松浦武四郎の碑を巡る
石狩川下流域と支流域にみる松浦武四郎の碑‼

松浦武四郎翁顕彰碑 岩見沢市 map

岩見沢市北村

岩見沢市役所 北村支所の横の目立つところに碑があるので探すのは容易。☆顕彰碑の裏面には石狩日誌の“柳を切り、是を曲げて一枚のふきを被せて篷にかへ、櫂に附帆となし”の松浦武四郎が描いた絵が彫られている。松浦武四郎が描いた絵を彫った碑はこの碑の他では留萌と中札内にあった歌碑だけと思うがこちらは素朴な感じの絵です。参考までに丸山道子現代語役「石狩日誌」にある「図5 石狩川をさかのぼる図」と言うのは図書館で見られるでしょう。☆北村農業資料館にも立ち寄ってみましょう。先住民族としてのアイヌを紹介、その絵は武四郎が描いた絵です。他に近くには石川啄木歌碑と鹿子百合の碑があります。時間のある方は温泉も・・・
◇岩見沢市北村栄町 北村支所横 ◇N43°15’43” E141°41’48”

北村開拓記念碑(松浦武四郎漢詩碑)岩見沢市 map

岩見沢市北村-02

たまたま松浦武四郎翁顕彰碑を見に行って同じ様な形をした碑が有るので気になって見てみると、碑文の書き出しが松浦武四郎の漢詩ではじまっていました。ここでは漢詩の部分だけを紹介。“江辺草褥 一夜枕東流 嗄々水禽叫 悠々動容愁”石狩日誌を見ると安政4年5月12日にニイルヲマナイで宿営したときに「ふと傍らを見ると去年野宿した同じ場所なのに気づく。そこに私が書き残した年月日や姓名を書き付けておいた木も残っていたので、その横にまた詩一絶を書き残しておくことにする」と有った。◇岩見沢市北村栄町 岩見沢市役所 北村支所
◇標高 10m N43°15’46” E141°40’46”

松浦武四郎宿泊地碑ニイルヲマナイ 岩見沢市 map

岩見沢市北村中央

岩見沢市北村市外から新篠津村に進み突き当たりのT字路を右折(ここにはバス停と二本のポプラ“不動尊記念保護樹”が有る)してすぐに左折、旧石狩川を越えて道なりに進み分岐点を右側に進むと赤川排水機場。赤川排水機前から堤防方向を見るとオンコの木がありそこに碑が有ります。昭和54年に開村80年記念として、赤川排水機構近くの土手の下に建立されましたが堰堤の工事で移転し石碑となって再建。排水機構の反対側には分村記念碑(開村碑)があります。“碑の裏に「安政三年五月九日エンリシウ外九名。安政四年五月十三日トック乙名セツカウシ外三名、同年閏五月二十一日上川アイヌニホンデ外一名とともにこの地に泊まった」と”の説明文がある。武四郎はアイヌの小舟に乗って石狩川を往来し、北村沿岸を4回航行して、安政3年から5年までの間に計3回、ニイルヲマナイに宿泊していました。特に安政5年の踏査時は仮小屋を造り雪の上でゴロ寝をしたところ体温で雪が溶け、夜も更けると体が30cmほど雪の中に沈み、朝には耐え難い寒さに唇がしびれてものも言えないと、踏査行の厳しさを書き綴っている。
◇岩見沢市北村中央(赤川?) ◇N43°14’05.8” E141°40’20.6”

対雁番屋 対雁駅逓所跡史跡標柱 江別市 map

江別市・対雁駅逓所跡

 享保年間に石狩13場所のひとつとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と石狩川を利用した内陸への交通と舟運の要所となっていた。駅逓所の開設は明治12年で翌年対雁・江別両村戸長役場が置かれたが明治15年の鉄道開通で市街中心地は江別や野幌に移る。また樺太アイヌが強制移住をさせられ、明治19~20年にはコレラの流行により、300人以上の犠牲者を出す悲劇にみまわれた歴史があり慰霊碑がある。碑は新石狩大橋に近い国道337号沿いの榎本公園に隣接、榎本公園は戊辰戦争で旧幕府軍として戦った榎本武揚の農場跡で榎本武揚像がある。安政4年の夕張踏査の時、場所支配人が横暴な振る舞いを松浦武四郎に告げ朽ちされるのを警戒し、武四郎と懇意の案内人を出さないなど色々しと工作したようだが、武四郎はアイヌ達に災いの及ぶのを心配し大事にはしていない。それでなくとも幕府役人に知られたくない事が多々あったようだ。
◇所在地:江別市工栄町 ◇N43°12’73.62” E141°51’51.04”

弁天歴史公園 運上屋棟石狩元小屋-再現施設 石狩市 map

弁天歴史公園 運上屋棟

 元小屋とは石狩川および支流に設置されたイシカリ十三場所の元締めなので元小屋と称されたが、通常は運上屋(会所)という施設、明治初期には場所請負制廃止でその役目を終えます。石狩場所請負人であった村山家の屋号は「阿部屋」で、初代伝兵衛は元禄期に蝦夷地に渡ったと云われ、廻船業から場所請負に手を広げ最盛期は三代目伝兵衛の頃で東蝦夷地11ヶ所、西蝦夷地7ヶ所の請負であったという。1806(文化12)には石狩十三場所を請負うが、6代目伝兵衛の時に場所請負制度が廃止され一漁場の経営者となる。場所請負人についての評価は色々とあるが、その特徴は徹底した植民地経営方式といえるかもしれません。運上屋棟は横町あたりにあったとされるイシカリ十三場所の元小屋をスケールダウンし現代風に再現した観光案内所(観光協会事務所)で、ここで展示されたジオラマは松浦武四郎の「西蝦夷日誌」も参考にして作成しているとの事。松浦武四郎は安政3年から安政5年にかけてヌプシャ越し、十勝越し、石狩上流見聞などのため石狩元小屋にに連続して訪れている。武四郎が指定した案内人を病気で行けないなと色々と理由をつけてださない。道中の番屋(通行屋)では宿泊を断るなどの妨害工作があった事が丁巳由宇発利日誌に克明につづられている。◇所在地:石狩市弁天町38

阿寒湖畔の松浦武四郎北海道庁旧庁舎 訪問予定

画像枠-01

北海道庁旧庁舎(通称・赤れんが庁舎)は1818(明治21)年に建てられた建造物で国指定重要文化財となっている。その北海道庁旧本庁の二階廊下に、北海道出身の岩橋英遠画伯が描いた「阿寒湖畔の松浦武四郎」の大きな絵が掛けられている。カムイヌプリやカムイトウの景色の中に武四郎の人物像が描かれているもので、以前にみた摩周湖第一展望台にあった絵と同じ構図だった様な記憶がある。摩周湖第一展望台の絵は展望台の改修工事で無くなってしまった。松浦武四郎が阿寒地方を踏査したのは、松浦武四郎蝦夷地最終第6回目の1858(安政5)年で「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」の「安加武留宇智之誌 壱・弐・参」にある。「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」は出版禁止となったため、戊午東西蝦夷山川地理取調日誌を元にした「久摺日誌」を出したという。岩橋英遠画伯はほかにも松浦武四郎を描いたものに「憂北の人-屏風4曲1隻」が北海道立近代美術館にある。◇所在地:札幌市中央区北3条西6丁目 北海道庁旧本庁

東西蝦夷山川地理取調図松浦武四郎制作-松浦図 訪問予定

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旧庁舎の文書館には松浦武四郎の資料があり「近世蝦夷地地図作成上の一大傑作」と賞賛された「東西蝦夷山川地理取調図」が展示されている。北海道の外周詳細は伊能忠敬とその弟子間宮林蔵が作られた「伊能図」によって明らかにされたが、内陸部は松浦武四郎がアイヌの人たちの案内で空白を埋め尽くした。国会議員の故萱野茂氏は「アイヌ民族は松浦武四郎にならどんな小さな川、山、岬をも教えた」と言われたというが、松浦武四郎がアイヌ民族から信頼されていたからこそ可能だった事を証明している。松浦図に9800ものアイヌ語地名が掲載されているが、今の地図で云うとおよそ20万分の1と同じで、掲載できる地名には限りがあり実際にはその数倍のアイヌ語地名があったと思われる。地質学者ライマンも松浦武四郎の地図を使って北海道内陸部を調査したという。屈斜路湖畔のアイヌ民俗資料館にも26枚を合わせた「東西蝦夷山川地理取調図」がある。◇所在地:札幌市中央区北3条西6丁目 北海道庁旧庁舎

札幌ふるさと文化百選・本願寺街道札幌市 map

本願寺街道

本願寺道路(本願寺街道・有珠新道ともいう)は東本願寺の現如上人が中心となって札幌と伊達市 尾去別とを山越えで結ぶ街道として明治3年に着工し、1年3ヶ月後の明治4(1871)年10月に完成、国道230号線の原型となった。本願寺道路をベースに直線化や拡張された旧国道や本願寺道路は定山渓から中山峠、簾舞などにその一部が残されている。簾舞では本願寺道路の新道が開通した時点で、それまでの本願寺道路が「旧道」となり、後にその「新道」部分が拡幅され「国道230号・現旧国道」になった。旧本願寺道路の一部が保存整備され、簾舞中学校を挟む形で、離れて二箇所あり説明板に『安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家、松浦武四郎だった』とあり、旧簾舞通行屋(駅逓)は本願寺道路開削の翌年に開設されているが明治19年の新道開通後で現在地に移転した。一般的に通行屋は江戸期の宿駅だが簾舞は例外。◇所在地:札幌市南区簾舞

美泉定山像定山渓温 map

美泉定山像

美泉定山は岡山県出身(1805年~1877年)の僧侶で、嘉永6(1853)年に松前に渡って布教活動を行い、江差で観音寺を再興、次いで大成に至り「宗健」と名を改め太田山大権現で住職を務め参詣道の開削に着手するが、この工事の途中に松浦武四郎と出会っている。武四郎は宗健に工事の件を函館奉行に申し出るよう薦めたが、定山はこれを謝辞したという。西蝦夷日誌には太田山(現・太田山大権現)で「1人の僧有、備前の産にて宗健と云よし。三四年住て頗土地の事に委敷故、新道の事を談ずる」とある。これは安政3年の事で、宗健は後に張碓へ渡りアイヌ民族から温泉の事を教えられ、1868年に温泉の存在を確認、現在の定山渓で湯治場を開設した。これが「定山渓の開湯」で、温泉の名は定山渓地区の開拓に貢献した美泉定山の「定山」に由来している。松浦武四郎が1858(安政5)年に道路適地調査のため、アイヌ民族を道案内として虻田より中山峠を越えこの地に到着、温泉をみて一泊しその時の様子を記録に残しているが、これが定山渓温泉最初の記録。後方羊蹄日誌(丸山道子現代語訳)では「湯の温かさが心地よく、冷え切った身体の疲れも一度に消えていく想いであった」と絶賛。◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目

岩戸観音前案内板定山渓温 map

岩戸観音前案内板

岩戸観音前の「定山渓温泉の由来」に『調査のため、アイヌを道案内として虻田より中山峠を越えてこの地に到着、岩間に浴槽を掘り旅の疲れを癒し一泊した。これが温泉のはじめである』とある。「戊午東西蝦夷山川取調日誌・上の第二巻・東部登呂留守知之誌」(松浦武四郎著・秋葉実解読)に『ヨイチヲマフナイ(白井川)川口巾三間、滝に成りて本流に落ちる。惣て山は岩山に椴の木陰森としたり。此川源はヨイチ岳の方より来るが故に号。惣て此辺の北は蛾々たる絶壁、南岸平地にして椴木立、川は皆大岩簇々としたり。其川岸二丁も下る哉、川中に温泉有るをト子ンバク、ショウロク見当り。一同驚嘆し、先は此処に来たりせば、最早三四日にして石狩へ下る事必せり。此間中の草臥(くたびれ)を此処にて休むべしと、未だ四つ頃なるに、此川に止宿する。然るに、温泉はこの川北岸其よく涌き出る様に見しまま椴の木五六本倒し、其をもて石より石へわたし橋として、一同雪中に涌出ず温泉に浴して、先達て中よりの癒ける』とあり、今はカッパが占拠している。◇所在地:札幌市南区定山渓温泉西3丁目

円山神社 開拓記念林説明板 栗山町 map

円山神社 開拓記念林

開拓記念林の説明板に「先住民はこの地をタツコフ(円山)と名付けた。幕府の探検家、松浦武四郎はここを道標として訪れ原住民コトラン家にとまったという。住民はここを地域のシンボルとして「アカマツ」を植栽して守護神を祀り先人の労苦を忍んで、地域の発展を祈念している。丸山神社 開基100年記念 栗山町」タツコフとはエバーグリンゴルフ場の入り口際にある標高80mの小丘で丸山神社の鳥居が目印。アイヌ民族や先住民ではなく原住民となっているのを他で見た記憶がない。夕張日誌にクッタリからタッコブまでの川筋と江別川二股からタツコブへの道を記しているが、武四郎が通過したのは後者で、対雁から江別川に、江別川から千歳川に入り島松川口を過ぎ宿泊予定だった魚川口のイサリブト番屋て宿泊を拒否され、千歳の釜加まで行き宿営、翌日はカリンバ川からオサツ沼、マヲイ沼を経て幌内付近に上陸し宿営、馬追丘陵を斜めに超えて、由仁川、ベリベツ川を渡り丸山に到着、丸山から夕張川傍に出てコトンランケ宅に宿泊、ここをベースにして夕張川筋の見聞をしている。下流は由仁まで、上流は行ける所まで船で、途中で船を置き陸行で竜仙峡を越て於兎牛の滝より少し手前迄行き引き返した。帰路は千歳会所まで陸行であった。長沼町の「道の駅 マオイの丘公園」に松浦武四郎紀行足跡之碑がある。
◇所在地:栗山町円山 丸山神社 ◇GPS:N42°94’14.79” E141°88’69.48”

松浦武四郎紀行足跡之碑長沼町 map

長沼町 道の駅マオイの丘・武四郎碑

樹海ロードと呼ばれる国道274号線と国道337号分岐近の丘陵に有る「長沼町 道の駅マオイの丘公園」に松浦武四郎紀行足跡之碑が有る。松浦武四郎がこの地を通ったのは安政四年。古くは馬追丘陵を越えるアイヌ道が有ったと云う事で明治年代の地図にもあるという。夕張日誌によると武四郎は旧オサツ沼、マオイ沼を船行しヤムワッカヒラで上陸、明治の地図にもあったという道を通って安政4年7月10に馬追丘陵をユウニ(由仁町)方面に抜けている。夕張川を遡りカムイコタンまで行き、その帰路にヤムワッカヒラで宿営、その後陸行して千歳会所に戻っている。以下は夕張日誌から抜粋。「十七日発(先達ての山道)ヤムワツカ平(マヲイ沼の上)に戻り宿す。五ッ時過にもあるべし。東山より出る月ヲサツマヲイの沼に照わたりて、其眺望言ん方なし。暁近くなれば葦原に露置わたして実に目覚しくぞ覚へける“出るよりやがてかたぶく月影の移り行世のならひをぞ思ふ”」と有り、帰途に詠んだ歌の様で碑文にも刻まれている。碑文の一部抜粋-前略-「安政四年七月(旧暦)札幌~夕張新道の調査を命ぜられ、石狩川より千歳川を遡上、旧オサツ、マオイ沼を船行してこの幌内に上陸、馬追山を越え、その帰途またこの地に泊して詠ず」「明治二年開拓判官、北海道国郡の区画、道名・国郡名を選定し「北海道の名付け親」として不朽の名を残す。またアイヌ民族に対する深い愛情は胸をうつものあり、その稀に見る人間性は、現代に生きる我々に人間のあり方を啓示す」-中略-「安政の昔、新道見分けの任を負い、この地を踏査した足跡にかんがみ、まこと国道二七四号線「樹海ロード・道の駅」に相応しく、その高き志を形象し、由緒を刻みて建立す。平成八年七月七日」 写真で見るように大型の碑で、上部は大銅神鏡を模し旅に携帯した鍋を収め、裏面には夕張日誌にある経路図が刻まれている。
◇長沼町東10線南7番地 道の駅 マオイの丘公園 ◇N42°57’00.0” E141°42’58.1”

イサリブト番屋と船着場説明板 恵庭市 map

イサリブト番屋跡

千歳川と漁川との合流点から漁川の方に入り800mほど上がると林の中に鳥居と石灯籠、恵庭神社遥拝所跡の碑がある。イサリブト番屋(通行屋)と船着場の図によると昔と川の流路は変わっているようだがこの一角が番屋跡のようだ。かつてのイザリブト番屋の様子は解説パネルに描かれているイサリブト番屋の図(松浦武四郎の再航蝦夷日誌)で容易に想像できる。平成18年に番屋と船着き場の範囲が特定されたようでパネルの説明文も更新され松浦武四郎等の紀行文引用はなくイサリブト番屋の図のみとなったが、1807年には幕府によって官吏のいる番屋が設けられ、大きな本陣風の茅葺きの建物があり、まわりには蔵やアイヌの人々の家が立ち並んでいたという。新説明パネルの内容は写真で代えます。

松浦武四郎の「夕張日誌」「再航蝦夷日誌巻之二」にも記録有り「イサリブト従ツイシカリ十一里。此処漠々たる広野にして此々沼有。又枝川も網を曳けり。沼は左右に有て到而湿深きところ也。此処に到り四面とも山と云は少しも見ることなし。蔵の屋根え登らばシコツ山見ゆる也。番屋は大きく建たり。弁天社、蔵々有。チトセ支配所也。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人熊、鷲を多く飼えり。また鶴多きよし。・・・此処より、公料のせつはチトセ迄陸道有し由なれども、今は其道絶たり。実ニおしきものぞと思ふなり」と記している。

恵庭神社遥拝所は1996(平成8)年まで社があり、地域の人々は稲荷と呼んでいたというが松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」では弁天社となっており何度かの変遷を経て現在に至っている。◊所在地:恵庭市林田 恵庭神社遥拝所跡 ◇GPS:N42°57’04” E141°37’42”

千歳川会所跡説明板 千歳市 map

千歳川会所跡

 千歳川とその周辺はサケやシカ等の天然資源に恵まれシコツ場所と呼ばれ、かつては四ヶ所の出張番屋があったと云うが、文化元年に2カ所の会所、文化6年に千歳川会所になり、のちユウフツ場所に編入されたという。最後の場所請負人は山田屋文右衛門のようで、千歳川会所と船着場は現在の千歳橋の近く、ホテルかめやの所に有ったという。松浦武四郎の夕張日誌に「昔シコツと呼んだ川で、その音が「死骨」を連想させるので不吉な感じがするからと・・・・・千歳と改名されたのである」と、地名でこのような事は良くある話です。

千歳川会所説明板より
『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々と交易をする独占的な権利を与えました。やがて藩士たちはこの権利を商人に預け運上金(税金)を納めさせます。権利の及ぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物がたてられました。寛政十一年(1799)年、幕府は蝦夷地を直接支配し「運上屋」を「会所」と改名します。「会所」は幕府の役人もいて交易の他に役所の出張所の役割もしました。千歳では文化元(1804)年、売場会所と買場会所がたち蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。文化6年(1809)二つの会所は1カ所にまとめられ「千歳川会所」となりました。安政4年、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(1818~1888)は千歳を訪れ千歳川会所のにぎやかな様子を上図(説明板の上半分の絵)のように描いています。絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。昭和65年5月 千歳市教育委員会』昭和54年に千歳神社が碑を設置したのが最初のようです。◇所在地:千歳市本町1丁目 ホテルかめや前 ◇N42°49’11.09” E141°38’49.31”

松浦武四郎の銘板銘板 千歳サーモン橋 千歳市 map

銘板・松浦武四郎紹介

千歳サーモン橋の欄干に松浦武四郎のレリーフ(銘板)が三カ所組まれている。住吉の上流側に千歳川番屋の図、下流側に千歳川番屋の図の説明と松浦武四郎の紹介、丸山道子現代語訳・夕張日誌の一文が、花園の上流側は千歳川を詠んだ和歌が刻まれている。「サーモン橋」は「インディアン水車」の下流に掛かる橋で、周囲は住宅街ですが交通量は多い。

銘板 千歳川番屋の図
安政4年7月 松浦武四郎画 石場高門跋文
この図は千歳川会所の説明板にある絵と同じ絵のようです。

銘板・千歳川番屋の図

サーモン橋・住吉上流側
銘板 松浦武四郎(1818~1888)
北海道の名付け親で6度にわたる探検を行い、道内の山川の様子を瀬に紹介した功労者でした。彼が最初に千歳を通ったのは弘化3年(1846)二度目の蝦夷探検の時でした。そして安政4年(857)5度目の北海道探検のとき著した(夕張日誌」の中でその頃の千歳のことをくわしく紹介しています。千歳川番屋の図もこの年7月に訪れたとき篆刻家でもあった武四郎が描いたもので、これに石場高門が跋文したものです。

跋文読解
ここの名を改められし 事とも思出て
あしたつの跡ととめたる
ちとせ川ちとせの後も かくてすむらむ
丸山道子訳「夕張日誌」より

銘板 千歳川
里遠き しこつの湖に 筏より 棹さしゆけば 魚のよりくる
安政4年7月 松浦武四郎

銘板・松浦武四郎和歌

「ここの名を改られし」とは「夕張日誌」にある「シコツと云しを其呼声不宜とて文化二丑年鎮将羽太君此地に鶴多きをもて千歳川と改めらる」のことで、シコツは死骨に通じ縁起が良くないという事だろう。千歳会所については「此所文化度迄は纔の漁場なりしが、山田屋某ユウブツへ新道を造り、爰の荷物は牛馬にてヒホユカリ(陸路二り)迄運び、其より船にて濱に下る様にし、また石狩へも樋平越新道開け、東西の新道出来、漁時には頗る繁華の地となりし也」の説明がある。短歌にある「平日人を知らざる」という歌の場所は「志古津日誌」によると「ヲコタヌンベツ-此川湖中の一大河也、エニワの西に当る也」とあり、恵庭岳西から支笏湖へ流れ込むオコタン川河口付近のようです。 ◇所在地:千歳市花園~住吉 サーモン橋 ◇GPS:N42°50’10” E141°39’33”

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

岩見沢市北村中央-02岩見沢市北村-03現代語訳「石狩日誌」挿画・北村岩見沢市北村-04足跡之碑碑文長沼町 道の駅マオイの丘-02
松浦武四郎紀行足跡之碑神鏡円山神社・開拓記念林-02千歳川会所跡-02恵庭神社遥拝所跡碑イサリブト番屋説明板岩戸観音堂
美泉定山像-02本願寺街道厚田オショロコツ(押琴)の湾天塩運上屋跡天塩日誌のふるさと八幡神社・旧石狩弁天舎社の鳥居
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