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ロマンと謎に満ちた古代網走と北方民族・博物館‼

網走市立郷土博物館

網走市提供画像 モヨロ貝塚を発掘調査した米村喜男衛氏が長年にわたり収集した考古民族資料約三千点をもとに昭和11年に「北見郷土館」として木造2階建てで開館。昭和23年に網走市に移管、昭和36年には別館が造築され充実がはかられている。モヨ□貝塚が発掘された独自の文化形態をもつ出土資料をはじめ文化年間に漁場として開かれた郷土資料の展示、網走の豊かな自然と古代から現代に至る歴史の流れを展示解説、網走地方の自然や産業まで紹介する総合郷土博物館です。
◇所在地:網走市桂町1丁目1番3号

網走市立美術館

網走市立美術館 市立美術館は、網走市開基百年を記念して昭和47年に開館しました。網走が生んだ孤高の画家、居串桂一の油彩画をはじめ主に地域の美術家の作品などを展示、厳しい北の自然に立ち向かう人々の姿やオホーツクの風景と人々の営みを様々な支店から描かれた個々の作品は訪れた人達に新鮮な感動を与えてくれる。北海道創世期の先人の苦労が解ります。◇所在地:網走市南6条西1丁目

モヨロ貝塚館(網走市立郷土博物館分館)

モヨロ貝塚館 モヨロ貝塚は、単なる海岸の風景ですが、この地下30cmから3mに及ぶ地中には、その年代を生きた人々の遺物が包含されています。モヨロ貝塚館では発掘当時そのままの状態に復元し数千年前からオホーツク海沿岸に住んでいた時代人の文化や、民族の移り変わる生活様式を、わかりやすく見られる様に内蔵遺物をそのままの状態で展示。平凡な風景の地下には貴重な文化遺産が内蔵されていた事がよく理解できる展示となっている。展示内容はオホーツク文化がメインで地層に観られる貝塚の断面もよくわかる。縄文期の展示は網走市立郷土博物館でされている。遺構の方には縄文期の縦穴住居跡とオホーツク文化期の住居跡、復元住居、墓地が再現されている。
◇所在地:網走市北2条東2丁目 TEL:0152-43-2608

金田一京助歌碑モヨロ貝塚入口付近

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昭和22年から2カ年にわたり東大教授駒井博士を主班とする各大学、機関の考古学徒30余名が参加しモヨロ貝塚学術調査が行われ、その時に特別指導者として原田博士と共に来た金田一博士がモヨロ貝塚にたたれた際に詠まれた一首「おほつくのもよろのうらの夕凪に いにしえしのび君とたつかな」が刻まれている。歌碑は国道から貝塚に向かう途中で貝塚入り口近くの道路脇にあります。

モヨロ貝塚

モヨロ貝塚 1913年網走川河口左岸で巨大な貝塚が米村喜男衛氏によって発見される。発見された貝塚から出土した土器や石器は今まで知られていた文化とは異なるものでした。当時の付近の最寄村から名をとり『モヨロ人』と呼び、貝塚も『モヨロ遺跡』と名づけられ、幻のオホーツク人が初めて歴史に登場する。更に砂丘の上からは十七基を超える竪穴住居の遺跡や墓が発見され地層の最下層からは縄文時代の遺物が出土するなど貴重な考古学資料が発掘され、昭和19年に国の史跡に指定。出土品は現在モヨ□貝塚館で展示されています。オホ-ツク文化ついては次第に解明されつつあるが、この民族を巡る謎は多く『謎のオホーツク人』である。最大の謎は『オホーツク人は何処へ消えたのか』というもの。現在では、擦文人と擦文文化に吸収されたという説が有力というが。オホーツク文化にはあって擦文文化には無かった熊崇敬の思想(イヨマンテ)は、擦文文化から発展したアイヌ文化に受け継がれていると考えられ、二つの文化は融合し、オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収され、擦文文化はアイヌ文化へと発展していったと云うが??

道立北方民族資料館

網走市提供画像 館内は「北のファンタジー」「北のクロスロード」「オホーツク文化海の狩人」等5つのテーマに分かれ多数の貴重な資料を展示。グリーンランドのイヌイットからスカンディナビアのサミ民族まで北方圏に生きる諸民族の文化と生漬を幅広く紹介。ニブフやウィルタといった北海道と縁のある民族の狩猟用具や民族楽器などの展示も。軽くて防水性が高い魚の皮やアサラシの腸で作られた衣類は必見。◇所在地:網走市字潮見309-1 TEL:0152-45-3888

天都山 オホーツク流氷館

天都山 網走市内の南西約4kmにあり、標高300mの山頂からの展望がすばらしく、昭和13年に名勝地の指定を受ける。山頂にあるオホーツク流氷館最上階の展望台はお勧めスポット。オホーツク流氷館は流氷をテーマにした展示館で体験室には海から運んで来た本物の流氷が展示され、真夏でも厳寒のオホーツクを体感する事ができます。◇所在地:網走市天都山245番地1

博物館網走監獄

網走市提供画像 俳優高倉健さんの主演映画"網走番外地"で一躍全国区になった網走監獄は明治23年に開設、道内では歴史の長い刑務所だ。博物館網走監獄では実際に使用した舎房等を移築復元し囚人労働と開拓の歴史を、人形を使って再現している。5棟を放射状に連結し、226室の独居房、雑居房が立ち並ぶ木造獄舎は歴史的な木造建築としても見逃せない。本物の網走監獄はお縄にならない限り正門前までとなる。◇所在地:網走市呼人1-1 TEL:0152-45-2411

中央道路開削起点(網走駅逓所跡)

中央道路開削起点

明治24年ロシアの南下に備え北方警備と北見地方の開拓を目的に網走~旭川間の開発道路として開削されたが、網走側の起点は網走刑務所前で『中央道路開削工事網走分監工区起点の碑』がある。中央道路は札幌から北海道の中央部を縦貫してオホーツク沿岸に達する路線で、網走から釧路へ通じる道でもあった。北見峠から網走を経て釧路にいたる道は北海道集治監、特に網走監獄の囚人労役と犠牲によって完成した道路で北見道路、通称・囚人道路とも呼ばれている。。中央道路開削起点のある所に網走駅逓があった所とされ明治5年に藤野番屋から駅逓の性格を持って独立したと云うことだが、明治15年の旧札幌本庁駅逓取扱人一覧にはなく明治15年前には廃駅になっていたものか・・明治37年に再設置され取扱人は藤野喜久蔵から田野国重に引き継がれているようです。・・大正14年廃駅となっている。

二見ヶ岡 国道創設殉難慰霊の碑

二見ヶ岡・国道創設殉難慰霊の碑 明治100年、北海道開拓100年にあたって何をするか決まらずにいた時、慰霊碑の建立運動をしていた留辺蘂にある白龍山遍照院の隆弘尼僧が、町村会に訴え満場一致で建立が決まったという。碑には囚人の埋葬地と思われる場所から集められた各地の土がおさめられているとの事だ。

碑 文
『百年にわたり、開拓者精神に燃えた父祖先人の高い理想と労苦が今日の網走管内の発展となってあらわれておりますが、とくに当地方開発の端緒となった網走と旭川とを結ぶ国道建設は、明治二十四年四月、東北海道貫通中央道路として工事を開始し、当時現在の網走刑務所に服役中の受刑者の多数の血と汗の協力により完成したものであります。北海道百年の意義ある年にあたり、殉難者に慰霊の誠をささげるため国道創設殉難慰霊の碑を建設しさらに近年とみに増嵩しつつある交通事故の減少と交通安全を祈念し「交通安全観音像」を建立したものであります。』
昭和四十三年十月
国道創設殉難慰霊の碑建設期成会
◇所在地:網走市字二見ヶ岡

荷揚坂跡の碑

北山・荷揚坂跡の碑 「国道創設殉難慰霊の碑」がある二見ヶ岡から嘉多山の丸山公園まで進み交差点を左折、道道嘉多山美幌線の坂道を下りた右手に荷揚坂が有った。以前は荷揚坂の石碑が有ったというが3度目の訪問時で発見した。明治24年釧路集治監網走外役所の受刑者1200人を使って、網走と石北国境に通じる中央道路開削という前代未聞の難工事が始まる。この時、網走から工事のための食糧や資材を船に積んで、網走川を遡り、網走湖を渡って嘉多山の船着き場に荷を降ろした。集治監はここに仮監をつくり、受刑者が沢伝いに丘の上まで道をつくり、馬で荷物を運びあげ、それで荷揚坂の名が付いたという。後に端野や北見に入植する屯田兵が同じコースを辿り、船から上陸し荷揚げをしたので荷揚坂という名前がついたとも・・どちらも本当らしく聞こえるが真相は?
◇所在地:網走市嘉多山・網走湖西岸”

第壱号越歳駅逓所跡の碑

嘉多山・第壱号越歳駅逓所跡の碑01 説明碑の全文
『明治24年ロシアの南下に備えた北方警備と北見地方の 開拓を目的に開削された中央道路は、札幌から北海道の中央部 を縦貫してオホーツク沿岸に達する路線であり、北海道集治監、特に網走監獄の囚人の労役によって完成したものです。この旭川~網走間(225km)の道路が整備されたことにより、明治25年3月15日網走の一号越歳駅逓をはじめとして旭川の12号駅逓まで中央道路沿いに12カ所、駅逓が順次設置されました。駅逓とは、北海道にあまり人が住んでいない時代に、開拓のために北海道に渡ってくる人や旅をしている人に宿泊所として、人や馬を貸し出したり、更に郵便業務の取り扱いを行っていました。その起源は、江戸時代の1779年に置かれ、駅逓運営者は取扱人と呼ばれ、旅人たちにとって旅の疲れを癒すところとして、まだ見ぬ未開地の生活や現状を知るうえでかけがえの無い助言者であり指導者でした。開拓者たちの寄り合い場であるなど、開発の先鞭としての駅逓の存在意義は交通の面からだけでなく北海道の開拓とは切り離すことのできない関係にあったのです。とりわけ、越歳一号駅逓は、屯田兵や開拓移民が網走湖を船で渡り内陸へ入るための最初の第一夜であり、旭川方面からの旅では最後の宿となったこの駅逓で、先人達はどんな夢を描き、そして現在、私達はその夢の果てに生きています。しかし大正元年網走~北見間に鉄道が開通すると同時に駅逓利用者は減り大正2年駅逓は廃止され、その役目を終えたのです。駅逓碑建設は網走の歴史の原点である「網走監獄」と中央道路との深い関わりの中で、網走の歴史を蘇らせる事業であり、博物館網走監獄開館20周年記念事業として、オホーツクの歴史への追憶と先人の思いを糧に未来に繋げる架け橋となることを祈念し、駅逓跡地真向かいに建立します』以下省略
◇明治25年3月開駅、取扱人・内山清吉
◇大正2年4月30日廃駅
◇二見ヶ岡から北見方向に進み丸山公園を過ぎて左側に碑がある。駐車スペース有り。
◇設置場所:網走市字嘉多山

又十藤野網走分店跡の碑斜里運上屋・網走番屋

画像枠

藤野家はかつて柏屋と称し「又十」という屋号を持ってので「またじゅう」と呼ばれていた。天明2(1782)年に飛騨屋久兵衛が宗谷・斜里場所を請負したが最初のようですが、寛政の乱で飛騨屋が罷免され、シャリ場所を村山伝兵衛の請負にした寛政2(1790)年が実質的な斜里場所の開設とされているようです。のちに初代藤野喜兵衛が網走に番屋を設置、網走で和人が漁業をはじめた最初の根拠地だった。番屋は平屋で、間口28間、奥行8間5尺、248坪(818㎡)と云い、幕末から明治の頃には戸長事務所、郵便取扱所、通行屋(竹四郎廻浦日誌では梁七間、桁17間とあり)があったようで、松浦武四郎らも宿泊している。又十藤野は文久2(1862)年に会津藩より斜里場所請負人を罷免されるが、網走場所は直轄領として残された。藤野網走番屋は斜里運上屋の支配番屋だったので、斜里場所請負人罷免後は網走番屋が又十藤野の拠点となり、内陸の交通網が整い始め本格的に駅務も取扱うようになったようだ。明治6(1873)年に漁場持として斜里も復活するが、明治9(1876)年に漁場持が廃止され、又十藤野は一漁業経営者(農場経営などもにも乗り出すが成功しなかった)となります。松前随一の豪商と称されるまでになった駅逓は明治5年に藤野番屋から網走駅逓として独立、中央道路(囚人道路)開削が始まる頃に中央道路起点付近に移設されていたようだが、民営の期間が長く詳細が良くわからない。 番屋跡の標柱は有限会社白田鋸店の駐車場端にある。◇所在地:網走市南4東6(旧・北見町中通一丁目)

網走市の自然と観光スポット・ミニギャラリー

博物館網走監獄・網走市提供画像 北方民族資料館・網走市提供画像 冬のオホーツク流氷館 オホーツク流氷館1 オホーツク流氷館2 天都山から見た風景 ひまわり畑・網走市提供画像 卯原内鉄道資料館 喜多山より網走湖 越歳駅逓碑文 能取ポン沼1 能取ポン沼2

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