☆更新情報など☆
トップメニュー、レイアウトの一部変更。
『現在、全世界にいる魚は、全部網走の能取湖から発生したものであると伝えられている。それほど魚族が多くここに生息し繁殖した湖で、そのために湖の水が海に出る口が、それらの魚のためにふさがり、昔は六、七年も開くことがなかったという。それから段々魚をとる人間が多くなったため、三年くらいで開くようになり、現在では開けっ放しになってしまった』菊池儀之助エカシ伝・更科源蔵遍・アイヌ伝説集より。
『昔ノトロ湖の口は六年に一度しか開かなかった。その頃この湖の中にはあらゆる種類の名の有る魚が住んでいて、十分に繁殖し、六年に一度づつ湖の口が開くのを待って、全世界へ散らばって行った。然るに、時代が流れて、湖の口が開くのが三年に一度となり、二年に一度となり、魚たちもまだ十分に殖えきらぬうちに湖を出て行くようになった。今では湖口が開きっぱなしになっているので、魚たちは殆ど居着かなくなってしまった』菊池儀之助エカシ伝・網走郡内アイヌ語地名解 ※更科源蔵編・アイヌ伝説にも収録されているが微妙に内容が異なる。
『大岸壁に1つの大岩洞あり。其入口は七八尺にして奥に至りて広く、昔オンネナイの土人に猟犬を追い入れて見しに、其猟犬帰らざりしによって、自分も入り、共に終に帰らざりしとて、今に一人として其奥極めしものなし、よって号るとかや』松浦武四郎・戊午日誌※アノマホルは我ら恐れて近寄らぬ洞窟の意味・網走郡内アイヌ語地名解。能取岬の能取湖側に現存する岩洞。
北見の神は上川の伝説ではあるが舞台が網走地方になのでここ掲載した。『ある年の正月季節はずれの大雨が降り続いて、雷鳴も空も裂けるかと思われるほど天地に響きわたる中を、網走川に張りつめた氷が裂けて流れる氷の上に、鎧に包まれた一人の男の子供が乗ったまま流れて行く、途中の人が助け上げて育てたところ、その子供は常の人よりも成長が早く、たちまちに一人前の大人になり妻を娶り、その間に六人の女の子をもうけた。子供たちが相当の年齢に達した或る日、父親は悲しそうな顔をして子供たちを集めて言うには「私は実は神様で、この国の人間が少ないためにそれを殖やす命令をうけて天から下った天降った。幸いお前達と健康で成長したから、これで私の役目が終わり、天に帰らなければならない。お前達はこれから各地に行って私が命じられた様に、人を殖やす事を心がけてくれ、この宝物は私の形見として渡すから、大切にいつまでも子孫に残し伝えるように」といって忽然と姿を消したと思うと、同時に耳も裂ける様な大きな音がして天に帰っていった。その後娘達はそれぞれのコタンに分かれて行って、父神の言う通りにしたが、その子孫の一人であるお爺さんが、二人の息子を連れて船で海岸を進んでいる途中で、海の神の鯱が泳いでくる姿を見ると、突然立ち上がった兄が「我々は天の神の子孫だから、海の神にもならなくてはいけない、私はこれから海に入って神様の子孫が、海で仕事をしても無事に働けるようにします」といって、シウリの櫂を持って鯱の群れの中に飛び込み、鯱と一緒に波をくぐったり現れたりするうちにシウリの櫂が刀に変わった。兄息子を海の神にしたお爺さんと弟は石狩川上流に永住の地を求め、近文コタンを形成した。この一族を持っていた神様から授かった宝物は、不思議な力を持っていて、山火などが迫って来るときに宝物を持ち出して祈ると、天が急に曇って雷鳴が轟き、同時に猛雨が降りそそいでたちまちに火を消してしまうという。後にこの宝物は悪者に盗まれたが、とった者は発狂し家と共に焼け死に、宝物も無くなってしまった。河野広道・蝦夷往来・更科源蔵編・アイヌ伝説集より。
『網走駅の川向の川岸に、昔岩穴があった。同じ岩穴が海岸のピットカリとタンネシラリとの間にもあって、この岩穴はお互いに通じ合っていたと言い伝えられている。大昔、この海岸のピシュイ海岸の岩穴にフーリというという巨鳥が住んでいて、附近にある二ツ岩の上に翼を休めていては、下を通る獲物を狙っているのを見かける事があった。或るときのこと、この下を子供が背負うた女が、タンネシラリの方へ行くために通ったところ、突然フーリが現れて、アッというまに親子諸共さらわれてしまった。可愛い子供と妻をさらわれた父親は、コタンの男五人と一緒に、人をも食うといわれている、エペタムという宝剣を持って、フーリのかくれたビシュイの洞窟に入っていったが、途中まで行くと穴が二つに分かれていたので、三人ずつに分かれて進んでいくうちに、一方の穴を進んだ人達は何者にも出会うことなく、網走川のペシュイに出てきたが、エペタムを持って別の穴に入っていった三人の方には、どんな惨劇が有ったか知らないが、遂に一人も戻って来るものは無かった。然しそれきりフーリの姿も二ツ岩に現れなくなった。それ以来、ペシュイの奥は地獄に通している穴だから、入ってはいけないと伝えられている。』※菊池儀之助エカシ伝・更科源蔵・北海道の伝説
『昔、ペシュイの洞窟にフーリと称する大怪鳥が住み、近くのコタンを襲っては人を取って食うので、コタンは大恐慌を呈した。その頃、網走のモヨロコタンにはピンネモソミ(細身の男剣)と云って、一抜きたちまち千人を斬るという名剣が有り、美幌のコタンには同じく一抜き千人のマツネモソミ(細身の女剣)があった。そこでモヨロから六人の勇士が選ばれて、このピンネモソミの名剣を持って、フーリの征伐に出かけた。彼らが、たまたま子を負う女がタンネシラリの漁場に行く途中、フーリがさらって洞窟に飛び込んだのを見て、それを追って洞窟の中に先に駆け込んだ三人は、フリーとともに帰らず、やや遅れて穴に飛び込んだ三人だけがペシュイの洞窟に出てきた。それから後、モヨロには宝剣が無くなったのだという。このフーリの片割れがもう一羽、たまたま穴を出て、パイラキの前方の海中にある二ツ岩の上で休んでいた。モヨロの人はこれも退治しようとして、美幌のコタンから名剣マツネモソミを借り出し、二ツ岩の押し寄せた。そして岸から芦の茎で橋を架けておし渡ろうとしたら芦の茎が折れて渡る事が出来ない。そこで岸から狙いを付けて名剣を投げつけると、名剣はたちまちフーリを食い殺してしまった(こういう刀をアイヌはイペタム原義は「人食・刀」の意である。それで「食い殺した」などという言い方をしたのである)。このマッネモソミは沖の岩で、誰も取りに行かぬままに、蛇になってぶら下がっていたが、いつのまにか姿を隠してしまった。それから後、美幌のコタンにも宝剣が無くなってしまったのだという』菊池儀之助エカシ伝・知里真志保・網走郡内アイヌ語地名解
『夷語アバシリなり。即、漏る所と云ふ事。扨アバとは漏る。シリとは地と申事にて、此所に窟ありて其口の滴く、雨漏のよふに垂れる故、此名ある由』※上原熊次郎蝦夷地名考并里程記。松浦武四郎も同じ事を書いているが、当時は鳥ノ事ヲ云伝ウ也としている。
『其の地名アバシリたる哉、是は当所役付アイヌ共の申伝えを記し置に、この島に昔よりハイカイカムイチカフといへる霊鳥有ハイカイは徘徊の儀にて、往たり来りする儀ハイカイ(パイカイカムイ=旅行する神=疱瘡神)という也。此鳥は神の使はしめによってカムイと云へる名有り。必ず此鳥来る時は其辺に流行病有りと。<-中略->此鳥昔、上(北)蝦夷地よりソウヤ、モンベツ等廻り来り、ユウベツまでも来る哉。ユウベツ、トウフツの土人多く流行病(痘瘡)にて死し、其よりトコロえ来る哉凡千人もトコロの土人死して、川すじも大に人家減じたりと、世上に評判を取りたる哉、此アバシリの沼の傍に居給ふ神ノトロの山まで行き「若し此処え来りて人を殺さば、我また蝦夷地中の土人を集めて其方と合戦せん」と罵り時、其神鳥是を聞て此処には滞留する事を得ずして山え飛入り、其れより沼まゝ此アバシリの沖に出沖の大岩の上に止まりてチバシリ、チバシリと鳴。其よりせんかた無シャリの方え行、ヲン子ナイより子モロの方え山越致し、チユウルイ、チュウルイと鳴て行しと云伝ふ也。其チハシリ訛りて今アハシリの名有りと云へり。以下省略』※松浦武四郎 戊午日誌 中巻
『クッチャロ 此処沼の口を云なり。己前は人家有りし由、今は無し。左の方に一ツの小山有、此片平崩岸に成りたり。高凡十丈其下に一ツの立岩有。是をチバシリと云土人崇尊して木幣を削りて奉り祭る。此石前に云アバシリの名の起りし処なりと。』※松浦武四郎 戊午日誌 中巻 ※西蝦夷日誌(蝦夷地紀行)ではこの岩を『一ツの白岩高三丈周十囲立り、是をチハシリといへり』と具体的。松浦武四郎はその岩のスケッチを残しているが、既に崩壊し僅かに跡形が残されるのみという。ただその跡と思われる場所は地名研究者により確認されている。
元名「チバシリ」(Chi pa shiri)
吾人発見シタル土地の義後チ「アイヌ」等ト改称スト云フ「アパシリ」は見付土地ノ義故ニ詞ハ小差アレドモ意義ハ同ジ現今ノ網走村ハ往時蒼海タリ故ニ網走沼ノ南岸ナル網走川ノ辺ヲ「レプンシリ」即チ海中ノ島ト称セリアイヌ蒼海ノ中ニ於テ島地ヲ発見シタレバ「チパシリ」ト名ケタリ近世ノアイヌハ沼中ニ在ル白石ヲ以テ「チパシリ」トシテ木幣ヲ捧テ之ヲ神崇シ此白石ハ崩壊シテ今ハナシ或ハ白石神自ヲ「チバシリ」ト連呼シテ舞踏シタリト云ヒ或ハ「チパシリ」及「チウルイ」ハ飛鳥其名ヲ呼ビシヲ以テ名クト云ヒ種々ノ小説アリテ一定ノ説ナシ
チバシリ 見付タル岩
「クッチャロ」ト「ヨビトー」ノ間ナル沿岸ニアリタル岩ノ名ナリ「アイヌ」ガ笠ヲ蒙リ立チタル如キ岩ナリシガ崩レテ今ハナシコノ岩神自ラ「チバシリ」ト云ヒテオドリシト云ウ「アバシリ」ノ元名ナリ
トンポニク 楢樹ノ陰
「アバシリ」古名ナリシガ神鳥ノ声「チパシリ」ニヨリテ「アバシリ」ト改シト云一説ニ此地ノ古名ハ「イナウサンゲ」ニシテ木幣ノ天降リシ所ナリシ云ヘトモ此ハ「チパシリ」岩ノ木幣ニヨリ後人ノ付説ナルベシ
アバシリ 我等ガ見付タル岩
昔シアバシリ沼ノ岸ニ白キ立岩アリ笠ヲ豪ブリテ立チタル「アイヌ」ノ如シ「アイヌ」等之ヲ発見シテ「チバシリ」ト名ケテ神崇シ木幣ヲ立ツ後テ「アバシリ」ト改称スト云フ比ノ白石崩壊シテ今ハ無シ名義国郡ノ部ニ詳ニス参照スベシ或云フ比ノ岩神自ラ「チパシリ」「チパシリ」ト歌ヒテ舞ヒタリ故ニ地ニ名クト。或ハ云フ一鳥アリ「チパシリ」「チパシリ」ト鳴キテ飛ブヲ以テ地ニ名クト「アイヌ」口碑相伝フル処大同小異アリ 網走村』※永田方正著・北海道蝦夷語地名解・明治24年
「アバシリ」(網走市)は「アパ・シル」A-pa-sir(われらが・見つけた・土地)とか「アパ・シル」Apa-sir(入口の・土地)から出たとも云われ、或はアパシリは古くチパシリと云ったが、それも「チ・パ・シル」(chi-pa-sir)「我等が・見付けた・土地」)の意であるとか、或いは神鳥がチパシリ!チパシリ!と鳴いたという伝説から名付けられたとか、諸説紛々としている。しかし「チパ」は実は「イなウサン」(inaw-san「木幣」)の古語で「チパシル」(chipa-sir「幣場のある島」)の意に解すべきものであるらしい。アバシリ川の川口に近い海中に帽子岩と云うのがあって、古くは「カムイ・ワタラ」(kamuy-watara)「神・岩」と云った<-1部省略->この岩が実は「チパシル」(幣場のある島)だったらしい。ただ「チパ」が古語になって、その意味が解し難くなるに及んで、民衆はこれを「チ・パ・シル」(我等が・発見した・土地)の意に俗解し、更に「チ」(chi-我等)を同意の(A-)に代えて「ア・パ・シル」(我等が・発見した・土地)としたのであろうと思われる。※知里真志保著・アイヌ語入門 P24~P25 ほぼ同内容で網走の地名解にも書いている。
これは山本多助エカシが一族の長老達から聞き書きした原文をチカップ美恵子さんか編集した「森と大地の言い伝え」の中にある網走の地名に関する一部を要約して転載したもの『われらの始祖と網走の地名(辺泥四九郎語る)我々の始祖は「キラウコロ・エカシ:兜を持つ長老」という名のある人だった。キラウコロ・エカシは遠い時代に安住の地を求めて一族六十人を率いて現・青森県を出発し難行の末たどり着いたのが現在の網走である。網走には既に先住者がいたが、キラウコロを快く迎えた。キラウコロはこの良き日を記念してここを「アパアシリ・コタン:新たな盟友になった里」「チパシリ・モシリ:我等が見付けた国」と云った。キラウコロはアバシリで何年かを過ごした後、屈斜路湖畔を経て釧路の遠矢に永住した。大正九年の記録より』※初代キラウコロ・エカシより数えて山本多助エカシは第24代目の首長。一族で歴史上に登場する有名人にトミカラアイノがいます。ただ地名に関して云えば一族の中だけに通用する内容で広域地名化する根拠としては弱い。
モヨロ文化の中心地網走は原名チパシリといったという。チパシリは吾々の見つけた岩というようにいわれ、網走沼の岸に白い立岩があり、それが笠をかぶって立っている人のように見えたので、これに木幣をあげて祭ったということであるが、この岩に或る神様がいて「チパシリ、チバシリ」といって舞ったとも、白鳥のような鳥が「チパシリ、チパシリ」と鳴いて飛んだともいわれている。古い言い伝えでは以上のような簡単なものだけであって、一般に伝えられている物語的な伝承は無いようである。※更科源蔵編・アイヌ伝説集。
『網走は古名をチバシリといって、アイヌが名付けたものであるが、後転じてアバシリとなったのである。その意味は「我らの見つけた岩」と云うので、これには次のようなアイヌの伝説がある。和人が未だ一人も居なかった昔のこと、網走の地は海がもっと深く入り込んでいて、今の仲通や車止内までも潮が満ちていた。そしてヤチダモの林や葦原等が一面に続いていて、鹿や熊、狼などもたくさん棲んでいた。アイヌ達は今の新橋付近(モヨロ)の丘とニクルの丘に分かれて住んでおり、一年の半分は狩猟、半分は漁をして生活していたのである。その頃ニクルパチにロセトという美しいアイヌの娘が母親のイパンローと二人で仲良く暮らしていた。ロセトは気立てが優しい上に大変美しかったので、方々からお嫁に望まれていた。このコタンのポンモイにはセカチ・ノッカ、ニクルにはセカチ・シマカというすぐれた若者がいたので、コタンの人達はロセトの婿にするのは、この二人のうちの一人に違いない。コタン一の強い若者がコタン一の美しいロセトを娶るのは、自分たちの崇めているカムイの思し召しだと信じていた。ノッカもシマカも大変賢い若者であったが、いつの間にかコタン一の勇者になりたいと互いに競うようになった。或時は捕らえた熊の数を、また或時は獲った鮭の数を競ったが、どちらも取った獲物の数は毎年不思議にも同じで、仲々勝負が付かなかった。コタンの多くの者は、此の勝負が面白いので長く続くように願っていた。しかしコタン一の長老イヨイタクシー(予言者)だけは、困った事だと心配していた。イカシは何事でも言い当てると云う偉い予言者で、近頃頻りに樹林にきて鳴くカムイチカプ(シマフクロウ)の鳴き声から、近くうちコタンに大事件が起こることを悟った。<-1部割愛と要約->しかし賢いイガシであったが、それが何であるか一向に見当が付かなかった。かくしてとうとうその年も秋になってしまった。毎年のようにシマフクロウが気味の悪い鳴き声をたてている。予言者イガシは「いよいよこの秋だぞ。コタンが滅びる大事件の起きるのは」と毎日コタンの老人達を誘って桂ヶ岡チャシに、祭壇を設けてカムイに祈りを捧げた。その年は不思議に漁の無い年であった。そして毎日雨ばかり降って<-割愛と要約->どこまで川かどこまでが海なのか分からず、遂には網走湖までが水続きなってしまった。この日の昼過ぎ、誰とも無く沖に二間(約3.6m)もある大きな白い魚が泳いでいるのを見つけた。コタンは大変な騒ぎになった。そして「あれはカムイチェップ(神の魚)だ。あれを捕った者こそコタン一の勇者だ」とまでいいふらす者が出てきた。実際にその魚は非常に大きくて白くて、丁度カレイの様な魚で、遠くから見ても一間近くあった。そこでコタンの人達は、きっとあの二人が又争うに違いないと思った。桂ヶ岡チャシで祈りをしていた予言者イカシは之を聞いて「それは大変だ。この荒天に魚を捕るなんて、それこそ二人とも命を無くしてしまう。誰か止めてこい」と人をやって止めさせようとしていると一人の若者が駆け込んできて「イカシ様大変です。大変です。ノッカもシマカも海に出てしまいました。あの白い魚を捕るといって」と告げました。桂ヶ岡から沖を見るとポンモイ岬の近くで波にもまれて小さな丸木船を操っているのは、確かにノッカ、そして遠くバイラギ浜の方に豆粒の様に見えるのは、きっとシマカに違いない。併し不思議なことにあの白い魚はどこをどう泳いでいるのか、ちっとも姿が見えなくなっている。雨は益々荒れてくる。それでも二つの丸木船は次第次第に近づいていく。ザザ・・ドドド・・・と物凄い波の音。「あっ大変だ、あんな大きな波が」と誰かが叫ぶとたんに「ゴゴーッ」という物凄い音がしたかと思うと、天にも届く用にように海水が一度に噴き上がった。低地に建っていた小屋も押し流されてしまった。もちろん二つの丸木船などどうなったのか見当も付かない。「おぉ、海嘴(津波の事)だ、海嘴だ。船が見えなくなった」「船どころかこれではコタンが全滅だ」と一同蒼くなつた。「鎮まれ鎮まれ、この上はカムイ様のお力じゃ。祈るよりほかに途はない」<-1部割愛と要約->イカシの必死の祈りが通じてか雨も大波も鎮まってきました。その処ヘ慌ただしく「大変です。娘のロセトが見えません何処に行ったのでしょう」半ば気が狂ったように、ロセトの母親イパローが転げ込んできた。一同ははっとして立ち上がった。イガシは祈りの手をほどいて「何、ロセトが見えなくなった。では、あの優しい娘はは荒ぶる海をなだめに行ったにちがいない」と立って沖合を指差して「見よ。あの波間に浮かぶ黒豆のようなものを、あれがロセトだ。健気にもロセトはコタンを救うために海に飛び込んだのだ。あの優しい心は、きっとコタンを救う前兆を見せてくれたに違いない。オーカムイよ」眼をつぶって深い黙祷を捧げた。沖合の黒点はまだ波にもまれている。と急に沈んだかの見えなくなった。「あぁ、とうとう沈んでしまった」と思うとたん、突然天地も裂けん許りの地響き、海がいっぺんに破裂するような凄まじい大きな物音がした。一同は思わずその場にひれ伏て生きた心地も無かった。やがて誰よりも先に眼をあけた予言者イガシは、突然「おぉ見よ、皆のもの。あのワタラを、あれがこのコタンの守り岩となって呉れるだろう」一同は驚き立ち上がって海の方を見ると、不思議なことには今まで全く無かった岩が川口に一つ、バイラギ浜に二つ、僅かに頭を海の上に出している。「あ水が引いていく、引いていく」と叫んだので、よく見ると地上をうずめていた海の水がどんどん沖の方に引いていく。海水が引くに従って岩の頭がだんだんと現れて、不思議にも帽子型の岩(現・帽子岩)になっていく。と、その時である。その岩陰からパタパタと1羽の白鳥が飛び出して「チバシリ、チバシリ」と優しく鳴きながら、1~2度岩を回って遙かバイラギの沖の方に飛んでいった。バイラギ岬の先には、今生まれたばかりの岩が二つ(現・二つ岩)仲良く並んで立っている。白鳥はその岩の廻りを又飛び回っている。これを見たイガシは喜びの色をいっぱい顔に浮かべて「おぉ、あの白鳥こそ優しいロセトの生まれかわりなのだ。チパシリ、チパシリと鳴いている。あの岩こそ我らの見つけた岩という意味だ。あの岩があるかぎり、此のコタンは何時までも栄えて行くのだ」<-1部割愛と要約->折から射す夕日に染まった白鳥は「チバシリ、チバシリと鳴き続けながら、海の上を或いは高く、或いは低く飛び翔けっている。それからこのコタンを「チバシリ」というようになつた。<-以下割愛->』※北海道の口碑伝説-1940-北海道庁
『オホーツク海岸小清水町に蒼瑁(あおしまい)という所があります。これはアイヌ語のシュマオイ(石のある所)で、この付近は砂浜ばかりなのに、ここにだけ岩があるのでそう呼ばれているが、この岩は昔ここに魔神がいて、石を持ってきて簗を作って、知床の方から網走方面に行く魚を止め様としているのを、天地を創造したモシリエペンケカムイがそれを見つけて、弓で魔神を射とばして、魔神の作りかけた簗の材の半分を網走のポンモイの所にあげ、半分を知床の先にあげた。ポンモイの柱状節理の岩がそれである』菊池儀之助エカシ伝・更科源蔵遍「アイヌ伝説集」より ※簗を壊してその岩をすべて浜に揚げ旧に復した。そのときの岩材がアイオイマイの岩という別説もあり、それで今も魚が豊富なのだという。
ここでは網走の代表的な伝説や地名伝承を記載したつもりです。明治以降は伝説となっていたチバシリといわれた白い立岩が、松浦武四郎が当地を訪れた時には現存していて、木幣を奉るところまで書かれチバシリ岩の絵を残している。この他にコロポックルに関する伝承が知られている。網走湖の伝説も残されているが、此処では割愛しました。
北海道の口碑伝説のチパシリについて、チパシリと鳴いた鳥は流行病を運んでくる疱瘡神の使いと考えられ、決してコタンの守り神などではなく、コタンを滅ぼす恐ろしい存在としてのカムイと考えるのが妥当と思える。「物語的な伝承は無いようだ」という更科源蔵氏のいう一文とあわせてみれば、チバシリと鳴いた鳥を「優しい娘の生まれ変わり」とか「守り神」とすることは考えられず、創作伝説というのが妥当なところなのだが、北海道庁編の口碑伝説は無批判にこれらの伝説を採用しており玉石混合で信憑性に欠け、そのいい加減さはアイヌ文化への冒涜といわれても反論はできないだろう。
明治後期から大正、昭和にかけてアイヌ民族の伝説を装い、和人好みに脚色された創作民話を散見するが「チパシリ伝説」もその一話であり、米村喜男衞(1892~1981)によって創作されたとされる「チパシリ」が原作であり、その後鈴蘭童話会が舞台用に脚色して物語化し民話劇として発表された。常識的には創作民話である事を明記すべきと思うのだが。
トップメニュー、レイアウトの一部変更。