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渡島を巡る旅4
ぐるっと渡島・松前町・福島町を巡る旅‼

ミサゴ滝福島町

ミサゴ滝頭と足の部分が白く海岸や、川、湖の周辺に住み主に魚類を主食と鶚(ミサゴ)という大型のタカ類が多く住んでいた沢にある滝という事でこの名が付いたというが、運が良ければ目撃できるかもしれません。滝はV字に合流し海岸にしては小さいながらも(落差20m前後)滝壺のある綺麗な滝ですが、下草が伸びてしまうと近寄れないので見るなら春が良さそうです。松浦武四郎は「渡島日誌」ミサヲ沢並びて大滝と記している。岩部渡島福島停車場線にはいり女郎ヶ岬方面へ進みミサゴ覆道を抜けてて100mほど進んだ所にある。滝の右手前に駐車可能なスペースあり。◇所在地:福島町日の出 ◇Gmap:マップコード

白糸の滝

白糸の滝落差30mで普段は水量が少ないのですが落差はミサゴ滝より有り、雨後や春の雪解け時期には見事な滝に化けそうな印象だ。岩を伝って流れる様子が白い糸をめぐらせた様なのでこの名が付いたという。滝へのルートはミサゴ滝と同じで6.2km、滝の下覆道を抜けてすぐの所にあるが、駐車可能なスペースが見当たらない。さらに500m程すすむとミサゴ滝につく。◇所在地:福島町日の出 ◇Gmap:マップコード

青函隧道建設記念

青函隧道建設記念青函トンネルメモリアルパークの一角に青函遂道建設記念の碑がある。副碑の右側碑文より「昭和39年、ここ吉岡の地で青函トンネル建設の第一歩となる調査斜坑の掘削が日本鉄道建設公団により開始された。以来、大出水、軟弱な地層等を克服し、20年余の歳月を経て青函トンネルは完成し、津軽海峡線として昭和63年3月開業した。ここに北海道と本州は陸路で結ばれたが、これが国土の一体化と日本の発展に大きく寄与することを願い建設記念碑を建立する。昭和63年7月 津軽海峡線 工事関係者一同」左側に工事経過が刻まれている。近くに工事で使用した蓄電池機関車が屋外展示されている。◇建立年:昭和63年7月 ◇建立者:工事関係者一同 ◇所在地:松前郡福島町館崎 ◇Gmap:マップコード

駆逐艦柳平和記念塔・駆逐艦柳応戦展望の地

駆逐艦柳平和記念塔駆逐艦柳平和記念塔の碑文より「昭和20年7月14日、早朝、月崎沖合約500Mから慕舞(白符3)沖合約800Mの海上で、アメリカの艦載機10数機と日本の駆逐艦柳とのあいだで空も破れるような激しい交戦がありました。そのときアメリカの艦載機が3機落とされました。しかし、柳も艦尾を爆弾でやられ60名の負傷者と21名もの戦死者を出しました。当時の町民は、攻撃がまだ続くと予想される恐怖と不安のなかで負傷者の救護に務め戦死者をだいじに弔いました。 また、漁船4そうを出して柳の曳航作業にも手助けをしました。そしてその交戦の様子を見、聞きしていた人や日夜救護にあたった人、戦死者を弔いました人、監視所で役務についていた人、柳の曳航に力をかした人など、64名の同志が会を設立し、国を守り、町民を守るために勇猛果敢に戦った戦死者の霊を慰め後世にこの事実を正しく伝え、永遠の平和を願って記念塔を建立することになりました。 平成3年4月 建立委員会」とあった。同敷地の一角に・駆逐艦柳応戦展望の地の碑もありますが、展望は碑名とは異なり殆ど望めません。日本の植民地拡張政策と侵略戦争がもたらした悲劇であり、そのこと抜きの平和は語れないでしょう。除幕式は平成3年5月3日という。◇建立年:平成3年4月 ◇建立者:建立委員会 ◇所在地:松前郡福島町館崎 ◇Gmap:マップコード

吉岡大滝不動明王尊と観音像

吉岡大滝不動明王尊吉岡温泉ゆとらぎ館前の町道を奥へ1.5km程進み、山に入る二股口に入ると右側に不動様が鎮座している。大滝不動講が平成8年に建立した碑によると、松前藩時代、この道は大沢に至る松前街道の一つとして利用されており、旅人の身の安全を願って、三百年程前に修検者によって大滝不動明王尊を安置し、有志の方々がこの附近に33体の観音像を配置し祀ったという。旧街道は廃道になって積年の水害等によって大半は紛失、残っているのも痛みが激しく修復不可能な状態だったため、先人有志の意思を次いで再建したのだという。◇所在地:松前郡福島町美山 ◇Gmap:マップコード

吉岡不動滝

吉岡不動滝吉岡不動滝へのルートは大滝不動明王尊までと同じなので割愛する。突き当たりにある大滝公園の不動明王堂の右脇を先に進むと無名の小さな滝が右側から落ちているが渇水期には水涸れしそうだ。さらに上流方向進むと「吉岡不動滝」がある。正式に名付のある滝としてく北海道最南端の滝かもしれない。小雨のあとで岩肌がぬれていたため薄暗くブレがあって使えそうな写真はこれだけでした。小さい滝の割には深山幽谷の趣があり、水量が多いときは豪快な滝に化けるかもしれない。ここを訪れたのは旧国鉄松前線の吉岡側隧道口にあるという慰霊碑を見るためだったのだが、採石場敷地内であり立ち入り禁止でした。◇所在地:松前郡福島町美山 ◇Gmap:マップコード

白神岬松前町

白神岬北海道最南端の岬で、条件が良い時は青森県竜飛岬(ここから19.2km)が見渡せ、階段で海岸に出ることもできトイレ完備のミニ公園という印象です国道228号線沿いで舗装されたパーキングの海側に「白神岬」と刻まれたモニュメントと「北海道最南端」と刻まれた石柱がある。白神岬は日本国内で見る事が出来る野鳥500種類のうち300種類が見られるという、日本屈指の渡り鳥中継地となっている。また近年になって出来た「白神岬展望広場」があり、釣りをする人に人気があるようです。◇所在地:松前町字白神

旧松前線橋脚

旧松前線橋脚北海道の鉄道敷設は石炭輸送と拓殖のための輸送手段確保が優先されていた事もあってセメント工場が稼働していた上磯は大正2(1913)年に鉄道敷設、開通したが、松前方面はトンネルが多く鉄道敷設のコストが割高であるのに見合う将来的な期待の出来ないこともあって遅遅として進まなかったが、昭和13年(1938)年になってようやく知内の碁盤坂(千軒)にまで達した所で、中国との全面戦争にはいり資金難と資材不足のため進展工事は無期延期なる。工事再開の契機となったのは大島や上ノ国のマンガン鉱など兵器に欠くことの出来ない軍需物資の輸送だった。昭和17(1942)年に碁盤坂~大島間の工事が開始されるが完成を目前にして敗戦で工事は中断、戦後になって工事再開となり松前まで開通したのは昭和28年(1953)年でした。第二次世界戦争末期は壮健な日本人は戦場に送られ極端な労働力不足であり、少数の日本人土工夫と中国や朝鮮半島から強制連行された人達で、過酷な強制労働などで亡くなった人達も多いようですがその実態は未だ明らかになっていない。北海道開拓殉難者報告書では木古内・松前間の殉難者数は53名と記されている。ただこの方達はまだ運のよい方かもしれない。夜間に山中で野焼きされ埋められたり鉄路に埋められで闇やら闇に葬られた人達もいたようです。残されている橋梁は彼らの巨大な慰霊塔のようにもみえます。◇所在地:松前郡松前町大沢 ◇Gmap:マップコード

徳山大神宮MAP

徳山大神宮説明板より一部抜粋『徳山大神宮は古くは伊勢堂と称し唐津内浜(現・唐津)に有った。1652年、松前家9世高廣により遷座され神明社と称した』元々は秋田、津軽の漁民が春になると当地に渡って漁をし、秋に帰っていたが、アイヌからの危難を逃れるた小祠を建立し「伊勢堂」と称していたというが創建の年代は不明という。天正10(1582)年に松前季広が福山に遷座し神明社と称し、承応元年に松前家9世高廣が現在地に新殿を造営し遷座した。明治4年に現社名「徳山大神宮」に改称している。昭和46年に本殿が北海道有形文化財に指定され、同52年に公費で修復されたが是に合わせ拝殿を神明造に改築している。徳山大神宮の境内に「ロシア人 ゴローウニン外幽閉地」の石碑と「ゴローウニン幽囚の地」の説明板があり、その手前と背後が大館跡に行く山道の入口がある。国史というには手入れが行き届いておらずヒグマの出没もあり単独で行くのは危険かも。◇所在地:松前町神明 ◇Gmap:マップコード

ロシア人 ゴローウニン外幽閉地MAP

ロシア人 ゴローウニン外幽閉地徳山大神宮の境内に「ゴローウニン幽囚の地」の説明板より『千島列島の水路調査と測量に従事していたロシアの提督ゴローウニンは国後島に上陸したとき6人の部下と共に南部藩の守備隊に捕らえられてしまった。これは文化3年から4年におきたロシアの北辺襲撃に対する報復の為であった。ゴローウニンらは高田屋嘉兵衛との交換までの文化8(1811)年8月から10年8月までの間、松前に幽閉されていた。この沢の奥に牢屋の跡がある』国後から根室に移され陸路で箱館に護送される。函館で50日ほど監禁の後松前に移され大館下の旧家臣宅に幽閉されたが、翌年6人が山中に逃走した事もあって徳山大神宮の西側のバッコ沢奥に牢屋を造営し拘置した。幽閉中のゴローウニンは知識人にロシア語を教え、翻訳を助けるなど、日本人のロシア語研究に貢献した。松前幽閉中に体験、見聞した手記「日本幽囚記」がある。◇所在地:松前町神明 ◇Gmap:マップコード

福山城松前公園 国指定史跡

松前城 国指定史跡北海道唯一の城下町、松前町に唯一当時のまま残っている本丸御門」は国の重要文化財ですが、現在の天守閣は1959年に再建されたもので松前城資料館。以下は紀元二千二百年記念碑文より「国指定史跡 福山城 指定年月日 昭和10年6月7日 指定面積 72.674平方メートル 管理団体 松前町/福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨を持って嘉永2(1849)年松前家17世(松前藩13代藩主)崇廣に築城を命じ高崎藩の兵学者市川一学の設計により安政元(1854)年完成しました。城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ三層櫓1、二層櫓6、城門16、放題7からなっている。構造形式は平城、我国最北に位置し最後の遺構として史跡に指定されている。文部省・松前町」※北方防備を強める幕府の命令で、12代藩主松前崇広により大館(徳山館)より福山(現在の松前城の位置)に移り築城された日本式城郭で正式名称は福山城。◇公開期間 04月10日~12月10日◇公開時間 09:00~17;00◇入館時間 16:30まで 小学生以上有料 ◇所在地:松前町字松城 ◇Gmap:マップコード

耳塚・闇の井MAP

耳塚・闇の井戸サル(沙流)の首長ウタフが疱瘡にかかり死亡したのが「松前藩による毒殺」と伝わり、不平等な交易レートや、場所請負人によるアイヌ酷使などで追い詰められて、和人への不満が広がっていた背景もあり、アイヌ民族は松前藩や和人に対する敵対感情を強め、日高染退(静内)の首長シャクシャインは蝦夷各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。イシカリを除き、東は釧路のシラヌカ(白糠)から西は天塩のマシケ(増毛)周辺において一斉蜂となった。世に言う寛文の乱で決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃し東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺害(アイヌに好意的だった和人の被害は少ない)された。シャクシャイン軍は松前を目指し7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたが弓矢主体のシャクシャイン軍は鉄砲を主体としていた松前軍の前に後退し長期戦に備えるが、戦いの長期化による交易の途絶や改易を恐れた松前軍は和睦を申し出、シャクシャインは和睦に応じピポク(新冠)の松前藩陣営に出向くが、和睦の酒宴で謀殺され乱は終結。欺し討ちにした首長シャクシャインら14人の首の代わりに耳を持ち帰り埋めた所を耳塚と云う。耳塚は北海道にある碑の中で際だって野蛮で忌まわしいもので本丸すぐ横の大手門傍らにあった。榎本守恵著「北海道の歴史」に永正12年6月、東部の首長ショヤ、コウシ兄弟が蜂起、徳山を襲ったとき、まともに戦うことをさけ館内に招き、酒宴の席で謀殺、他のアイヌも皆殺しにし遺体を埋めた蝦夷塚が小館附近にあったという。アイヌ達はいつも同じ策謀にやられていた。◇成立年:寛文9(1669)年頃 ◇説明板:平成6年10月9日 ◇所在地:松前郡松前町松城 129 ◇Gmap:マップコード

松前神社

松前神社明治12年以来開拓使に出願して同14年2月8日許可せられ、旧福山城北の丸址を境内地に充て社殿を建立し、武田信廣公1柱の神霊を奉斎して松前神社と称したというのだが、鳥居には「天保二年 柏屋 / 奉納 阿部屋」と場所請負人の名があり、それ以前よりあった松世祠を引き継いだのか、それとも他から移転したのかは不明だが創建年とされる時より時代を遡っている。現在の神明造りの社殿は大正12年総ヒノキ造りで再建されたものという。蝦夷地開拓の基礎を築いたということでは功罪ありということにとどめる。◇建立年:明治14年 ◇所在地:松前郡松前町松城145番地 ◇Gmap:マップコード

中川五郎治顕彰の碑MAP

中川五郎治顕彰の碑説明は碑文で換える「中川五郎治は本名を小針屋佐七といい、明和5(1768)年青森県下北郡川内村に生まれた。文化4(1807)年エトロフ島の幕府会所に勤務中、ロシア船の来襲に遭遇し、シベリアに拉致された。五郎治はシベリアでの艱難辛苦に耐え、文化9(1812)年の帰国時、牛痘種痘法を習得しロシア語の牛痘種痘書を持ち帰った。五郎治伝来の種痘法は松前、函館、秋田、そして津軽で普及されたに留まったが、その情報は遠く京都や大阪に伝えられて日本の医学界に大きな衝撃を与え、以後の日本の牛痘種痘の普及を大いに促進させた。彼は嘉永元(1848)年松前で没し、同町の法源寺の両親の墓に葬られた。その没後150年に当たり、第99回日本医史学会が函館市で開催されるのを機に碑を建立しその功績をたたえる。平成10(1998)年5月16日 松前町 日本医史学会 弘前大学医学部麻酔科同門会」※種痘の普及範囲が狭いは、異教の国からの帰還者は没するまで松前藩の和人地から出る事は許されなかったと云い、そのなかで生き延びる為の手段が種痘であったのかもしれない。松前を除いた蝦夷地で集団種痘が実地されたのは安政4(1857)年で、五郎治が没してから9年後のことだった。◇建立年:平成10年5月16日 ◇建立者:松前町 日本医史学会 ◇所在地:松前郡松前町松代 ◇Gmap:マップコード

啄木句碑MAP

啄木句碑太平洋戦争末期に軍事輸送を目的として整備が進められた旧国鉄松前線敷設工事作業に従事し過酷な強制労働に斃れた朝鮮半島や中国大陸から強制連行された人達が埋葬された寺院でもあり、その人達の慰霊碑がある真宗大谷派専念寺境内に、石川啄木(1886~1912)の歌碑が建立されている。刻まれた短歌「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」は、明治43(1910)年の日韓併合を憂い詠んだとされ、当時の世相では覚悟のいる主張だったでしょう。境内には江戸時代の俳人「小林一茶」がこの地で詠んだ句碑がある。◇建立年:平成25年5月3日 ◇建立者:浅利政俊 ◇所在地:松前郡松前町唐津268 専念寺境内 ◇Gmap:マップコード

光明寺無縁堂 寛保津浪の碑MAP

光明寺無縁堂 寛保津浪の碑碑表は「南無阿弥陀仏 為 洪波溺死 諸霊菩提」と普通に読めるが他は判読が難しい。背面は「寛保元年辛酉七月十九日」左側面「助縁御城下両浜中惣町中」右側は「願主御城下自他請寺院中」と刻まれているとのこと。供養碑隣にある説明板より「松前は、日本海に面する狭隘な地に集落が発達しているため、海難・風水害の発生頻度は非常に高かった。このうち最大の被害をもたらしたのが、寛保元(1741)年に発生した大津波である。記録によれば、同年7月16日、日本海上に浮かぶ離島大島が突如大噴火を起こし、同年19日の早朝に大津波が来襲した。この津浪は、松前弁天島から熊石村(現・八雲町熊石)までの諸村に大被害をもたらした。溺死する者1,467名、家屋倒壊790戸、破船大小1,521隻にのぼり、甚大な被害をもたらした。また、津浪の被害は、佐渡や青森地方にも及んでいる。松前藩の記録「福山秘符」によれば、同年8月8日、光善寺の発願により各寺院の僧が集まり、光明寺境内に卒塔婆を建て施餓鬼供養を行ったとされている。この供養塔は「福山秘符」の記述によれば翌年(1742)に光善寺が供養のために光明寺(無縁堂)を建立した時、卒塔婆に代えて建てられたものである。以下省略」※津波は噴火を繰り返す中で津浪が発生したようだ。◇建立年:寛保2年 ◇建立者:願主御城下自他請寺院中 ◇所在地:松前郡松前町建石7 ◇Gmap:マップコード

茂草荒神神社

茂草荒神神社国道228号から山側に100mほど入った平地にある中くらいの神社。鳥居は第一、第二、第三鳥居があり、第二鳥居から松並木で境内入り口に平成10年建立の発祥500年記念碑がある。記念碑に従って逆算すると明応7(1498)年頃の創建になるようだが定かではなさそうで、元禄元年に再建されたという。安政5年に旧藩主松前家17世崇広の造営にかかり、松前家歴代藩主の祈願所というここでも奉納された鳥居に場所請負人の名前が刻まれていたのが目立っていた。◇創立年:年代不詳 ◇再建年:元禄元年 ◇所在地:松前郡松前町茂草 ◇Gmap:マップコード

大島開発記念碑

大島開発記念碑碑を見たときは海岸部の旧地名大島の事かと思ったが、碑文を見ると松前大島を基地としとして漁場開発を志した先人達の犠牲を悼むと共に、その努力を称えるために大島のよく見える此の地に記念碑を建立したのだった。大島の漁業開発は明治に始まったといい、その歴史はそれほど長くはないが、近年は漂流船の船員上陸、漁具や施設の破壊と盗難で話題となった。寛保元年の噴火で大津波を引き起こした大島も今は静かにしている。◇建立年:昭和52年12月26日 ◇建立者:江良漁業共同組合・清部漁業共同組合 ◇所在地:松前郡松前町大津 ◇Gmap:マップコード

泉龍院寛保津浪の碑

泉龍院寛保津浪の碑寛保津波の碑とあるが碑ではなく座位の地蔵尊でした。高い台座正面に「寛保元年 辛酉 為 溺死諸霊菩提 七月十九日」左側面には「願主 泉龍院實宗」と刻んである。後方に説明文の重複部分は省略し要約「大島の対岸である松前町江良地域の被害が最も大きく「津軽藩日記」によれば「ゑら町」では「370人程 他旅人80人程」の死人が出たと記録されている。江良地区は近世期でも福山から江差に至る集落の中では上ノ国に次ぐ規模でしたが、寛保年代の江良地区は人口が不明だが、寛保津浪の約70年前に記録された「津軽統一志」では、寛文9(1669)年には家数70軒と記されているといい、寛保津浪による全死亡者の3割以上が江良地区と云う壊滅的な被害でした。生き残った人々が泉龍院に集い貫宗が中心になって、この供養塔を建立し犠牲者の菩提を弔ったという。津浪の被害を乗り越え江良地区が集落として立ち直るまで相当な時間を要しただろう。※地蔵尊なのに供養塔や碑というのには戸惑ってしまった。◇建立年:江戸時代 ◇建立者:願主 泉龍院實宗 ◇所在地:松前郡松前町江良435 ◇Gmap:マップコード

追分ライン・松前街道ミニギャラリー

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