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ぐるっと檜山プチ旅5
道南 江差町の観光と史跡を巡る旅‼

江差町会所跡現・会所会館 江差町

江差町会所跡弘化2(1845)年の建築で平成13(2001)年復元(旧町会所の建材も用い、木造平屋建地下1階)される。平成5(1993)年11月に新庁舎に移転するまで約150年間は江差町役場として用いられた。中歌地区のインフォメーションセンターで町会所の歴史を展示。建物横は国道の交わる地で昭和3(1928)年に道路元標が立てられている。入場無料・4~10月の9:00~16:00◇所在地:江差町字中歌町

江差町道路元標町会所前

江差町道路元標道路法は大正8年法律第58号で制定され、その後昭和27年の政令477号「一級国道の路線を指定する制令」により、江差町を起終点とする国道の元標としてて設置されている。政令の廃止に伴い昭和40年の「一般国道の路線を指定する政令」に受け継がれた。江差を起点とする国道は276号(江差~苫小牧)と国道277号(旧江差街道)、江差を終点とする国道277号(江差~八雲)と国道228号(函館~松前~江差)、国道229号(小樽~江差)となっている。旧役場を歴史を生かすまちづくり事業で町会所として整備されたのを機会に元標を中心にプレートをもって表現整備している。◇設置年:昭和3年 ◇再設置者:江差町 ◇所在地:江差町中歌町 町会所前 ◇Gmap:マップコード

沖の口役所跡

沖の口役所跡松前藩は藩財政を支える施策の一つとして船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。江差町設置の高札(説明板)を転載「沖の口役所跡/寛永7(1630)年松前藩が出入商船の検査・課税・旅人の出入管理のため函館・福山の良港とともに設置したもので藩支配の重要な施策に(の?)一つをなし、当初は沖ノ口番所と呼称されたものである。石積みの一部が今日にその名残を伝えている。」沖之口役所と改められたのは文政4(1821)年で、北前船によって本土から運ばれてきた荷物や、本土から津軽海峡を渡ってやって来た人々は、ここで厳しく改められ、また税を徴収された、現在の税関のような役割をになった。◇所在地:北海道檜山郡江差町字津花町 ◇Gmap:マップコード

あられ庵の芭蕉句

能登屋会所跡能登屋屋敷跡(あられ庵)に新旧の芭蕉句がある。碑には「い可(か)免(め)しき 音やあら連(れ)の桧木笠 者(は)世(せ)を(芭蕉)」と刻まれた句は、松尾芭蕉が「野ざらし紀行」で岐阜県大垣より三重県桑名の多度大社に向かう途中に詠んだ句が刻まれているが、旧句碑の文字は完全に消えている。芭蕉の弟子「太呂」が江差に来遊、「霰庵」という俳句結社を作り町医者「本田快庵」屋敷内に庵を結んだ。芭蕉の120年忌にあたる文化11年10月12日に、快庵の屋敷内に芭蕉の句碑を建立した。その2年後に能登屋6代目・平井三右衛門が、句碑と共に快庵の屋敷を購入したが明治5年に火災で焼失するまで江差の俳諧文化の拠点だったという。句碑は昭和6年に鴎島へ移転したが、建立200を迎え能登屋屋敷跡に里帰りした。また火災と風化によって剥離が進み修復不可能な事から句碑が再建された。この坂道は能登屋坂と呼ばれ、豪商で問屋だったことから能登屋会所とも呼ばれたと云い、路上に描かれた「能登屋の坂」入口の目印。明治期は火災で焼失するまで豪邸を活用した一流の旅籠屋で土方歳三や榎本武揚が仮宿したという。◇建立年:文化11年10月12日 ◇再建年:平成24年10月12日 ◇所在地:江差町字姥神町 ◇Gmap:マップコード

姥神大神宮

姥神大神宮創立年代は不詳というが言い伝えでは姥神大神宮は文安4(1447)年、折居姥の草創とされ鰊と縁が深い神社、北海道最古を標榜するが神社としては3番目?古いことだけは確かだ。津花町より正保元(1644)年に現在地に移転している。神社の起源がアイヌ時代の伝承が基になっているという説もある。◇所在地:江差町字姥神町99−1

江差追分会館・江差山車会館

江差追分会館江差追分節の源流は江戸時代の頃から信州中山道で唄われていた馬子唄で、江差では座頭佐之市がケンリョウ節と追分を融合させ江差追分を誕生させたということで、鴎島にも江差追分記念碑が建立されている。山車会館では13台の山車(ヤマ)の中から2台を1年交代で常設展示しています。◇所在地:江差町中歌町 ◇Gmap:マップコード

江差追分記念碑

江差追分記念碑信州中山道で唄われていた馬子唄が元になり、江差では座頭佐之市がケンリョウ節と追分を融合させ江差追分を誕生させたということでした。江差追分記念碑はかもめ島と江差追分会館にあるが、写真はかもめ島にある記念碑で江差追分会有志によって昭和7年に建立されたもの。この頃から江差追分が全国に広まってきたと言われている。◇建立年:昭和7年 ◇建立者:江差追分会有志 ◇所在地:江差町字鴎島 ◇Gmap:マップコード

開陽丸終焉之地

開陽丸終焉之地前面碑文より「旧幕府海軍旗艦開陽丸は、明治元(1868)年11月15日、この沖合200メートルに座礁した。この開陽丸はオランダに発注した、当時最強最新鋭、近代日本海軍の創出に連なる軍艦であった。日本に回航された慶応3(1867)年は幕府苦悩の時であり、明治維新の胎動ともいうべき戌辰戦争に巻き込まれていくことになった。すなわち、開陽丸は北海道に新天地を求める榎本武揚ら、徳川家臣団によって函館戦争の参戦、松前藩経済の中心地江差に投錨した。しかし、不幸にして、暴風雨に遭遇、ついに、数日後、その英姿を海中に没したのであった。榎本にして「暗夜にともしびを失う如し」と嘆かせ、悲願を挫折させた開陽丸終焉の地はここ江差である。プレート文より「装備 大砲 26(うちクルップ砲 18 門)/乗組員 400名 排水量 2.590トン/規模 長さ 72.80 メートル 幅 13.04 メートル/船型 バーク型3本マスト 400 馬力補助エンジン付」※文字は彫りが浅くて判読が難しいです。◇建立年:昭和59年10月27日 ◇建立者:観光資源保護財団 ◇所在地:江差町中歌町 海陽丸最期の地記念公園 ◇Gmap:マップコード

開陽丸(レプリカ)資料館

開陽丸(レプリカ)江戸時代末期の幕府海軍の主要艦、開陽丸が展示されている。開陽丸は慶応2年、オランダで建造され、翌年3月留学中の榎本武揚らが同乗して横浜に回航した。3本マストの機帆走木造軍艦で、全長73m、標準装備大砲26門、乗組員350~500人。当時における最新鋭の軍艦といわれる。日本に回航された慶応3(1867)年は幕府終焉と明治維新の胎動ともいうべき戌辰戦争が勃発。翌年の10月、新天地を求めた榎本武揚ら徳川家臣団が函館戦争に参戦、開陽丸を旗艦として蝦夷地鷲ノ木沖に到着その後、箱館に入港した。同年11月、江差に停泊したが暴風雨に遭遇し荒天のため座礁、沈没。昭和50(1975)年から「開陽丸」の遺物引揚げ作業を開始し、収容した遺物は3万5千点以上という、世界でも数少ない海底遺稿という。平成2(1990)年に実物大で復元された「開陽丸」内にて展示している。 参考サイトWEB開陽丸 ◇所在地:江差町姥神町 ◇Gmap:マップコード

瓶子岩(へいしいわ)

瓶子岩江差の人々にニシン漁を教えた折居婆、昔の話、ニシンが不漁続きで飢餓に至った時、折居婆が神水を海に注いだらニシンが群来、その神水を入れていた瓶子が瓶子岩になった。またかもめ島で翁から渡された小さな瓶を海に投げたのが石と化して海上に現われ瓶子岩になった。折居婆が身を清めた白い水を詰めた小瓶を海に投げたのが石となって海上に現れ瓶子岩になったなどいろいろな説話があるようで、姥神大神宮とは別に折居婆を祀った折居社がある。毎年7月の第1土日に伝説の瓶子岩で全長30mの〆縄が町内の若者たちによって掛け替えられる◇所在地:江差町かもめ島

瓊江丸記念碑正覚院

瓊江丸記念碑佐渡国出身の海運業者であった松沢伊八(1835~1893)が、明治維新後に設立した北海汽船会社の社長に就任、当時は北海道でも大手の船会社でした。同社保有の瓊江丸(124トン)が明治24年7月7月11日、岩内、歌棄、磯谷、寿都の4港から乗客321人、乗員11人を乗せて航行中、白神岬沖合で、三吉丸と衝突沈没し、253人、乗組員8人が溺死したという大型海難事故が発生。同16日には北海汽船株式会社が施主となって松沢伊八の菩提寺小覚院において合同追弔施行、明治27年供養碑を松ノ岱に建立、昭和43年に正覚院本堂前境内に移設された。伊八は私財を擲って擲った犠牲者への保証に努めまたというが海難事故の2年後に死去、同時に会社も解散となったようです。碑は江差町指定文化財に指定されている。◇建立年:明治27年◇建立者:松沢伊八◇所在地:檜山郡江差町本町271

正覚院寛保津波の碑正覚院

正覚院寛保津波の碑松の岱公園入り口近くにある正覚院は開山は今から約380年前、寛永8(1631)年に松前町江良より移り、初め頭陀山正覚庵と称していたが、元禄2(1689)年に伽藍を建立し、翌元禄3(1690)年に嶽浄山正覚院と公称、その後二度の火災に遭い明治27(1894)年に現在の堂宇が再建されたという。本堂に向かって左側に高札があり、手前右横に「淪没孤□両縁塔」と刻まれた碑がある。法華寺の高札と重複部分もあるがそのまま掲載する。「道指定有形文化財(平成4年3月31日)/正覚院 寛保津波の碑/寛保元(1741)年7月16日に渡島大島が噴火、19日に渡島半島西海岸を津波が襲い、1400人以上が犠牲となった。この碑は、津波で犠牲になった方々を供養するため、寛保元(1741)年に江差の僧侶たちによって建てられた。もともとはかつての正覚院のあった現在の江差小学校の場所にあった・法華寺にも同様の供養碑が遺されている。平成25年 江差町教育委員会」※江差の4寺院の各派は合同供養を実施、正覚院と碇町岬の2カ所に供養塔を建立したのだった。供養費ではなく供養塔となっていのが疑問だったが、菅江真澄の「えみしのさえき」に乙部の津鼻(乙部町元町付近)で50年前に寛保津浪を体験し、津波でなくなった父親の墓を建てる老婆の話「50年前の亡きあと(父親)をとぶらうため、このような石の卒塔婆を建てたのだ」とあり何となく納得したのだった。◇建立年:寛保元年8月 ◇建立者:詳細不詳 ◊所在地:檜山郡江差町本町271 ◇Gmap:マップコード

寛保津波の碑成翁山法華寺

寛保津波の碑本町の高台にある法華寺は約480年前に上ノ国で創立され、寛文5(1665)年に現在地に移転し享保6(1721)年に本堂を建立したという。案内板(観光ガイド成翁山法華寺)があり、その中に「大島爆発淪没者供養塔と過去帳、246年前、寛保元年7月15日向かいの大島が爆発し、津浪が起きて死者1,467人の溺者の供養塔と当山関係過去帳がある」としるされていたが、30年以上前に書かれようで補正が必要。他にその他に樹齢400年を超える「欅」樹齢260年の「椿」が境内にありるという。寛保津波の碑は境内左手奥にあり江差町設置の高札がたっているが、碑文は記されていない。高札より「道指定有形文化財(平成4年3月31日)/法華寺 寛保津波の碑/寛保元(1741)年7月16日に渡島大島が噴火、19日に渡島半島西海岸を津波が襲い、1400人以上が犠牲となった。この碑は、津波で犠牲になった方々を供養するため、寛保元(1741)年に江差の僧侶たちによって建てられた。もともとは現在の陣屋町にあったが、鉄道敷設にともない移設された。正覚院にも同様の供養碑が遺されている。平成25年 江差町教育委員会」※以前に見たときは文字が消えかけて読めなかったが新しくなっていた。渡島大島は8月18日(新暦)に西山から噴火し、8月25日からは降灰のため江差では昼も暗くなる。8月29日に大津波が発生したが、津波の原因は噴火による大規模な山体崩壊によるという説と、低周波地震によるものとの説があるようです。※内部見学の際は要事前問合せ◇建立年:寛保元年8月 ◇建立者:詳細不詳 ◊所在地:檜山郡江差町本町71 ◇Gmap:マップコード

旧檜山奉行所正門成翁山法華寺

旧檜山奉行所正門江差町が設置した高札より転載「町指定有形文化財(昭和46年12月5日指定)/檜山奉行所の正門/延宝6(1678)年、松前藩は上ノ国から厚沢部にいたるヒバ(ヒノキアスナロ)林の伐採を管理するため、江差に檜山奉行所を置いた。江差ではヒバをヒノキといい、檜山郡という地名の由来にもなった。この門は、檜山奉行所の正門として、現在の檜山爾志郡役所がある場所に建っていたが、明治15(1882)年に法華寺に移された。平成25年 江差町教育委員会」※延宝6(1678)年の建造というので340年以上前に建てられた事になり北海道最古の建造物の一つですが、明治2(1869)年の箱館戦争では、敗残の旧幕軍兵20余名の生首をこの門にて晒したという血なまぐさい話もある。◇所在地:所在地:江差町字本町71

江差の繁次郎像MAP

江差の繁次郎像江戸時代の江差に実在していたと伝えられるが詳細がわからない。とんちと笑いを振りまいた庶民のヒーローが此の人物。碑文に「笑え 笑え へば ええごとある」と。江差町泊町で一杯飲み屋を営む父の後を継いだが商売にはむかず、ニシン場の下船頭になったとも、熊石浜中の寺男になった(現・人住内七面堂のことか?)とも。その像が、現在、会の会長尾山在住工藤正道氏のコンクリト製のユニークな像として、国道227号線沿いに立てられ、日本海をバックにひょうきんな表情で道行くひとの笑顔を誘っている。◇設置年:昭和31年5月 ◇設置者:笑いと福祉の里づくり研究会 ◇所在地:江差町田沢町 道の駅 繁次郎浜駐車帯内 ◇Gmap:マップコード

巴まさり顕彰之碑

巴まさり顕彰之碑碑下部刻文より「われらの祖先この地に米作を志してより北辺の風雪に耐えかって明治40年井越早生をうみ今日まで百有余年米作一筋にいそしむ。昭和45年良質米奨励制度の発足を契機として巴まさりの栽培と消費普及に農民の衆智と意欲を集め昭和49年北海道に一つの銘柄米を生む。北海道の米作を位置づけた生産意欲の表徴としてここに巴まさりを顕彰し後生に伝える。」碑裏面より「銘柄米巴まさりは北海道農業試験場渡島支場で育成し、昭和26年道南地域の優良品種に指定されて以来20有余年、江差を中心に定着した良質米である。米作の質的転換を見極め銘柄米巴まさりを生み出した地域の農業団体が浄財を集めて顕彰碑を建立した。昭和51年11月 江差町産米改良協会 竹浪翠堂書 紺俊組刻」とあるが、米作の開始年は不詳。◇建立年:昭和31年11月 ◇建立者:江差町産米改良協会 ◇所在地:江差町水堀町 水堀コミュニティセンター前 ◇Gmap:マップコード

追分ライン・松前街道ミニギャラリー

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