駅逓跡と記念碑を巡る旅
宗谷・留萌・石狩の旧駅逓所跡の碑を巡る旅‼

宗谷・留萌・石狩地方の駅逓碑

 開拓使に引き継がれた運上屋(会所)はその殆どが海岸沿いにあったが、その絶対数からみると史跡指定は少なく遺稿も殆ど残されていない。また江戸期からの宿駅が継承された所も多いようですが詳細不明という事も多い。明治以降の駅逓碑は海岸では少なく内陸に入るほど多くなるという傾向は共通した特徴です。宗谷地方に史跡として設置された駅逓碑は多いが南宗谷に集中しているようです。また駅逓碑設置後の管理が不十分で消えてしまった碑も少なからずある。

杖苫内(チエトマナイ)駅逓跡の碑開拓記念碑 稚内市 MAP

杖苫内(チエトマナイ)駅逓跡

 宗谷は貞享2年に松前藩が宗谷場所を開設したという古くから知られた地域、松浦武四郎が弘化3年、安政3年と5年にチエトマイ通行屋(漁場請負人藤野家設置か?)に宿泊しており、廻浦日記に地名の意味を「土人共食用に用ゆる白土(珪藻土)ある故に号る也」と記している。宗谷村は明治12年に戸長役場が設置されたが、その頃の東浦(杖苫内)は陸路の終着点で、その先は明治末期でも手つかずの状態で海浜を行くか船運を利用するしかなかった。正確な情報は持ち合てはいないが駅逓は明治15年(北海道宿駅制の研究では明治28年)開駅とあり、江戸時代より有った通行屋との関連は不明。稚内では東浦以外に駅逓碑の情報無し。
◇設置:明治28年02月 ◇廃止:大正07年05月
◇初代取扱人:? ◇現住所:稚内市宗谷村東浦 東浦会館前

上幌別六線(枝澤)駅逓跡の碑石碑 枝幸町歌登 MAP

枝澤駅逓跡の碑

 上幌別六線駅逓跡の碑は道道12号線沿いで歌登市街、民家前の歩道端にある。道路を挟んでイデオスのスタンドです。町史では駅逓開設が大正10年で廃止は昭和10年となっている。大正11年は正式認可の年か?民営の期間が有った様です。二代目取扱人、長村秀氏は咲来駅逓の取扱人にも出てくる。旧歌登町の駅逓跡には総て碑が建っているが、駅逓の正式名称ではなく通称(取扱人)名となっているのが特徴。此処では正式駅逓名としたが、写真は総て通称名となっている。
◇設置:大正11年01月 ◇廃止:昭和08年10月 ◇初代取扱人:枝沢武八郎 ◇二代:長村秀
◇現住所:枝幸町歌登西町 ◇GPS:N44°50’31.4” E142°28’29.7”

上幌別(渡辺)駅逓跡の碑石碑 枝幸町歌登 MAP

渡辺駅逓跡の碑

 歌登市街から一番近い駅逓で歌登最初の駅逓か、碑は道道220号線沿いで元小学校が有った所の横で道道がカーブする少し前。枝幸方面と大友駅逓の中継地で有るとともにペヤマン方面の入口にもなっていたようです。駅逓跡の碑に並んで消火栓の看板が有るのでそれを目印にするとよい。※道路工事で石碑は撤去、または移動しているかもしれません。
◇設置:明治37年02月 ◇廃止:大正12年03月 ◇初代取扱人:渡辺
◇現住所:枝幸町歌登中央 ◇N44°48’28.1” E42°26’22.9”

本幌別(矢野)駅逓跡の碑石碑 枝幸町歌登 MAP

天野駅逓跡の碑

 歌登の駅逓では開設は遅く、碑文によると昭和4年から昭和15年までの間ここにあったようだ。駅逓所の碑は道道220号線が直角カーブを避けるように改良されたので、旧道側に入ると本幌別の集会所脇に有る。碑の文字が天野とも見えるが、とりあえず矢野としておく。廃駅は堀駅逓より2年ほど早い。碑には「昭和五十九年十月開基八十八年記念受彰者一同 建之」と記されている。設置から既に20年以上過ぎている。◇設置:昭和04年05月 ◇廃止:昭和16年10月
◇改称:昭和07年08月 上幌別26線を改称 ◇初代取扱人:矢野浅一
◇所在地:枝幸町歌登字本幌別 ◇N44°45’54.2” E142°22’37.0”

本幌別(大友)駅逓所跡石碑 枝幸町歌登 MAP

天野駅逓跡の碑

 こんな所にと思うような所で駅逓の碑を見かける事がある。それは峠の麓などなのだが本幌別で見た大友駅逓跡の石碑もその1つ。碑文によると明治41年から大正15年までの間となっているが私設駅逓の期間も有る様です。大友駅逓所はその位置から見て上幌別と音威子府(咲来駅逓)との中継地だったと思われる。道道220号線沿いの駅逓跡碑近くに小さな松林と牛に空き缶があたる道路標識があった。◇設置:明治37年02月 廃止:大正13年06月 ◇初代取扱人:大友金吉
◇所在地:枝幸町歌登字本幌別 ◇N44°43’33.3” E142°21’00.3”

志志美宇丹(堀)駅逓所跡石碑 枝幸町歌登 MAP

天野駅逓跡の碑

 宗谷管内の市町村の中で旧歌登町は駅逓所の設置数は多い方で、志美宇丹駅逓所の他に上幌別駅逓所、大友駅逓所、天野駅逓所、大曲駅逓所などが有った。総ての駅逓跡に記念碑を確認していますが、堀駅逓もその一つで、乙忠部から歌登に抜ける道道120号線沿いの志美宇丹郵便局横に碑が有ります。
◇設置:大正10年12月 ◇廃止:昭和14年11月 ◇初代取扱人:堀新蔵
◇所在地:枝幸町歌登志美宇丹 ◇N44°46’08.1” E124°34’39.6”

上徳志別(松田)駅逓跡の碑石碑 枝幸町歌登 MAP

松田駅逓跡の碑

 歌登最後で再奥の駅逓、志美宇丹と仁宇布駅逓の中継を担っていた様です。駅逓は道道120号線の旧道沿いで加須美峠と旧国道が峠へ向かう分岐点にある。此処から仁宇布迄は二つの峠を越える難所だったが、天の川トンネルの開通でルートが変わっている。旧枝幸町に有った7駅逓の内、場所がほぼ正確に分かっているのは乙忠部と音標の駅逓所だけで、他は確かな情報は無く駅逓の碑も無い。新道は美深町ヘ。◇設置:昭和09年08月 ◇廃止:昭和20年07月 ◇初代取扱人:松田鹿蔵
◇現住所:枝幸町歌登大曲 旧国道沿い ◇GPS◇N44°40’14.5” E142°34’40.5”

オトンルイ駅逓所跡史跡標柱 幌延町 MAP

オトンルイ駅逓所跡

 現在の浜里、国道106号線沿いでオトンルイの風車群と防雪シェルターの中間部で廃業したソフトクリームの看板が有るドライブイン前に幌延町が開基100年事業として設置した駅逓跡の碑がある。他に何もないので比較的分かりやすいと思います。近くには風車公園と北緯45度のモニュメント有り。
◇設置:明治32年03月 ◇廃止:昭和04年06月 ◇初代取扱人:定平平太郎
◇二代:大庭金次 ◇三代取扱人:佐木嘉七 ◇四代:植村留助
◇現住所・幌延町浜里 ◇GPS◇N44°59’52.8” E141°41’02.3”

下サロベツ駅逓所跡史跡標柱 幌延町 MAP

下サロベツ駅逓所跡

 現在の下沼に開設されたという駅逓で、かつての下沼小学校は取扱人であった山田権左衛門より土地を寄贈されてできたと云う。下差炉別駅逓所とも書かれたようです。碑は下沼225番地で日東エフシー付近というが、下沼の地元でこの番地を知っている方もなく、碑の場所を知る人もいなかったが、日東エフシー正門の横15m程の所にイタドリの中に埋もれているのを発見した。下沼には下沼駅近くに「下沼の湧水」「サロベツの湧水」などと呼ばれていた無名の湧水があったが、駅逓管理人の名前を頂いて「湧水 サロベツ 権左衛門」と命名された。
◇設置:明治40年04月 ◇廃止:大正15年03月
◇初代取扱人:山田権左衛門 ◇現住所:幌延町字下沼225番地

大曲駅逓所跡史跡標柱 幌延町 MAP

大曲駅逓所跡

 幌延町は開基100事業として平成十年にオトンルイとともに大曲駅逓跡に標柱を設置している。元町と呼ばれ幌延町の旧市街という。かつてこの近くに渡船場が有ったと云うので天塩川経由で人と物資の流れが有ったのでしょう。大曲唯一のセイコーマート横が碑のある大曲バス停になっている。幌延町ではトイカンベツ駅逓所跡にも史跡標柱が設置されたと云うが、今迄4回の探索でも未発見だった。そして最後の探索で標柱設置当時の写真から気づいたのは、かつて標柱があったと思われる道道583号線にかかる8線橋から道道785号線とのT字交差点のまでのカーブが角度が変更され旧道が残っていた事。道道583号線の改良工事で消失したものと思われる。
◇設置:明治44年12月 ◇廃止:大正15年07月 ◇初代取扱人:赤松松太郎
◇現住所:幌延町元町 大曲バス停横 ◇N45°00’42.2” E141°50’46.9”

天塩駅所逓跡史跡標柱 天塩町 MAP

天塩町-01

 天塩駅逓の開設は明治5年と有ったが実際は場所請負人が駅逓業務も請け負っていたので運上屋廃止後の駅逓業務は開拓使に引き継がれているのだが廃駅年は詳細不明、明治15年の駅逓取扱人一覧に天塩運上屋現地支配人だった菊地和三郎の名があるので廃止は明治15年以降、駅逓への官費援助が廃止された明治18年以降かもしれない。鉄道開通前は天塩川を利用した船運が物流の中心で天塩はその入口。駅逓取扱人が廻漕店を経営していたことは駅逓業務を遂行する上では有利な条件だったのでしょう。再設置は最終的な駅逓制度が確定し官費援助が再開される前年の明治32年となる。空白期間がありそうなので最初の駅逓と再設置後の駅逓の場所は異なっているかもしれない。後に開設された作返、雄信内、南雄信内の駅逓跡に碑は無い様です。付近の海岸線では幌延町と豊富町に駅逓跡の碑があるのみ。
◇設置年:明治5年 ◇廃止年:詳細不明 ◇駅逓取扱人:菊地和三郎 松岡隆三
◇再設置:明治32年06月 ◇廃止:大正13年06月 ◇初代取扱人・鈴木栄三郎
◇所在地:天塩町海岸通2丁目23番地の1
◇N44°52’54.6” E141°44’37.5”

仁奈良駅逓跡碑仁奈良山道 増毛町 MAP

仁奈良山道

 増毛道路の開削にあわせて明治24年に設置された三駅逓の一つで、他に尾白利加、恵岱別の駅逓がある。駅逓の有った所は峠をかなり下った御料地区で「恵比寿橋」近くで、道路脇の高い所(旧道の入り口?)に増毛町が設置した史跡標柱が有ります。増毛側に仁奈良駅逓が設置され「仁奈良山道」と呼ばれたという。石狩川から日本海に抜ける「信砂越え」ルートは古くからいくつかのアイヌ古道があったようですが、文化5年に信砂越えの開削が行われ、翌年に会津藩兵が山道を通って石狩川筋に出て帰藩したあと殆ど利用されず廃道化をたどった。増毛道路は松浦武四郎が1856(安政3)年に敢行した信砂越えルートに沿って殆どが囚人によって開削された道で、概ね今の道道94号・増毛稲田線が通るルートだが、峠部分は今の石油沢から峠を越えて信砂川の上流部に抜けていたようです。◇設置年:明治24年06月 ◇廃止:明治36年02月
◇所在地:増毛町御料 ◇N43°47’25,9” E141°40’52,8”

武好(ぶよし)駅逓所跡増毛山道 増毛町 MAP

増毛山道入り口

 増毛山道は増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶ全長約26.8kmの山道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削した。工事費用は濃昼山道と合わせ現在の貨幣換算で2億円以上と商人が拠出する金額としては半端ではない。増毛山道は江戸時代に開削された山道では最も険しく唯一1000mを超える山道という。増毛町の岩老から海岸伝いに岬を越え、雄冬に達した経路が新増毛山道、岩老に降りず、別苅から山間を直行して浜益に至るのが旧増毛山道。昭和25年頃迄は建物が残っていたという武好駅逓は、新旧の増毛山道にあわせ設置場所を移動している。明治期の山道は郵便物をやり取りする重要路となり、山道途中の武好駅逓で雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達がここでお互いの郵便物を交換し、また戻っていくという業務が繰り返された。駅逓には管理人が置かれ(常駐していなかった期間もある)旅人の宿泊などにも利用された。増毛山道は交通網の発達に伴い廃道になって70年以上になるが「増毛山道の会」によって復元が進められ、新旧の武好駅逓跡も確定されたという。新武好駅逓跡は岩尾から約7.7kmの距離、新武好駅逓跡まではいけるらしいが登山装備が必要。
◇設置:明治29年09月 ◇廃止:昭和16年06月 ◇所在地:増毛町別苅~石狩市幌

サンタロベツ通行屋跡手稲史跡説明版 札幌市 MAP

画像枠-02

 本願寺道路開通の1871(明治4)年~翌年にかけて開拓使は定山渓、簾舞、三樽別、厚別に通行屋を設置した。通行屋や駅逓は交通網の発達で次第にその役目を終え廃止されていくことになります。明治4年設置のサンタロベツ通行屋は小樽、銭函方面から来ると札幌の入口に位置し、旅人の休憩地になっていた所で、付近には餅屋や馬具店などがあったという。通行屋の家守は岩手県出身の吉田新兵衛という人で休憩所、宿泊所業務を取り扱っていた。廃止年はわかりませんが明治13年に手宮~札幌間の鉄道開通、翌年には軽川駐車場(手稲駅)ができ、中心地は軽川に移ることから、この頃に廃止されたものとおもわれる。通行屋跡の史跡表示板は二十四軒手稲通にかかる二条橋袂にある。明治2年に場所請負制廃止、明治3年の全道駅逓人馬供給仮制度創設後に開設したサンタロベツや簾舞を駅逓ではなく通行屋と呼称した理由は何だったのか?◇所在地:札幌市手稲区富丘2条5丁目2

島松駅逓所跡移転前の島松駅逓跡 恵庭市 MAP

移転前の島松駅逓跡

 松浦武四郎の戊午東西新道史に「(島松)川をこえて小休所二棟、是去年鎮台通行の時立たしとかや」とあり、安政4年に勇払六場所の請負人の山田文右衛門が休憩や宿泊のために設置した小休所でした。1873(明治6)年の札幌本道開通に伴い駅逓設置が決まり、初代の駅逓取扱人は漁場持ちの山田文右衛門でしたが、明治8年の漁場返上で元勇払場所総支配人の山口安五郎氏が2代目駅逓取扱人となる。明治10年より中山久蔵氏が請負人となり取扱人は鶉谷新治郎氏(北海道宿駅制の研究では2代目・松原岩吉、3代目・山口安五郎、4代目・鶉谷新次郎、5代目・中山久蔵氏)に変わっています。説明板がある後方に初期の島松駅逓の建物が広がっていたという。明治17年に中山久蔵氏が正式に駅逓取扱人となり、同位置に近接する中山邸が駅逓所となり現在地に変わったようです。明治10年にクラーク博士が島松で農業実習をし「青年よ大志を抱け」と有名な言葉を残し学生たちと決別したクラーク記念碑が旧島松駅逓舎横にあるが、北広島と恵庭を含む島松沢が舞台でした。◇所在地:恵庭市島松 ◇N42°92’28.85” E141°53’82.64”

駅逓所縁の人物・施設&記念碑など

兜沼資料室・豊富町発祥の地上サロベツ駅逓所跡 豊富町 MAP

兜沼資料室

 梅村庄次郎氏は明治36年に岐阜から入植した移住民のリーダーで、明治41年に豊富町で最初の郵便取扱所を開設、翌年に駅逓所を開設している。郵便取扱所は大正7年には兜沼郵便局となる。駅逓は昭和3年に廃駅、昭和9年、2代目局長・梅村喜久三が現在の局舎を建て、3代目も梅村氏が局長を勤めます。昭和55年からは梅村家私設郷土館となり、平成3年に一部が町に寄贈され「兜沼資料室」として豊富町の資料室となっています。現在残っているのは昭和9年築の郵便局舎で駅逓関連の施設は有りません。旧兜沼郵便局横に豊富町発祥の碑があり梅村庄次郎氏の功績を讃えている。駅逓に関する記述はないが上サロベツ駅逓所跡でもある。蛇足ですが樺太、眞岡の郵便局で散った9人の乙女を題材にした日本テレビドラマ「霧の火」のロケ地。
◇豊富郷土資料室「兜沼資料室」 ◇開間5月~10月 期間中の土・日曜日
◇所在地:天塩郡豊富町上サロベツ3863

顕彰碑 古潭小学校厚田駅逓所取扱人 MAP

画像枠-2

明治2(1869)年に場所請負制度が廃しされ運上屋は本陣に(箱館奉行の出先機関)なるも明治5年に本陣を廃し駅逓所になり戸長役場(開拓使出先機関)が設けられた事が多いようですが、厚田では明治2(1869)年から明治7(1874)年まで開拓使出張所が置かれていた。初期の駅逓は運上屋や運上屋付属の通行屋を駅逓として使用されることが多かった。古潭の教育に貢献をされたという佐藤辦蔵氏は、津軽温湯村に生まれ安政4(1855)年厚田に移住。厚田、古潭の寺子屋、教育所を創設、剣道場の開設などに貢献をされ村総代、郡総代、学務委員などを歴任。また通行取扱からその後に続く駅逓取扱人でもあった。明治9(1876)年当時に駅逓取扱人でもあった佐藤辦蔵氏が自費で教員を雇い、駅逓で児童への教育を始めたという。これが古潭小学校の始まりと云う事で古潭小学校創立90周年記念事業協賛会で昭和40(1965)年に顕彰碑を建立したようです。碑文にある寺小屋は具体的に云うと駅逓の事だったのでしょう。◇所在地:石狩市厚田区

札幌開祖志村鐵一碑豊平川渡船場と通行屋 札幌市 MAP

画像枠-3

 明治元年当時に豊平川渡し守をしていた「志村鉄一」氏で札幌に初めて定住した和人と言われ、札幌開祖とも呼ばれている。安政4年に銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)の開削が始まると、豊平川の渡船場と通行屋(宿泊・休憩所)の渡守として、家族3人で豊平川沿いに住居を構えていたという。明治2年に通行屋の建物は解体・移設され開拓使仮本陣り代わり、通行屋と渡し守の役目を解任されるという、札幌開拓の功労者としては不孝な結末でした。豊平川右岸にある橋台小公園に「札幌開祖志村鉄一碑」と記された石碑が建立されています。この碑は現在地より約120m下流の住居跡にあったというが豊平橋架け替えで昭和42年に移転、通行屋として使われた住居跡碑は豊平川の土手車道際にある。箱館奉行など幕府役人や松浦武四郎がこの通行屋に宿泊している。◇所在地:豊平区豊平4条1丁目

札幌開祖吉田茂八碑豊平川渡船場と通行屋 札幌市 MAP

画像枠-3

 吉田茂八は明治元年当時に豊平川左岸の渡し守をしており、札幌に初めて居住した和人であり、志村鉄一と吉田茂八の二人を札幌開祖と言う事になっているという。幕府の石狩役所が設置された際、主人の亀谷丑太郎と共に石狩へ移住した吉田茂八は、安政4(1857)年に豊平川に渡船場が出来た際に、石狩役所調役荒井金助より志村鉄一と同様に渡し守として任命されました。当時の居住者は吉田茂八家は4人、志村鉄一家は3人、札幌はこの2戸から始まりました。明治2年の豊平川右岸通行屋廃止後は吉田茂八が引き継ぐことになります。豊平端左岸側にある小さな公園に石碑が有るが、茂八が定住したのは南4条東4丁目辺りという。 ◇所在地:南5条東4丁目

開拓使-札幌本陣跡クラーク博士居住地跡 札幌市 MAP

画像枠-4

 1871年(明治5年)に開拓使本庁所在の北海道最大規模の駅逓所として木村某氏を初代取扱人として「札幌本陣」を開設、開設後は移転を繰り返し移転の都度、駅舎の改築が行われた。経営も不安定で取扱人も長く勤めた人はいないようで、1889(明治22)年に廃止。開拓使本陣は駅逓所になっていた他、御雇外国人の宿舎としても利用され「脇本陣」も駅逓所、通行屋として使われていた。

説明板より転載

 「宿舎の役目を持つ本陣は、明治5年に竣工し建築面積800㎡の木造平屋建ての当時としては最大の建物であった。8年からは主にお雇い外国人用として使われ土木工学技師ホイラーなども居住していたが12年に焼失した。クラーク博士は終始この本陣に居住し、ここから農学校の開校式に臨み又、建築間もない札幌の様々な施設などを視察している。明治10年4月16日、クラーク博士は本陣前で馬上の人となり札幌に別れを告げ帰国した。」◇所在地:札幌市中央区南2条東1丁目 創成川河畔 住友生命札幌中央ビル前

千歳郵便取扱所・駅逓所跡関連碑駐蹕之碑 千歳市 MAP

駐蹕之碑

 千歳川会所は明治2年11月の本陣から明治5年5月に駅逓取扱所(駅逓所)と変り駅逓から郵便業務が分離された。勇払場所請負人・山田文右衛門は請負で駅逓を勇払、白老、苫小牧、千歳、島松に設置、明治8年の漁場返上で石山専蔵が駅逓取扱人となるが、戸長就任で駅逓経営を離れるも再び取扱人となっている。駅逓廃止は明治22年以降、明治33年より前のようだ。郵便業務は明治5年に早くから千歳で旅館を経営していた新保鉄蔵が引き継いでおり、駅逓看板は千歳最初の郵便局(郵便取扱所)で有った事を示す千歳市有形文化財(個人所有-非公開)に指定されている。1806(明治39)年に再設置された官設千歳駅逓所の取扱人は新保福治でした。新保旅館創業者の新保鉄蔵は、宿泊者へのサービスと郵便業務のため馬を所有しており、繁忙期で駅逓所(旧千歳会所?)での手伝い、駅逓廃止後も駅逓と同様の仕事もしていたと云い駅逓開設の条件が整っていたのでしょう。前期、後期ともに千歳駅逓所や駅逓取扱人の碑はないが、関連碑としては明治初期の駅逓は千歳会所跡、千歳駅逓所跡は明治14年に明治天皇の北海道巡行時に新保旅館に宿泊したのを記念して昭和11年に建立された駐蹕之碑があるだけのようです。
◇所在地:千歳市本町5 新保宅前 ◇N42°43’59.06” E141°38’57.89”

その他の旧駅逓と駅逓碑

現存する旧駅逓に関しては旧運上家と旧駅逓所に掲載したので地域別の駅逓跡では簡単に触れるにとどめた。このエリアでかつては駅逓(江戸期を含む)の存在した猿払村、浜頓別町、旧枝幸町、遠別町、初山別村、小平町、留萌市には駅逓碑が存在しない。初山別村にはかつて初山別郵便局前に駅逓碑があったが、郵便局の新築移転で撤去された。また平成の初めまで駅逓舎の残されていた有明(有明郵便局前)は解体され更地になっている。小平町には駅逓碑は存在しないが駅逓敷地跡は公園として活用されている。留萌市はやや特殊で駅逓関連の跡はそのほとんどが留萌港の中に消えてしまった。幌延町の問寒別駅逓は旧道から新道への切り替え工事で消失したものと思われる。中には江戸から明治初期の旧道復元で復活した武好(ぶよし)駅逓跡の例もある。史跡でも碑設置後の管理が不十分な場合は消えてしまう。

宗谷・留萌・石狩エリアの旧駅逓記念碑

旧島松駅逓クラーク記念碑-01旧島松駅逓クラーク記念碑-02千歳駐蹕之碑○○○○○○
島松駅逓所跡-02島松駅逓所跡-03上サロベツ駅逓所跡02大曲駅逓場跡02稚咲内止宿場02上幌別・渡辺駅逓跡02
クラーク記念碑-03旧島松駅逓看板矢野駅逓跡02志美宇丹駅逓跡02本幌別・大友駅逓跡02矢野駅逓跡02志美宇丹駅逓跡02本幌別・大友駅逓跡02
コンテンツ内容の修正と新規に写真を追加しました。
横走り pagetop  戻る  先へ

駅逓(記念碑)を巡る旅

松浦武四郎の碑を巡る

日本海にしん街道碑

道北,道東・特集編

掲示板 BBS

  • NEWゲストブック
  • 更新情報TXT掲示板
  • 新着情報画像掲示板

リンク集 My Links

W3C準拠 RSS配信

正当なCSSです!

W3C準拠で作成しています

rss10 rss20

相互リンク

ウエブリンク

カニ一番

カニ一番01

楽 天

楽天・季節特選  楽天・ファミリー市場  楽天・アウトドア市場 

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-2