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女満別駅逓所は明治時代に女満別昭和地区に作られその後現在の女満別駅付近に移動しています。大正11年に鉄道が開通しその役割を終え廃駅となる。碑は移転後の位置で女満別中学校近くの国道沿いでR246号分岐近くの階段途中(通学路?)にあり、国道からは見え探すには面倒かもしれない。◇設置:明治36年02月 ◇廃駅:大正11年01月 ◇初代取扱人・高橋藤三 ◇二代:橋瓜雄吉 ◇現住所:大空町女満別東陽3丁目72番地 ◇GPS:N43°54’52.1” E144°11’03.2”
奧女満別駅逓所は女満別開陽地区に大正11年開駅、後に知床国道(R334号線)と福住女満別線(R249号線)の交差点付近(開陽184)で国道より女満別側に移転再開、昭和17年の廃駅となっている。平成元年に開業したフレッシュ若福商店で聞いた話では、開店当時は店と道路を挟んで向かい側に駅逓跡が二つの小山の間に残っていたという。駅逓碑は知床国道(R334号線)と町道開陽東14号線のT字交差部近くで知床国道沿いにあり、移転前の場所のようです。◇設置・昭和03年01月 ◇廃駅・昭和17年08月 ◇初代取扱人・関根源三郎 ◇所在地・大空町女満別開陽304番地? ◇GPS:N43°49’43.90” E144°13’53.77”
平成2年前後に女満別町史編纂委員会が松浦武四郎通過が通過したと考えられるルーサンなど三カ所に木碑を設置建立したがいずれも25年以上を経過し幻の碑となっていたが、大空町開基10周年の記念事業として石碑となって再建された。再建されたのは網走湖畔のオタバ、大成第二のパナクシベツ、大成第三のルーサンとなる。大空町広報より「松浦武四郎記念石柱 建立の背景 安政5(1858)年、北方探検家の松浦武四郎氏が、蝦夷地を探査途中に女満別を訪れたことから、そのゆかりの地3箇所に木碑が建立されていました(平成元年、平成2年に建立)。しかし、建立から25年以上が経ち、木碑が朽ち果ててしまったことから、そのゆかりの地を後世に残すため、新たに記念石柱を建立しました。」ヲタバは砂浜の端の事で通称は女満別湖畔、碑は女満別温泉(湖南荘)近くの湖畔にある。碑文「安政5年6月20日 松浦武四郎 この地沖船で通る」「ヲタバ・・・ヲタバは砂地と云う儀也 」『戊午 安婆志利誌』によると三人の案内人と連れだって網走川を遡り網走湖の東岸を廻ってから網走川本流にはいり美幌川河口まで行き一泊、翌日は網走川を下り網走湖の西岸を廻り、湖口からは陸行して番屋元に戻っている。ヲタバはその往路で見た風景で「少しの砂浜にして此名有るなり。ヲタバは砂地と云う儀也」と記している。ここだけは平成2年の建立でしたが大空町によって他2ヶ所と同時に再建された。◇所在地:大空町女満別湖畔1丁目21番6 ◇43°55'02.4"N 144°10'15.5"E
碑には「ルーサン」「安政5年(1858) 松浦武四郎この地を通る」「平成元年女満別町史編纂委員会建立 平成27年大空町再建」とある。以前に見た時は既に文字は読めない状態だったが見事に復活した。碑は大空町女満別大成と美幌町報徳との境界近くで女満別川に架かる宮下橋より上流側200m前後の農道脇。松浦武四郎が安政5年の5月13日~15日にかけて津別から美幌コタン~女満別川上~藻琴~斜里へと踏査した時の記録が『戊午 安加武留宇智之誌 三』にあり「ニマンベツ(女満別川)の西岸・・しばし下り凡十五六丁にしてルーサンと云坂一ツ有り。ルーサンは路下ると云儀也。ワワウシ是ニマンベツの渡し場(徒渉場の意味)、川幅五間半計なり。依りて柳を一本倒し、是を越えて向こうに渡る。東岸陰森たる木立原、小笹少し有り」東岸というのは現・大成公民館(旧大成小学校)のある付近のようです。文化4年頃に美幌町報徳から藻琴方面に出る道が開削されており、ルーサンはその古道にあった川岸に下る坂道(宮下橋上流側の左岸側段丘面付近)の名前のようで、川を渡った所がワワウシ、丘を越えた所がパナクシベツ(道道249線沿い)になるようだ。
◇所在地:大空町女満別大成300番4 ◇43°51'21.5"N 144°11'24.5"E
正面に「安政5年(1858) 松浦武四郎この地を通る」左側面に「これよりパナクシベツを経て網走中園へ向う」背面に「平成元年女満別町史編纂委員会建立 平成27年大空町再建」とあったが旧女満別町の資料はこの碑とルーサンは平成元年の建立で湖畔とあわせて全て再建された。碑は女満別川とパナクシベツ川(女満別川支流で大成と日進の境界)の間にある丘陵上で道道249線沿いで旧大成小学校から大東寄にある。パナクシベツ川とは距離があるが、文化4年に開削されたという古道沿いにルーサンやパナクシベツを通り網走の藻琴に抜けたようですが、古道の痕跡は皆無。『戊午 安加武留宇智之誌 三』には「パナクシベツ 川幅弐間計。急流。この川アバシリ沼え落る。越てまた小笹原」とあり直接網走湖に流入するように書かれているが、実際は女満別川の支流で、武四郎は女満別川との合流部より2km程上流のパナクシベツを徒渉したものか? ◇所在地:大空町女満別大成233番6 ◇43°51'45.8"N 144°12'10.1"E 43.862755, 144.202763
摩周のカムイヌプリのことを昔はオメウケヌプリ(抜けていった山)とかイケシェンヌプリともいったものである。イケシエンとは腹をたてるということで、この山が腹を立てここから抜け出して、千島国後島へ行ったと伝えられているのに次のような話がある『昔屈斜路湖の奥にトーエトクウシペ(湖の奥にある山ということで今の藻琴山)という我が儘な山があって、何かというと煙を吐いたり火を降らして乱暴ばかり働くので、あたりの山の神や人間達も大変に困っていた。ところが湖の落ち口近くにあるピンネシリ(男山)が、この無法者を懲らしめてやろうと、槍投げをして勝負を決めることにした。ピンネシリの投げた槍は狙いたがわず、トークシエトクウシペの胴に見事に突き刺さり、山は二つに裂け血が奔流になって流れ、屈斜路湖畔の岩を真赤に染めた。ピンネシリのために真二つに割れて血を噴きながらトーエトクウシペは槍を取ってピンネシリに投げ返したが、狙いが外れてピンネシリの肩のところを僅かに傷つけて、遙か後ろの方に飛んで行ってカムイヌプリに突き刺さったので、カムイヌプリは非常に腹をたてここから抜け出し、千島国後島へ飛んで行ってチャチャヌプリ(老人の山)になってしまったという。この騒ぎがあってからは、トーエトクウシペもおとなしくなり、火も煙も噴かなくなってしまったが、ピンネシリの槍で割られたところは今もヌプリエベレック(山の割れた所)という大沢になり、ドンドン川という奔流が、当時の噴出した血のように流れているが、血に染まった岩は、今でも湖畔にそのまま残っている。一方方にかすり傷を受けたピンネシリの傷跡は、岩が今も露出していて、昔の面影をとどめているが、それ以来ピンネシリをオプタテシケ(槍のそれた山)というようになった。なお摩周湖畔カムイヌプリの裾の赤岩は、その時のカムイヌプリが流した血であり、対岸の白い岩は涙の跡であるという。』屈斜路湖・弟子勘次エカシ伝・更科源蔵・北海道の伝説
『昔々、何年も何年も前、大きな一つ目小僧がいた。それはアイヌの国なみの、遙か遠くに家を持っていた。彼の体毛は、人間のようだった。彼の死体は非常に大きく、それほどに毛深かった。しかし彼は目が一つしかなく、それは額の真ん中についていて、普通の壺ほど大きかった。この生きものはアイヌには非常に迷惑だった。というのは、この生きものは食欲がたいへん旺盛だったので、途中で逢うあらゆるもの、あらゆる人を捕まえて、殺して食べる習性があったからである。このため人々は山へ猟に行くのを恐れた。というのは、一つ目の怪物は何度矢を射られても、矢は効果がなかったからである。さて、ある日、森の下生えを通して自分をランランとした目で見ているものを見つけて驚いた。それが何であるかを見るために、近づいた時、猟師は、大きな体の毛が深い、獰猛な顔つきの一つ目小僧であることを発見した。それがなにかがわかった時、猟師はなにをしたらわからないほど驚いた。しかし彼はまもなく、えびから矢を引き抜く十分な勇気を奮い起こした。彼は弓に矢をあて守りの姿勢をとった。その生きものが近くにやってきた時、そのアイヌはその生き物の一つ目に、落ちついて正確に狙いを付けた。よく狙ったのでその中央にまともにあたった。一つ目小僧は倒れて死んだ。というのは、目は体の中で致命的(唯一の致命的)な部位だからである。この勇敢な猟師は、それほど憎むべき生きものでありまたそれほど恐ろしい的が完全に殺され、再び生き返って、人々を悩ませることがないことを確かめると、その生き物の体の上で大きな焚き火をし、その骨とすべてのものをすっかり焼いた。そうしてから、彼は、手を灰の中に入れて、それを空中に撒いて、怪物が徹底的に破壊されたことを確認した。しかし、ああ、灰を上にあげたとき、それはブヨ、カ、アブになった。しかしわれわれは、このことに文句を言ってはならない。というのは、ハエというより小さい悪は、人偏を食べる一つ目の怪物がわれわれの近くにいるという、より大きな悪ほど悪くはないからである。』網走・上野広造談
ションバチラー・アイヌの伝承と民族。※大空町と言うよりは網走の伝承として・・大きな図書館には復刻版が置いてあると思います。
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