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渡島を巡る旅1‼
ぐるっと渡島・長万部,八雲,森,鹿部,七飯町を巡る旅‼

長万部平和祈念館長万部町

長万部平和祈念館1983年の終戦記念日に誕生。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図・母子像」など、反戦と平和を願う心が生んだ数々の美工芸作品や室町時代の仏像、インドや西域の仏像など、他では見られない貴重な古美術品を多数展示、特に円空仏(観音座像)を見られるというのが凄い。前庭に野外彫刻作品が並び峠三吉さんの詩碑もある。◇所在地:長万部町字長万部413番地12 ◇Gmap:マップコード

ヲシャマンベ陣屋跡MAP

ヲシャマンベ陣屋跡飯生神社社殿脇の平坦面が陣屋跡。赤い鳥居の反対側にある白い鳥居が境内入口で、手前に案内板がある。ヲシャマンベ陣屋跡案内板より
「安政2(1855)年、南部藩は恵山岬から幌別までの沿岸一帯の警備を幕府より命ぜられ箱館(函館市)に元陣屋を室蘭に出張陣屋を砂原、長万部には分屯所を設けることにした。ヲシャマンベ陣屋は室蘭の出張陣屋と同じく1856(安政3)年に構築されたが安政4(1857)年12月、長万部沿岸が砂原遠浅のため外国船が容易に近づけないことから南部藩は自藩に引上げた。当地方における唯一の近世史跡として指定された」※元陣屋は函館、出張陣屋は室蘭、長万部の陣屋は屯所で、完成1年後に放置?された。この地は安永2(1773)年には番屋が建てられ、飯生神社も創建されている。屯所跡の痕跡は神社のまわりを取り囲むようにして土塁が断続的に残り、神社の裏手側の土塁外側に堀跡もあるが改変はかなりある様に見えました。◇所在地:長万部町陣屋町(長万部町長万部376) ◇Gmap:マップコード

静狩湿原

静狩湿原国道25号線沿いでJR室蘭本線の西側、オタモイ山麓にある小さな湿原。元々は600haの面積があったが農地開発で34haを残すだけという。湿原の真ん中に排水路が有り乾燥化がすすんでいるようだ。。市街地に近い湿原にしては観光地化されていず木道や遊歩道などはなく、踏み分け道がわずかにあるだけ。長靴必携でイソツツジの頃は華やかかもしれない。北海道最南端の高層湿原ということです。静狩湿原入口の案内看板がある。◇所在地:長万部町字静狩438 ◇Gmap:マップコード

共立(龍神社)のイチイMAP

共立(龍神社)のイチイ漁師の目印になっていたとあるも、幹が折れ短くなり風格は一段と増したようだ。幹周り350cm、樹高10m(折れる前は15m)、推定樹齢300年以上というが、幹周りから樹齢800年以上でもおかしくはない。イチイのそばに祠と馬頭観音があり地域の守護神的存在のようです。◇長万部町字静狩 ◇Gmap:マップコード

静狩海岸の鳴き砂

静狩海岸の鳴き砂鳴き砂の音を聞きたくて静狩海岸に立ち寄った(2016年)が、残念ながらの訪問時には全く音がしなかった。鳴き砂の海岸は約4.5kmというが、ゴミと泥で汚れ気味ではそれも当然かと。静狩海岸の鳴き砂復活を期待・・大時化の後ならよいかも。その後にも数度立ち寄っているが変化はなさそうでした。海岸のゴミ清掃と土砂流出を防止することが必要かもしれません。◇所在地:長万部町静狩 ◇Gmap:マップコード

シャクシャイン古戦場跡碑

シャクシャイン古戦場跡碑 碑文より「寛文9(1969)年和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのあさシャクシャインがアイヌモシリ金城に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍を編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川を挟んで松前藩と対峙する。アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベから更に本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。シベチャリに退いたシャクシャインは松前軍との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終焉に向かった。国縫川を挟んだこの地は、松前を目指して攻め寄せたシャクシャイン軍と松前軍との、最大の激戦地の跡である。この戦いは、先住民族アイヌと中央政権との主従関係の成立を意味しない。それは19世紀初頭から2度の幕府直轄を経て、明治期からの近代法体系の中で漸次形づくられたものである。さらに戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない。この地に眠る両軍犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。平成28(2016)年9月建立 長万部町長 木幡正志」碑は場所は国道5号線沿いの旧国縫小学校グランド内にある。◇建立年:平成28年9月 ◇建立者:長万部町 ◇所在地:山越郡長万部町国縫30 旧国縫小学校グランド ◇Gmap:マップコード

魚貝魂碑

魚貝魂碑 魚貝魂碑の碑文より「明治23年、この年秋田県人佐藤佐太郎、茨城県人久保新次郎両名により、ほっきがいの捕獲器マンガンを使ってほっき曳きに着手したのが本町における漁業の創始といわれ、その後多くの先人は、未開漁場を血と汗によって開発し、幾多苦難を乗り越えてほっきがい、いわし、さば、いか、まぐろ、さけ、かれい、かに、うに、ほたてかいなど数々の魚介類の恵みを受けてきた。今、ここにその漁魂に報い、深く感謝の誠を捧げると共に魚族資源の増大に一層の力を尽し、地域漁民の繁栄を祈り、永くこれを後世に伝えるため魚貝魂碑を建立する。昭和62年7月 長万部漁業協同組合」長万部港の完成に伴い造られた長万部海浜園内に建立された大きな石碑です。◇建立年:昭和62年7月 ◇建立者:長万部漁業協同組合 ◇所在地:山越郡長万部町字旭浜159番地◇Gmap:マップコード

黒岩の奇岩八雲町

黒岩の奇岩 八雲町市街地から北へ約10km、黒岩地区の海岸にそびえる奇岩で、アイヌの人々が住んでいた頃からの伝説があり「神の石」(シュマカムイ)と呼ばれ信仰の対象となっていた。 現在ある祠は大正時代に大漁と海難防止を願って建てられたのを復元したものらしい。祠の入り口にある石碑は彫りが浅く判読が難しかった。碑文「忘備の誌/郷土黒岩の景勝に緑を添えんものと有志相計り昭和45年5月始めて黒松苗木を植栽。これに参加せし者の氏名を次ぎに掲ぐ更にまた翌々年には町及び地元民の手によって御堂及び吾妻家(※東屋風の建物か)、橋など復元された。記12名の氏名(氏名は割愛) 八雲町長 北田 盛」◇建立年:未確認 ◇建立者:有志12名他 ◇所在地:八雲町黒岩 ◇Gmap:マップコード

古沢徳藏君之碑

古沢徳藏君之碑 八雲町黒岩の善通寺前に碑がある。碑文「故 古沢徳藏君之碑」裏面は風化のためか判読は難しく読み下す事は出来ないが、明治6年生まれで昭和3年、56歳で亡くなった事は名なんとなく分かる。碑文からはこの方がどのような経歴で何を記念して建立されのかはよく分かりません。八雲町史にも殆ど名前がみえないが、漁場紛争の解消のため明治19年に出された「漁業組合条例」で漁業者は漁業組合に加入するものとし、漁業の権利を一括して漁業組合に免許することとしている。このとき既にあった八雲村漁業組合の漁業取締人3人の中の1人でした。◇建立年:不詳 ◇建立者:不詳 ◇所在地:八雲町黒岩295 ◇Gmap:マップコード

開拓移住者第一歩の地

開拓移住者第一歩の地 旧尾張藩主徳川慶勝は、北海道の土地を開拓し国家に貢献し、併せて旧家臣の授産の道を開らこうと明治11年5月遊楽部官有原野150万坪の無償下付を出願、同年6月13日許可を受けた後に準備に取り掛かり、吉田知行ら9名を選んで目的地の遊楽部原野に先発させた。また開拓使に輸送船の派遣を請い、開拓使は汽船玄武丸を派遣し援助。函館から開拓使汽船ケプロン丸などで15戸72人と単身者10人合計82人の第1次移住者が10月12日風雨をついてここに上陸、準備されていたそれぞれの家に向かったという。以降数度にわたり移住者の上陸地にり開拓者の出発点となった場所。◇設置者:八雲町 ◇所在地:二海郡八雲町内浦町 ◇Gmap:マップコード

ウタリ先覚者 鎮魂之碑

ウタリ先覚者 鎮魂之碑 大きなウタリ先覚者 鎮魂之碑の台座内に高さが77cmという13人の名前を刻んだ墓碑があり、この13人の方々が先覚者のようです。碑に刻まれた13人の遺骨は箱館のイギリス領事館員によって、落部村で盗掘(慶応元年10月18日)された本人達だった。この時は箱館奉行の交渉で遺骨の返還(慶応元年10月18日盗掘、同年11月22日)と賠償金支払いで解決、この賠償金で13人の墓碑を建立するが、昭和10(1935)年に児玉教授達が墓地を発掘し遺骨と墓碑は北海道帝国大学に運ばれる。後日八雲町に返還され八雲郷土資料館に保管されているというが、今はどうなっているのか気になるところです。※刻まれた13人の氏名は割愛した。◇建立年:慶応2年(墓碑) ◇建立者:旧落部村 ◇所在地:二海郡八雲町豊河町 八雲墓地 ◇Gmap:マップコード

角田弟彦歌碑

角田弟彦歌碑 歌碑の横に「開拓の歌人角田弟彦略伝」という八雲町設置の説明板がある。説明板によると幼いときより漢学や本居宣長の流れをくむ国学を学び、和歌に秀でていましたとありました。明治11(1878)年、徳川慶勝の内諭を受け、北海道開拓移住者の導き役として遊楽部の開墾試験場に骨を埋める決意を固め、同年9月20日に遊楽部の人となった。以来、開拓に貢献すると共に開墾の傍ら、歌会を開いて和歌の指導を行い、明治11年から大正5(1916)年の失明するまで二万数千の和歌を中心として「胆振日記」を書き残して、大正9(1920)年に80歳の生涯を此の地で閉じるた。碑の歌は「かや刈ると 谷地にいりたち けふもまた わが手な末は 血に染りつつ」は明治11年10月24日、翌年に移住する人々の屋根用の萱を刈っているときの作という。◇建立年:昭和□3年8月 ◇建立者:八雲短歌会 ◇所在地:八雲町宮園町3 ◇Gmap:マップコード

蝦夷地・和人地の境跡

蝦夷地・和人地の境跡国道5号線を八雲町の野田追を越え山越に入ると、小さな境川があり境橋の欄干脇に「蝦夷地・和人地の境跡」の標柱がある。標柱に「野田追場所と遊楽部場所の境であったこの所は、1801(享和元)年に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇場所が村並となったのに伴って定められた、江戸時代の蝦夷地と和人地の境です」とあり。「蝦夷日誌」に「標柱(従箱館18里14丁)是を内地(シャモチ)蝦夷地の境とし、文化此迄夷家有しが今は他へ移たり」とあり享和以前は東蝦夷地であった。面白いのは山越駅を挟んで反対側にある酒屋川の由来「蝦夷日誌」に「サカヤ川、是山越内の元地也。文化度此所へ南部大畑より酒造人来たり、水車を仕掛け、酒を造りし故、この名残りしか」とある。元の川名が地名の山越として残り「酒屋」が川名で生き残ってること!!◇所在地:八雲町山越 山越駅手前の小川 境橋際 ◇Gmap:マップコード

山越内関所跡

山越内関所跡 class="imgbox3" width="110" height="82" />江戸末期にこの地方には鷲の木、長万部に会所(通行屋)があり山越内には関所があった。関所は元々亀田にあったのを享和元年に山越内に移転し設置たもので日本最北の関所でした。かつては蝦夷地だった山越内に関所が移転された背景には箱館六箇所場所と呼ばれた地域に多くの和人が住むようになり、警備上でも重要な地となって享和元年に野田生以南まで村並となり、和人地と蝦夷地の境が野田生と遊楽部場所の境に改められそれに伴って移転したものです。時代が進み安政年間に入ると関所は蝦夷地開拓の障害とり文久元(1861)年に廃止されている。山越内会所は安永2(1773)年開設で山越内関所より一世紀近く早いが、元治元(1864)年に山越内場所も村並となり伊達林右エ門が山越内場所請負を返納、会所は村民に引き渡されている。維新後の明治5年に会所を駅馬と改称、人馬継立を行うが官費支給は明治6年まで、以後は村営の駅逓となるが財政基盤が貧弱で人員配置はなかったようで廃止年の詳細は不詳。会所の井戸解説板に関所跡の絵図を参考に推測復元したと書かれているので、会所の井戸跡から会所跡を推測しても正確さには欠けるが周辺一帯に関所と付属施設があった。関門跡より200m程のJR山越駅は関所をイメージした駅舎で観光スポットになっている。◇所在地:八雲町山越 JR山越駅付近 ◇Gmap:マップコード

山越内駅

八雲駅山越内関所跡には山越内関所之跡の石碑と説明板があるが、そこから100mほど八雲市街地寄りにあるJR山越駅は享和元(1801)年に設置された山越内関門をイメージして作られた建物で駅舎には見えない、駅舎内には江戸時代の関所周辺の絵図や、それを再現した模型も展示している。駐車スペースもあるので気軽に立ち寄れます。◇所在地:八雲町山越

箱館戦争陣地跡

箱館戦争陣地跡 設置されている説明板を要約すると、海軍副総裁の榎本武揚が艦隊を率いて脱走し陸軍奉行大鳥圭介、新撰組副長土方歳三、その他併せて二千五百余の兵を乗せ、明治元年10月20日鷲ノ木村に上陸し五稜郭に向かって進軍すると共に、新撰組の分隊を残して落部村から長万部村までを占領。翌年明治2年4月、官軍は乙部村に上陸し、五稜郭の奪還を目指し、そのうちの一隊は対して厚沢部村の阿野呂から江差越えを通り落部村へ進出、脱走軍は入沢で官軍を迎え撃つため急遽住民を使い土塁20数基とその他の陣地をつくり防御体制をとったが、砲三門を擁し300余の官軍に、5月3日勝ち目が無いと思ったのか退散してしまったが土塁は今ものこっている。◇設置者:八雲町◇所在地:八雲町入沢 ◇Gmap:マップコード

御所の松返礼の碑

御所の松返礼の碑 碑名が刻まれていないので返礼の碑と仮称した。弁開凧次郎氏は村岡格氏とともに明治33年に東宮殿下(大正天皇)の御成婚をお祝いするため上京し小熊二頭を献上。喜ばれた明治天皇と東宮殿下は、ご自身が育てられ「御所の松」と命名された盆栽と数々の品を賜る。この光栄を子孫に永く伝える為に、御所の松を植え育てるとともに、御所の松を拝領した様子を刻んだ碑をたてたという。それ故か碑文はアイヌ語で刻まれているようでした。全文アイヌ語で書かれた碑は名寄で見ただけです。建立年月日は明治は分かるがそれ以外は読めず。◇建立年:明治年代 ◇建立者:弁開凧次郎 ◇所在地:八雲町落部 ◇Gmap:マップコード

御所の松

# 説明板より「拝領御所の松記念保護樹/大正天皇の御成婚祝いに、当時の落部の有力者弁開凧次郎氏と村岡格氏が上京し、2頭の小熊を献上しました。大変喜ばれた天皇は、京都御所の赤松の実からご自身で育てられた苗木を、2人に与えました。その苗木が記念樹になったもので、「御所の松」は天皇の御命名によるものだと言われています。アカマツは、本州、四国、九州に広く分布し、日本の風景を代表する樹木です」※これ以上の説明は不要と思います。◇指定年:昭和47年3月25日 ◇設置者:北海道 ◇所在地:八雲町落部 ◇Gmap:マップコード

亀塚

亀塚 副碑の碑文より「昭和35年9月29日、池内要一郎所有、進栄丸及び、同年10月18日、山戸久蔵所有、久宝丸が落部地先沖合で操業中に、体長 3,8 米の海亀が漂流しているのを発見し、直ちに陸揚げして動力船漁業者一同が手厚 く葬り、落部八幡宮境内に海の守護神として亀塚に奉納いたしました。当時、当漁村は、漁族の回遊不安定、海況の激変等により凶漁に喘えでおりましたが、奉納した亀は、いづれも八の日に発見し、末広の佳き因縁のもとに漁民に一大光明を与えたものであります。爾来、漂流して来た亀を全部この亀塚に奉納し、毎年、全漁民挙げて海の守護神亀塚として海上安全と大漁祈願をこめてお祭り申し上げております。比処に海神の亀として奉納してから15周年に当り、亀塚の碑を建立し、落部漁民一同永久にお祭り申し上げます。昭和49年9月吉日」亀塚裏面は「落部漁業協同組合 動力船部会/中田奈辺太郎外動力船主一同/世話人 松田光彥、干場 光、菊地政次/昭和四十九年九月吉日建之 松野謹書」となっている。道内に大亀の伝説はあるが亀塚はここで始めてみました。亀塚祭があるようです。◇建立年:昭和49年9月 ◇建立者:漁協・船主関係者 ◇所在地:八雲町落部 ◇Gmap:マップコード

南部藩砂原陣屋跡森町MAP

南部藩砂原陣屋跡幕府は安政2(1885)年4月 仙台、秋田、南部、津軽、及松前の5藩に蝦夷地警衛の分担を命じた。南部藩は箱舘表出崎の警衛を主として、恵山岬から東蝦夷地幌別までの海岸を持場とし、箱館谷地頭の北方に元陣屋を置いた。砂原では安政3年1月より10月にかけて4軒町に砂原分屯所(南部陣屋)が造営され、藩兵約50名(常に30名が駐屯)といい、砂原は市中と神社脇や駒ヶ岳の麓に見張所をおいた。砂原町四軒町に東西66.6m、南北約59.4mの方形で、高さ約3mの土塁が残こる。◇所在地:森町砂原4軒町200 ◇Gmap:マップコード

ハマナス台場公園MAP

ハマナス台場公園森町から国道278号線を東に12km程の走った国道沿いにある公園。公園内には東屋を兼ねた展望台があり、内浦湾や駒ヶ岳、砂崎海岸、砂崎灯台を眺望できる。トイレや水道が完備され休憩場には良い。かつて海上警備の拠点として箱館戦争時に砲台を4基設けていという、現在は駐車公園とパークゴルフ場になっている海難慰霊碑が台場の中心だったらしい。慰霊碑は砂原村と有る。◇所在地:森町砂原5 ◇Gmap:マップコード

イザベラ・バードが歩いた道MAP

イザベラ・バードが歩いた道・森イザベラ・バードが歩いた道説明板より『明治11(1987)年8月12日にイザベラ・バードは、函館を出発し、七重村、峠下村、菫菜沼を経て、森村に入りました。森村で一泊、翌日「森桟橋」から室蘭港へ、室蘭からは陸路で平取集落を目指した。当時は札幌本道も開通していたが、森から室蘭の間は海路が主要交通手段でした。当時の森村は、森~室蘭間に定期航路が開かれ、旅人で大変活気にあふれていました。森村の旅館で一泊し、翌日「森桟橋」から室蘭港へ噴火(内浦)湾を横断し、一路、アイヌの人たちが暮らす平取集落を目指しました』とあり、当時は札幌本道も開通していたが、森から室蘭までは海路が主要な交通手段でした。◇建立年:平成21年 ◇建立者:イザベラ・バードの道をたどる会 ◇所在地:森町駅付近

史跡 森桟橋跡MAP

史跡 森桟橋跡説明板の要約「明治5年、札幌本道の新道建設工事を開始、翌6年に全長255mの森桟橋(波止場)が完成した。完成とともに定期便(汽船稲川丸)が運行、明治26年、函館~室蘭間の定期航路が開始、一時廃止となるも同41年民間会社によって運行再開、昭和3年に長万部・輪西間の鉄道開通で廃止された。跡地に橋脚材が数十本が残ってる」とあったが、この場所からは明治天皇の上陸地の碑は見えるが橋脚材は見えない。並んでイザベラ・バードが歩いた道(説明板)がある。◇設置年:昭和61年3月 ◇設置者:森町教育委員会 ◇所在地:森町行幸町 森駅付近  ◇Gmap:マップコード

旧幕軍 榎本武揚 土方歳三 上陸之地

榎本武揚 土方歳三上陸之地碑宮古湾を出航した榎本軍は19日夜に回天が到着。明治元年旧10月20日、回天より30名ほど上陸し、霊鷲院の手前にあった村会所で箱館府の荒井信五郎と面談し、上陸を伝え宿舎の手配など依頼した。上陸時の鷲ノ木は積雪30cm、北西の強風で波は荒れ、暴風雪であったといわれる。全艦が揃ったの23日で、鷲ノ木へ上陸する際、ボート転覆や乗り移りの失敗などで16名が亡くなったという。榎本艦隊は海陽丸他7艦で二千人と言われ、時揚陸したのは主に陸兵であったという。鷲ノ木村は開戦と共に榎本軍の後方陣地となり、不使用者や病人達の寮養地となり、死者は霊鷲院に葬られた。史跡公園に上陸記念碑や慰霊碑があります。碑は国道5号線の海側にある鷲ノ木漁港に面する道路沿いで、桂川河口の橋近くにある。天気が良ければ駒ヶ岳がよく見えます。◇建立年:平成24年4月 ◇建立者:森町 ◇所在地:森町鷲の木 ◇Gmap:マップコード

旧茅部街道 三軒茶屋跡

三軒茶屋跡 JR函館本線東山駅の山側を通る旧茅部街道の踏切近くに「史跡 旧茅部街道 三軒茶屋跡」という石碑と説明板がある。 弘治年間(1555-1557-室町後期)室町時代末期になるとも、茅部地区の鰊漁を求めて函館近郊から多くの漁師が出入りするようになり、函館~森間に道が開かれる。やがて茅部場所が開かれると交通量は増大し、後に茅部街道と呼ばれる主要道路となった。函館近郊から街道筋の要所には宿屋や休憩所等が建ち三軒茶屋もそのひとつですが、この茶屋は特に人々で賑わっていたという。幕末の頃は公設の宿泊所があった追分と宿野部の中継地だったと思われる。宿野部は国鉄の駒ヶ岳駅が出来たことで駒ヶ岳と改称されたようです。明治に入って茅部街道は本格的に改修されて、札幌間本道となり、国道5号線の開通により「旧街道」となった。◇建立年:平成5年9月10日 ◇建立者:森町教育委員会 ◇所在地:森町東山 ◇Gmap:マップコード

無縁弗供養塔鹿部町

無縁弗供養塔 碑文は正面に「無縁弗供養塔」右側に「戦時中鹿部・大沼駅間鉄道工事中に七十数人亡くなった中国人・朝鮮人の」とあるが建立年月日や建立者は刻まれていない。渡島砂原~鹿部~大沼をつなぐ砂原線の鉄道敷設工事で鉄道鉱業が中国人460人を鹿部に連行し21人の犠牲者を出し、その後に室蘭に連行している。中国人21人を除くと残りの犠牲者は日本人と朝鮮人という事になりタコ部屋もあったことになる。供養塔は古老が「この線路を作るため70人以上の中国・朝鮮人が亡くなり、墓もなく埋められた」また何度も「かわいそうだ」と話すのを聞いた柳沢利男氏が個人で建立した供養塔です・・・鹿部湧水園は駒ケ岳山麓の端で湧き出した湧水スポットと知られているが、個人宅の敷地内にあり現在は閉鎖中。供養塔は国道278号線の鹿部名水庭園入口から約500m付近なので行く事は可能でしょう。◇建立年:昭和55年 ◇建立者:柳沢利男 ◇所在地:茅部郡鹿部町本別(鹿部湧水園) ◇Gmap:マップコード

昆布礁災害復旧記念碑

昆布礁災害復旧記念碑 昭和4(1929)年の駒ヶ岳噴火により大きな被害を受けた昆布礁の復旧計画は、新たな岩礁造成のため、投石事業と海底岩盤の破砕事業がすすめられ、昆布礁の災害復旧を記念して昭和11年、鹿部村に記念碑が建てられました。碑文より「昆布礁復舊記念碑」「揮毫 北海道廳長官 佐上信一 書」「昭和四年六月駒ヶ嶽爆發シ 海陸ノ惨害一町七箇村ニ及ビ殊ニ昆布礁ノ被害甚シ 各漁業組合協力九十二萬餘圓ヲ投シ七万餘人ヲ使役シ 二十八萬餘坪ヲ復興シ 昆布生産舊ニ勝ルニ到レリ 依テ玆ニ相謀リ 永ク之ヲ記念シ後昆ニ傳フト云爾 昭和十年 六月 鹿部村 臼尻 尾札部村 椴法華村 根田内 漁業組合 古武井 尻岸内 日浦」※記念碑は最初は大沼電鉄鹿部駅前広場に建立され、後に鹿部稲荷神社境内に遷され、昭和61年に鹿部公園に移設された。昆布関係の碑は函館にもあったと言うが未確認、現在は鹿部公園にある碑が道内唯一の昆布関係碑かもしれない。昭和4(1929)年の駒ヶ岳噴火により大きな被害を受けた昆布礁の復旧計画は、新たな岩礁造成のため、投石事業と海底岩盤の破砕事業がすすめられ、昆布礁の災害復旧を記念して昭和11年に記念碑が建てられました。この噴火では泥流を伴い山林耕地の被害も多く、死者2名、負傷者4名、牛馬の死136頭という。◇建立年:昭和11年6月27日 ◇建立者:茅部郡自治体合同? ◇所在地:鹿部町鹿部 鹿部公園 ◇Gmap:マップコード

駒ヶ岳爆発記念碑

駒ヶ岳爆発記念碑 碑文には「駒ヶ岳爆発記念碑/昭和四年六月十七日」裏面には建立者名があるだけで建立年が刻まれていない。安政の大噴火以来73年後の昭和4(1929)年6月17日に大きな軽石噴火をおこし,降下軽石および火砕流を噴出したが鹿部方面を主にして南東方へ降下軽石をもたらしたといい、鹿部町一帯は約1mの堆積物に覆われ、昆布礁が壊滅的な被害を受けたという。また火砕流やその後の降雨による泥流の発生などで山林耕地の被害も多く、死者2名、負傷者4名、牛馬の死136頭という。最後の噴火は昭和27年でした。◇建立者:伊藤源八・青木□之助 ◇所在地:鹿部町鹿部 鹿部公園 ◇Gmap:マップコード

ミンク供養之碑

ミンク供養之碑 道内では数少ないミンクのの供養碑、網走にもあるらしいが本格的なミンク供養碑は鹿部町で初めて見ました。碑文より「ミンク飼育史/昭和34年 陸上産業振興上 330頭でミンク事業開始 毛皮品評会で最高位の通産大臣賞を受賞等 良質毛皮の実績を有す 最多飼育数は一万二千頭で一村一品の先駆けと自治体事業では注目を集めたが 時代の経済変動によりやむなく 昭和62年3月に28年間の事業を閉ずる 後世のためにこれを記す 昭和62年8月31日」※昭和の中頃は道内各地で毛皮用にミンクが飼育されていたが、殆どが昭和ともに終わりを告げるも、飼育場を脱走したミンクが野生化して生態系に影響を及ぼしている。◇建立年:昭和57年3月31日 ◇建立者:鹿部村営ミンク飼育場 ◇所在地:鹿部町鹿部 鹿部公園 ◇Gmap:マップコード

海難供養塔

海難供養塔 鹿部公園に隣接するパーキングエリアの一角にある。隣に建立されている魚族供養塔は平成3年の建立で比較的新しい碑だが海難慰霊塔は昭和43年8月の建立。裏面にとくに海難に関する碑文は無いが昭和42年は北海道での海難事故が425件とあり鹿部でも海難事故があったのかも。◇建立年:昭和43年8月 ◇建立者:鹿部漁業協同組合 ◇所在地:鹿部町鹿部 ◇Gmap:マップコード

魚族供養塔

魚族供養塔 鹿部公園に隣接するパーキングエリアの一角にある。隣に建立されている海難慰霊塔は昭和43年8月の建立。裏面の碑文には魚族供養塔建立者と漁協内のグループ名が記されているだけで建立の趣旨は刻まれていないが、他地域で見られる供養費と同じ趣旨とおもわれる。◇建立年:平成3年7月 ◇建立者:鹿部町・鹿部漁業協同組合 ◇所在地:鹿部町鹿部 ◇Gmap:マップコード

北斗船モニュメント

北斗船モニュメントしかべ間歇泉公園の駐車場内に、2001年4月に鳥羽一郎さんのヒット曲「北斗船」の記念歌碑が建てられ、手形のスイッチに手をのせると割と音量のある曲が流れる。鳥羽一郎ファンにはうれしい仕掛けです。碑文より「作詞家・星野哲朗氏が、町おこしグループの熱い誘いに乗り、始めて鹿部町を訪れたのは昭和62年のこと。以来 毎夏2~3日現代漁業の勉強会を兼ね、地元を訪れ交流を深めた。そんな背景から生まれた「北斗船」は1988年(昭和63年)全国的なヒット作となった。詞は星野先生直筆による。」道路を挟んだ向側に間欠泉を見られる施設(有料です)と足湯などがある。◇贈:渡島信用金庫 ◇建立年:2001年4月 ◇建立者:鹿部町 ◇所在地:鹿部町鹿部 ◇Gmap:マップコード

旧大沼第二発電所

旧大沼第二発電所 明治41年7月に大沼と折戸川の落差を利用して銚子口に大沼湖水の取水口を設け、折戸川沿いとなる鹿部町駒見に大沼第一発電所を建設。8月から電力供給を開始、12月には社名を函館水電株式会社に改めた。その後の大正3年3月に第二発電所(鹿部町宮浜)、大正8年8月には第三発電所(鹿部町鹿部・鹿部川上流)の計3箇所の発電所が建設された。昭和40年2月の七飯発電所完成で歴史的役割を終えたが発電所建物は今も残されされている。大沼第一発電所は煉瓦造り木造トラス屋根構造、煉瓦は第一、第二発電所ともイギリス積みで近代土木遺産となっています。第一発電所は農場の建物として利用され敷地内への立入は狂牛病予防のため制限されている。第二発電所は痛み方が激しく、敷地が漁網洗浄場所として利用されているが外観はモダンな作りです。 気になるのは北海道開拓殉難者調査報告書に一名の殉難受者が挙げられていること。当時の労働形態は獄部屋全盛期であり建物は別としても、水路や堤などは強制労働であったろう。監獄労働(タコ部屋)を取り締まる真面な法律も無かった頃であり実際は氷山の一角なのかも。◇事業者:函館水電株式会社 ◇所在地:北海道茅部郡鹿部町宮浜 ◇Gmap:マップコード

旧大沼第三発電所

旧大沼第三発電所 大正8(1919)年に運転開始された出力は800kwの旧大沼第三発電所はこちらは鹿部川で変電所裏側に現存していますが、変電所の金網越しで、まともには見られません。許可を取って変電所敷地内に入れてもらう必要がありそうですが、草木の生い茂っている季節は避けた方が良さそうな印象でした。旧大沼第三発電所も建物は別としても監獄部屋全盛期に作られているのだが詳細は不明。◇所在地:茅部郡鹿部町鹿部  ◇Gmap:マップコード

三味線滝MAP

三味線滝恵山国道(278号線)を北上し鹿部町に入るとまもなく道端に滝が流れ落ちている。説明板には「岩を流れ落ちる清流が三味線の音色に聞こえることからこの名前がついた」とあったが耳が悪いのか三味線には聞こえなかった。滝が三筋の糸のように流れているからとの説もあるようだ、晴れていると風景はよいが駐車スペースは一台程度。◇所在地:鹿部町 ◇Gmap:マップコード

イザベラ・バードが歩いた道七飯町MAP

イザベラ・バードが歩いた道 蓴菜沼湖畔に「イザベラ・バードの道を辿る会」から2013年に七飯町に寄贈された説明板があり、明治11年に北海道を旅行した英国の女性旅行家イザベラ・バードの足跡が記されています。説明板によると1878(明治11)年8月17日、函館を出発したバードは、札幌本道を北上しながら七重村、峠下村を経て、その日の夕方に蓴菜沼に到着しました。ここには当時開拓使高官がよく利用した「宮崎旅館」があり、バードもここに滞在したと考えられます。以下省略」同じ場所に明治天皇蓴菜沼小休所の説明板もある。札幌新道の時代は峠から大沼が見えたもなのかは気がになるが・・・◇建立年:平成24年 ◇建立者:イザベラ・バードの道をたどる会◇所在地:七飯町西大沼 蓴菜沼湖畔 ◇Gmap:マップコード

渡島地方・東海岸道ミニギャラリー

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