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ぐるっと檜山プチ旅1
瀬棚町瀬棚区・北檜山区を巡る旅‼

獅子岩瀬棚区MAP

獅子岩瀬棚区の美谷トンネルを挟んで奇岩が多いが、その中で変わっているのが獅子岩。昭和初期には「アネコ岩」と呼ばれ、頭上にアイヌの力持ちが担ぎ上げたという1つ75kgの石が3個あったというが、北海道南西沖地震で崩落したという。獅子岩になったのはそのあとのようで、獅子が海に向かって吠えている姿に似ていることから今の名前になったという。最近はトース岩という方もいるようだ。美谷トンネルの北側に案内板がある。◇撮影地:せたな町瀬棚区北歌島 ◇Gmap:マップコード

奇岩 窓岩瀬棚区MAP

奇岩 窓岩瀬棚区の島歌川河口近くにある岩で案内板標柱が立っている。岩の大きさの割には大きな穴で窓岩と呼ばれ、正面から見ると窓から遠くに亀岩、冬はトドが見えることもあるという。松浦武四郎の西蝦夷日誌では「窓岩、本名フヨンチシと云、穴の義也」とあり。◇撮影地:せたな町瀬棚区歌島 ◇Gmap:マップコード

奇岩 亀岩瀬棚区

奇岩 亀岩瀬棚区の島歌川河口近くにある複数の岩が重なって見える奇観。角度が決まればリアル亀に見えるが、角度がズレるとただの岩と化す。ここでは岩の組み合わせの妙で楽しむが、沖にも変わった形の岩があり退屈はしない。この岩は窓岩の窓越しに小さく見える。◇撮影地:せたな町瀬棚区歌島

三本杉岩瀬棚区

三本杉岩瀬棚市街の北端で海上に3つ並んで聳え立つ高さ30m近い安山岩の岩峰。三本の老杉のように見えると云うのが名前の由来のようで、瀬棚町のカントリーサインになっているが杉にはみえない。馬場川の河口側、謎のタコの像近くが岩と岩のバランスも良くいが、ここから見ると手前の岩は根元は繋がり昔は窓岩かも、奥側は独立した岩で実際は二つの岩。瀬棚港の周囲には三本杉岩の他に防波堤に接して立つ蝋燭岩や離れて輪掛岩、南側に懸島が聳えるが、岩峰は火山噴出物の火道の名残らしいとか、地学の教材みたいです。◇所在地:せたな町瀬棚区三本杉 ◇Gmap:マップコード

軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑瀬棚区

軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑 ウラジオストックに向かって航行中のロシア軍艦アレウト号が明治10(1877)年11月19日に瀬棚海岸で座礁したが、乗組員ら62人全員が地元の人たちによって救助されました。乗組員のうちの15名が艦内にある残留物資などの陸揚げと保管のために残りました。翌年の明治11(1878)年4月29日に軍艦エルマック号が残留した15名を迎えに来て、乗組員がその軍艦へと移動中に短艇が転覆し12人が犠牲となり、うち8名が遺体で収容され故国をはるかに望む三本杉の丘に今なお埋葬されている。アレウト号の乗組員12名の冥福と海難事故防止、国際親善などの祈りを込めて昭和47(1972)年に慰霊碑が建立された。◇建立年:昭和47年10月◇建立者:軍艦アレウト号遭難慰霊碑建立委員会 ◇所在地:せたな町瀬棚区三本杉 ◇Gmap:マップコード

謎の人魚姫と大タコ像瀬棚区

謎の人魚姫瀬棚港近くで三本杉岩のほぼ真正面で国道沿いの防潮堤前にかなり大きな人魚姫の像がある、説明文らしき標示物は無く由来もよくわからないが素材は一見して石のよう見えるが、よく見るとコンクリートのようで、置かれた場所も人魚姫には不向き、海水浴場のほうがまだ良さそうだが、それだけで終わらないのが瀬棚で、馬場川寄りに大タコの像があった。これは何かの施設にタコを載せた感じなのだか・・・ちなみにこの辺の防潮堤に上がると三本杉岩がよくみえる。◇所在地:せたな町瀬棚区三本杉 ◇Gmap:マップコード

荻野吟子女史像瀬棚区

荻野吟子女史像平成13年に瀬棚区支所前に建立された医師開業記念姿の像は、荻野吟子生誕の地・埼玉県妻沼町と隣接する熊谷市の有限会社「野口石材店」社長、野口孝氏より寄贈されたもの。この年は荻野吟子生誕150周年にあたり妻沼町と荻野吟子の墓所にも同じ像が建立されている。隣にある荻野吟子抄記の碑を転載「日本女医第一号荻野ぎん(後、吟子と改む)は嘉永4(1851)年3月3日武、蔵国幡羅郡俵瀬村(現埼玉県大里郡妻沼町大字俵瀬)に生まる。明治3(1870)年病気で協議離婚、下谷大字大学東校病院に入り診療の羞恥屈辱感から女医を志す。明治18(1885)年刻苦難関を克服して医術開業試験に合格し本郷湯島に医院開業、35才。明治23年、志方之善と結婚、翌年志方キリスト教徒理想郷建設をめざし北海道に渡る。同27(1894)年吟子渡道しインヌマエルで夫の傳道を扶く。明治30(1897)年開拓に見切りをつけた吟子は、瀬棚村会津町(今の瀬棚町本町)に医院を開業の傍ら淑徳婦人会を結成風俗改善に挺身。明治38(1905)年瀬棚で夫の志方病死。明治41(1908)年、姉友子の強い勧めで北海道を引き上げ東京本所に医院を開業。大正2(1913)年6月23日逝去63才。東京雑司ヶ谷霊園に眠る。昭和42(1967)年8月瀬棚町に荻野吟子女史顕彰碑建設さる。平成7(1995)年10月「荻野吟子抄第二部北海道編」が妻沼劇団□により公演、今金瀬棚観劇ツアー来町。平成10年新橋演舞場で三田佳子主演「命燃えて」公演大成功。平成12年2月県都の埼玉公演に平田瀬棚町長、村本今金町長来県、土屋埼玉県知事を表敬訪問。平成13年6月命日、医師開業記念姿の吟子像を瀬棚に建立。以下省略」◇建立年:平成13年6月 ◇寄贈者:野口孝 ◇所在地:せたな町瀬棚区本町7区 ◇Gmap:マップコード

荻野吟子開業の地碑瀬棚区

荻野吟子開業の地碑日本最初の女医・荻野吟子は、1897(明治30)年瀬棚に入り荻野医院を開業。瀬棚児童会館そばの開業地跡に、医療活動はもとより婦人会や日曜学校等を創設し、地域の文化振興にも貢献した彼女の功績を讃え、病院・開業の地を記念する荻野吟子顕彰碑が昭和42(1967)年に開業地跡に建立されたが平成12年に移転しているが、荻野吟子の詩・瀬棚十景を刻んだ荻野吟子開業の地碑が建立されている◇所在地:せたな町瀬棚区本町3区 ◇Gmap:マップコード

荻野吟子顕彰碑瀬棚区

荻野吟子顕彰碑日本女医第1号の荻野吟子女史は瀬棚町で開業、10数年を地域に貢献。昭和42(1967)年、北海道百年記念事業として荻野吟子女史の功績をしのび後世に伝えるためし多くの方々で「荻野吟子顕彰碑期成会」が組織され荻野医院開業地跡に荻野吟子顕彰碑が建立されたが、平成12年に渡島信用金庫創業90年を記念し(荻野吟子顕彰碑・公園整備」として寄贈、せたな町瀬棚町開基120周年事業と併せ旧瀬棚駅跡地の荻野吟子小公園内に荻野吟子顕彰碑が移設されたのだという。◇建立年:平成12年6月 ◇建立者:渡島信用金庫 ◇所在地:せたな町瀬棚区本町9区 ◇Gmap:マップコード

旧国鉄瀬棚駅跡記念碑瀬棚区

瀬棚駅跡ここにもかつて鉄道が走っていた証で、昭和62(1987)年に瀬棚線が廃線になるまでは北海道最西端の駅でした。瀬棚駅跡は「公営温泉浴場やすらぎ館」に変わり敷地内の緑地(駐車場の際)に瀬棚駅跡地記念碑と駅名標がある。碑文より「旧国鉄瀬棚駅跡記念碑/瀬棚線のあらまし/渡島半島を、東方内浦湾から西方日本海の瀬棚に横断する線路である。 昭和7年11月1日には国縫~瀬棚間全線が開通し、昭和22年ころまで各駅とも木材の出貨でにぎわうが昭和58年8月31日貨物列車運転が廃止され、昭和62年3月15日その幕を閉じる。/沿革/昭和4年12月13日 国縫~花石間 開通/昭和5年10月30日 花石~今金間 開通/昭和7年11月1日 今金~瀬棚間 開通(全線開通)/昭和49年6月30日 SL運転 廃止/昭和58年8月31日 貨物列車運転 廃止/昭和62年3月15日 瀬棚線 廃止」※少し離れた一角に荻野吟子顕彰碑がある。◇建立年:不詳 ◇建立者:不詳 ◇所在地:せたな町瀬棚区本町9区 ◇Gmap:マップコード

弁天岬北檜山区MAP

弁天岬太櫓(ふとろ)は元和8(1622)年に松前藩がフトロ場所を開いたのが太櫓のはじまりのようで、かつて古櫓多、良瑠石、鵜泊などが合併して一つの村を形成していたが今はせたな町に属している。太櫓川の河口付近から鵜泊にかけて岩礁、岩壁が連なる海岸の中で一際目立っているのが弁天岬、岬の頂きに弁天社が鎮座している。下には漁港があり横には海難慰霊碑が建立されている。ここから眺める夕陽は美しいとされ、遠くに奥尻島も望まれる景勝の地です。◇所在地:せたな町北檜山区太櫓 ◇Gmap:マップコード

太櫓海域 遭難者慰霊之碑北檜山区

太櫓海域 遭難者慰霊之碑 弁天岬の基部で尾根上の場所にあり簡単には近づけないが、自然条件は厳しそうで昭和45年建立の碑には見えない。昭和30、31年と連続して暴風雪や暴風による全道的な海難事故、昭和42年には全道で海難事故が425件と記録にあるが、太櫓海域でも海難事故があったのか・・・。ただ有史以降の海域遭難者を慰霊した碑なのか。よく見たら先端にある神社にも険しい所に碑があった。また海岸の国道沿いに津波の高さの碑があった。◇建立年:昭和45年?1月 ◇建立者:太櫓海域遭難者慰霊碑期成会 ◇所在地:せたな町北檜山区太櫓 弁天岬基部 ◇Gmap:マップコード

太櫓小学校の碑北檜山区

太櫓小学校の碑 かつてはニシン漁で栄えましたが、その後のニシン漁の不振、海難事故、集中豪雨などで人口が激減。平成5年の北海道南西沖地震により太櫓地区の人口はさらに半分になり太櫓小学校は、存続の危機を向かえました。「学校は地域の文化」と太櫓小学校の存続について地域ぐるみで検討を重ね、平成8年「海浜留学推進協議会」を発足。平成9年4月には念願の「海浜留学」をスタートしました。当時は留学生1人からのスタートで、留学生集めに奔走する毎日だったそうです。留学生は延べ150人以上となり里親制での海浜留学児童数は、山村留学も含めて全国1位となるも平成23年3月末で閉校、今はグランドが避難所となっている。◇所在地:せたな町北檜山区太櫓 ◇Gmap:マップコード

芭蕉塚北檜山区MAP

芭蕉塚説明板の一部を引用する「太櫓は元和8(1622)年松前藩士和田市兵衛の知行地となり越えて文化年間場所請負制となってからは太櫓場所として繁栄し、漁業関係者はもちろん商人、僧侶など文化人の往来もあった。この芭蕉塚は、俳句を愛しこれを広めるため天保6(1835)年6月、上ノ国の住人が俳聖芭蕉の代表作『古池や 蛙飛込む 水の音』石に刻んで地蔵庵(現在の昭光寺)の境内に建立したものである」とあるが、石とはいえども風化で判読不能な部分もある。碑は道道740号線沿いにある。◇建立年:天保6年6月 ◇建立者:氏名不詳 ◇所在地:せたな町北檜山区太櫓 ◇Gmap:マップコード

鵜泊海岸北檜山区MAP

鵜泊海岸鵜泊と水垂岬の間で鵜泊寄りに剣山の様に岩が立ち上がっている光景がひらけるが他では余り見られない。鵜泊漁港の南側に蛇がドクロを巻いたようにうねった模様のホルンフェルス巨石が海岸を占拠しているが、これはホルンフェルス(接触変成岩)と関わりがなさそうにみえる。水垂岬と鵜泊漁港との間は道幅も狭く見通しも良くないが地質や岩石に興味のある方には楽しい場所かもしれない。◇所在地:せたな町北檜山区新成鵜泊 ◇Gmap:マップコード

栄の開拓記念碑北檜山区

栄の開拓記念碑 碑文の題額は「念記拓開」下段の碑文「荒野を開發し以て人境と為す蓋し容易の業ならず。此地字をサツカイシヲンコヤと稱し、明治29年7月本村最初の區畫地として開除せられ、工藤佐平他28戸の団体移住し各一万坪宛ての貸下許可を得たり。當時巨木鬱蒼と天を覆ひ、茨棘地を塞き熊狸横行す荒屋を設け伐木開墾の事に従へて幾春秋具に辛酸を嘗めて漸く成功。明治33年12月附興□正□□□時の、村長斎藤保氏他2名發起して水田造成計画なる翌年灌漑溝の堀鑿を待ち造田に務め、爾来十有餘年現在戸数を18戸内出願時より工藤佐平林役藏二氏に過ぎすと□□。美田十餘町、畑40餘町、交通全く開け子孫永住の地として可也。開拓40周年を記念し碑を建て以て後世に傳ふ。昭和6年6月15日」※裏面には記念碑建設関係者14名の名が刻まれている。◇建立年:昭和6年6月15日 ◇建立者:栄石・オンコヤチ両部落一同 ◇所在地:せたな町北檜山区栄 ◇Gmap:マップコード

拓進の碑二俣小学校開基百年・二俣開基百六年記念

拓進の碑 碑文より「正面に雄大な遊楽部岳を臨み、後方には秀峰狩場山を背負い、東方に広大な天然林を有し西には先祖の英霊を祭るここ二俣266番地に二俣開基百六年、二俣小学校開校百周年を記念する碑を建立する。二俣地域は明治29年、太櫓山山道開削のため賀老に駅低所を設け、太櫓の小池忠八、河田峰次が工事を請け負い、人夫とともに居を移したの開拓の始まりとされている。更に翌年の明治30年、江差の人、松前護が北海道興農合資会社を設立、五戸の小作人を入植させたことから開拓が本格化することになる。本地所は興農合資会社ゆかりの地であり、更に二俣神社、二俣簡易教育所が置かれた場所でもある。以来百有余年、学校と神社は所を変えてはいるが、大きな恵みをもたらしている二俣川の流れの如く開拓に託した夢を親子代々途絶えさすことなく前進を続け、緑豊かな穀倉地帯を築いた。自然の恵みと苦難の歴史へ感謝の意を捧げ、前進し続ける決意をこめて「拓進」という二文字を刻み、記念碑をたてる。平成14年8月吉日建立 二俣開基百六年 二俣小学校開校百周年 協賛会」※駅逓は賀老バス停の附近か・・・◇建立年:平成14年8月14日 ◇建立者:二股開基百六年・二股小学校開校百周年記念協賛会 ◇所在地:せたな町北檜山区二股 ◇Gmap:マップコード

祖の松(みおやのまつ)北檜山区

祖の松(みおやのまつ) 説明板より一部引用「明治29年3月福島県若松の人、高瀬喜左衛門ら同志8名を持って会津植民組合を組織し、北海道で大面積の土地を取得し農業経営をすべく上川郡内・十勝利別川流域を選定したが許可にならず、転じて太櫓村に入り五百町歩貸下げ出願したところ、7月31日に未開地五百町歩が貸付許可になり組合員から2名の委員を選び、実地調査を行うことし、穴沢祐造が組合主任になり、笹原倉次郎を農場管理者として渡道。ベニカモイから小舟で太櫓川を遡り、密林の中困難辛苦を重ね土地を測量している中、雌雄の巨大なオンコを発見し、これを祖松(みおやのまつ)と名づけ、この地を若松と称することになる。農場事務所もこの傍らに建設された」樹齢は600年以上と推定されているというが1000以上と云われても遜色ないが立ち枯れが進んでいる。若松開拓の記念の木とされ瀬棚町文化財にも指定されている。会津若松の出身者が太櫓川流域に開拓に入った、この経過からわかるように最初から小作人で入植で丹羽地区とは異なる。◇所在地:せたな町北檜山区若松 ◇Gmap:マップコード

祖の松歌碑北檜山区

祖の松歌碑 歌碑の文字はしっかりしているが達筆すぎて読めないので再び説明板より一部引用。刻文は「末可遣亭 栄えゆくよ遠 二もとの 御松の松能 い詠ふしる可奈 雅長」解読は「末かけて 栄えゆくよを 二もとのみおやの松の いろぞしるかな」作者の北原雅長は、会津藩家老神保内蔵の第二子で、非戦論者で藩命により切腹した神保修理の弟で藩公に従い蛤門の戦、籠城戦に参加、維新後は官界の人となり初代長崎市長などを務めた。明治40年歌道研究会を主宰、大正2年7月、享年71才で没す。◇所在地:せたな町北檜山区若松

若松開拓100年碑北檜山区

若松開拓100年碑 若松神社の参道入口に建立されている開墾百年の記念碑。黒板に刻まれた碑文より「会津の人ら移り来て、若松の原野に鍬を振り、この地を拓きて百年に、四季の移りに色映えて、先人の遺徳偲ぶがに、緑増しくる みおや松、遊楽の園より遠く望み見る、永久のしあわせ祈るごと、高くそびゆるユーラップ湧き出でて沃野潤す太櫓川、益々栄えゆく郷よ新なる世に、遺志継ぎゆかむ手を携えて 更なる発展を願い この碑をたてる 若松開基百年実行委員会」とある。明治30年4月最初の11戸が入植、翌年には戸数が51戸に増え、3年目の明治33年には187戸と飛躍的に増加した。若松は丹羽村と違い小作人として入植であり北会津・河沼・大沼の各郡からの移住者が多かったようだ。◇建立年:平成7年8月吉日 ◇建立者:若松開基百年実行委員会 ◇所在地:せたな町北檜山区若松 ◇Gmap:マップコード

若松 開拓記念碑法覚寺

若松 開拓記念碑 昭和9年5月、会津にて造られ東瀬棚駅より運び6月10日に建立・6月15日に除幕された「開拓記念碑」が若松山法覚寺の入口にある。碑文より「開拓は百年の計なり。荒廃を変して良田と為し、狸棲を化して人寰を成す、豈容易の業ならんや。明治二十九年会津若松の人高瀬喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吉、穴沢祐造の八名相謀り、殖民組合を組織して七月未開地五百町歩の貸附許可を得て開墾の事を創む。九月組合主任穴沢祐造氏、農場管理者笹原倉次郎氏等渡道す。当時密林天を蔽ひ、荊棘道を塞き、狐途熊経錯綜せり。十月測量の際偶巨樹オンコの雌雄を発見して祖松と名つけ、地を若松と称す。翌三十年四月第一次移民十一戸、各所に茅屋を営み耘耔に従事す。榛を除き莽を芟り、具に苦楚を嘗め、頗る惨境に堪ふ。爾来幾星霜神社を奠め寺院を建て、吉武是正氏入りて布教に任する等苦心到らざるなし。斯くて小学校、報徳社布教所、其他各般の施設成り、現戸百二十二、開きたる土地千五百町歩の内百町歩を開墾者に分譲して農家の基礎を鞏固にし、逐々隆盛の機運に向い、今や美田穣々炊煙靄々、住民鼓腹撃壌す。噴快なる哉。顧て惟ふみ今日ある蓋し故穴沢祐造氏の功最も大なり。当時外は熊蝮の害を防ぎ、内は人心の統一に務め、或は死線を越えて奮闘し、或は牧畜蚕業を興し、水田を計画して永遠に福祉の基を立てたり。古語に曰く、人定って亦能く天に勝つと、氏の如きは能く自然を征服せし人と謂ふべし。併記して以て後昆に伝ふと云爾」※饒舌だが村民の意気込みが伝わってくる。◇建立年:昭和9年6月15日(序幕式) ◇建立者:若松村民 ◇所在地:せたな町北檜山区若松 ◇Gmap:マップコード

丹羽開基百年碑玉川公園

丹羽開基百年碑 平成3年(1991)には入植して百年を迎えたのを記念し、盛大に式典が行われ、玉川公園内に「開基百年」と書かれた記念碑が建てられた。碑文より「明治23年3月、会津藩家老職改丹羽五郎翁が福島県人 改丹羽□介氏故関栄作氏他12戸49名と共に入植し、未来のユートピアを目指して開拓の鍬を入れてから満百年を迎えるに至り 之を記念し先人の威徳を偲び部落の総意でこの記念碑を建立したものである。平成3年3月 丹羽連合部落会」と書かれていると思うが達筆過ぎて自信は全くない。◇建立年:平成3年3月 ◇建立者:丹羽連合部落会 ;◇所在地:せたな町北檜山区丹羽 玉川公園  ◇Gmap:マップコード

丹羽五郎翁頌徳碑・丹羽五郎翁像玉川公園

丹羽五郎翁頌徳碑・丹羽五郎翁像 丹羽地区で国道230号線沿いの玉川公園内に丹羽五郎翁頌徳碑と丹羽五郎翁胸があります。昭和16(1941)年8月28日、丹羽村建村50年祭を施行するとともに、丹羽村開拓の祖である丹羽五郎の徳を偲び丹羽五郎翁頌徳碑が建立されている。また昭和36(1961)年9月6日、丹羽開基70周年を記念し丹羽五郎胸像を建立しています。同公園には白虎隊遥拝所もあります。碑文の解読はしていませんのでここでは二者の写真のみ。◇所在地:せたな町北檜山区西丹羽 玉川公園 ◇Gmap:マップコード

丹羽発祥之地荷卸の松記念保護樹

荷卸の松記念保護樹 説明板より「この木は樹齢270年と推定されているイチイです。イチイは別名オンコとも呼ばれ、北海道に生育する代表的な針葉樹の一つで庭木などとして多くの人に親しまれています。明治25年、元会津藩士であった丹羽五郎が開拓移民一行とともにこの地に足を踏み入れ、大傘のようなイチイがありこの木の下に荷物を下ろしたと言われています。以来このイチイは「荷卸の松」の松と呼ばれるようになり、開拓当時をしのぶ地域のシンボルになっており、道路改修のため、近年この地に移植されました。昭和48年3月30日指定 北海道」※石標柱に「明治25年3月21日、瀬棚より道無き道を辿りつゝ20名と共に来たり重荷を此の樹下に卸し小屋掛けに着手し数夜露宿せり。」とあり丹羽連合部落会が平成元年に建立した「荷卸の松・丹羽発祥之地」碑がある。◇所在地:せたな町北檜山区西丹羽 ◇Gmap:マップコード

瀬棚・追分ラインミニギャラリー

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