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ぐるっと檜山プチ旅4
道南 厚沢部町の観光と史跡を巡る旅‼

メークイン発祥の地厚沢部町

メークイン発祥の地台座の碑文より「本碑建立の地は北海道庁立桧山農事試作場(明治43年設立-昭和38年廃止)の跡地である。「メークイン」の原産は英国といわれ本町はアスナロ桧の北限、トド松の南限に□し、之が適地として昭和9(1934)年始めて本場に試作された。爾来40有余年改良増殖され今や「厚沢部メークイン」の銘柄声価は、種子、食用共に全国津々浦々に絶賛を博している。「厚沢部メークイン」の今日あるのは先覚各位の長年月に亘る汗と努力の結晶であり、なかんずく之が生産指導と消流に生涯をかけた、福井伝一郎氏(昭和49年12月没行年62歳)の努力を特筆したい。農協発足30周年に当たり本碑を建立し、そのゆえんを録し先覚の功績を讃えるものである。昭和51年11年19日 厚沢部町農業協同組合」※メークインは男爵と並ぶジャガイモの代表的な品種ですが、日本に伝来したのは大正6(1917)年の頃、檜山農事試作場で試作が行われたのが最初のようです。◇建立年:昭和51年11年19日 ◇建立者:厚沢部町農業協同組合 ◇所在地:厚沢部町新町183 ◇Gmap:マップコード

厚沢部町 郷土資料館

郷土資料館館城復元の門に始まる郷土資料館、城の復元模型や遺品など箱館戦争当時の資料が展示スペースの四分の一を占拠し、幕末の動乱が厚沢部の重要な歴史の一コマを占めているのがよくわかる。洞穴跡の岩陰遺跡や竪穴住居跡のある目名尻遺跡などの先史時代の遺跡はもとより、江戸時代の前半にヒノキアスナロの造材のため津軽・南部から多くの杣夫が厚沢部川流域に渡ってきたというが、彼らが伝えたとされる伝統文化や時代ごとの林業などの他、明治・大正期の農業に関わる道具類や生活用具を展示している。◇所在地:厚沢部町新町234 ◇Gmap:マップコード

旧南部家住宅MAP

旧南部家住宅道道67号線沿いにある明治39年建築の農家住宅で、厚沢部町内に残る数少ない古農家建築。5間×7間半の寄棟造、妻入玄関で柱、梁には主としてヒノキアスナロ(ヒバ)が用いられています。現在は「滝野庵」という手打ちそばの店舗として活用されている。◇所在地:厚沢部町滝野517-1 ◇Gmap:マップコード

滝廼神社

滝廼神社旧南部家住宅のすぐ近くで平坦地にあった滝廼(たきの)神社、明和9(1772)年の創立ですがヒノキアスナロの伐採で早くから和人が入った地域だけに、内陸部にある道内の神社としては歴史が有る。環境のせいか神社にしては明るく雰囲気はよい。獅子狛犬は社殿前に1対の配置で筋肉質で逞しい印象だった。かつて学校があったのか鳥居の右側に滝野小学校跡の門柱が残っていました。◇所在地:厚沢部町字滝野 ◇Gmap:マップコード

鷹落しの跡MAP

鷹落しの跡鷹羽は古の頃より重要な交易品の一つで蝦夷地の特産品であり、近世以前にも松前(蠣崎)家は豊臣秀吉に鷹羽の献上をしていた。松前藩藩主資広の頃は蝦夷地全域で390箇所の鷹捕獲する鷹場があったと云い、宝暦年間の頃は厚沢部町周辺に多くの鷹が生息していたようで、鷹の生息地であった松前藩の鷹場の一つがこの付近にあったという。鷹侍が鷹を撃ち落とすので「鷹落し」と云われたようです。◇所在地:厚沢部町上の山 ◇Gmap:マップコード

ホイド穴岩陰遺跡MAP

ホイド穴岩陰遺跡昭和初期までホイド(乞食)が住んでいたのでホイド穴と呼ばれ、焚火の煤でホイドがいなくなった後も岩陰の中に臭いが残っていたという。旧幕軍が館城攻撃をした時、村の婦女子や老人は山や沢に逃げこの洞窟にも隠れたというが、道路周辺工事で発見された海蝕性の岩陰(洞窟)は続縄文期遺跡と確認されても、「ホイド穴岩陰遺跡」でホイドの呪縛は説けず。◇所在地:厚沢部町上の山 ◇Gmap:マップコード

凱旋門の跡MAP

凱旋門の跡日露戦争で日本軍が旅順、奉天などで勝利しバルチック艦隊を日本海海戦で撃破、北海道出身兵士が所属する第七師団も中国大陸で戦闘に従事していたが、厚沢部出身兵士の凱旋が決まると兵士の功績を讃えナラの巨木で「凱旋門」この地に建てたという。植民地獲得と軍国主義に傾倒していった時代の古址であり反面教師としての存在価値はありそうです。◇所在地:厚沢部町上の山 ◇Gmap:マップコード

館農村広場

館農村広場館城跡に行く途中に有る中規模の農村公園でパークゴルフ場が併設されているが整備も行き届いている。キャンプ場ではないが緊急ビバークでも不自由はしないですみそうだ。公園に隣接する館稲荷神社、普通ならお狐様が出迎えてくれるのだが、こちらの荷神社は鍵を咥えた社殿彫刻という少ないタイプでした。◇所在地:厚沢部町南館町 ◇Gmap:マップコード

三上超順力試之石MAP

三上超順力試之石館城で戦死した三上超順由来とされる円礫。相撲好きの山田某という人が館城内を通る旧道沿いにあった石を持ち帰り、毎日力試しをしていたところ奥さんが病気になってしまったそうです。これは館城で戦死した三上超順の祟りだろうと館町の寺院に永らく安置されていた。昭和 43(1968)年に開道百年、館城百年の記念として正定寺境内から館城内へ移設。◇所在地:厚沢部町字城丘 ◇Gmap:マップコード

松前藩館城跡公園MAP

松前藩館城跡公園館城跡は明治元( 1868 )年 9 月に松前藩によって築城工事が開始され、同年 11 月、榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃を受け落城した。その後の農地開発によって多くの遺構が破壊されたようですが、中核部と農地不適な部分がのこったようです。その部分が町に寄贈され館城跡公園として整備され桜も植栽され、お花見の名所になっている。毎年4月末に「館城跡まつり」が開催され戦闘シーンを再現した「館戦争行列」が行われ参加者は官軍対旧幕府軍に分かれ、迫力ある殺陣が披露される。◇所在地:厚沢部町字城丘 ◇Gmap:マップコード

追分ライン・松前街道ミニギャラリー

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