松浦武四郎の碑を巡る
後志の松浦武四郎碑や説明板などを巡る‼

オタルナイ運上屋跡碑 小樽市 MAP

オタルナイ運上屋跡

オタルナイ運上屋の設置に関しては時期が明らかではないが享保年間と考えられているが、元々はヲタスツにあったらしい。知行主は松前藩重臣の氏家氏、場所請負人はの恵比寿屋岡田家でしたが、1865年に場所請負制度が廃止され本陣となるも、建物は1866年の火災により消失。メルヘン交差点そばに「史跡オタルナイ運上屋跡」の石柱と看板がある。北海道の名付け親、松浦武四郎も弘化3年、安政3年に1泊、安政4年には2泊し、その時の様子を西蝦夷日誌(松浦武四郎著)に「上に弁天社・地蔵堂、階段敷級を上がる。ここより諸方を眺望する風景宜く、一眸に石狩までよく見ゆ」とあり蝦夷日誌(松浦武四郎著・西蝦夷編)ではヲタルナイという所は元々クッタルシという所でヲタルナイは石狩との境界になっている小川であると記した。
◇所在地:小樽市堺町6 ◇N43°07’12.28” E140°43’43.87”

阿部引田臣比羅夫之像余市町 MAP

比羅夫之像の松浦武四郎歌碑

松浦武四郎がメインなので阿部引田臣比羅夫之に関しては碑文の大意のみ書いておく。阿部引田臣比羅夫が政所を置いたという後方羊蹄をシリベシではなくシリパヨウチ、即ちシリパ山のあるヨイチとした。簡単に言うと後方羊蹄をシリパヨウチと読むというこになる。阿部引田臣比羅夫之像には北海道人松浦武四郎と刻まれた歌碑も含まれているが碑文にその説明はない。比羅夫に進言したという問兎(トウヒ)の蝦夷では、武四郎の記録に「トウヒ」という地名(現・飛生)がある。松浦武四郎は比羅夫熱の火付け役、具体的な物証には乏しいが楽しみが一つ増えたと思えばよい。

◇松浦武四郎歌碑
比羅夫之像には松浦武四郎の歌も刻まれているが、日誌などには見当たらず。
碑文
「こしてき社(こをき松?)? ひまなくつとふ 餘市の濱?
里乃名志るき? をくとも 忘れさる
北海道人 松浦武四郎」
珍しいのは「北海道人 松浦武四郎」という号で、他で見た事なく貴重な碑かもしれないが、蟻の猛攻撃で早々に退散し文字判読の余裕もなかった。ただ稲荷神社跡に碑を建立したのは昭和30年?頃の様です。◇所在地:余市町港町 旧稲荷神社跡

旧下ヨイチ運上家国指定重要文化財 余市町 MAP

旧下ヨイチ運上家

余市には余市川を挟んで上ヨイチ、下ヨイチと二つの運上屋があったが、現存しているのは下ヨイチ運上屋で松前藩が80ヶ所ほど設けた運上屋の中で唯一現存するもの。運上屋は竹屋林長左衛門が1853(嘉永6)年に建てたもの。北海道の宿駅制研究の明治編に「運上屋で駅務を行う」とあり、明治2年から本陣、続いて旅籠屋並みに改められ駅逓として機能していた。竹屋林長左衛門は1811(文化8)年からヨイチ場所の請負人となり1812(文化9)年には場所共同請負人。アブタ、次いでアッケシ場所経営。ヨイチ場所請負は1869(明治2)年の場所請負制度廃止まで至る。普通は運上屋とするのが一般的だが運上家でも間違いではないようです。松浦武四郎は弘化3年、安政4年ヨイチ運上家に宿泊しているが「丁巳第2巻 曽宇津計日誌」(秋葉実解説)では「運上屋え入一宿の無心ぞ至しけり」と武四郎らしい・・・運上屋の様子は蝦夷日誌(西蝦夷)、西蝦夷日誌に記録を残している。◇所在地:余市町入船町10

ルペシベ通行家跡記念碑仁木町 MAP

ルペシベ通行家跡の碑

  碑文『建立の誌
ルベシベ通行屋は余市、岩内間の新道開削に伴い稲穂峠を越える旅人のために安政4年の初夏余市運上家によって建てられ、次いで人馬継立が設けられた。以来、蝦夷地の探検家松浦武四郎をはじめ函館奉行村垣範正、堀利凞、北海道の歴検図の筆者目賀田帯刀が蝦夷地の開拓や北方の警備状況など検分のため奥地に赴く途次ルベシベ通行屋で旅の疲れを休め、また鰊場に向かう出稼人夫や商人等もここで急速あるいは宿泊した。明治初年には開拓使主席判官島義勇一行、英国の生物学者ブラキストン、開拓使顧問ケプロン等、安政時代から明治時代にかけて北海道の開拓史上欠くことのできない著名な人物が往来し、その報告書や日記類、絵図など多くの歴史的文書類を遺している。時代の推移と共に通行屋は脇本陣、旅籠屋とその名称は変わったが、明治38年北海道鉄道(株)が開通するまでの間、北海道を往来する旅人の安息の地としてその役割を果たしてきた。仁木町大江三丁目(ルベシベ)は、昔も今も交通上の要所として、その重要性は変わらない。』※碑文では松浦武四郎も泊まった?ようになっているが、松浦武四郎がここを通過した時は、通行屋の建設中で、丁巳第二巻 曽宇津計日誌では「笹小屋」というタイトルでその様子を綴っている。ただ石狩日誌では笹小屋に泊まったとあり、碑文は石狩日誌を元にしているようです。
◇所在地:仁木町大江3 香坂氏地所内 ◇N43°04’09.76” E140°42’24.61”

松浦武四郎歌碑稲穗峠 仁木町 MAP

松浦武四郎歌碑・仁木町

国道5号線を仁木町側から倶知安方面に向かい稲穂トンネル手前で右側広場に入ると看板あり、碑は駐車場の山寄りに。新道の見分に訪れた松浦武四郎の歌碑があり、一段下に島義勇の碑がある。歌碑には「岩を切 木を伐 草を刈そけて みちひらけし 山のとかけも」(西蝦夷日誌三篇)と刻まれている。峠について松浦武四郎は「ヨイチ、岩内の境目なり。此度改て標柱を立るなり。其眺望寅卯辰を一目に見て、風景いわん方なし。ヲシヨロ岳ヲタルナイ岳もよく見え、其間は一円の平山也。扨此処より下り坂に懸るに、ヨイチの方は岩内分より道も大によろし」と記録している。安政4年に余市から岩内へ開削された道は、古くはアイヌの人たちが岩内から余市への道として使われていた峠で天候が変わる事が多く、イナウ(木幣)を捧げ無事を祈ったので「稲穂峠」と呼ばれるようになったというが、今はトンネルであっという間に過ぎてしまう。碑は昭和63年に訪地100年を記念し建立された。◇所在地:仁木町大江 稲穂トンネル入口右側
◇GPS:N43°03’39” E140°41’09”

まつらの滝稲穗峠 仁木町 MAP

まつらの滝

新道の見分に訪れた松浦武四郎の歌碑とともにと滝名碑(まつらの滝)があるが、松浦武四郎の名前を附した滝名とおもわれる。確か武四郎の手紙か何かで松浦と書いて「まつら」としたしすえのを見た記憶がある。九州の方では松浦を「まつら」と読むことはそれほど珍しいことではない。松浦武四郎は竹四郎、源の弘、多気志郎、多気志楼、北海道人など様々な名前をもちいているが松浦を「まつら」と称したこともあったのか?残念ながら御影石の滝名碑は傾いているが・・・
◇所在地:仁木町大江 稲穂トンネル入口右側

島 義勇漢詩碑稲穗峠 仁木町 MAP

島 義勇漢詩碑

行盡一山還一山 風寒日暮尚躋攀 隔渓忽聞豺狼吠 峰上蕭然月一彎渓雲蔵月暗前程 脚下亦聴怒水声 忽喜人携樺皮到 炬光千點照吾行と刻まれてます。誰か訳してください(^^; 佐賀藩士だった島 義勇は「北海道開拓の父」と呼ばれ、札幌の街を計画したことで知られる。開拓使判官として明治2年にとして赴任、札幌を本府と決め建設に着手するも、後の開拓長官と意見が対立、翌年には下野、後に士族の反乱ともいわれる「佐賀の役」(明治7年)で非業の死を遂げるている。松浦武四郎の良き理解者の1人でもあった。◇所在地:仁木町大江 稲穂トンネル入口右側

しゃこたん場所 運上屋跡碑史跡標柱 積丹町 MAP

しゃこたん場所 運上屋跡

シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~1875(明治8)年迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。積丹は神威岬から北は女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊への陸路は岩田金蔵が開いたという。場所請負制度は明治2年に廃止されるも、廃止反対が強く「漁場持」と名を変え実質的には明治9年迄温存された。松浦武四郎は安政3年に当地を陸行し運上屋で宿泊、記録にはシャコタンは元々はクッタルシという所で、シャコタンは近くの川の名であるとも記している。
◇所在地:積丹町日司町 ◇N43°21’15.85” E140°27’52.90”

しゃこたん場所 運上屋出張所跡史跡標柱 積丹町 MAP

運上屋出張所跡

 「海辺の宿・運上屋」の角地に「しゃこたん場所運上屋・出張所跡」の史跡標柱がある。この宿は積丹場所請負人だった岩田金蔵がニシン漁が衰退した後に運上家の脇本陣として建てられた施設を利用し旅館業をはじめたのが元というが、建物は世帯交代している。この辺は早くから和人の進出があり、神社の創建では1600年代というのもあるようで、此地を通過した松浦武四郎の蝦夷日誌(弘化3年)に「夷人小屋、番屋有。図合船懸り澗有。此処小石浜にして道よろし。ヲカムイ様の拝殿と云うもの有るよし」とあり。オカムイの拝殿というのは今の神威神社のようで、寛文3(1663)年に神岬に再建、明治3年に現在地(移転?)に神殿と共に建立したものという。
◇所在地:積丹町来岸町42 ◇N43°19’49.85” E140°23’41.26”

本陣跡地の碑神恵内村 MAP

神恵内本陣跡・

フルウ場所の開設は詳細不明というが寛延3(1750)年頃の場所請負人に岡田家の名がある。近江の豪族、田付新助は宝暦2(1752)年から明治まで断続的に古宇の場所請負人となっており、屋号は福島屋で代々新助を通称、退隠して新右エ門と称したという。松浦武四郎の蝦夷日誌は福島屋新右衛門で産物はニシン・アワビ・ホッケ等などとあり、江戸時代よりニシン場で、古くから神恵内の中心地だった。松浦武四郎は弘化には海路で、安政3年は海岸沿いに陸行し運上屋で地形に詳しい案内人をえて積丹に抜けている。碑は開村百年を記念してフルウ運上屋の跡地に建立、国道229号線沿いで神恵内村役場横の一角にあり、その奥側に1594(文禄3)年創立という神恵内厳島神社があった。◇所在地:神恵内村 ◇N43°08’37.16” E140°25’50.25”

松浦武四郎歌碑神恵内村 MAP

松浦武四郎歌碑・神恵内村

神恵内はかつて「フルウ」と呼ばれた奇岩と磯釣りのメッカで、商工観光センター前に武四郎の歌碑がある。碑には「しはらくの 晴間も見えで ふるうの海 里の名しるく 五月雨なり」(西蝦夷日誌三篇 フルウ領)と刻まれています。積丹半島の神威岬と。西蝦夷日誌によると「海岸は断崖。山堅雪のときしか越えられず」の状態であったらしいが、安政3年頃にフルウ場所請負人によって岩内からの道が開削されている。フルウについて廻浦日誌では昔は川が大岩の穴の所に流れていて水が赤くなるからと記し、西蝦夷日誌では「運上屋の傍の大岩穴の下に流込水色赤く成て出る故號くともいえり」と、また「傍に大なる奇岩有り風景よろし」としるす。
◇所在地:神恵内村ヘルカルイシ 神恵内村商工観光センター前

運上屋本陣跡の碑岩内町 MAP

岩内運上屋本陣跡・岩内町

 岩内場所は寛延4(1751)年頃に知行主の蛎崎佐土より恵美須弥三右エ門の岩内場所請負が最初で、天明3(1783)年頃から南部大畑村・熊野屋、文政元(1818)年頃には加賀屋多右エ門。文政6(1823)年には加賀屋の名前で佐藤仁左エ門請負のようで、以後場所請負制廃止まで仙北屋仁左エ門が請負人でした。恵比須屋(岡田)弥三右衛門が岩内・古宇の両場所を請負った寛延4(1751)を岩内町開基としているが、運上屋跡の碑あるのみ。松浦武四郎の後方羊蹄山日志に「運上屋でも、アイヌ建もそれぞれ何か私に隠し事をしているらしくて、どうしようもないきがする」と、それぞれに運上屋もアイヌ達にも幕府役人には知られたくない事情があったようだ。蝦夷日誌(弘化3年)に「運上屋元は平坦にしてうしろに沼あり」「また運上屋の前に川ありイワナイ川という」とある。◇所在地:岩内町万代 ◇N42°59’00.79” E140°30’38.60”

松浦武四郎一行絵 岩内町郷土資料館 岩内町

松浦武四郎一行絵・岩内町

岩内町郷土資料館の「山岸正巳画伯作 安政4年4月27日 松浦武四郎、アイヌの人たち スイカ、スケノカロ、和人、常吉、松前富次郎を伴い、磯谷から雷電難所を越えて岩内に立つ」の絵は当時の姿が迫ってくる圧倒的なスケールではあるがが、展示場所が変更されており依然と比較すると若干見にくいのは残念。松浦武四郎はソーツケ(現・倶知安町)へ入るのに難渋し、3度目の挑戦でやっと成功。その様子は「丁巳 曾宇津計日誌」に詳しいが、西蝦夷日誌や後方羊蹄日誌にも記されている。岩内からそれまで運上屋には秘密にしていたサーモンロードをたどったようです。
◇所在地:岩内町清住5−3 ◇GPS:N42°58’46” E140°29’58”

磯谷運上屋跡寿都町 MAP

磯谷運上屋跡・寿都町

 嘉永5年に佐藤定右衛門が歌棄磯谷両場所請負人となり、初代定右衛門の没後は定右衛門の甥、伊三右衛門が磯谷場所を継ぐ。伊三右衛門は行成網を発明し漁法の改革でこの地方の繁栄の基礎をつくったと云われる。歌棄場所は初代定右衛門の実子重三郎が引き継ぎ、佐藤家は歌棄と磯谷の両家に別れます。江戸末期には島古丹、歌棄、寿都に運上屋があり、磯谷の中心地は島古丹で、江戸時代末期には旅籠が10軒以上あり、運上屋も島古丹にあったが後に横澗に移転。西蝦夷日誌に「イソヤ運上屋(通行や、備くら、板蔵、漁や、いりこ蔵)本名イシヤウヤにて岩磯岡也。此辺惣て暗礁多きが故に號く。地形後に山有。前ライデン岬に対して湾をなし、海中小嶋有。弁天社を立、船板を以て橋として、其眺望又奇也」と。松浦武四郎は安政3年に訪れ運上屋に止宿、陸路で岩内にでた。安政4年には黒松内新道が出来きその見聞に再度訪れているが、雷電は人がやっと通れる道のようで「去年に異なり道は出来たけれども、其難渋中々、馬足は両三年の間は立難ぞ覚えける」と丁巳志利辺津日誌に記した。移転した先の横澗漁港に磯谷場所運上屋跡の碑が磯谷、歌棄の請負人であった末裔のカクジュウ佐藤家によって建立されている。
◇所在地:寿都町字磯谷町横澗 横澗漁港 ◇N42°50’43.33” E140°19’40.47”

松浦武四郎歌碑倶知安町 MAP

松浦武四郎歌碑・倶知安町

倶地安町にゆかりのある短歌を後世に伝えていこうと、白木厳氏(白木建設工業株式会社)が平成9年に設置した倶知安町内で6番目の歌碑。歌碑には「あやうしと しりべつ川の 白波を 命にかけて けふわたりけり」と刻まれている。歌碑左側の説明によるとソーツケ(宗助川)探索のため、尻別川を渡ったのは安政4年(1857)3月10日(陽暦6月1日)で、サケ、マスの豊庫として知られていたソーツケの印象を残したもの」とあった。「松浦武四郎著・西蝦夷日誌」ではその時の様子が詳細に記されているが「水勢吼ごとし。雪解水にて濁れり。其危うき事筆の及ぶ處にあらず」とあり。松浦武四郎著「後方羊蹄日誌」丸山道子現代語訳では樺の木に登って見渡すアイヌの絵と前記の和歌が記されている。碑は高さ 1.6m 横 2.3m 、素材はは南アフリカ産のラステン石、裏面に建立のいきさつが記されている。◇所在地:倶知安町南3条東7丁目4-1 白木建設工業株式会社 前庭 ◇GPS:N42°53’55” E140°46’01”

松浦武四郎歌碑京極町 MAP

松浦武四郎歌碑・京極町

歌碑には「天津風 胡砂拂へ しりべしの 千代ふる雪に 照る日陰見む」松浦武四郎と刻まれ、歌碑の裏には『安政五年二月、松浦武四郎が氷雪の中を虻田から札幌へ踏査する途中、後志羊蹄山を仰いでこの碑の一首を詠じた。雄大、豪放、その格調の高さに於いて、稀に見る名歌である。松浦武四郎弘は伊勢國一志郡須川村の人。文政元年二月六日生、十六歳の時、国内周遊を志、あまねく足跡を印したが、當時、蝦夷地の重大さを知り、前後六回に亘って縦横に踏査し、その結果詳細に日誌及び地図として天下に紹介し、その開拓方策を要路へ献じ、明治となるや、最高の蝦夷地通として新政府に用いられ、国郡の選定にあたった。北海道の名及び国郡名は実に武四郎の原案によったもので、北海道民としては忘れることのできない先駆者である。武四郎は又、国士、学者、画家、文人、宗教家として當代一流の人物であった。深く羊蹄を愛し、前後三回に亘って後志川の全貌を明らかにしたばかりか、この山を中心に道を四方に開き、神を祀って蝦夷地空きたく精神の中心をここに於こうと努力した。終生僻地開拓のことを忘れず、その熱意は明治二十一年三月十日七十一歳をもって東京の自邸に没するまでつづられた』昭和39年9月撰文 北海道大学教授 農学博士 高倉新一郎 歌碑は「名水ふきだし公園」近くの京極温泉の前。
◇所在地:京極町川西68 京極温泉敷地内 ◇GPS:N42°51’34” E140°52’25”

比羅夫神社喜茂別町 MAP

比羅夫神社

比羅夫神社の由来は「日本書記」安倍比羅夫まで遡ります。比羅夫の北征は女帝斉明天皇の時代に3回あるが、問題となるのは百八十艘の軍船を率いての北征の際、比羅夫は二人の蝦夷から「後方羊蹄を以て政所と為す可し」という進言をうけそれに随って「遂に郡領を置きて帰る」とあり「後方羊蹄」が初めて歴史上に登場する。以来「後方羊蹄」の場所を巡り諸説ある。松浦武四郎は北海道説を唱え、後方羊蹄山こそが政所の古址であるとし、ルサン(留産)原野に「後方羊蹄社」史跡台を定め、阿倍比羅夫を祀る祝詞をあげた。その後、明治28年河井篤叙が政所を確信、大正2年稲村道三郎に呼びかけ留産に比羅夫神社を創祀したとされ、後に現在地へ移転。余市町には羅夫之像があり「後方羊蹄」をシシリコと読み、余市がシシリコである可能性もあるとするなど諸説あるがどれも根拠は貧弱。思い入れなら松浦武四郎がいちばんかも。
◇所在地:喜茂別町字比羅岡 ◇GPS:N42°80’82.23” E140°89’02.02”

カムイワッカの湧水真狩村 MAP

カムイワッカの湧水

羊蹄山麓の標高250m付近で湧出する自然水で福田川となり尻別川支流真狩川に流れ込む。湧出量は吹き出し公園には及ばないものの43,000t/日を誇る。羊蹄山麓の湧水で一般開放され車で近くに行けるのは、京極町の吹き出し公園とここだけのようです。道々66号沿い「羊蹄山自然公園」の入口近くにあります。安政5年、松浦武四郎の道路開発調査時に「驚いたことにこの雪の深いのにもかかわらず綺麗な泉がふつふつと沸き出している。だからアイヌが昔からこれをカムイワッカ(神水)と呼んだのである」と武四郎はこれを諒とし「小山が三つ並んでいて、そこの辺(留産)でイナオをたて後方羊蹄山の社をここに建てようと、アイヌ達と相談をしてうやうやしく祭文を読み上げて、山の神を拝した」と後方羊蹄日誌に記す。余程ここが気に入ったとみえる。
◇所在地:真狩村字社215

松浦武四郎探検地上陸地点標柱跡蘭越町 MAP

松浦武四郎探検地上陸地点標柱跡

蘭越町では標柱は上陸地ではなく誰の目にも触れる場所ということで名駒生活改善センター(蘭越町支所)の横に松浦武四郎探検地上陸地点という開拓記念跡標柱を設置したというが、経年劣化により消失し標柱跡の窪みが残っているだけで更新もされていません。写真は現在の場所の写真に碑が建っていた頃の写真(蘭越町郷土研究誌・追録)を合成したもの。松浦武四郎は三度に渡って尻別川の探索をしているが、安政4年の5月6日に現地のサケノカロ、スイト、五右衛門、甚四郎を案内に尻別川を二艘の丸木船で遡り現在の名駒橋下流付近に上陸し宿営、翌日は石淵付近まで遡るが雪解けの激流とテッシに阻まれ引き返している。 元々はメナと呼ばれた地域で蘭越発祥の地でもあり近くに蘭越発祥の記念碑がある。◇所在地:蘭越町名駒町210番地

後志地方の松浦武四郎碑と関連史跡など

ルペシベ通行家跡記念碑ルペシベ通行家跡・碑文まつらの滝名碑カムイワッカの湧水松浦武四郎歌碑・神恵内村松浦武四郎歌碑・京極町
松浦武四郎歌碑・碑文・京極町かつてのオカムイ様比羅夫神社-02松浦武四郎歌碑・倶知安町比羅夫之像の武四郎歌碑相馬株式会社社屋
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