑1菅江真澄は5月7日を出立し雲石付近で宿泊しているが日記では長磯一帯の奇岩には触れず雲石の奇岩を記しているだけで、親子熊岩の国道に面した場所にある菅江真澄歌碑と親子熊岩とは関係なさそう。親子熊岩に圧倒され歌碑に気付かないかも、管理人も二度目の訪問で気づいたと云う顛末でした。歌碑には「さみだれの雨の 晴間に みね麓かかるもあやし 花のしら雪」と刻まれている。翌日は体調が優れずもう一日泊まることにして門昌庵を訪ね、門昌庵の由来を日記にのこしている。この内容は「檜山の史跡と伝説にも収録されている。◇所在地:せたな町大成区長磯 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄の歌碑八雲町MAP

菅江真澄の歌碑2菅江真澄は天明3(1783)年、30歳の時に故郷を離れ信州から東北各地を旅して天明8年に松前に渡り4年ほど滞在した。菅江真澄が松前から太田山参拝のため西海岸を通ったのは寛政元年で、太田からの帰路、増水による川止めや自身の疾病(風邪?)で泊川に5月9日から23日まで15日間ほど逗留しているが、その時に詠んだ「五月雨の晴れ間求めて、海士の子が、ワカメ刈り干す、海のまさごじ」が刻まれている。碑文は長いので写真参照で代えますが・・・碑は先人が詠んだ郷土の文化遺産を顕彰するため泊川小学校の卒業生達が建立したようです。今や史跡となっている円空がこもったという洞などにも訪れて日記に残している。◇所在地:八雲町熊石泊川町 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑江差町MAP

菅江真澄歌碑

「レストラン江差家」が開業20周年記念に故郷の礎となった先人の志を偲び、その証を克明に伝えた江戸時代の国学者・菅江真澄を顕彰し平成14(2002)年に建立された。「すくも焚く 煙りの末も治まれる 風にしたがふ 浦の夕なぎ」すくもは藻くずや塵芥のこと、砂浜を清めている江差浜の情景を詠んだ一首。江差の事ではないが真澄が太田山神社参拝の帰路に上ノ国の天ノ川で寛政元年5月5日に起きたクナシリの乱を知らせる早馬に遭遇している。早馬を次いで走らせても松前までは一ヶ月以上かかるのが蝦夷地でした。◇所在地:江差町字中歌町(レストラン江差家前) ◇Gmap:マップコード

菅江真澄上陸の地標柱松前沖口広場

菅江真澄上陸の地三河生れ(1754年)の白井秀雄は数度の改名で菅江真澄と名乗った紀行作家、巧緻な描写で僻地に暮らす人々や風景など残した画家、国学者であり今で云う民俗学の先駆者で歌人でもあるという多彩な顔をもっていた。天明3(1783)年、30歳のとき三河の国を発ち北行で見聞した事を旅日記に書き続けた。蝦夷地やアイヌ文化にも興味を持っていたようで、念願の蝦夷地に上陸したのは三河の国を発って5年後、青森県三厩(上宇鉄)から津軽海峡を渡り松前町の「沖の口役所」に上陸したは天明8年7月14日早朝でした。当時は旅人への取り締まりが厳しく、幕府巡検使を迎える直前でもあり旅人改めで逗留は認められず青森に送り返される事になったが、真澄の詠んだ一首の歌が松前藩主の心を動かし特例で在島が認められる。沖の口広場の一角に沖口役所の碑と「菅江真澄上陸の地」「菅江真澄の道」と書かれた標柱があり『松前滞在四年余、第十三世道広公の継母文子方に重用され、文子や藩の重臣たちと歌会の日々を過ごした。重臣の家族にも和歌を教え、尊敬され慕われた。「えぞのてぶり」「えみしのさえき」など五作品をこの地で書いた』と記してある。この作品は「菅江真澄遊覧記」として東洋文庫に4作品が収録されているも和歌は割愛されている。有れば便利だが、有ればあったで煩わしいかもしれない。当時は白井秀雄と名乗っていたようで、菅江真澄と名乗ったのは50歳半ばの頃からという。◇所在地:松前町松城 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄歌碑洞爺湖町MAP

菅江真澄歌碑碑文より引用「“蝦夷見ても くもりも波の月きよく 吹く口びはの声の涼しさ” 1791年旧暦6月7日 放浪の文人菅江真澄この地に遊び、月明かりの海浜メノコのたわれ吹くムックリのひびきに、旅愁の感傷に浸りつつこの歌を成す。その著 蝦夷廼天布利 (えぞのてぶり) は、おおよそ200年前のウス・アブタコタンを流麗なる筆に活写してあますところなし。虻田町開基180年を祝し往昔を偲びつつ、洞爺とくさの会一同相寄りて茲に之を建つ。昭和59年9月 洞爺とくさの会々長(氏名割愛)」※菅江真澄は海路で6月7日に長万部を船出し、途中で岩屋観音(円空仏)に立ち寄った後に虻田に上陸、虻田運上屋で宿泊、その時最初に聞いたのがムックリだった。有珠岳へ登るための天候待ちで8日、9日と滞留した事も有って虻田の記録は詳細。10日になって洞爺湖を巡り円空仏を見たのに続いて念願の有珠山に登るが、現在の有珠山とは異なった形で昭和新山もなかった。有珠岳から有珠に下りウスコタンを訪ねてから虻田にもどり、夕方に「鶴の舞」を観たところで日記は終わる。おそらく当日も虻田に泊まったであろうと思われる。歌碑は虻田町開基180周年を記念して建立された。◇所在地:洞爺湖町入江 虻田歴史公園 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄翁遊歴の旅推定地標柱今金町

菅江真澄翁標柱説明板はなくこの標柱にも菅江真澄がこの地を遊歴をされたであろう根拠は記されていない。菅江真澄が霊山有珠岳にいく旅は寛政3年でその旅日誌「えぞのてふり」は松前出立が5月24日で有珠岳登山登頂は6月10日、翌日に「鶴の舞」を見たところで終り、花石付近に関する紀行文は見当たらないが、研究者によると「えぞのてふり」最後の1ページが欠落しているという。また帰路の記載はなく松前に戻ったのは7月末であったらしい。文化6年に幕府により花石付近に金山?(黒岩川付近か)が開鉱され、花石では甚五衛と名乗るものが砂金採掘で大金を手にしたとあり、後の安政4年8月に国縫アイヌの案内で当地を踏査した松浦武四郎は蝦夷日誌に「珍古邊」と書き残したのが今の花石。菅江真澄が旅をした当時は大きなコタンや、砂金堀達が通う道が有ってもおかしくはないが、仮に花石付近に来ていても砂金などに関することは当時の世相から公にしづらい内容ではある。それが標柱に「推定」と書かれてた理由なのかもと思った。◇所在地:今金町花石 元気の森公園 ◇Gmap:マップコード

菅江真澄の碑ミニギャラリー

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 レイアウトとトップメニューの一部変更、内容を見直しました。

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