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オムサロ原生花園は紋別市街の北西約10キロ、渚滑川を挟んで砂丘地帯に約1キロにわたって続く海岸性原生植物の群落で昔からハマナスの群落地として知られる。園内には遊歩道がついており気軽に散策することができ小さなハス沼を中心にエゾスカシユリ、エゾカンゾウなど50種類ほどの草花が咲きます。ハス沼の際にオムサロ、ネイチャー、ビューハウスがあり原生花園の案内と地元でとれた特産品の直売や休憩コーナーがあり、2階はオホーツク海やオムサロ原生花園の展望室になっています。年末年始以外は開いていてフィッシャーマンにも人気がある。別名を流氷岬ともいい厳冬期は流氷が押し寄せ巨大な圧力で押され流氷山脈が出来る所として有名ですが最近は氷が少なくなったが流氷見物に訪れる人は多い。◆紋別市渚滑町川向 ネイチャーハウス 0158-23-4231
オムサロ原生花園と国道を挟んだ丘陵地帯に北海道指定史跡のオムサロ遺跡があり入口に目立つ看板あり。縄文時代早期から続縄文時代、オホーツク文化期、擦文文化期とそれに続くアイヌ時代とまで各時代のさまざまな遺物が発見され、現在も埋も先住民族の竪穴式住居跡が200ヶ所以上も残されている。遺蹟の一部が復元され擦文時代の村を再現した公園になっています。ここでも幻のオホーツク人は健在でした。◆問い合わせ先は紋別市立博物館 TEL: 0158-23-4236
コムケ湖は紋別市の南、国道238号線沿いにある周囲31㎞、湖は低層湿原で塩性湿地に囲まれ大きく3つの部分に分かれ最大の南側は沼上浜で海とつながっている水深の浅い潟湖。北西部は比較的自然が保たれていて海岸線にはオホーツク海岸特有の海浜植物、丘陵地帯にはガンコウラン、コケモモなどが咲くコムケ原生花園があります。夏の終わりに赤く色づいたサンゴ草群落をみることができるコムケ湖は、春のハクチョウ、夏はアオサギなど多くオジロワシなどの飛来地としても知られています。春秋の渡り期には草原性の野鳥が多く渚にはシギ類を良く見かけるバードウォッチングに最適な野鳥の宝庫。湖口付近はコムケ湖の眺望が割と開け花も有るが、鳥にしても花にしても時期をはずすと茫洋としたただの湿原と原野と化す。※コムケ原生花園は八十士沼とコムケ湖の中間付近付一帯帯の海岸に広がっていたが激しい海岸の浸食で失われて今はわずかに残っているだけの状態、花はハマナスが圧倒的に多い。
コムケ湖畔にある『コムケ国際キャンプ場』は全面平坦な芝生の快適なキャンプ場で、数多くのキャンパーが訪れる落ち着いた雰囲気のキャンプ場です。ツーリング派にも人気があり、長期滞在組も多いようだ。魅力は周囲の自然環境とコムケ湖に沈む夕陽、湖畔の原生花園の散策やバードウォッチング、オホーツク海での釣りなどファミリーで楽しめる環境が人気の秘密かもしれない。周囲が湿原というキャンプ場の泣き所は蚊が多いこと、防虫対策だけは忘れないようにしましよう。◆コムケ湖畔 現地管理棟 レストハウス TEL: 01582-8-2146
湧別町との境界にある湖で厳冬期にワカサギ釣に多くの方が訪れますが夏は閑散としていて穴場的な印象の所です。コムケ国際キャンプ場を越え旧紋別空港から湖まで道があります。シブノツナイ湖岸には遺跡や原生花園がありヒオウギアヤメの群落があり、他にもエゾカンゾウやハマナス、カワラナデシコなど海岸性植物が多い。コムケ湖と同様にハクチョウの中継地で野鳥も多くバードウォッチングや自然観察などでたのしめます。近くに古代北方民族の住んでいた竪穴式住居跡が残っています。湧別町側からの道もありますが遠回りになる。
オホーツク紋別自然水はオホーツク海側では珍しい水場で小高い公園にある。オホーツク海を望みながら湧水を飲める。水質検査上問題が無いので安心して飲むことが出来る。ポリタン族が多いので、時間帯によっては少し待つ場合も。早朝なら混み合う事もない。紋別市内から湧別町方面へ紋別空港を経て小向に入ると水場の看板あり。平成24年に再訪時は使用禁止となっていたが理由はなにも書かれていず不明。◆紋別市小向
場所請負の経過は斜里で書いてあるので省略するが、場所経営は徹底した植民地経営方式だったようで、1857(安政4)年10月に箱館奉行所が「最もアイヌ使役の烈しい場所」として、石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書をだしている、オホーツク海側と離島はアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域でした。場所請負制廃止で当時の請負人山田善吉から場所返納されたが、オホーツクでの漁が不振な事と交通不便な所で場所経営が困難なため、漁場持を引き受ける者はいなかったという。北見方面で場所請負人の力を借りずに蝦夷地開発を推し進める事が困難と考えた開拓使は又十藤野伊兵衛に頼み込んで漁場持になってもらったようだ。明治5年に漁場持の又十藤野家が駅逓所を開設しているが廃駅は漁場持廃止の明治9年以降か?。◇所在地:紋別市弁天町
小向駅逓所は湧別と紋別の中間駅逓として利用され、竹内文吉が小向駅逓所の取扱人となる。逓所の実質的な期間は明治33年~大正10年、鉄道開通で廃止された様だ。同時に竹内文吉は明治36年に湧別村基線20番地に入植、農業と開拓の先駆者でも有り、廃校となった弘道小学校の側に竹内翁の「彰徳碑」が建っている。顕彰碑に駅逓に関する文言はない。廃校になった旧弘道小学校(校舎は現存)の創立者も竹内文吉翁であった。駅逓などの詳細は「駅逓跡を巡る旅」でどうぞ。◇現住所:紋別市弘道 旧弘道小学校横
かつて開拓使により北海道開拓のため重要な道路に駅逓所が設置され、上藻別にも鴻之舞金山の開発に伴って駅逓が設置されました。紋別市には復元された旧上藻別駅逓所が紋別市中心街から南約23kmの上藻別にある。旧上藻別駅逓所は大正15年に官設駅逓所として開駅、昭和15年に廃駅となり昭和24年まで旅館として営業。その後上藻別駅逓保存会の手により修復され、現在は開拓資料や鴻之舞鉱山資料などを展示公開。鴻之舞鉱山坑道で使用された機動トロッコなども屋外展示、展示物に関しては他の駅逓施設とは比較にならないほど充実している。これとは別に駅逓を模して作られた住宅が上渚滑町上和訓辺にあった。駅逓関連としては貴重な建築物かもしれない。
◇所在地:紋別市上藻別 TEL:0158-26-5110
かつては東洋一と云われ人口1万人を越えた鴻之舞鉱山。1916年に金鉱が発見され翌年から操業、1973年閉山まで実質操業期間は56年間。その間の総生産量は金72.6トン、銀1.234トンと単独の鉱山産出量としては日本最大。その鉱山も閉山してゴーストタウン化、今では大部分が自然に戻っているが、近代産業遺構としては最大規模を誇る。故宮川泰氏の代表曲「銀色の道」は、鴻之舞鉱山にあった鴻紋軌道の線路跡を思い出して作られたという話が残っています。上藻別駅逓所から道道305号線を丸瀬布方面に向かう途中に、同鉱山閉山30周年を記念して建立された「銀色の道」歌碑や、鴻之舞鉱山跡の碑がある。鴻之舞鉱山で使用されていた鴻紋軌道は上藻別駅逓にその一部が敷設されている。また鉱山の遺構ツアーガイドも上藻別駅逓保存会で行っている。
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