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ぐるっと胆振プチ旅5
豊浦町~洞爺湖町の観光と史跡を巡る旅‼

名勝 ピリカノカ カムイチャシ

カムイチャシ碑文の一部を転載「ピリカノカとはアイヌ語で「美しい・形」意味しアイヌ語の物語や伝承、祈りの場、□語に彩られた優秀な景勝地群を総称するものです。「カムイチャシ」は茶津岬突端の上而に築かれたアイヌ人の「チャシ(砦・柵囲い)」があったことと、貴人が住ませした所と言われたことから「カムイ・チャシ・コッ(神・砦・跡)」と呼ばれていました。明治以降は「カムイチャシ」と呼ばれ神聖な場所として伝承されて来ました。三面を断崖で囲まれ、一条の壕で「チャシ」本体のある突端部が区画されています。江戸時代から当地方を訪れた多くの探検家・旅行家の記録にもその存在が記されていました。現在では「チャシ」のある上而は「カムイチャシ史跡公園」として整備されており、頂上から内浦湾を一望できる絶景がたのしめます。以下省略」※チャシ跡の壕は長さ16m、幅5m、深さ3mで原形に近い形で残され貴重なものです。◇指定年:平成23年2月7日 ◇建立年:平成23年7月 ◇建立者:豊浦町教育委員会 ◇所在地:豊浦町字礼文華 ◇Gmap:マップコード

豊浦町文学碑公園豊浦町

礼文華文学碑公園豊浦町設置の説明板より「内浦湾(噴火湾)を前にして奇岩、怪石に富み、左手には有珠岳、遙かに駒ヶ岳を望む礼文華海岸のここ美の岬は、豊浦町が誇る風光明媚な景勝の地です。町ではこの優れたこの優れた自然美を生かして公園を造成し、町民や旅の方々の憩いの場とすることにしました。幸い海岸線を走る長輪線の車窓からの情景を描いた文学作品が貴重な文化遺産として残されており、それを刻して「豊浦町文学碑公園」と名付けた次第です。以下省略 昭和62年7月 豊浦町・豊浦町教育委員会」長輪線とチャシ跡について。長輪線の名は、昭和3年9月10日に長万部-輪西(現・東室蘭)駅間が全通した事による通称ですが、今はかなりの部分が切り替えられて、室蘭本線の一部になっている。長輪線の敷設工事はトンネル区間が多く監獄労働(タコ部屋)で開削されており多くの犠牲者をだしている◇設置者:豊浦町・豊浦町教育委員会 ◇所在地:豊浦町字礼文華 ◇Gmap:マップコード

斎藤茂吉歌碑豊浦町文学碑公園

斎藤茂吉歌碑説明板より「この歌人(明治15~昭和28)は「赤光」「あらたま」などの名歌集をもつ近代短歌史上の巨人である。文化勲章受章。茂吉が弟とともに北海道に遊んだのは50歳の折の、昭和7年8~9月であった。志文内(中川町=歌碑2基)に住む兄を訪ねるのが主目的で、函館・旭川・釧路・札幌・稚内・樺太・釧路・根室・支笏湖・苫小牧・白老・登別温泉など道内に広く足跡を印している。その折りの旅行詠約340首は歌集「石泉」に収められているが、東室蘭を経て長輪線で豊浦を通過してのは9月3日であった。車窓からの眺めがこの優れた歌人の眼で的確に描写されていて得難いが「礼文華」に連続したる隧道(とんねる)をやうやく出でて「静狩のうみ」もその一首。豊浦町・豊町教育委員会」※刻まれた句は “白浪のとどろく磯にひとりして” “メノコ居たるを見おろして過ぐ” です。◇建立年:昭和62年7月18日 ◇建立者:豊浦町 ◇所在地:豊浦町字礼文華

伊藤整随筆碑豊浦町文学碑公園

伊藤整随筆碑説明板より「伊藤整は、近代日本文学を代表する小説家、評論家である。明治38年に渡島半島の松前で生まれ、小樽で青春期を過ごし、昭和44年に東京で没した。代表作に「雪明りの路」「鳴海仙吉」「若い詩人の肖像」「変容」「小説の方法」などがあり、日本近代文学館理事長も務めた。芸術界会員。小樽の塩谷に文学碑が建っている。作者が始めて長輪線に乗ったのは敗戦直後の昭和21年(41歳)北海道大学で教鞭をとっていたときである。碑文は「千歳線風景」の一部だが、車窓から眺めた沿線の景色が見事に捉えられていて作者の新鮮な旅情がつたわってくる。豊浦町・豊浦教育委員会」※随筆の一部(碑文)より「五月の初め頃、私は噴火湾の沿岸をとおって函館の方から札幌への汽車に乗った。(中略)” “初めて乗るこの長輪線と言う海沿いの汽車の風景が、風景そのものの楽しさで眼に映った。窓からの風景をたのしむことのできる汽車に乗ったことを、私は珍しいと思った。静狩のトンネルの話は以前に聞いていた。それが長さにおいて北海道一とか全国一とかいうことであった。この線の起点である長万部からすぐ、この有名なトンネルに来かゝった。以下省略」 ◇建立年:昭和62年3月 ◇建立者:豊浦町 ◇所在地:豊浦町字礼文華

与謝野寛・晶子歌碑豊浦町文学碑公園

与謝野寛・晶子歌碑説明板より引用「寛(明治6~昭和10年)は鉄幹の筆名を持ち「妻をめとらば才たけて」、妻昌子(明治11~昭和17年)は「君死にたまふこと勿れ」などで知られる有名な誌歌人である。明治期に主催した文芸雑誌「明星」からは石川啄木らが育っているが、夫妻が北海道の旅にのぼったのは昭和6年5月であった。寛58歳、昌子53歳、この旅で2人をのせて約350首を残している。函館・小樽・札幌・旭川・白老・登別・□泉・室蘭などを廻り洞爺湖をあとに長輪線で豊浦を通り過ぎたのは6月5日のことである。昌子は「虻田駅で函館行の汽車に乗換えましたが、沿線の海岸の風景も、内浦湾の遠望も共に美しい事でした」と随筆「洞爺湖」に記している。函館立待岬と夫婦歌碑がある」※ “有珠の峰 礼文の磯の大岩の ならぶ中にも我を見送る 与謝野 寛” “数しらね 虹となりても掛かるなり 羊蹄山の六月の雪 与謝野晶子” ◇建立年:昭和62年3月 ◇建立者:豊浦町 ◇所在地:豊浦町字礼文華

新山梨開拓碑豊浦町

下山梨駅逓所跡探索で内陸部に入った壮滝別川流域で面積はやたら広いが、このルートは昆布に向かう途中になる。碑文より「略歴/惟時明治四十二年三月六日山梨/県ヨリ事務官本間則田忠氏ニ引率/サレ百六戸移住□多ノ□□ト闘/イ□□□□ニ□□新山梨ヲ開拓/爾来□県ヨリ転入者アリ百八十/余戸ヲ算セシモ□州戦乱ヲ期ニ/衰頽シ/其後昭和三十年当局ノ入植計画/ニヨリ増戸ヲ見更ニ道路ノ大改/良モ実現シタリ/部落一同先達ノ功ヲ讃イ/茲ニ開拓五十年ニ当タリ記念碑ヲ建立」と読めない文字多く意味は曖昧だが山梨県より入植し、爾来困難と戦い開拓50周年を迎えて碑を建立した。碑の横に神社があり、その近くに駅逓があったようであるが痕跡もない。◇所在地:豊浦町山梨355番地1 ◇Gmap:マップコード

虻田歴史公園洞爺湖町

虻田歴史公園虻田は何度も有珠山噴火の被害を被ってきた地域であり、なかでも1822年の有珠山噴火(文政の大噴火)で和人6名、アイヌ人53名、牧馬1430頭が焼死、アプタコタン焼き尽くすという壊滅的な被害をうけ、人々は新フレナイ(現虻田市街)に移住したという。虻田場所の請負人だった和田屋茂兵衛氏もその時の犠牲者の一人で公園に墓碑がある。他に先住アイヌ民族慰霊碑、道内最古の馬頭観音、菅江真澄歌碑、蝦夷牧(有珠虻田牧場)跡の碑や説明板がある。虻田歴史公園は虻田漁港を望む小さな駐車場の近くです。◇所在地:洞爺湖町入江

虻田町先住アイヌ民族慰霊碑

虻田町先住アイヌ民族慰霊碑 慰霊碑建立趣旨を刻んだ碑文はなくアイヌモシリ北海道の民衆史より引用す『歴史公園には馬のお墓と和人のお墓があるが、アイヌの墓がないというのはおかしいということになった。それで私たちは、この公園の中心に「アイヌ民族慰霊碑」をぜひ建てようということになった」「虻田の歴史を考える会とウタリ協会虻田支部が中心となって期成会をつくり全町的募金活動が始められた。」虻田開基180年の年に序幕された。また平成に入ってから慰霊碑前でイチャルパも挙行されているという。慰霊碑の前に四角い炉が作られているが、イチャルパの会場になる神聖な場所であり中には決して立ち入らないようにしましよう。◇建立年:昭和55年10月 ◇建立者:ウタリ協会虻田支部他 ◇所在地:虻田郡洞爺湖町入江 虻田歴史公園 ◇Gmap:マップコード

蝦夷牧跡(有珠虻田牧場 御牧場=おまきば)虻田歴史公園 洞爺湖町

有珠虻田牧場 御牧場文化2(1805)年に箱館奉行戸川安論(やすのぶ)が、アブタ・ウス開設した幕府直営の官営牧場で蝦夷牧(えぞまき)とよばれ、松前藩領になってからは有珠虻田牧場。岡山牧(虻田町東部から伊達市有珠町付近)、平野牧(若生町付近から伊達市街まで)、富沢牧、富川牧の4牧が開かれ有珠から虻田一帯にわたる面積でした。戸川は種馬3頭の下付を受けて、南部藩からの献上された牝馬4頭、購入牝馬5頭とともに放牧。自然交配により年々増加し1810年代後半から20年代前半には4牧で二千頭を超え、文政5(1822)年には2553頭に達したが、この年の有珠山噴火で牧馬数百頭が斃死、一千頭ほどが行方不明となったという甚大な被害をうける。牧士は世襲制で明治維新まで続いていたとされるが、牧場は明治2(1869)年に廃止されている。◇所在地:洞爺湖町入江 ◇Gmap:マップコード

和田屋茂兵衛墓碑

和田屋茂兵衛墓碑 アブタ場所の元文4(1739)年頃は松前藩士酒井氏が知行主で世襲場所という。寛政11(1799)年に東蝦夷地は幕府直轄地となり請負制を廃止して直轄とし、運上屋は会所に改められ蝦夷地初の牧場(ウス場所も)が開設された。文化9(1812)年から場所請負制が復活し和田屋茂兵衛の請負場所となる。文政4(1821)年に松前藩に復領したが場所請負制は引継がれた。文政5(1822)年1月に有珠山の大噴火があり熱泥流でアブタ、ウス両場所の牧士村田卯五郎父子・アブタ場所請負人和田屋茂兵衛・同支配人松之助らの和人お5びアイヌ人82名が死亡した。牧馬数百頭が死に一千頭ほどが行方不明となったという。アブタは壊滅して会所はフレナイに移転し、のちに此地をアブタと称した。文政10(1827)年も和田屋茂兵衛(茂吉)が請負人で、嘉永2(1849)年頃に再び和田屋茂兵衛(荘吉)が請負人となるも、嘉永6年(1853)年の有珠山噴火でフレナイも被害を受け、レブンゲを仮会所にして一時避難する。明治2(1869)年の場所請負制廃止による場所返上は泉州屋が行った。公園内に有珠山大噴火で犠牲になった和田屋茂兵衛の墓碑がある。◇所在地:洞爺湖町入江103 ◇Gmap:マップコード

馬頭観音虻田歴史公園 洞爺湖町

馬頭観音蝦夷牧は今の豊浦町から伊達市黄金までの広大な土地に2千数百頭を放牧していたが、文政の大噴火で1430頭、1822年には大雪で900頭余りが死んだと云う。林立する馬頭観音は大正期の建立が多いようですが、江戸から明治初期の馬頭観音は観音堂に安置されているの普段はみられない。観音堂の屋外に多数の馬頭観音が建立されているがいずれも質素なもので観音像が彫られたり農耕馬や炭坑で使役された馬などに多い大型の馬頭観音などはここでは殆ど見かけなかった。◇所在地:洞爺湖町入江 ◇Gmap:マップコード

洞爺湖展望台洞爺湖町

洞爺湖展望台洞爺国道(230号線)沿いにサイロ展望台と書かれた観光施設が有り裏手にある展望台から洞爺湖を一望、中島、有珠山、昭和新山も望める。また後方羊蹄山や尻別岳の山々もそれなり望める。ただ大型観光バスも止まる有名スポットで落ち着かないかもしれないが、気軽な展望スポットとしては一押しかもしれない。他に道の駅、有珠山や昭和新山にも展望台はあるが、洞爺湖の展望台と限定するならば 壮瞥町の壮瞥公園にある展望台が良さそうです。◇所在地:洞爺湖町成香3-5 ◇Gmap:マップコード

有珠・噴火湾沿線ミニギャラリー

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