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ぐるっと石狩プチ旅2
札幌市の近郊・江別市~恵庭市~千歳市を巡る旅‼

対雁百年碑MAP

対雁百年碑碑文より「由来 本碑ハ弘化三年場所請負人山田文右衛門小祉ヲ建立弁天ヲ祀ル 神体長サ二尺三寸極上ヲナス 翠色天然石文右衛門ノ引網ニカカル事三度ニ及ビ神明ノ致ス所トシテ対雁豊平川口ノ小祉祀ル 是対雁神社ノ前身ナリ 越エテ明治四年四月宮城県涌谷領農民二十一戸七十六人来住対雁村トナル 次ダ同九年七月南樺太アイヌ百二十七戸八百五十四人移住 係開拓使八等出仕上野正ノ発意ニヨリ小祉ヲ修復鳥居ヲ新営シテ対雁神社トナス 一方角山ノ移住者相計諮リ 同年三十七年角山神社を創立天照大神ヲ祀リ来タリシガ 昭和四十六年九月倶ニ国営治水工事ノ為ニ社ヲ解体 神体ヲ本碑内ニ奉置シ以テ永遠ニ之ヲ伝エントス 昭和四十六年九月十日 碑書 江別市長 山田利雄 撰文 新館長次」※碑文には「次ダ同九年七月南樺太アイヌ百二十七戸八百五十四人移住」とあるが、彼らが上陸した宗谷から銃剣で強制的に連行したもので移住いえないものだった。そこまでして連行した理由は空知の炭坑に彼らを送り込む計画があったからと云われている。対雁ではコレラや天然痘の流行があり移住者の半分近くが亡くなるという大惨事にみまわれた。碑は榎本公園の奥まった場所にあります。◇建立年:昭和46年9月10日 ◇設置者:江別市 ◇所在地:江別市工栄町 ◇Gmap:マップコード

史跡津石狩(対雁)番屋MAP

史跡津石狩(対雁)番屋説明ばんより「今から270年ほど前(享保年間)、世田豊平川口に石狩13場所の一つとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と内陸水路交通の要点として発展した。慶応4年に立花由松が江別最初の和人として定住した。明治4年には宮城県から76人が入植し、9年には樺太(サハリン)に住む854人のアイヌが移住させられた。これにより学校や製網所が作られるなど対雁は賑わい、12年に駅逓所、13年には対雁・江別両戸長役場が置かれた。しかし、15年の鉄道開業により人の流れが江別・野幌に移り、19・20年にはコレラの流行により300人以上の病死者をだす大惨事にみまわれ、対雁は衰退をはじめた。駅逓所は18年廃止となり、19年には戸長役場と郵便局が江別村にいてんした。駅逓の入口に植えられた赤松は、駅逓の松として親しまれ、現在は石狩川の河川敷地となった旧対雁市街の繁栄をしのばせていたが、老枯して今はない。平成2年9月 江別市教育委員会」◇建立年:平成2年9月 ◇建立者:江別市教育委員会 ◇所在地:江別市工栄町 ◇Gmap:マップコード

樺太移住旧土人先祖之碑記MAP

樺太移住旧土人先祖之碑記榎本武揚がロシアと交渉して明治8年(1875)に千島樺太交換条約を締結、樺太アイヌは国籍選択を迫られ樺太北部のアイヌは残留し、南部の108戸、841名が日本国籍を選択し宗谷に移住する。榎本はさらに樺太アイヌを農作業、もしくは空知の炭鉱夫として働かせるため対雁に再移住させる事を提案、開拓使は彼らの生活のため,石狩や厚田の鮭漁場や鰊場を設けたりしたが、樺太アイヌの視察団は不適と移住を拒否、アイヌ達から移住したくないという嘆願書を受けた大判官・松本十郎は対雁移住に反対し保護策を提案したが、アイヌとロシアとの接触を恐れた黒田清隆はこれを聞き入れず、翌年になって松本が出張で留守の時に、強権を発動し銃による威圧や脅迫でアイヌの人々を脅し船に乗せ、宗谷の一時居住地より対雁への移住を強行した。炭砿に送る計画は実行されなかったが、移住の結末ははさきに書いた通り悲惨なものでした。日露戦争後の明治39(1906)年までにほとんどが樺太に帰還したが、何人かはそのまま当地にとどまった方もいる。昭和6年8月に樺太旧土人先祖之碑を建立した津山仁蔵氏もその1人でした。同族・先祖の碑にあえて「旧土人」という言葉を刻んだ理由がとても気になった。◇建立年:昭和6年8月 ◇建立者:津山仁蔵 ◊所在地:江別市対雁115-80 江別市営墓地 ◇Gmap:マップコード

乗仏本願生彼国碑MAP

乗仏本願生彼国碑明治23年に対雁移民共催組合の関係者によって本願寺札幌別院対江布教所(現在の眞願寺)に建立されたが、眞願寺の移転で碑も移設、碑は更に現在地へと移設されたようです。対雁に強制移住させられた方々が住んでいたのは現・北海道電力の敷地内というが、明治19(1886)年から明治20(1887)年にかけ大流行した天然痘やコレラで多くの人が亡くなった。江別市真願寺の過去帳では明治19年に267人、明治20年に91人の物故者が記録され、これらが流行病の犠牲者と考えられているが、この当時は石狩町の来札に移住している人も多いので、対雁と八幡来札と合わせて明治19年と20年の死亡者合計は358名か?、明治12(1879)年のコレラ流行による死亡者30人を含めると388人となり、移住者の半分近くが亡くなる悲惨な出来事でした。亡くなられた方は石狩の八幡共同墓地や対雁の墓地に埋葬されたが、対雁埋葬地は霊園内の他に隣接する北海道電力用地に食い込んでいた。昭和36(1961)年から昭和37(1962)年にかけ北電江別新火力発電所工事で坊主山(現・北電変電所)を崩した時に大量の人骨が出土したがブルドーザーでそのまま埋め立てたという。昭和39(1964)年8月の道央地方を襲った大雨で「樺太旧土人先祖之碑」付近の表土が流され多量の人骨が出現したため、江別市は本格的に遺体を掘り起し供養する事にし、道教育委員会を通して関係者の同意を得、昭和40(1965)年8月21日から4日間、北海道大学医学部が発掘調査を行い、土葬遺体6体と副葬品がほぼ完全な形の遺骨(内、樺太アイヌ特有の副葬品を身につけた男1、女2の完全骨格体)と火葬された100体余の遺骨が出土、発掘された約40体の遺骨は北大医学部資料室に運ばれ、残りを墓に再埋葬し供養されたという。墓地では新しい墓碑建設をするとき骨片が玉や刀剣などの副葬品と共に出土する事が度々あり、墓守が樺太アイヌの骨であるという証言もあったようです。また市営墓地に隣接してある北海道電力の敷地にはまだ遺骨が埋ったままという話もある。国家による民族差別と偏見は死者も例外ではなかったと云う事になります。参考文献:樺太アイヌ史研究会編「対雁の碑」◇建立年:明治23年 ◇建立者:対雁移民共催組合関係者 ◊所在地:江別市対雁115-80 市営墓地やすらぎ苑 ◇Gmap:マップコード

本願寺街道跡碑

本願寺街道跡碑簾舞中学校校舎の入口手前にある案内板より「簾舞二星岱麓の南側および旧「山の上」(簾舞)と称したところに、札幌の黎明期僧侶たち一行が困苦欠乏に窮しながらも敢然と未開の大原始林に挑んで、一条の道筋を開削した「本願寺道路」(別名・有珠新道)の跡がある。安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家、松浦武四郎だった。明治時代、新政府にとって北海道の開拓は急務で、特に太平洋側と札幌本府を結ぶ道路は必要不可欠であった。同2年、東本願寺は「新道切開」「移民奨励」「教化普及」の目的により、政府に北海道開拓の官許を得て、翌3年若干19歳の法嗣現如(げんにょ)上人が中心となり新道の開削を始めた。特に札幌と函館を結ぶ重要道路として、工事に最も力を入れたのは、尾去別から札幌平岸まで道幅約3m全長26里の事業で山間渓谷難所続きも1年3ヶ月の突貫工事により4年10月に完成させた。それは、現在の国道230号線の原形となったもので当時の姿の一部を簾舞でしのぶことができる。また、明治5年1月開拓使は、この道を利用する旅人へ宿泊休憩などの便宜を図るために「通行屋」を開設、屋守の黒岩清五郎一家が、この地の最初の定住者となり、簾舞開拓の原点となった。この街道が後世、地域発展に大きく貢献した事は言うまでもない。往時を知る貴重な「史跡」である。平成8年10月10日 簾舞通行屋保存会」※碑は旧街道を少しはいった所にある。◇所在地:札幌市南区簾舞 ◇Gmap:マップコード

上砥山の地蔵尊

上砥山の地蔵尊札幌市街より国道230号を定山渓方向に向かい、途中の簾舞から右手に下って豊平川を渡った砥山地区の砥山神社を過ぎて奥の丁字路を右に曲がる「八剣山パークゴルフ場」の案内板が見え、その交差点付近の農地内に地蔵堂が並んでいる。左側の大きい地蔵尊が「延命地蔵」で元々は砥山発電所よりの放水路側近くにあったらしいが、小金湯に抜ける国道のバイパスとして整備された際に現在地に移動したという。右側のやや小さい地蔵尊は「宝性地蔵」で、それぞれの台座正面に名前が刻んである。この地蔵尊は旧簾舞発電所水路で水難した8人の慰霊のためこの土地の所有者が昭和39(1964)年に建立したものです。◇所在地:札幌市南区砥山 ◇Gmap:マップコード

開祖 美泉定山記念碑定山寺

美泉定山記念碑定山寺境内にあり、当時の檀家総代であった小須田多鶴代さんが、夫潤治氏の一周忌に因み昭和41(1966)年3月に建立された。碑正面「開祖 美泉定山記念碑」、右側面「曹洞宗大徳山定山寺創立誌/慶應二年アイヌの先導によって定山和上が此の地に来て温泉を発見した。當時は冬季間積雪のために札幌中央寺を宿とし専ら温泉湧出を祈請していた。その因縁によって大正五年七月中央寺住職三沢松堰師により曹洞宗説教所を創立され昭和二十一年十二月定山寺を寺号公稱を認可された。/なほ當寺に奉安せる 美泉定山和上の遺物は左の通りである/一、定山坊御本像 一、弘法大師尊像/一、法衣安陀衣 一、獅子頭/一、不動尊版木 一、眞筆の書翰/この遺品は始め中央寺に保管せるも大正十二年定山寺に移管してある」、左側面「美泉定山和上閲歴/定山坊は備前國赤坂村周匝村に生れ常山と稱し大尺豊かな偉丈夫であった 安政年間渡道慶應二年(一八六六年)朝里町張碓での十年間の生活から無人の境地定山渓に移住明治四年七月岩村通俊判官は常山に湯守を命じ名を定山と改めこの渓谷を定山渓と名付けた。明治十一年十二月三十一日歿するまでただ一すじに身も心も投げうった其の功績 實に絶大なものである」、背面「昭和四十一年三月三十一日 開基 小須田潤治一周忌に因み 小須田多鶴代建之」と刻まれています。小須田氏は章月グランドホテルの創業者でした。◇建立年:昭和41年3月 ◇建立者:小須田多鶴代 ◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目 ◇Gmap:マップコード

温泉開祖 美泉定山碑定山寺

美泉定山碑定山渓温泉で国道から小道を少し入った所に定山寺があり、境内の一角に「温泉開祖 美泉定山」碑がある。再建されたと思われるコンクリート製台座に置かれた自然石でできた碑面に「温泉開祖 美泉定山」と刻まれ、その左側に「〇海農人〇〇」と小さく刻み左側面に「定山ハ作州ノ人夙ニ北渡シ安政以後蝦夷地ヲ徘徊シ遂ニ此地ニ入リ無人ノ境ニ浴場ヲ開ク明治九年十二月三十日歿ス」と刻まれている。建立年や建立者は確認できなかった。美泉定山は40歳の頃(嘉永6年)松前に渡ったようですが、松前での滞在は短期間で、安政3(1856)年に太田山神社で美泉定山に出会った幕末の探検家・松浦武四郎の記録によると、当時は宗儉と名乗り泊村の観音寺を再建した後に当地にきて3年、崖下に拝殿をつくり住まいしていた。また拝殿の前後に山道を開削されていたようで、武四郎は新道開削の見立てとして詳しい道筋を聞いている。文久(1861)元年には小樽の張碓に腰を据え、不動尊(三社神社の定山不動)を祀っていたというので太田山にいたのは6~7年前後か?。張碓以後については定山像の碑文にあるので省略する。◇建立年:不詳 ◇建立者:不詳 ◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目 ◇Gmap:マップコード

定山坊遺物奉安所定山寺

定山坊遺物奉安所定山寺に隣接する美泉定山にまつわる貴重な品を収蔵・展示する宝物殿で「美泉定山和尚木像」をはじめ貴重な品を観覧できるという。主な所蔵物として・美泉定山和尚木像・守本尊弘法大師尊像(自作)・大田山大権現不動尊版木(自作)・獅子頭・法衣、安陀衣(定山坊着用)・定山坊真筆の書翰などがあるというが全てが見られると云う事ではなさそうです。◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目 ◇Gmap:マップコード

美泉定山像定山渓ホテル前

美泉定山像副碑の碑文より「修験者・定山の業績/修験者・美泉定山は定山渓温泉開発の祖である。定山は岡山県の生まれ。慶応2年頃、豊平川上流に温泉が湧出していく(※るの間違い?)のを聞き、小樽の張碓からアイヌの若者を先導に山越えして、この地に至った。定山この近くを「一の湯元」と定め、「二の湯元」三の湯元」(現在の定山渓ホテルの浴場)をひらき、背後に宿泊所を建てて、病む人々を泊め、祈祷と湯治による治療による治療に尽くした。明治4年7月、開拓使より湯守をおおせつけられ、一心に衆生を救おうと努めたが、明治7年7月、湯守をやめてからは窮乏の一途をたどり、温泉経営を妻キンや雇人佐藤伊勢造らにまかせ、獅子頭を抱えて札幌、石狩、小樽などを托鉢して回った。定山が巡錫先の小樽で亡くなったのは明治10年11年4日。遺体は小樽・正法寺に葬られたものの、その死は定山渓へは伝わらず、長い間、山中へ入り方向不明と流布されてきた。定山逝きて百十年、定山渓温泉繁栄の礎を築いた偉業を讃えて、ここに像を建立する。」※この定山像は定山没後110年にちなみ建立された。◇建立年:昭和61年11月 ◇建立者:定山渓ホテル ◇所在地:定山渓温泉西4丁目 ◇Gmap:マップコード

美泉定山像定山源泉公園

美泉定山座像説明板より「美泉定山は文化2()年、備前国(岡山県)で生誕、17歳の頃より全国の霊山霊地を行脚の後、蝦夷地(北海道)へ渡り慶応2年アイヌ民族の案内でこの温泉に辿り着き、病に悩む人々を祈祷と湯時で救おうと努力しました。定山の心情は今に尚この温泉に脈打っています。ぜひ霊験改かな定山渓の湯の効用を直に肌で感じてみて下さい。定山渓温泉」※定山渓温泉を見出しその開発に捧げた定山の生誕200年を記念して平成17(2005)年に竣工した定山源泉公園は、定山が温泉と出会った頃の森を再現したといい、東屋の下で座禅姿の美山が温泉滝に打たれている石像が置かれている。◇建立年:不詳 ◇建立者:不詳 ◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目 ◇Gmap:マップコード

中山久蔵翁頌徳記念碑

中山久蔵翁頌徳記念碑碑裏面の碑文は漢文で記載されていたようですが殆ど読めないので説明板より転載「中山久蔵(1829~1919)は今の大阪府南河内郡太子町春日に生まれた。26才の時仙台藩士に仕えた後本道永住を決意し島松に入地した。農業篤志家としての名声のほか、駅逓の経営にも尽力するなどその功績は大きい」とある。台座部分に発起人8名、賛助員114名とあるが、賛助員には団体も含まれるので、実に多くの人達に支持されで建立された碑だった。◇建立年:大正4年10月4日 ◇建立者:中山久蔵翁記念碑設立協賛会 ◇所在地:北広島市島松1−1 ◇Gmap:マップコード

寒地稲作 この地に 始まる

寒地稲作 この地に 始まる碑碑正面右側に「寒地稲作 この地に 始まる 北海道知事 町村金五書」左がには中山久蔵翁のレリーフがはめ込まれている。碑裏面の碑文より「ここは明治6年 大阪府出身 中山久蔵が最初に米作を試みたところとして永く記憶さるべき地である。当時道南地方を除いては北海道の稲作は危険視され、万全の開拓方策をたてることができなかったが、明治4年 単身卒先してこの地に入地し開墾に従事した久蔵は、あえてまずここに水田一反歩を開き、種子を亀田郡大野村から求めてこれを試み成功し、その安全性を証明したばかりだけでなく、その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた。ために付近の水田耕作熱はとみに高まり空知、上川の穀倉を拓く基を拓きついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである。昭和39年9月9日 北海道大学教授農学博士 高倉新一郎撰文 鈴木凌雲書」※石狩水田の祖と謳われ篤農家と云われる中山久蔵が、明治6年の稲作に成功した赤毛種の子孫に「ゆめぴりか」があるそうです。◇建立年:昭和39年9月9日 ◇建立者:不詳 ◇所在地:北広島市島松1−1 ◇Gmap:マップコード

クラーク記念碑

クラーク記念碑碑文より「明治10年4月16日札幌農学校教頭ウイリアムスミスクラークが島松駅逓所(中山久蔵宅)における学生および職員と決別した地を記念し昭和25年11月クラーク奨学会(発起人代表宮部金吾)により記念碑が建てられた。クラークは開拓使の招きにより明治9年6月東京へペンハロー、ホイラーの2教師とともに着任し7月札幌に赴任、同年9月札幌農学校教頭となり翌年4月までの8ヶ月間在任した。訣別にさいし青年よ大志を懐けの含蓄のある言葉を残したのは現在でも有名であり、塔央のクラーク像の下にはボーイズビーアンビシャスとその言葉が彫られている(村史要約)・以下クラーク年譜は省略」※中山久蔵翁の農場は札幌農学校の実習農場でもあったという。クラーク博士はこの農場で最後の講義をして去る事になるが、明治9年当時の島松駅逓所(北広島市の年表では明治13年から島松駅逓継替所)は島松川を挟んだ恵庭側だったので決別の場所は恵庭側という事になりそうだ。◇建立年:昭和25年11月 ◇建立者:クラーク奨学会 ◇所在地:北広島市島松1−1 ◇Gmap:マップコード

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