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ぐるっと檜山プチ旅2
せたな町大成区(旧大成町)・八雲町(旧熊石町)を巡る旅‼

北海道最古の灯台 常灯篭大成区

北海道最古の灯台 常灯篭太田神社拝殿近くの岩の上に灯篭のようなものがあります。これは安政4(1857)年に点灯されたという北海道最古の灯台を「久遠を知る会」が復元したものという。かつて此の出岬は「じょうとうの崎」と呼ばれていたというが、その由来が常灯篭ということで、神社へ奉納されたものであったという。同所に松浦武四郎と菅江真澄の歌碑が並んで立っています。◇撮影地:せたな町大成区大田 ◇Gmap:マップコード

円空歌碑

円空歌碑美濃国の僧、円空は寛文6年に太田山の巌窟で多くの仏像を作ったというが大正11年に火災で焼失、現在有る仏像は太成の杉材で円空の伝統を受け継ぐ丹生円刀会に依頼して制作したものという。歌碑は霊場太田山の洞窟で製作した仏像を奉納する際に詠んだものとかんがえられたのか「木にだにも 御形を移す ありがたや 法の御音は 谷のひびきか」とありますが、円空上人滞洞跡の石碑にも刻まれている。参道石段でさえ斜度40度と修行の場で有ったことがうかがわれます。◇撮影地:せたな町大成区大田 ◇Gmap:マップコード

相泊の地蔵堂

相泊の地蔵堂かつてあった大成町の観光資源サークルが設置した説明板より「旅の無事と海難事故で亡くなった人々の霊の供養のため安置されたといわれる。安政4年、江差の商人鈴鹿甚右衛門、土木請負者長坂庄兵衛は関内~太櫓間約12里の道路工事に着手。それ以前に太田山権現拝殿の前後約一里は山僧宗検の手によって開削された。道程の中間地点に通行者の無事を念じ、地蔵尊一体が安置されたのが、事の始まり。その後、霊場の参拝や商用で太田を訪れる人たちが、通行の安全を祈願し山道に次々と地蔵尊を安置した。明治26年相泊一体の鰊網元久保田利吉が海難事故で亡くなった人の供養の為、地蔵尊6体を安置した記録もある。このような経過で安置された地蔵の数は、大正3年には33体におよんだという。昭和15年から太田奥地の開墾が始まり、この地に通ずる道路沿いにこの地蔵尊のうち何体かが移された。昭和38年現在の海岸道路の一部完成時に若本惣之助さん(富磯)等の努力により、現在地付近に地蔵堂を設け17体が集められ安置された。しかし、その後、数度にわたる暴風波浪があり、海中に流されることもしばしばあった。その都度富磯地区の人々のてによって拾い上げられたが、海中に没し行方の分からないものもあり、現在は12体の地蔵様のみとなった。」隣に菅江真澄の歌碑がある。◇建立年:昭和38年 ◇建立者:若本惣之助 ◇所在地:せたな町大成区富磯 ◇Gmap:マップコード

奇岩ロード タヌキ岩MAP

奇岩ロード タヌキ岩長磯奇岩ロードの1番北側にある奇岩で海側で横間トンネル付近の立岩近くに小さな表示板が設置され、眺めもそこが1番よさそうです。タヌキがお腹を突き出した形に似ているとの事だが、云われるとなるほどとは思うが、タヌキが立っているというのは想定の範囲外で気がつかず、よほど注意してないと見逃すこともありそうです。少しスマートなタヌキという感じ。◇所在地:せたな町大成区長磯 ◇Gmap:マップコード

奇岩ロード マンモス岩MAP

奇岩ロード マンモス岩奇岩ロードには親子熊岩のように目立つ岩もあるが、看板に気付かなければ見過ごしてしまう岩も多い。大きさでは文句なしにマンモス岩、お腹の下が海食洞になっているので立体感は最高ですが、タヌキ岩側からでないとただの大岩としか見えません。時間、光線、天候など条件と走行方向によってはただの岩と化すのはどの岩もおなじという感じですが。◇所在地:せたな町大成区長磯 ◇Gmap:マップコード

奇岩ロード 親子熊岩MAP

奇岩ロード 親子熊岩奇岩ロードと云われる中でリアルさでは一つ抜けている親子熊岩、目までがそれらしくみえるが反対側からみても親子熊という珍しい岩。これは観光用かもしれないが「親子熊岩物語」説明板より転載。
「昔々、飢餓に苦しんだ親子熊が海岸に出てきて小熊にカニを食べさせていたところ、小熊が足を滑らし海へ転落。親熊はおぼれた小熊を助けるため手を伸ばしますが、親子共々海中へ。その一部始終を見ていた海の神様が、子を想う親の愛の深さに心を打たれ、おぼれる親子をすくい上げ、愛の姿そのままに岩に変身させました」とありました。◇所在地:せたな町大成区長磯 ◇Gmap:マップコード

奇岩ロード 三味線岩?MAP

奇岩ロード 三味線岩?名前がはっきりしないがネットでは三味線岩?となっていた。確かに遠くから見ると三味線の形にも似ていなくもないが、近くで見るとカバが大口を開けているようにもみえ迫力のある形をしています。ただ海岸に孤立している岩なので、夕景の撮影などには使えそうな印象、長磯トンネル近くにも似た形の岩がありました。登りでも下りでも目立つ岩です。◇所在地:せたな町大成区長磯 ◇Gmap:マップコード

奇岩ロード 夫婦岩MAP

奇岩ロード 夫婦岩長磯奇岩ロードでは南よりの夫婦岩は二つの岩が寄り添って立っているというだけですが目立ちます。釣の澗は横間トンネルより北側で集落との中間付近に海蝕洞の有った岬を道路工事で切り通しにして出来た窓岩で、道路側から海蝕洞を通して海が見えるという岩で奇岩というタイプではない。時間と光線具合に左右されるが夕日のスポットとしては面白いかも。◇所在地:せたな町大成区長磯 ◇Gmap:マップコード

魚族供養碑MAP

魚族供養碑碑文より「昭和43年5月20日大成町仏教会の発願により、さらには町内船主の御支援によって稲穂岬山側に魚族供養塔が建立されました。昭和62年9月1日の台風12号の被害により破損、久遠漁業組合の多大なるご援助により現在地に同年10月に再建立する。昭和62年10月吉日」とあり、それとは別に昭和43年建立時の発起人13名の氏名が刻まれている。同所に町道白浜線完成記念碑と菅江真澄歌碑がある。◇建立年:昭和43年5月20日 ◇建立者:大成町仏教会 ◇所在地:久遠郡せたな町大成区本陣 ◇Gmap:マップコード

円空上人滞洞跡八雲町・旧熊石町エリアMAP

円空上人滞洞跡瀬棚から江差方向に国道229号線を南下すると泊川町手前のカーブ過ぎに円空上人滞洞跡の看板があるが、行き過ぎないようにスピードダウンで。山側に円空上人の滞在した洞窟があるが、一部落石防止用のネットが張られている。石碑正面には「円空上人滞洞跡」とあり右側面に『木にだにも 御影を移す ありがたや 法の御音は谷のひびきか』とあり、説明版には「1665年松前に渡り、そこから西太田(大成町太田)まで作像して廻行した際に熊石まで来て、この洞窟に住み作像したと伝えられている。円空作の像は寝崎神社、泊川北山神社に祀られている。八雲町・熊石観光協会」とあった。熊石町内には3躯が安置されているという。駐車スペースあり。◇所在地:八雲町熊石黒岩町 ◇Gmap:マップコード

円空上人歌碑

円空上人歌碑円空上人滞洞跡のある小広場に建立され説明板もある。碑表に「円空上人滞洞跡」右側には「木にだにも御形を移すありがたや 法の御音は谷のひびきか 円空」とあり碑裏面には建立年と建立者が刻まれている。隣接する説明板には「円空上人滞洞跡/1665年松前に渡り、そこから西太田(大成町太田・現せたな町)まで作像して廻行した際に、熊石に来てこの洞窟に住み作像したと伝えられている。円空作の像は根崎神社、泊川北山神社に祀られている。八雲町 熊石観光協会」とあった。 ◇建立年:平成17年8月吉日 ◇建立者:円空上人滞洞跡保存会 ◇所在地:八雲町熊石黒岩町 ◇Gmap:マップコード

奇岩雲石MAP

奇岩雲石熊石市街で熊石漁港の西側、岸壁の際で雲のような形をした突き出た奇岩に鳥居と祠が建っている。「今から約450年前、この地方を支配していたアイヌの酋長タナケシが松前藩に対抗して攻めて来た。松前藩主であった義広は部下に命じてこれを討たせたが敗走してしまう。追い詰められた松前軍はかろうじてこの奇岩雲石の岩陰に身を隠した。この時黒雲が岩の間から湧きあがり、地鳴りと共に辺りが真っ暗になった。アイヌの軍勢はこの奇怪な現象に恐れをなして逃げ去り、松前軍は九死に一生を得た」という伝説がある。岩の上に乗っかっているのが1615年建立の「八雲神社」という。伝説の岩もテトラポットに囲まれて地に落ちてしまったが、撮影対象としては魅力的かもしれない。看板はあるが目立たない。◇所在地:八雲町熊石雲石町 ◇Gmap:マップコード

無量寺寛保津浪の碑・地蔵堂

無量寺寛保津浪の碑民家の間にある狭い参道を登っていくと無量寺手前に多数の地蔵を祭った地蔵堂がある。御堂の中にある説明文を転載「寛保元(1741)年大島が噴火し松前(福山)沿岸に押し寄せた津浪の被害は大きく、当熊石地方もその被害にもれず、無量寺の過去帳に記載されている檀中溺死海死者の数は百三十余名の多きにのぼっています。その他無縁の死者も数多く各地にその供養のために新しくお寺が建てられました。無量寺(阿弥陀堂)二世宿蓮社襟誉栄和上人了道和尚もその被害で亡くなられました。三世の等誉栄泉和尚が入山され過去帳を整理記帳し被害者の霊をなぐさめ冥福をお祈りするとともに、その祥月忌日である七月十九日を縁として延享三(1748)年に此の地蔵尊を建立されたのです。その当時は現在とちがって海底から溺死者を収容す特別な道具や技術もなく磯まわり用の銛(ヤス)で海底に沈んでいる死人の背中をついて引上げた。その形を残すために地蔵様の像背(背中)に同じ銛の形の穴を刻んであります。当時の人達は銛後が赤みをおびていることから『海からあげられた仏は今でも地を流している』と言い伝えたそうです」※御堂は背部からもガラス越しみられ、思わず背中に痛みが走るような悲惨な歴史を感じた。御堂は近世になって何度か改築されているようです。北海道指定文化財に指定されている。◇建立年:延享3年7月19日 ◇建立者:無量寺三世 等誉栄泉和尚 ◇所在地:八雲町熊石相沼町129 無量寺 ◇Gmap:マップコード

木造地蔵菩薩立像

木造地蔵菩薩立像木喰行道は円空より100年程おそく今の山梨県に生まれ、円空と同じように全国を行脚し木彫仏を残した。安永7(1778)年、61歳で蝦夷地(北海道)に渡り、円空仏に影響されて熊石で作像活動を始め、2年間に20余体を残し、道内で30体近く確認されています。法蔵寺の木喰彫地蔵菩薩像は蓮台とも高さ206㎝、幅50㎝で北海道の木喰像としては最大のもので、背墨銘に安永九年四月二四日と像の作成年月日が記されているという。また像は檜材で制作されており初期の木喰像の中の傑作と言われている。行道作の木彫仏には木材寄進者などの名も記されているが、南部や津軽の出稼人杣夫たちという。木造地蔵菩薩立像は北海道指定有形文化財に指定されています。◇制作年:安永9年4月24日 ◇制作者:木喰行道 ◇所在地:八雲町熊石根崎町394 法蔵寺 ◇Gmap:マップコード

山海漁猟供養塔

山海漁猟供養塔熊石町根崎の法蔵寺の門をくぐると左手に山海漁猟供養塔が安置されている。道指定の文化財で安山岩の碑は高さ115cm、幅34.3cm、奥行き19.5cmで、中央に「山海漁猟群萌下種結縁為菩提也」右下に「願主松前」左下に「熊石村中」と刻字され、右側面に「享保六辛丑年」が読みとれ左は「五月廿三日」となっています。法蔵寺は浄土宗の寺院で古くは勢至堂と呼ばれていました。元禄3(690)年3月24日初代住職の真雄大和尚が勢至菩薩を持ってきて草庵を結んだのが始まりで熊石庵と称した。享保5年4月熊石村にきて無住の勢至堂(現・法蔵寺)に在住して布教していた念仏行者・法順和尚が村民の懇願により勢至堂二代目住職となっている。鰊漁に生活を託していた当時の村人の生活とホッケという魚名の由来となった法順和尚の伝説が残されている。待望の鰊が戻った享保6年に「獲物の鳥獣魚介に感謝謝罪の意を込め、これら群萌も仏が下された成仏の種を得て解脱するように、との願いを表明して」住職が指導し、報恩感謝の意を込め村民一丸となって供養塔を建て法要をした伝えられている。この種の供養塔としては最古のもので、生活文化を知るための得難い遺産として、昭和60年3月30日に北海道有形文化財に指定されています。◇建立年:享保6年5月23日 ◇建立者:熊石村中 ◊所在地:八雲町熊石根崎町389 法蔵寺 ◇Gmap:マップコード

門昌庵の山門と門昌庵事件

門昌庵の山門菅江真澄が今から約230年前に門昌庵を訪れ実山上人に聞いた話を記した「えみしのさえき」現代語訳より引用「福山の法幢寺の六世にあたる柏岩峰樹和尚は、世に知られた出家ではあったが、女色のこころがあると、人の讒言によって山越の罪をうけ、遠くこの浦に流されたがその方が建てられた庵である。ここで仏道修行をしておられたが、ますます讒言が重なってなお罪重くされ、いよいよ切られるということになり、その討手がむかってきた。峰樹はもってのほかとりしぶ(※般若心経)をとり、さかぐりにくってうたれなさった。その首を福山でさらし首にしようと持って行く途中、道が遠いので江差の寺に一夜とまった。ところがその首をおいた一間から火がでて、この寺はすっかり焼けおちた。その後、このような怨念によるたたりがしばしばあらわれたが、そちこちの方のお祈りのおかげでいまはまったくなくなった」とあり、経文を逆さに読み上げるのは人を呪う呪術といい、お家騒動ともいえる一連の変死事件を門昌の呪いとする事で、幕府に知られないように真相を隠そうとしたのかも。後に矩広は釈迦涅槃図を描いて門昌の菩提を弔い、和尚の号を取って門昌庵と名づけ以降松前藩は供養を続けたという。赤い色が鮮やかな門昌庵の山門はおよそ400年前に豊臣秀吉から松前藩主5代慶広へ下賜された桃山別殿の裏門で、後に14代藩主章広が寄進。建物は明治18(1885)年に改築されてるが、金具や扉は当時のものが使用されている。◇所在地:二海郡八雲町熊石畳岩町553 ◇Gmap:マップコード

人住内堂

人住内堂厚沢部町史に「永仁年間(1292~1298)日持は人住内(ひとすまない)に経石をきざみ道場をたてた」とあるそうですが、日本の法華経を海外に布教したという日持上人がこの辺に道場を開いたのだろうか?、小さな御堂が人住内川の近くにあります。毎晩のように人住内川で「南無妙法蓮華経」と唱える石があり、およそ5~6百貫もあると思われる石を上げてもらったが、5~6百貫もあると思われたわりには軽く上がった。石は人住内川近くの野原に安置され、この石は七面様に違いないと言う事になり祀られていた。「南無七面」と石に書いたのは日持上人の弟子の一人でこの海岸一帯に来た時に書いたものだと云われている。時代は変わって御堂が建てられ江差の繁次郎が堂守をしていたと云い、かつては江差法華寺の布教所であったというが泊川に移り光明寺となっている。さて七面様と呼ばれた石は今も人住内にあるのか・・・。◇所在地:八雲町熊石見日町 ◇Gmap:マップコード

太成~熊石~乙部ミニギャラリー

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