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ぐるっと後志プチ旅3‼
積丹ソーランライン・積丹町~岩内町を巡る旅‼

婦美 開道記念碑積丹町

婦美 開道記念碑積丹町婦美地区は安政年間に漁場として開かれた浜婦美が早いも鰊漁の不振と交通の不便な事もあって過疎化が進み現在は無人ですが、内陸部は積丹半島には珍しく平坦な地形で農業地帯として開けている。婦美地区で旧駅逓・小樽茶屋駅逓所の痕跡を探していて目に入ったのがこの碑。碑には「開道記念碑」裏面に「昭和七年六月」とあるだけで経過は刻まれていないが、美国船間からの野塚への道路は明治18年頃に開削されたようなので、この開通記念碑は日司周りの開通記念碑なのかもしれない。大町桂月も通った「小樽茶屋」は陸測図(大正6年測図)にもあるが、官設駅逓の期間は昭和4年~昭和16年でした。遅くまで駅逓のあったのは冬期間の交通に不可欠だったからでしょう。現在の道とは少しずれているが、この碑付近に駅逓があったのでしょう。◇所在地:積丹町婦美町 ◇Gmap:マップコード

島武意海岸・屏風岩MAP

島武意海岸・屏風岩道道913号線から脇道に入りエンジンの悲鳴を聞きながら坂上の駐車場へ。ここから歩いて素掘りの島武意海岸トンネルを越えれば島武意海岸。元々はニシン魚が盛んな頃に荷揚げ用に掘られた人専用のトンネルなので、狭く照明もないので中央部は何も見えない程。トンネルを抜けると一気に視界が開け、目前に高さ64mの屏風岩が飛び込んでくる島武意海岸、透明度の高い海からは岩盤が透けてみえ積丹ブルーの日本海が広がっている。積丹半島を代表する景勝地で日本の渚百選にも選ばれているが、元々は荷揚げ道だったつづら折れの歩道で海岸には降りられるが、標高差70m程あるので戻ってくるのが大変です。◇撮影地:積丹町大字入舸町 ◇Gmap:マップコード

しゃこたん場所運上屋と出張所跡の碑MAP

しゃこたん場所運上屋と出張所跡 シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~1875(明治8)年迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。積丹は神威岬から北は女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊(旧美国町小泊)への陸路は岩田金蔵が開いたという。幕末時には通行屋があり文久2年に駅場(通行屋)の改築をしているようだ。明治2年に運上屋は廃止され本陣に、明治5年に本陣を廃止し駅逓所となるが、北海道宿駅制の研究の明治前期編で「岩田某宅にて駅努を扱う」とあり、明治15年の駅逓取扱人名簿に岩田金蔵の名前がある。開拓使の記録では安政5年7月設置となっているが、宿駅は請負人の義務であり安政3年に松浦武四郎が当地を訪れた時に運上屋があり宿泊していることから開設はもっと遡ると思われる。明治6年に海上経由の御用状並官員船継立廃止とあり、取扱人手当は30円の支給だったが次第に減額され明治15年には5円になる。安政3年に女性も半島以遠への入居が許されたため、海路よりも余市・稲穂峠・岩内ルートを経由する旅人が増え主要交通路に変わったようにおもわれる。駅逓は明治20年に野塚へ移転、翌明治21年4月廃止され人馬継立所設置(民営?)とあり駅逓廃止年は不詳、しゃこたん場所運上屋跡碑は日司町にある。出張所跡碑の所にある「海辺の宿・運上屋」は積丹場所請負人だった岩田金蔵がニシン漁が衰退した後に運上家の脇本陣(通行屋)として建てられた施設を利用し旅館業をはじめたのが元というので明治末のことか、その建物は世代交代して今はみられない・・◇所在地:積丹町来岸町42 ◇Gmap:マップコード

神威神社MAP

来岸・神威神社寛文3(1663)年に神岬に再建され、現在の社は明治3年に神殿と共に建立(場所の移転は?)。神殿自体が絢爛豪華を極め道の文化財に指定というが外見からは想像もつかない。外見上は細かい造作は見て取れるも至って普通の神社。松浦武四郎の西蝦夷日誌に「ここにオカムイの拝殿というものあり」と記され古くから名の知られた神社であったようです。◇所在地:積丹町来岸町 ◇Gmap:マップコード

沼前駐車公園MAP

沼前駐車公園国道229号線の積丹トンネルの北側、沼前岬手前にトイレの完備された駐車場公園がある。これが沼前駐車場で北外れに「ソーラン節のふる里・積丹」と書かれた大きなソーラン節発祥之地碑が建っている。国道229号線は通称追分ソーランラインと呼ばれて積丹町はソーラン節の故郷と称し古平とここの2ヶ所に碑があり、同様に余市町もソーラン節の故郷を主張、国道229号線の新豊浜トンネルの東側入口横に碑がある。ただ神威岬や神威岩をバックにソーラン節発祥之地碑を眺められる眺望と記念碑の立派では積丹が圧倒的優位。この沼前駐車場のすぐ北にある切り立った石神岩は迫力があり、海だけでなく山側の眺めもよい。◇所在地:積丹町大字神岬町 ◇Gmap:マップコード

西の河原駐車場神恵内村MAP

西の河原駐車場ジュウボウ岬(西の河原)を挟んで国道229号線の「西の河原トンネル」積丹側と神恵内側にパーキングがあるがトイレは使えません。「大天狗トンネル」と「西の河原トンネル」の間にある西の河原駐車公園から、以前は「西の河原」まで陸路でいける遊歩道があったが、岬の右側が崩壊し今も通行止めになったまま。どちらの駐車場からも見た感じでは釣りはできそうな雰囲気でした。そんな訳で「西の河原」に行けるのはシーカヤックくらい、普通は両側のパーキングからその雰囲気の一端を窺うのみです。あえて云うと尾根越しなくてすむ袋澗跡(切澗2ヶ所)まではなんとか行けそうということくらい。◇所在地:神恵内村珊内 ◇西の河原駐車場・神恵内側  ◇Gmap:マップコード

一般国道229号開通記念碑

国道229号開通記念碑 西の河原に近いオブカルイシの駐車場に国道229号開通記念碑がある。碑文1「平成8年/一般国道229号開通記念碑/起点 小樽市/終点 江差町/全長 287.6km/神恵内村」とあり碑裏面には工事関係者と思われる企業名が刻まれているだけのシンプルな碑です。明治年代の神恵内村はニシンの千石場所として栄えた地域で、このオブカルイシ地区も漁民の定住があり明治17年には寺子屋がはじまったという歴史があり、大正年代は戸数20件前後であったらしい。道とはいえそうもない海岸道と険難な山道だけで、時化ると陸の孤島となるような所でした。昭和になってからはニシンも不振となり昭和41年の集団移転で集落は消滅、国道が開通したときは無人の地となっていた。かつて人々の暮らした痕跡はあんない展望公園にわずかに残っているだけです。◇建立年:平成8年 ◇建立者:佐藤建設・佐々木組・阿部建設 ◇所在地:神恵内珊内村オブカル石駐車場 ◇Gmap:マップコード

弁財澗・弁財トマリ

弁財トマリかつて弁財船が湾内に停泊できたので弁財泊と呼ばれるようになったと思われる。松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」に「弁才トマリ、舟掛り澗。六百石位のもの、二、三艘かかる也」と記載され、今も杭跡が残っているとのこと。江戸期からある地名で、ラウネトマリともいうが、名前のように深そうには見えないが、透明度が高いので浅く見えるのかもしれない。かつては神恵内の物流で重要な地だったようです。今は無人の地だが弁財澗のバス停がある。この海岸に降りるルートが何通りかあるようですが、今は釣り師専用でしょうか・・・◇所在地:神恵内村弁財澗 ◇Gmap:マップコード

茂岩神恵内道路開通 記念碑

茂岩神恵内道路開通 記念碑 旧道と新道が重なる折石駐車場の崖上に大正11年9月建立の茂岩神恵内間の道路開通の記念碑があり慰霊碑でもあるという。「本村は海岸豊富ニシテ住民臺和ス 然レドモ地勢山ヲ負ヒ海ニ面シテ 概ネ険峻僅ニ九折坂道ヲ通ス。海上賈艘ノ往来スルアルニ因リテ 運輸ノ利便ヲ保チシノミ 一旦風涛怒号スルヤ連日交通杜絶シ 商旅遙カニ恨ミキ 明治四十一年村議始メテ道路開鑿ヲ企テシモ 其ノ工事困難ナル意ノ如クナラズ為ニ遷延セリ 然ニ本村澤口庄助氏深ク之ヲ概シ 五萬金ヲ寄付シ道路開削期成委員会等又測量費二千余金ヲ拠出シ 以テ之ノ促成ヲ促シ 当局亦其ノ急設ノ必要ヲ認メ 乃チ大正十年七月起工 爾来半歳余ノ日数と工費二十万金ヲ費シ 茲ニ全ク竣工ス 惟フニ本道ノ開通ハ独リ本村ノ福祉ヲ進ムルノミナラス 行客亦長ク其ノ恩澤ニ浴スルモノアラン 大正十一年九月 神恵内村」碑の側面には工事関係者の氏名9人、道路開鑿期成会委員12名には鰊場親方衆が名を連ねている。工事請負は橋本橋本幸次郎とあり、日本製鋼所建設工事をした橋本組か?、当時の常識からすれば人力による人海戦術による工事と思われ、犠牲無しの竣工は考えられないが、碑に慰霊の言葉はない。旧道に沿いに大正11年9月に建立された道路開削殉職者供養塔があるというが場所がわからずみていません。◇建立年:大正11年9月 ◇建立者:神恵内村 ◇所在地:古宇郡神恵内村 折石駐車場 ◇Gmap:マップコード

後志十景カブトライン泊村

後志十景カブトライン 後志十景と呼ばれている場所のひとつがカブトライン、説明板より「この海岸一帯は「カブトライン」と呼ばれており、そのほぼ中央にある泊村カブト岬は突端にあるカブト岩から名付けられ 後志十景 の一つに数えられています。昔、岩内の首長が義経の残していったと伝えられる秘蔵の金の兜を洞窟に隠しておいたが、そのことをだれにも告げずに急死してしまった。首長は死後自身が忘れられないためと、兜の存在を知らせるために岬の岩に険しい顔をしたその姿を現したという。それがカブト岩になったと伝えられている。泊村観光協会」※残る九景は不詳ですが、この海岸線はニシン漁場の土木遺産・袋澗が密集しており袋澗の展望台として最高の場所です。◇撮影地:古宇郡泊村照岸 ◇Gmap:マップコード

海難殉職者慰霊塔・魚族萬霊之塔

魚族萬霊之塔 泊村の国道沿いで瑞龍山法輪寺近く、茅沼墓地入り口横にに慰霊碑がある。碑は泊村漁協などの法人や大勢の方々の篤志で近年の建立ですが、今まで慰霊碑がなかったとは思われずおそらくは再建なのだろう。地域からして鰊漁業にも関わり深い碑だったように思えた。明治年代は神恵内と並びニシンの千石場所とした栄えた村でした。◇建立年:昭和56年8月7日 ◇建立者:泊村漁協他多数 ◇所在地:北海道古宇郡泊村 ◇Gmap:マップコード

無縁塔と袋澗跡

無縁塔 この地域では安政3(1856)年に石炭が発見され北海道では白糠に次いで二番目に開坑した茅沼炭坑がありました。官営の炭坑として明治2(1869)年に炭鉱と茅沼港(積み出し港)を結ぶ茅沼炭鉱木製軌道が開通、明治14年に鉄製レール交換とある。明治17(1884)年になって茅沼炭鉱での採掘が輸送面の不備や災害頻発などで中止され民間に払い下げられる。その後を引き継いだのが泊村の2代目武井忠兵衛が中心となって発足した「茅沼炭山採炭組合」でした。大正期には鰊漁の不振で泊村の経済を茅沼炭鉱支えたと思われる。大正5年に茅沼炭鉱鉱業所になっているが、神恵内のニシン場親方だった澤口庄助氏を社長とする沢口汽船鉱業株式会社が引き継いだようですが、昭和5(1930)年には道外資本の茅沼炭礦株式会社に事業を継承。茅沼炭礦株式会社になってからの変遷は割愛し、この炭坑で働いた人達のことについてみる。茅沼炭礦株式会社は昭和12(1937)年より監獄部屋(タコ部屋)を導入し、戦後の昭和25年頃まで存在していたという。また一説によると茅沼炭砿のズリ山には200人が埋められていると伝えられているとも、北海道開拓殉難者調査報告書によると官営の時代から茅沼炭鉱までの期間で殉難死は268名で氏名の判明しているのは234名となっている。また中国人の強制連行は大戦末期の昭和19年3月に始まるが、敗戦直前の昭和20(1945)年6月5日に共和町発足の鹿島組玉川出張所に中国から200人が強制連行され「泰山寮」に収容、ここでは72歳の老人もいれば14歳の少年も含まれていたという。主に玉川鉱山で使う沈殿池の造成作業に使役した典型的な「監獄労働」であったという。法輪寺裏山の茅沼墓地に行路行き倒れで亡くなった人達や強制労働に斃れた坑夫達、再び祖国の土を踏む事のなかった人達を慰霊する無縁塔がある。積み出し港だった茅沼港(S87号袋澗)は一部が船揚場になり、海岸にへばりつくように石垣が残り、沖に残る防波堤は広大な埋め立て地があったことを物語る。浅い船着き場に入れない石炭輸送船に石炭を運び包み込んだ名残なのでしょうか。この袋澗は「積丹半島の袋澗」によると武井富男氏所有の鰊袋澗兼船入間で築設年は不詳とあるが、石炭積み出し港でもあったことから歴史はありそうです。◇所在地:北海道古宇郡泊村 ◇Gmap:S87号袋澗Map ◇Gmap:茅沼墓地Map

野生ホップ発見の地碑岩内町

野生ホップ発見の地碑明治4(1871)年に岩内町で野生ホップが発見されたという。岩内町には野生ホップ発見の地碑と野生ホップの発見者、トーマス・アンチセル氏の碑がある。蛇足ですが美瑛で釣りをしたときに河川敷にホップらしき植物をなんどか見ている。栽培品が野生化したものか・・・ちなみに岩内町はヨーロッパ原産のアスパラガスの栽培にを日本で最初に成功した地で「日本のアスパラガス発祥の地」という碑もある。のちにアスパラガスの生産は喜茂別地方に変わるが。◇建立年:平成27年7月7日 ◇建立者:岩内サッポロビール会 ◇所在地:岩内町清住5−3 岩内町郷土館前庭 ◇Gmap:マップコード

雷電海岸と刀掛岩MAP

雷電海岸刀掛岩 刀掛岩と夕日のコントラストが美しくしいというが・・・ 弁慶が、雷電峠で休息した際、岩をひねって大刀を置いた。海岸で釣りをする際に大刀を掛けたなど様々な逸話のある岩内町のシンボル的な岩です。カスペトンネル入口前にある「生まれ出づる悩み」の一節を記した有島武郎文学碑の所からが見るのが良さそうで駐車スペースもあります。◇撮影地:岩内町字敷島内付近 ◇Gmap:マップコード

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