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渡島を巡る旅3‼
ぐるっと渡島 北斗市・木古内町・知内町を巡る‼

七重浜慰霊碑古戦蹟北斗市

七重浜慰霊碑古戦蹟 慰霊碑の碑文より「此の七重浜はコマシャインの乱の時、和人とアイヌとの一大決戦場であり、又明治維新に於いても幕府の軍艦と官軍の決戦の行われた地で有り、その当時犠牲の御霊等をすべてここに祭りを致します。昭和四十四年十月吉日 発起人 児玉そよ他一同」※この碑は地元一帯の大地主であった児玉そよさんが、昔この地域で屍をさらした多くの戦死者の霊を祭って、この地の清めをしたいと個人で慰霊碑を建立されたのだという。和人鍛冶がアイヌ青年を殺害したのが端となり、コシャマインに率いられたアイヌ軍は茂別館と花沢館以外の全ての和人の館を攻め落としたが、長禄2年に武田信広が七重浜でコシャマイン父子を弓で射殺したと云い、リーダを失ってアイヌ軍は崩壊、七重浜はコマシャインが戦死した地でした。埋葬地や墓は確認されていないが慰霊碑は旧上磯町の七重浜共同墓地にあります。◇建立年:昭和44年10月 ◇建立者:児玉そよ他一同 ◇所在地:北斗市七重浜7丁目5-1 七重浜共同墓地 ◇Gmap:マップコード

台風海難者慰霊碑(洞爺丸慰霊碑)

洞爺丸海難慰霊碑 昭和29(1954)年9月26日の台風15号で、洞爺丸を初め十勝丸、第十一青函丸、日高丸、北見丸など5隻の青函連絡船が七重浜沖で遭難沈没、死者・行方不明者1155人以上という未曽有の海難事故となり、生還したのはわずか159人といいます。事故の翌年に多くの遺体が打ち上げられた北斗市七重浜に慰霊碑が建立されました。碑文「昭和29年9月26日、15号台風接近、朝来人心暗く夜に入るや業風の猛威弥々凄く、瓦飛び家倒れ虚空も摧くの感ありて瞬間風速實に517米。港内に仮泊せる青函連絡船洞爺丸を始め日高丸、十勝丸、北見丸、第十一青函丸の5隻はその乗組員の死力も天魔の跳梁に抗すべきなく空しく狂瀾怒涛に覆没して世界海難史上稀有の大参事を惹起せり。瞑目一番洪波洪渺に出入して覆没せりし洞爺丸乗客1914名を始め、各船乗組職員353名が神に祈り佛に求むる阿鼻叫喚に想ひをいたすの時胸裂け魂飛んで号泣、今尚耳を刺す蒼天慟哭何ぞ休せん。我等同人特にこの一基を建立し永く精霊の冥福を祈り虔んで爾後を誡む。昭和三十五年八月二十五日 十五号台風海難者慰霊碑 建立協議会」石碑の近くから海に向かって数条の線が伸びているが、右から2番目の線は洞爺丸の沈没方角を示し約700m先で荒れ狂う嵐になすすべなく多くの人の命が奪われた。この大惨事により15号台風は洞爺丸台風と命名されている。◇建立年:昭和30年8月25日 ◇建立者:十五号台風海難者慰霊碑 建立協議会 ◇所在地:北斗市七重浜8丁目  ◇Gmap:マップコード

大野会所跡と大開田

大野会所跡と大開田 大野会所は開田の為に設置された会所で、蝦夷地で場所請負人が設置した会所とはその役割や性格が異なるが、公設の宿駅が置かれていたことはおなじ。説明板より「1805(文化2)年、大野は幕府の手により諸国から集められた農民500人によって庚申塚(本郷)に90町歩(90ha)、文月に50町歩(50ha)が大開田された。それには箱館奉行の山田鯉兵衛、村上次郎右衛門、石坂武兵衛、代島章平らの役人が当たった。広い敷地内に開田の役所である会所を置いた。それが後に大野小学校の敷地になったのである。周辺には多くの杉がそびえていたが、その大木の切り株の一つがこれである。以下省略 平成6年10月 大野町教育委員会」稲作の経過は下記の北海道水田発祥之地碑のほうが詳しい。◇設置年:平成6年 ◇設置者:旧大野町 ◇所在地:北斗市大野町 ◇Gmap:マップコード

北海道水田発祥之地碑

北海道水田発祥之地碑 説明板の内容が碑文と一部重複するので説明板のみ転載『蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661~1672)、貞享2(1685)年、元禄5(1692)年の記録がある。水田発祥の地碑は元禄5年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和24(1949)年に建てられた。台座の碑文には「亀田郡大野村字文月押上のこの地に、元禄五年農民作右ェ門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪(注・約15アール)を開田し産米十俵(注・現在の2俵程度)を収穫した。尓来消長あったが後【御上田】と称して現在に及んでいる。先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はかうして発祥したものである。渡島支庁長 長岡武夫書 昭和二十四年八月建立」と記されている。作右衛門の水田は2,3年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化2(1805)年には箱館奉行が大規模な水田開田を行ったが、長くは続かなかった。嘉永3(1850)年、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元(1854)年以降、米作りはようやく安定した。明治6(1872)年になって島松(現・北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功(試作は明治4年から)し、米造りは全道各地に広がった。上ノ国町と共和町に安政4年開田してという記念碑がある。碑は道道96号上磯峠下線の文月稲荷神社近くから広域農道を南東に折れ約400m進んだ所にある。◇建立年:昭和24年8月建立 ◇建立者:未確認 ◇所在地:北斗市村内369-4 ◇Gmap:マップコード

切り掛けのオンコ

切り掛けのオンコ 明治5年に郵便制度がスタートして明治9年頃には全道一周の郵便路線が出来ていたが、内陸部に関しては整備が遅れ、辺地では駅逓経営者が郵便取扱者を兼ねている場合も多かった。明治9年に函館~中山峠経由~江差間の郵便路線が出来、鶉と中山峠に郵便取扱所が開設されている。この路線の利点は海岸回りに比べ距離が大幅に短縮されること。難点は鶉越の難所でありかつ長距離で住人のいない中山峠の郵便局設置の実態は簡易的な宿泊も可能な中継所であったと思われるが明治14年廃止。新たに交換便が開始とあり建物はそのまま交換所として使用されたのかも。中山隧道前にある「切り掛けのオンコ」説明板に「ここ中山隧道バス停から約500メートル程江差を方向に進むと、右側に小高い丘になっているところにあるオンコの木を「切り掛けのオンコ」という。これは明治2(1869)年現在の市渡村絵図に記されており、ここが駅逓で大野側と檜山側の郵便物交換所であった。オンコはその目印であったと言い伝えられている。・・中略・・「切り掛けのオンコ」は、現在のように道路が整備されない時代の文書交換の貴重な場所と注目され、当時が偲ばれるものである。」とある。郵便制度が整備される以前の話で継立であれば取り扱うのは公金や公用書に限定される。また駅逓の記録は見当たらないが正式な郵便取扱所が出来る前から建物はあった事になります。◇建立年:平成14年8月 ◇建立者:旧大野町 ◇所在地:北斗市村山 ◇Gmap:マップコード

出会いの滝小滝の沢

出会いの滝説明板より「前略・・この道路は安政元(1854)年に開削され、初めて挑んだのは、市渡大悲庵(円通寺の前名)の庵主、道仙で、木間内(厚沢部)の旅籠屋の主人、麓長吉と話し合い、小滝の沢で落ち合う約束で、中山と峠をはさみ、東と西から工事を始めたところから「出会いの滝」ともいわれている。市渡の檀家の人々が参加したが、資金難と人手不足のために残念ながら途中で挫折してしまった。安政5(1858)年に鈴鹿甚右衛門と長坂庄兵衛の人夫70人による工事が始まり、半年後に道幅約3.6m、延長4.3km、大小の架橋7か所、総工費800両(約2億4千万円)の道路が完成した。滝は幅7m、高さ12mで、水量も多く年中水が枯れることはない。・後略・平成12年8月 大野町教育委員会」※木の葉が茂るとよく見えない。◇所在地:北斗市大野町 ◇Gmap:マップコード

前田はたごや跡MAP

前田はたごや跡駅逓で旅籠屋(はたごや)が正式名称だったのは明治5年のわずかな期間だけ。名前から駅逓を連想するが、渡島の駅逓リストにはなく函館県では明治12年に官設駅逓を廃止している。ただ宿泊なしの江差山道越しは難しそうで、はたごやが私設駅逓のような業務をしていても不思議ではない。中山峠は御境とも呼ばれ函館側を江差山道、江差側を鶉山道あるいは鈴鹿山道とも呼ばれていたという。鶉山道側には中村はたごや跡がありました。中山峠は他の中山峠と混乱しないよう渡島中山峠と呼ばれることもある。旅籠屋は前田吉五郎からから市渡の横山重也氏に引き継がれた。この附近は箱館戦争の激戦地の一つですぐ近くに佐藤安之助の墓碑がある。◇所在地:北斗市大野町 ◇Gmap:マップコード

松前藩毛無山番所跡毛無山山道入口MAP

松前藩毛無山番所跡入口「市渡T字路より江差方向に約5km進むと、進行方向左手に下川汲橋がある。この橋を渡り、北西の方向に上川汲沢の旧江差山道を150mほど行くと、毛無峠の入り口にあたる。この入り口付近に松前藩の番所跡があり、傾斜面の山肌に土砂崩れ防止の石積みがそのままあり・・以下省略・・平成4年10月 大野町教育委員会」※入り口近くで熊の爪痕?で早々に退散。◇所在地:北斗市大野町

中山分校跡MAP

中山分校跡 前後に樺太(現・サハリン)よりの引き上げ者受け入れ先として、中山地区の509ヘクタールが緊急開拓地として選定され38戸が入植した所です。自然には恵まれているが農地としては厳しい条件で入植者は開拓に挑むも苦難の連続であったという。中でも子弟の教育は遠距離のため冬期間は通学に困難をきたしたが、昭和29年に大野町立市渡小学校中山分校として誕生、最も多いときで28名が在校していたという。酪農を中心とした農業でしたが離農などで年々過疎化がすすみ平成4年に閉校しています。今は校門と校舎が残るが校舎は中山集落の地域会館として利用されているようです。◇所在地:北斗市中山 ◇Gmap:マップコード

福山藩士之墓碑函館戦争と無縁墓地

福山藩士之墓碑 箱館戦争で大野における戦闘は明治元年旧暦10月24日早朝、現・意富神社境内での銃撃戦で幕を上げた。新政府軍は福山・大野・松前の三藩連合であったが榎本軍大鳥圭介隊の攻撃に打ち破られ、新政府軍は建物に火を放って千代田、有川(久根別)方面へ退却、その際、備後福山藩の千賀猪三郎(20歳)と松本喜多治(17歳)の二人がここ鍛冶在所で戦死し、葬られている。福山藩の戦死者は8名が確認されていると言うが、他の4名は光明寺に眠っているというが、残り2名の藩士は記録は無く無縁仏としてこの地の無縁墓地に葬られていると言われている。◇所在地:北斗市南大野  ◇Gmap:マップコード

史跡松前藩戸切地陣屋跡

史跡松前藩戸切地陣屋跡説明板より「この陣屋は、安政2(1855)年、幕府に命じられ松前藩が築いたものです。構造は四稜郭で亀が首を出した形をしており、6つの砲座があります。郭内には17棟の建物があり、約120人で守備してましたが箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払っています。陣屋の保存状態がよく資料的価値が高い事から、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。」※陣屋に行く道がトンネル状の桜並木になっている。◇所在地:北斗市野崎 ◇Gmap:マップコード

矢不来台場跡MAP

矢不来台場跡説明板より「箱館戦争の時、最も激しい戦いがあった台場です。箱館の押付台場と向かい合い函館湾を守るため前幕領時代(1799~1821年)に造営され南部藩が守備しています。安政元(1854)年蝦夷地はふたたび幕府の直轄地となり、箱館奉行の竹内安徳などにより、この台場の増強が必要な事を幕府に上申しています。明治2(1869)年の箱館戦争では、この台場を幕府脱走軍(榎本軍)が修理し、新たに第二台場を造営して大鳥圭介他約500名が、守っていましたが、同年4月の官軍による激しい砲撃、艦砲射撃にあい七重浜に撤退しています。この戦いで衝鋒隊隊長。天野新太郎ほか死傷者約70名出しています。平成21年12月北斗市教育委員会」※道路際に北斗市設置の説明板があるのみ。◇北斗市矢不来 ◇Gmap:マップコード

矢不来天満宮MAP

矢不来天満宮北海道では歴史のある神社で茂別館跡に鎮座し鳥居は年代物。北海道神社庁のHPに「安藤盛季矢不来に舘を築く」とあるが場所が矢不来館と茂別館の区別が曖昧。茂別館は茂辺地川左岸の標高約34m程の丘地の南端に位置し南の大館、北の小館からなる。コシャマインの乱では道南の10館は落城するが茂別館と上ノ国町の花沢館は残った。鳥居横の矢不来天満宮と彫られた碑に創紀長禄元年とあったが、コシャマインの乱が天満宮創紀の動機になったものか。茂別館は明応5(1496)年に陥落、後に再建されるも、アイヌ側の攻撃で永正5(1508)年に放棄され、下国師季は松前家に臣従する。再建は貞享5(1688)年からで、何度かの再建、造営があるが、大正6(1917)年迄は矢不来海岸の台地(台場跡近くの海岸寄り)、次いで茂辺地市街地南側の高台に移転、昭和3(1928)年より現在地という。境内に開田記念碑、鮭の碑、史蹟茂別館跡、矢不来梅園碑があり、近くに煉瓦石製造所跡碑があります。◇所在地:北斗市矢不来138番地 ◇Gmap:マップコード

茂辺地煉瓦石製造所跡MAP

煉瓦石製造所跡 説明板より転載「北海道開拓使は明治5(1872)年に開拓使唯一の茂辺地煉瓦石製作所を創設しました。原料は茂辺地村の粘土と戸切地村の砂を使用し技術者と職工の22名で煉瓦と瓦を製造しました初期製造(明治5年~9年)製品は、品質が悪く明治9年末で操業中止。明治11年6月、東京箱崎町に開拓使物産売捌所が造られることになり煉瓦石15万本、屋根瓦9千枚を供給するため製造再開。東京で煉瓦石職人2名を雇い入れ11月までに約20万本の煉瓦を焼き上げました。製品は良質で評判も非常に良かった。開拓使は13年1月、一億本本の製造計画を立案したが計画も廃案となり14年1月には民間に払い下げられ生産は中止となりました。建物では函館元町公園にある旧函館支庁書籍庫や金森洋物店等か現存しています。平成21年12月 北斗市教育委員会」※矢不来天満宮の裏側に標柱が立っている。◇建立年:平成21年12月 ◇建立者:北斗市教育委員会 ◇所在地:北斗市矢不来 ◇Gmap:マップコード

鮭の碑MAP

鮭の記念碑矢不来天満宮敷地内に鮭の碑がある。碑文1「鮭の碑 北海道知事 堂垣内尚弘書」碑文2「茂辺地川において最初に鮭の採卵が行われたのは明治11年師走、九千の受精卵が七飯勧業試験場に運ばれた。そして翌年、酒井宮次郎によって鮭魚孵化場が作られた。わが国に□□孵化場開設の嚆矢である。爾来幾十霜月、長年に亘る先人の労苦は鮭資源の増大をもたらし、更には近海の河川における実施も考えられるようになり、昭和39年からは戸切地川、同46年からは大当別と次々に放流が開始されるに至ったものである。ここに永くも先覚の労を偲び、草創の頃から関係者が相集い、ふ化場の運営を考えた天満宮の一隅に地を朴し、碑を建てて将来への繁栄を祈念するものである。昭和52年4月16日 茂辺地漁業協同組合 上磯町漁業協同組合 当別漁業協同組合」※以下省略」孵化場跡には説明板が設置ある。◇建立年:昭和25年4月16日 ◇建立者:茂辺地・上磯町・当別漁協 ◇所在地:北斗市矢不来138番地

茂辺地鮭卵ふ化場跡MAP

鮭卵ふ化場跡 説明板があるが矢不来天満宮の「鮭の碑」の碑文と重複する部分を除き要約して記す明治11(1878)年に茂辺地川の鮭から採卵したのを七飯勧業試験場で試験的に実地され、翌年稚魚がふ化。その翌年に北海道初の民間(酒井宮次郎)による鮭卵ふ化社が設立される。当初は北海道開拓使の煉瓦石製造所跡の払い下げを受け鮭孵化場として使用、明治20年以降は100万粒台の採卵となり、発眼卵は東北地方や利根川流域、島根、広島県まで広がった。戦後になってから本格的な孵化場にとれ組み、現在は北海道から委託された事業者が採卵、孵化・放流を行っている。ここで気になるのは発眼卵の移植によって起こった個体群の攪乱、漁体の小型化などの弊害が懸念されることでした。◇設置年:平成21年12月 ◇設置者:北斗市教育委員会 ◇所在地:北斗市矢不来

寝台特急北斗星広場

北斗星広場 青函トンネルが開業した昭和63(1988)年から、北海道新幹線開業前年の平成27(2015)年までの27年間、東京の上野駅と札幌駅を結んだ寝台特急「北斗星」の客車2両が平成27(2016)年7月から茂辺地町内の中学校跡地のグラウンドで保存・展示され、内部が一般公開されています。また旧グラウンドの名称を「茂辺地北斗星広場」としてウッドデッキの設置や芝生・花壇の整備を進めていくということでした。まだ殺風景な感じは少しのこっているが、北海道へ旅する人には絶大な人気を誇った「寝台特急北斗星」でした。見学は土日祝日9時半~17時、月曜日9時半~15時、外観だけならいつでも可能、冬期間は要確認のこと。◇所在地:北斗市村山茂辺地 ◇Gmap:マップコード

木古内町郷土資料館 いかりん館木古内町MAP

木古内町郷土資料館 平成23年3月に閉校した鶴岡小学校の校舎を活用し平成27年3月に開校した木古内町郷土資料館。どこの郷土郷土資料館でも見られる開拓や産業関連の展示もあるが、ここででしか見られない展示として、松前線・江差線コーナーや国鉄時代、JRを含めた鉄道に関する「鉄道資料室」とサラキ岬の沖合約2㎞、水深約20mの場所で引き上げられた咸臨丸のものと推定されている「いかり」です。屋外に山神の碑や昭和62年に建立された鶴岡小学校の開基開校百周年記念碑がありました。◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡 ◇Gmap:マップコード

道南トロッコ鉄道 鶴岡公園駅

道南トロッコ鉄道 平成26(2014)年5月に廃線となったJR江差線の木古内~江差間の約2.9㎞の区間の線路を利用して誕生した木古内町のトロッコ(軌道自転車)乗車体験施設です。トロッコはスタッフが運転する動力付きトロッコと乗り手自身で自転車のように動かす足こぎトロッコがある。旧江差線・渡島鶴岡駅の跡地で、鶴岡駅の待合室だった建物がトロッコ乗車の切符売り場になっている。乗車(軌道自転車)の利用には乗車券が必要となりますが、料金は乗車人数によって異なります。運行期間は常4月下旬から10月下旬の土曜日、日曜日、祝日で雨天、悪天候時は運休止、事前に問い合わせを。隣接してある木古内町郷土資料館には江差線の鉄道資料室もある。◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡 ◇Gmap:マップコード

開拓使判官 松本十郎の碑MAP

松本十郎の碑禅燈寺山門脇に庄内藩の松本十郎の碑がある。碑文は長文なので説明板を転載する「北海道開拓使判官 松本十郎/天保10(1839)年山形県鶴岡士生まれ。文久3(1683)年父親に従って蝦夷地の庄内藩警備地区浜益・苫前等に勤務。慶応3(1867)年江戸市中取締の任に当たる。翌4年、戊辰戦争では大隊の幕僚として活躍した。庄内藩降伏後、新政府との交渉に当たり、明治2(1869)年黒田清隆の推挙により北海道開拓判官に任ぜられ、根室地区の責任者として、漁業振興や北方領土の警備などに尽力し、根室市の基礎を築いた。明治6年開拓大判官となり、北海道開発の責任者として財政の確立、農業の振興などに尽力し、北海道開拓に偉大な功績を残した。奥羽地方最初の勅任官となった人。平成13年11月 木古内町観光協会」※北海道で洋式の灯台を最初に作った事やアツシ判官の異名で知られる松本十郎ですが、黒田清隆とアイヌ民族の処遇で意見が合わず、同9年官を辞し鶴岡に戻り晴耕雨読の生活にはいる反骨の人ですが、唯一の汚点は公設の遊郭を広めたことでしょう。碑は74人のからの寄進を得て昭和44年8月に建立されている。◇建立年:昭和44年8月 ◇建設発起人:佐藤天香 ◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡 ◇Gmap:マップコード

山形荘内藩士上陸之地鶴岡農村公園MAP

荘内藩士上陸の地碑碑文より「北門の警備と蝦夷地開拓、自立自営の大使命を帯び、明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発、酒田港より御用船にて此の地に上陸し、庄内藩士、佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ土地墾闢を志向す。所謂、士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い、大谷地、棚部岱、瓜谷、吉堀、中野、達川に移住し、爾来 鏤骨の辛苦と苦難の農耕を続け、歴代に受け継がれ、ここに87年の今日、水田酪農郷鶴岡を築く。改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に伝えん 酒井忠明書」※もう一つの碑文には木古内地域への移住者名が刻まれているが省略する。碑は移設されたものでその経過は「碑の来歴」碑文より転載「この碑山形庄内藩士百五戸開拓者上陸地之標は昭和40年鶴岡地区開基八十周年記念事業として字本町七百三番地に標柱を建立をしたのが始まりです。昭和47年この標柱建立地が町立病院建設地となったため移転せざるを得ず、協賛会を組織し、辛亥会の協力を得て移転、新設の形をもって石造碑を建立することに決し中学校通り線の町有地に同年六月建立したものであります。なお、この碑の標記及び碑文は旧荘内藩主酒井忠明氏の揮毫をいただいたものです。平成23年9月、北海道新幹線建設に伴い(支障となり)移設を求められたため移設委員会をつくり協議の結果、ここ鶴岡農村公園に移設建立してものであります。平成23年9月 庄内藩士上陸の碑移設委員会」とあり、ただ気になったのは、荘内藩と庄内藩が有ることでした。◇建立年:昭和47年6月11日 ◇建立者:山形荘内藩士上陸の碑建設協賛会・鶴岡地域辛亥会 ◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡 ◇Gmap:マップコード

開拓 開校百年の碑鶴岡農村公園

開拓 開校百年の碑 学校前にある碑とは別に開拓 開校百年の碑があった。碑文前面「開拓 開校百年の碑」裏面には「開拓 明治18年6月11日/開校 明治22年6月30日/鶴岡地区開基百周年並び鶴岡小学校/開校百周年と新校舎落成祝賀協賛会/辛亥会/昭和62年11月22日建立」とある。小学校前にある碑も同じ昭和62年の建立だが平成27年3月に開校、125の歴史を閉じて今は郷土資料館となっている。◇建立年:昭和62年11月22日 ◇建立者:辛亥会他 ◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡

姉妹都市・姉妹校記念碑鶴岡農村公園

姉妹都市・姉妹校記念碑 説明文を転載「記念碑/静岡市・木古内町/姉妹都市盟約宣言15周年/朝暘第一小学校・鶴岡小学校/姉妹交流四十周年/明治18年より旧庄内藩士開拓団百五戸がここ鶴岡地区に入植したことを縁に、昭和39年5月12日、鶴岡市立朝暘第一小学校と木古内町立鶴岡小学校は姉妹校の契りを交わし、今年で40周年を迎えました。また平成元年4月27日、鶴岡市と木古内町は姉妹都市盟約宣言を行い、今年で15周年を迎えました。両都市は、教育・文化・経済の交流を深め相互の信頼と友愛の絆を一層強くすることを誓うと共に、互いの限りない繁栄を念願しみ記念碑しとます。平成16年8月6日山形県鶴岡市 北海道木古内町」※気になるのは鶴岡小学校が閉校になって姉妹校の契りはとうなったのでしょうか・・◇建立年:平成16年8月6日 ◇建立者:木古内町? ◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡 鶴岡農村公園 

開拓□功碑鶴岡農村公園MAP

開拓□功碑 農村公園に古い碑で碑文を転記「開拓繢蹟功碑/鶴岡一帯之地廣袤數里荊榛乱生熊狐跳梁無人/顧焉維新後官圖北海之開拓盡力□移民之招徠/也□莊内藩士一百五戸亦應其慫慂來住于□實/為鶴岡開拓之鼻祖旹明治十八年六月十一日也/後福井石川両懸人亦移住今戸数算二百部落/也七田圃相連穀菽登肥牛又日加矣回想四十/年前之事始有隔世之感非當時志士之團結渡道/積伐雪鋤雨拓荒墾蕪之勤苦安得長足進歩家家/給足埀澤于後□如斯耶今念其遺功勤石傳之/大正十三年六月十一日 木古内 村正 樋口 了識」※変換不能で異体字にしたのがある。また□は入力出来なかった文字、/は改行です。入植当時の様子が伝わってくる内容です。◇建立年:大正13年6月11日 ◇建立者:辛亥會 ◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡

禅燈寺仁王門MAP

禅燈寺仁王門説明板より転載「明治18(1885)年から19年にかけて山形鶴岡藩士105戸が北門の警備と蝦夷地開拓の大使命を帯び入植したが、故郷山形善寶寺に懇請し、三世岱静和和尚が北海道・千島・樺太などの漁場を巡鍚して明治35(1902)本堂を建立した。文安3(1446)龍神様を祀られているお寺として建立され北海道・東北6県をはじめ、関東・関西方面に多くの信者を有する山形県龍澤山善寶寺39番目の松寺。大正7(1918)年に仁王門を建立。仏法守護のため寺門の左に密迹金剛と右に立つ那羅延金剛は、明治から大正年間に函館市に在住した仏師、風間慶師の作。平成13年11月 木古内町観光協会」※禅燈寺の仁王門は2階建て高さ9.5m、幅は10.6mあり2階は鐘つき堂です。2010年に金剛像の修復をされたようで、道内有数の木仏像とされる。なお龍澤山善寶寺は山形県鶴岡市に今もある。 禅燈寺入口の仁王門近くに松本十郎の碑がある。◇所在地:上磯郡木古内町字鶴岡103 ◇Gmap:4マップコード

咸臨丸モニュメントサラキ岬に蘇る咸臨丸

サラキ岬咸臨丸モニュメントの傍らにある説明板より「咸臨丸は1857年、オランダで建造された日本初の軍艦であり、幕末の怒濤の中、1860に初の太平洋横断の快挙をなし遂げ日本近代化の一役を担いました。晩年は数奇な運命をたどり、蝦夷地開拓移民を乗せた咸臨丸は、1871年ここサラキ岬で座礁沈没し、栄光と悲劇の幕をとしました。このモニュメントは郷土の歴史遺産である咸臨丸の栄光の歴史を後世に伝えようとする町内外の人々の熱き思いによった制作されました。平成19年5月20日 (制作・船体寄贈・協力者者は7法人、個人18名 氏名は割愛) 咸臨丸とサラキ岬に夢みる会・木古内観光協会」※万延元(1860)年に勝海舟を館長とし福沢諭吉やジョン万次郎等を乗せて太平洋を横断しサンフランシスコに入港した。明治4(1871)年、北海道開拓使所属となっていた咸臨丸は蝦夷地開拓移民(旧仙台藩士四百人余)をのせ函館から小樽に向かっている途中のサラキ沖で座礁、乗客乗組員全員が救助されたが艦は沈没。◇撮影地:木古内町亀川◇設置年:平成19年5月20日 ◇設置者:咸臨丸とサラキ岬に夢みる会・木古内観光協会 ◇所在地:磯郡木古内町亀川 サラキ岬 ◇Gmap:マップコード

咸臨丸終焉の碑サラキ岬

咸臨丸終焉の碑 津軽海峡を望み、幕末に活躍した咸臨丸が眠るサラキ岬の沖合や函館山も眺られるサラキ岬の先端部に碑はあるが、特に説明板などは設置されていない。碑の前面に「咸臨丸に捧げる詩」が大きく展示してある。その詩は写真で見ていただくことにするが、咸臨丸終焉の碑と詩板の素材が木なので見るなら早めが良さそうです。咸臨丸のものと推定されている「いかり」が木古内町郷土資料館で展示されている。◇建立年:平成18年5月14日 ◇建立者:木古内町観光協会・咸臨丸とサラキ岬に夢みる会 ◇所在地:磯郡木古内町亀川 サラキ岬 ◇Gmap:マップコード

建有川寨門跡知内町

建有川寨門跡 説明の代わりに碑文を転載「建有川寨門跡 安政3(1855)年2月徳川幕府は、蝦夷地のうち建有川から乙部にかけての地域を松前藩領として残し、他を幕府の所領として箱館奉行所の管轄とした。そのため、接点となったこの地に境界柱がたてられ、警備のための寨門(さいもん)がおかれた。寨門をはさんで木古内側に箱館奉行所の番所、知内側に松前藩の番所があり、出入りの多日々と手形や荷物を検査していた。なお、松前藩の番所には、御先手組席の家臣を番頭とし、それに徒士、足軽など5人程が駐屯していたと伝えられている。往事知内と木古内は建有川を境界としていたが、川の氾濫などによりいつも川筋が変わっていくため、境目が明らかでないという不便さがあった。そのため、洪水などにより川の流れが変わっても、そこを境界とし、互いに苦情は言わないこととする「為取替申境一札之事」という約定が安政3年正月両村の代表者によってとりかわされている。1996年3月 知内町」※幕府領と松前領の境を明確にするための取り決め「為取替申境一札之事」は割愛する。◇建立年:平成8年3月 &◇建立者:知内町 ◇所在地:知内町中ノ川 ◇Gmap:マップコード

鮪之塚

鮪之塚 碑文「明治二十三年七月/鮪之塚/施主 藤野文蔵/漁船頭 館 徳蔵」とある。知内町の建立した記念碑の碑文には「明治23年(1890)年 信仰心の篤かった藤野文蔵が、鮪の供養のため建立したもので当時の鮪漁の盛漁と文蔵を偲ぶものとしては唯一のものである。明治20年漁業を志した文蔵は、函館から涌元に移住し、大謀網で鮪漁を経営したところ、前浜が鮪で埋め尽くされるほどの豊漁に恵まれ、数年で巨万の富を築くとともに「鮪大尽」と謳われた。また、明治33年涌元小学校が附近の火事で類焼したさい自費をもって再建したり、涌元の墓地及び道路を寄付するなどの公共のために尽くすところが多かった。平成7年3月 知内町」と記されていた。明治23年に建立されたにしては文字がしっかり読めるが、その後も15年程大漁が続いたという。函館には他にも鮪之塚が有るらしいが確認できたのはここだけでした。同所に波切不動明王が建立されているが他に涌元・小谷石海岸道路の狐越岬付近に「南無妙法蓮華経」の法塔あったというが現在はトンネルで通過のため確認できず。◇建立年:明治23年7月 ◇建立者:藤野文蔵 ◇所在地:上磯郡知内町涌元 ◇Gmap:マップコード

祈願の松

祈願の松 記念碑の碑文より「豊漁を祈って沖からこの黒松に願いをかけたことから『祈願の』と呼ばれるようになった。また、高台にあり目立つので、沖で漁をする人たちにとっては、漁場を探すときの格好の目印の役割をはたしていた。近世の知内の漁業は鰊漁を主体とし、春はワカメ、夏は昆布、干アワビ等を生産し、秋には知内川の秋味(鮭)を採捕した。これらの生産品の多くは涌元から捕獲した。これらの生産品の多くは涌元から船で松前に送られ、松前から船で米、麹、味噌、塩、醤油等の生活必需品や生産用具等が送られてきた。平成7年3月 知内町」※荒木大学が植えたと伝えられているともいう赤松で、神社入り口付近の高台に立っています。◇建立年:平成7年3月 ◇建立者:知内町 ◇所在地:上磯郡知内町涌元 ◇Gmap:マップコード

慰霊碑小谷石災害殉難者

小谷石災害殉難者慰霊碑 碑文「昭和四十八年/小谷石災害殉難者/慰霊碑」裏面は「平成七年九月二十四日/永称寺念誉れ発願/檀信徒 有志 一同建立」と刻まれている。先の碑文によると昭和48年9月24日、小谷石地区は1時間に133mmという集中豪雨で崖崩れ、土砂、土石流が発生し、死者・行方不明者8名、住宅の倒壊流出123棟という甚大な被害を受けた。◇建立年:平成7年9月24日 ◇所在地:知内町小谷石 ◇Gmap:マップコード

復興記念碑

復興記念碑 大きな碑と小さな碑とがあるが大きい碑の前面に「復興記念碑/知内町長 大野重樹書」裏面碑文「滝のような雨 地ひびきとともにくずれる山 バッファローの大群がおし寄せるような流れ 川は人家の二階まであふれる 山からは山津波。人々は野じゅうのようにさけびながら逃げる 庭まで水が入って来た 「としばつれて逃げれ」かあさんの声と共に弟をつれて必死で逃げた 長ぐつは片びっこでもそんなことは気にしていられない夢中で浩二の家へ逃げた母と祖母と妹が心配だ 「あっ来た来た」・・・(被災児童の作文より)」

もう一つの碑の碑文より「昭和48年9月23日から25日にかけて東北本部通過した低気圧により、強い集中豪雨が道南地方を襲い小谷石では、334m/m、特に24日13時から14時にかけての最大時間雨量は133m/mと道内最高を記録した。この大雨により土石流、がけ崩れ等で全戸数の40%、100戸が全壊又は流出、死者4名、行方不明4名、漁業被害なとを併せ総額22億円に及ぶ被害が生じた。この災害復旧には関連費用を含め23億円が投じられ、昭和30年度(※40年度?)に完全に復興した。」と刻まれ、記録的な集中豪雨による災害から復興した記念で5年後に建立されました。◇建立年:昭和43年? ◇建立者:知内町? ◇所在地:上磯郡知内町小谷石 ◇Gmap:マップコード

湯ノ里地蔵堂

湯ノ里地蔵堂 湯ノ里地蔵堂前にある碑の碑文より「伝説真藤寺跡出土の三地蔵/地蔵堂に安置されている三体の地蔵は明治45(1912)年5月15日。昔から真藤寺跡と言い伝えられている場所(湯ノ里尾刺地区)で畑作をしていた堂林イマと妹ヨツが、土中より発見したものである。ここ湯ノ里には、中世の頃の騒乱で真藤寺が襲われたとき、寺の住人によって黄金の鶏が井戸に埋められたという伝説が、古くから人々に語り継がれてている。この三体の地蔵が出土したことによりその伝説の信憑性高まり、この黄金の鶏を見つけようと探し歩いた者が、昭和になってからもいたという。/平成7年3月 知内町」※荒木大学が蝦夷の乱でアイヌに攻められたとき、黄金の鶏を寺の井戸に埋めて松前に逃れたと「松前落穂集」に書かれているという。◇建立年:平成3年3月 ◇建立者:知内町 ◇所在地:知内町湯の里 ◇Gmap:マップコード

知内公園の姥杉知内公園

知内公園の姥杉姥杉の碑文「乳不足で苦しむ母親を助けてあげたい」と遺言し、広長13(1263)年に亡くなった雷公神社の祖了徳院重一の妻玉之江を葬った場所に植えられたと伝えられたる杉で、姥杉神社のご神体。根元の大きな瘤は現在は一つだが、以前は女性の乳房のように二つあったといわれている。乳不足に悩む母親が、この木に洗米を供えて授乳を祈願し、持ち帰ってお粥にして食べると乳が出たため、この木を敬愛して「姥母杉」あるいは「乳神さん」と呼び、授乳や安産の神様として古来より信仰されてきた。なお、女性だけの祭り十七夜講祭」が1月にとりおこなわれている。平成7年3月 知内町」※碑文から察すると弘長2(1262)年後に植えられた杉となり根元に姥杉社がある。◇所在地:知内町元町 知内公園内

荒神(あらがみ)社知内公園

荒神(あらがみ)社知内公園の奥まった場所に荒神社があり横に碑がある。碑文より転載「荒神社/祭神は松前藩初代藩主慶廣の4男数馬助源由廣(千早振由廣霊)。慶長19(1614)年大阪冬の陣の頃、豊臣方だった数馬助は徳川方へ加担しようとした父慶廣と衝突し、その家来によって追手をかけられ奮戦むなしく力つき自害した。ときは12月26日数馬助若干21歳であった。元和4(1618)年になり由廣の霊が巫女に託して「成我神其名云雷天荒神」と言わしめたという。それを聞いた三大藩主公廣は、供養のため数馬助の脇差しをご神体として羽織箱に入れて土中に埋め、雷天荒神社と号して創建したが、後に千早振神社と称し、更に現在の荒神社に改められた。平成7年3月 知内町」※松前藩の内紛で打たれた松前数馬助由廣の霊を鎮める為に建立された神社でした。松浦武四郎の渡島日誌(蝦夷地紀行)には『雷荒神社 元和4年草創のよし、所祭 松前由広の霊なりと』とあり、幕末の頃は雷荒神社と呼ばれていたのかもしれない。◇所在地:知内町元町 知内公園内

荒神社の黒松知内公園

荒神社の黒松 荒神社に行く参道横に黒松の下に碑がたっている。碑文より「寛永14(1637)年、荒神社の祭髪である松前前数馬助由廣の弟で。知内を知行地にしていた松前安廣が、兄由廣を弔うため仙台から差し送り奉納した12本の黒松の生長した姿である。安廣は初代藩主松前慶廣の七男で、元和9(1623)年、父慶廣と伊達政宗との約束に従い仙台に赴き政宗に仕え、命により片倉小十郎の娘を娶り二人の男子をもうけた。長男重永は片倉家の養子となり、仙台藩白石一万八千石の城主となった。平成7年3月 知内町」※島原の乱があった寛永14(1637)年頃に荒神社の参道に植栽された黒松、樹齢約400年近いが周囲の風景とは異質で陰鬱な感じも・・◇所在地:知内町元町 知内公園内

北島三郎氏芸道55周年記念知内町町政施行50周年記念

北島三郎氏芸道55周年記念 2016年に芸道55周年を迎えた北島三郎氏の功績を讃え、知内町町制施行50周年となる2017年10月1日に建立された記念碑。碑文「季節は移り 世は変わり/生まれ育った この郷に/いまも眠りし 父母がいる/未来永劫 いつの日も/ああ…ありがたき ふる里よ 知内よ/平成二十九年 北島三郎」※自らの揮毫というが故郷知内と両親への思いが伝わる言葉です。碑のある一角を「北島三郎ふるさと公園」と命名したというが公園内の一角にある荒神社や姥杉社の鳥居は北島三郎氏が奉納された。北島三郎氏の存在感が大きくて知内町町政施行50周年がかすでしまう。◇建立年:平成29年10月1日 ◇建立者:サマーカーニバルin知内実行委員会 ◇所在地:知内町元町130番地 知内公園内 ◇Gmap:マップコード

旧雷公神社の杉知内公園

雷公神社 北海道で最初に砂金を採取した伝承を持つ知内町、説明碑より転載「寛元2(1244)年賀茂の上社と下社の2社を創建した時に始まる雷公神社は、大正4(1915)年、元町に遷座するまではこの地にあった。罰末の探検家であり、北海道の名付け親である松浦武四郎も弘化2(1845)年この地を訪れ、朱塗りの鳥居が建ち、巡検使が立ち寄るところと「蝦夷日誌」に書き記している。この杉はいつ誰によって植えられたのかは不明である。しかし、最上徳内や菅江真澄そして伊能忠敬など知内を歴史上著名な人物が、鳥居を通過するのを目撃してきた大切に郷土の古木である。平成7年3月 知内町」※神社として北海道最古というが、宗教施設として見るなら函館船魂神社(観音堂)が1135年起源と北海道最古と云う。コシャマインの戦いの時、知内を通った武田信広が加茂の二社を一社にして再建し、雷公神社と呼ぶようになったという。今は知内町の古址で杉の古木、赤い鳥居、拝殿があり境内に平成6年に建立された加茂両社創建七六十周年記念碑がある。◇上磯郡知内町上雷 ◇Gmap:マップコード

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