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松浦武四郎の碑を巡る
オロロン&宗谷・松浦武四郎の碑や説明板など‼

はじめに

◇市町村別に分散した松浦武四郎関連の記事をまとめ再構成したものです。 ◇碑や説明板等はできる限りマップを作成し所によってはGPSデーターを添付しています。

利尻運上屋跡利尻富士町

利尻運上屋跡運上屋跡は利尻富士町の本泊地区にあり、写真の後方側に復元された石段がある。利尻での商場が開設された時期は不明だが利尻場所最初の請負人は明和2(1765)年の恵比須屋岡田弥三右エ門で、文化4(1807)年より岡田源兵衛、天明4(1784)年から恵比須屋岡田治助だったようです。文政6(1823)年に利尻場所(礼文島を含む)が恵比須屋より柏屋(藤野)喜兵衛に譲渡され、水戸藩より利尻島請負を罷免された明治2(1869)年まで柏屋(藤野)の独占場所でした。今の場所に運上屋が置かれたのは1823年頃のようですが、運上屋は5間半×13間程と云い、運上屋跡は利尻町の指定文化財となっている。幕末の探検家・松浦武四郎は弘化3年9月28日に宗谷より礼文に渡り、同日には利尻に移動し利尻運上屋にて宿泊したようだ。翌日は浪高く雨だったようだが本泊から反時計回りにヲタドマリまで行き番屋泊り、翌30日は鴛泊まで廻り、鴛泊から本泊迄の間を見残して抜海に渡海している。蝦夷日誌に「運上屋 東北の岬ニ有り。ホントマリ(本泊)と云、弁天社、蔵々有。・・・・船澗島中に二ヶ処有。一ヶ所は運上屋前。一ヶ所は是より二里計南の方ウシトマリ(鴛泊)番屋前也」と記されている。また西蝦夷日誌・巻之七に本泊を「本名トノマ」「名義殿澗にして、往古大将分の人[の船]、来たりし処と云」とある。それにしてもフェリーと車で3日かかった距離を、武四郎は帆船と小舟で僅か3日という尋常ではない早さで廻っている。◇所在地:利尻富士町鴛泊字本泊◇Gmap:45.250325, 141.188745

松浦武四郎宿営の地稚内市MAP

稚内市声問-01宗谷地方では最初の武四郎碑で北オホーツクの猿払に碑が出来るまでは唯一の松浦武四郎碑でした。松浦武四郎に思いを寄せる人々が呼びかけ募金を集めて完成した碑は稚内市街から宗谷岬へ向かって進み声問川を渡る手前のカーブ山側の国道沿いにある。説明板より『北海道の名付け親といわれる松浦武四郎(文政元年 1888~明治21年 1888) は、伊勢の国一志郡須川村(現・三重県三雲町) に生まれ、若年より諸国を遍歴した後、蝦夷地(現・北海道) を6回訪れ、アイヌの人たちの協力を得て、山川取り調べ(地勢調査) を行い後に東西蝦夷山川取調図(北海道地図) を完成している。弘化3年(1846) 安政3年(1856) 及び安政5年(1858) 年には宗谷地域を訪れ東浦・宗谷・声問・恵北・抜海に宿泊し「古以登以日誌」「北岬日誌」等を記し、弘化3年・安政3年には、宗谷より北蝦夷(樺太、現・サハリン) へも足を伸ばし、弘化3年には利尻、礼文にも足跡を残している。東西蝦夷山川取調べを行い、原住民であるアイヌの人たちの生活や、蝦夷地の状況などを詳細に記録し、克明な記録を幕府に提出したほか、出版するなどして、蝦夷の実態を明らかにしながら、アイヌの人たちの生活向上に心を砕き、幕閣へも再三改善の提言を行った。明治政府の北海道判官として奉職、北海道の夜明けに貢献し、自ら北海道人と号した。』説明版の中央に西部古以登以日誌の1部とマクンベツフト、サラキトマナイの図が載せられ、その左側に『松浦武四郎踏査による東西蝦夷山川取調図完成150年を記念し、松浦武四郎の偉業を称え、後世に長くその遺徳を伝えると共に、アイヌの人達の助力に感謝する為有志相図ってこの宿営碑を建立する。平成21年12月6日 宗谷サロベツ松浦武四郎の会有志一同』アイヌ民族のおかれた惨状には触れていないが、アイヌ民族への配慮はされている印象である。声問に説明板を建立するまで、北オホーツク地域に武四郎に関連する説明板等は無かった。◇稚内市声問・国道沿い

宗谷300年記念碑&宗谷運上屋跡稚内市MAP

宗谷300年記念碑宗谷は天正10(1582)年に松前藩領となり、貞享2(1685)年には松前藩主の直領として宗谷場所を開設している。幕末の頃は藤野家の独占場所だったが明治3(1870)年に漁場を返上している。宗谷は安政6(1859)年に秋田藩の支配となるが明治2(1869)年には開拓使、明治3(1870)年には金沢藩に属すも明治4年の廃藩置県で分領支配は終わり、明治12(1879)年に戸長役場が設置されているが、明治21(1888)年に戸長役場と郡役所が宗谷から稚内に移転し、宗谷の中心地は稚内に変わった。松浦武四郎の絵図から想像すると「稚内発祥の地」は宗谷会所のあった位置に重なってみえるが、現地に設置されている宗谷会所跡の標柱は少し山側にあり、その近くに陣屋跡、少し内陸側に入ったところに津軽藩兵詰合の記念碑、旧藩士の墓、間宮林蔵顕彰碑などがある。

宗谷運上屋跡西蝦夷日誌では「会所と弁天社あり伊勢大神宮を祀る、その後ろに佐竹家の陣屋がある」となっており、天明元(1781)年創建という厳島神社の事と思われる。元々は現在の宗谷小学校の下の海岸にあったため腐食が著しく、昭和45(1970)年に保全のために現在地(宗谷歴史公園)に移された。現在の社殿は明治3(1870)年に開拓判官竹田信順により修築されたものというが、奉納された鳥居に藤野家宗谷支配人、粂屋八右衛門の名前がみえる。松浦武四郎は弘化3年、安政3年、安政5年に同地を訪れ宿泊し周辺の様子を書き残している。弘化3年は知床からの帰途に宗谷から礼文に渡海したようです。◇所在地:稚内市宗谷村字宗谷

間宮林蔵渡樺出航の地稚内市MAP

間宮林蔵渡樺出航の地日本人でただ一人、世界地図に名を残した間宮林蔵と松田伝十郎が幕府から命を受け、文化5年4月13日に第1次樺太探検へ出発した地。宗谷岬から西へ3kmの国道238号線沿いの第2清浜地区に『間宮林蔵渡樺出港の地』がある。再度ここから渡海した間宮林蔵の銅像もあったが、その銅像は宗谷岬に移転された。廻浦日誌に「此処本名はピリカトマリなるべし。其地未に向ひノツシヤフ岬と対して其湾内一澗となる。其澗内暗礁多くして出入りの船は至て容にくし。然れども海底一面の平暗礁なるが故に、其ピリカトマリに入る時は如何なる風波も障ることなし」とある。松浦武四郎も弘化3年、安政3年に樺太へ渡っているが、渡樺出航の地説明板に松浦武四郎の名前はなく、日誌の内容からするとこの頃は宗谷が出航の地だったのかもしれない。◇稚内市第二清浜

松浦武四郎宿営の地猿払村MAP

松浦武四郎宿営地の碑01北オホーツクでは稚内に次いで2番目の松浦武四郎碑。江戸末期の鬼志別は小休所、宿泊は浜猿払なので猿払公園に武四郎が宿営したという事ではないが、実際の宿営地に設置して誰の目にも触れないよりは「道の駅」に設置し皆に見てもらえる方がよいだろう。以下は説明板より転載『北海道の名付け親といわれる松浦武四郎(文政元年 1888) は、伊勢の国一志郡須川村(現・三重県三雲町) に生まれ、若年より諸国を遍歴した後、蝦夷地(現・北海道) を6回訪れ宗谷地域には弘化3(1846)年、安政3(1856)年、安政5(1858)年の3回足を伸ばしている。その際、猿払にも宿泊し『西部佐留部都誌』等を記した。松浦武四郎はアイヌの人たちの協力を得て、山川取り調べ(地勢調査) を行い、原住民であるアイヌの人たちの生活や、蝦夷地の状況などを詳細に記録し、克明な記録を幕府に提出したほか、出版するなどして、蝦夷の実態を明らかにしながら、アイヌの人たちの生活向上に心を砕き、幕閣へも再三改善の提言を行った。明治維新の後、明治政府の北海道判官として奉職、北海道の夜明けに貢献し、自ら北海道人と号した。』説明版裏面に『松浦武四郎踏査による「東西蝦夷山川取締図」完成を記念し、松浦武四郎の偉業を称え、後世に長くその遺徳を伝えると共に、アイヌの人たちの助力に感謝するため、有志相図ってこの宿営碑を建立する。平成23年(2011) □□月 宗谷サロベツ松浦武四郎の会』協賛した団体や企業名は割愛。

他に西部・佐留部都誌と西蝦夷日誌のサルフツとサルフツ図が載せられている。ここでは西蝦夷日誌 巻之七にある部分を転載「サルブツ、川有船渡し。通行屋1棟 (川巾)30間余 板蔵茅蔵3棟、夷人3軒、近年まで6軒、名義蘆荻原の川口也。地形寅丑向。西ノツ、東南ショナイ岬を見る。沼の奥にリイシリ岳を見、眺望いわんかたなし。惣て砂地にして、山は椴計、後ろは沼なり。土産鱒・桃花魚・チライ・アメノウオ・小海老。沼内蚌・蜆・沙魚も有。海には帆立貝・ホッキ・東海夫人・比目魚多し。又夏より秋に到りて蚊虻昼夜のわかちなく、宿に着しよるも蚊遣りを拵て休ふなり。」と。幕府の役人になってから猿払に宿泊したのは、安政3年8月20日と安政5年6月1日、2日の2度です。弘化3年は猿払の番屋が無人でアイヌ民家に宿泊、懇ろに世話をしてくれ歌も聴かせてくれたが疲労で歌どころではなかった様子。竹四郎廻浦日記ではこの碑がある所は「イシヤンベ」と呼ばれ「此所に到りてカムイト(北見神威岬)を見る」と確かにここからは神威岬が見える。宿泊はサルブツ(浜猿払)で「舟渡し。超えて通行屋一件」とありと、ここで宿泊している。安政5年、3度目の猿払入りでは初日は当地の役アイヌであったアヤシ宅に宿泊、翌日に枝幸からの同行者と当地乙名の娘が案内してポロ沼を一巡した後に猿払川を遡っているが、ホロナイで流木に阻まれ先に進めず引き返し、当日は番屋泊まりだった。◇所在地:猿払村浜鬼志別 道の駅・猿払公園

松浦武四郎とピリカノカ神威岬 浜頓別町

ピリカノカ神威岬・浜頓別松浦武四郎は弘化3(1846)年、安政3(1856)年、安政5(1858)年に訪れ斜内の通行屋に宿泊し、斜内や神威岬の具体的な記録を残している。斜内にでは「基内湾になりたる故に、鯡漁業多しと。海扇(ホタテ)、沙噀(ナマコ)多し」、カムイ岬では「岩道馬足立がたし」「神霊有よし(にて)エナヲを奉る」と西蝦夷日誌巻之七にカムイエトウの図とともに記している。また記録にあるイナウカルメッカ、イナウカルウシなどから岬の尾根にイナウが郡立していた様子が想像出来る。竹四郎廻浦日記ではより具体的に当地で暮らしているアイヌの窮状を記録に残している。◇所在地:浜頓別町斜内

ピリカノカ神威岬 枝幸町

ピリカノカ神威岬・枝幸町古い地図ではヲハトマナイやウバトマナイと書かれているが岬の名称は?、神威岬寄りのオホーツク文化遺跡に対してここはウバトマナイチャシ跡で壕跡や土塁、柵列の跡などがあり、投石用の石が発見されている。ている本格的な戦闘防御チャシであったようで、オホーツク文化とアイヌ文化の最前線という意味でも興味深い。ピリカノカ神威岬を望む位置としても良い場所で、秋は釣公望が大勢集まる公園でもあるが、その一角にチャシとピリカノカ神威岬の説明板がたっている。説明板の一部より抜粋「幕末にこの地を旅した探検家の松浦武四郎はアイヌ民族が『神霊の宿る地』として岬を厚く敬っていたことを記録しています」とある。武四郎の宿泊地だった浜頓別町側の斜内にも、町名を変えただけで同じ内容のピリカノカ神威岬が設置されている。◇所在地:枝幸町目梨泊 カムイ岬公園

稚咲内止宿所跡豊富町MAP

豊富町稚咲内-01サロベツ原野から道道444号を日本海に向かい、道道106号(稚内天塩線)を稚内方面に右折、約200mの直進で「砂丘のえき」があり、その駐車場海側に稚咲内止宿所跡の説明板があったが倒壊し撤去され久しく再建の話も聞かないが、再建を期待して掲載する。稚咲内の止宿所跡説明板より『道路のない明治以前、海岸沿いを道路として利用する旅人にとって、当時アイヌ語でワッカ・サク・ナィ(飲み水が・ない・川) と呼ばれていたこの地は、今の稚内と天塩の中継地でした。そこで、強風と砂に足を取られながらの旅人の休憩と給水のために1840年代に止宿所(番屋とか継立所ともいう) が設けられました。幕末の探検家として有名な松浦武四郎も3度この地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵、そして井戸があったことを彼の探検記にしるしています。」

井戸が掘られる前は水を天塩より馬でここまで運んだと云う。松浦武四郎は1846年と1856年、1858(安政5)年にこの地を通過しているが宿泊はせず、天塩から抜海まで一日で移動、その健脚ぶりは恐るべし。明治になってから官設宿所、稚咲内駅逓所になっている。実際の止宿所跡は砂丘の丘より2kmほど北上したツツミ川に架かる長沼橋(地元では富士見橋と呼んでいるらしい)から約二百mほど北にある浅い窪地と聞いたが、土地改良と水路改修などで痕跡はわからなくなってしまった。海岸線は無名だがオロロンライン有数の原生花園でもある。稚咲内止宿場の跡説明板は倒壊してしまったが再建を期待してこのままに。◇現住所:豊富町稚咲内 砂丘のえき

天塩運上屋跡天塩町MAP

天塩運上屋跡天塩での場所請負制は1786(天明6)年頃よりと云われ運上屋その前から有ったかもしれない。天塩場所最初の請負人は栖原家で以後維新までの殆どを請け負っている。場所請負人に共通するのは不平等交易と植民地経営方式ですが、天塩場所は安政4年に箱館奉行所が「最もアイヌ酷使の甚だしい場所」として請負商人に論書が発せられたが、場所請負人の専制支配による無法構造は変わる事なく維新を迎える。明治2年の場所請負制廃止で運上屋は廃止なり、駅逓は開拓使に引き継がれるが、実質場所請負制と同じ漁場持となった栖原家が取り扱う。漁場持廃止で明治9年以降は駅逓取扱人が公選となった。天塩運上屋の建物は大正元年(1912)まで現存していたという。文化4年、幕府による西蝦夷地の全域直轄にともない場所請負人に対し区域を定めて道路の開削を命じ、各地の要所に通行屋を設け官馬を配備している。松浦武四郎が最初に訪れたのは弘化3年、この頃は天塩川の鮭漁が不調で本拠地は苫前だったようです。武四郎は安政4年にアイヌの人々に助けられ天塩川を遡り、内陸部の克明な記録を丁巳日誌に残した。その時の始発と帰着点は天塩運上屋でした。◇天塩町海岸通4丁目3975 番地の2

苫前運上屋跡苫前町MAP

苫前運上屋跡留萌~天塩沿岸では寛政年間の頃、増毛、留萌、苫前、天塩の4箇所に運上屋が設置されたとあるが、苫前場所の開設は天明5年と云うが、史跡の運上屋は文化元年(1804年)に開設されたという。経過は天塩とほぼ同じなので省略する。運上屋廃止後の漁場持は栖原家て駅逓として継続していたようだ。運上屋と周囲の様子は松浦武四郎の蝦夷日誌の中に「運上屋北向。座敷、玄関美々敷立たり。後ろの方白岩崩岸に立靠り、蔵々、長屋有り。弁天社運上屋の南小高き山ぎしに有」又「蝦夷人小屋 此所に十四五軒有り皆笹屋根也」と書かれている。運上屋の現地支配人については武四郎にしては珍しく好意的。武四郎は弘化3年、安政3年はから安政5年は続けて苫前に訪れているが安政4年はチクベツでの宿泊で苫前には宿泊していない。安政5年は運上屋に一泊、古丹別で二泊し古丹別川を岩見付近まで遡り内陸部の踏査をしている。碑の場所は苫前漁港前の「北るもい魚協」駐車場角、苫前下町バス停傍にある。碑以外に痕跡を示すものは無い。庄内藩陣屋跡は古丹別川付近と市街地からは離れている。◇苫前町下町・苫前下町バス停

松浦武四郎像 歌碑小平町MAP

小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-05道の駅『おびら鰊番屋』と国道を挟んで小平町が平成8年5月に開基120年を記念して建立した松浦武四郎像とトワイライトアーチの基部に和歌が刻まれている。松浦武四郎翁の像から転載「北海道の名付け親松浦武四郎は、文政元年(1818) 伊勢国須川村(現三重県三雲村) に代々郷士であった松浦家の四男として生まれる。翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者として、その功績は偉大である。翁の身長は4尺8寸(1m45cm) 足の大きさは24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査・探査し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑わいをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩にのこしている。松浦武四郎は社会科学史上。文化史上に輝く燦然たる偉人であると共に北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の心の中に生き続けている。」とあり、トワイライトアーチ左側基部に武四郎が鰊場の様子を詠んだ短歌&“名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里”が刻まれています。西蝦夷日誌によればポンオニシカでこの詩を詠んだようです。松浦武四郎は弘化3年、安政3年~安政5年と4度訪れているが小平はいずれも通過で宿泊はしていないようです。国道を挟んで斜め向かい側、にある「花田家番屋」は北海道遺産に指定され、当時のままに立っていて内部の見学も可能です。◇所在地:小平町鬼鹿広富48 にしん文化歴史公園

松浦武四郎踏査の地留萌市MAP

留萌市大町・望洋遊園-01留萌港が見渡せる大町の高台に有る望洋遊園内に松浦武四郎顕彰碑と湊神社が有るも地図には記載無し。留萌市内から黄金岬に進み大町3丁目の信号を右折し次の十字路を左折すると右横にパーキングスペースとその先に旧赤灯台があり、その右奥に松浦武四郎踏査の地碑があり、正面に松浦武四郎のスケッチ、ルルモッペ運上屋の絵が刻まれているが、その殆どが留萌港に吸収され隔世の感がある。碑の右側に石板がはめ込まれ「えぞの海や 氷もとけて なかにけり かすみのおくにも 春や志るらん 篤」と武四郎の詠んだ和歌がきざまれている。碑の裏面に「松浦武四郎は文政元年(1818年) 伊勢国一志郡須川村(現三重県三雲町) にうまれた。弘化2年(1845年) 初めて蝦夷地に渡り、以後安政5年まで6回にわたり、全域をくまなく探検し膨大な日誌や詳細な地図を製作した。後年明治新政府に登用され、北海道の名称や国郡名を選定したが留萌郡は武四郎の原案に拠ったものである。当時ルルモッペと云われた留萌には、第2回探検の弘化3年、以降安政3年、4年、5年の4度にわたり通過、宿泊している。本碑に描かれたスケッチは安政3年5月15日、石狩川を遡り雨竜よりヌプシャ越えをして当地を踏査の折、この地よりルルモッペ運上屋を望み描いたものである。ここに武四郎が当地を踏査してから150周年に当たって、留萌郷土史会の発案により、武四郎の偉大な足跡を偲び、縁の地に記念碑を建立し、永くその功績を後世に伝えようとするものである。平成7年(1959年) 8月建立 留萌市郷土史研究会 書 橋本まゆみ (会員名・施工業者名は省略)」とあった。武四郎と共にあったアイヌ民族苦難の歴史に言及していないのはこの時期に建立された碑としてはものたりない。◇所在地:留萌市大町・望洋遊園

松浦武四郎信砂越えの地増毛町MAP

増毛町彦部-01信砂川河口の国道にかかる彦部橋の増毛側で舎熊小学校入り口のT字交点角地に昭和54年の増毛町文化財指定をうけてに増毛町教育委員会が設置した「松浦武四郎信砂越えの地」標柱が有る。標柱には「安政3年5月箱館奉行勤番手付として西エゾ地巡回のため石狩の国エタイベツから国領マシケに向け出発。この地は信砂前浜到着地である。指定年月日 昭和54年7月25日 指定番号 13番 増毛町教育委員会」とある。松浦武四郎一行は安政3年5月7日に石狩運上屋出発し5月12日ウリウ川筋オモシロナイで宿営。5月13日ウリウ川口出発、恵岱別川筋をたどってルチシを越え信砂川の川筋に下り5月16日苫前運上屋着(ルルモッペ)のヌプシャ越えを敢行している。当時道は絶たりとの事で、雨龍川口より3日を要した困難な探査で文化年間以来絶えてきた留萌への道を再び開いた。☆西蝦夷日誌に「3月13日、同じく此方彼方と川の両岸を下る。追々川深く成、石滑かにして危し。凡四つ半頃に右之方赤崩平有處に出る。丸小屋の跡一處を見たり。是輕物所の止宿所也と。九つ過薪取の小屋跡を見、是にて一同安心を致しぬ。從是一里計下りて、西の方より大川一筋来りて落合、水勢至て危にして中々越難き故、山に上り樹に上り見れば、濱邊に早5,6丁のよし。爰にて一同大に悦び、其笹原に火を附しや、折節濱風にて吹まき、黒烟天を暗んず計、其勢に一箇の鐡圍をも踏破る心地にして、秦[榛]荊を事ともせず、數日の疲労をも忘れ、いさみ勤みて濱に出たる」とあり。☆松浦武四郎が1856(安政3)年に敢行した信砂越えルートに沿うように、主に囚人によって開削された増毛道路は明治25年に全通、現在の道道94号線増毛稲田線は増毛道路と重複する区間は多いが仁奈良山道と呼ばれた部分は石油沢ルートのようで現在の道道94号線より標高の高い尾根を越えてたようで松浦武四郎はルチシと記している。☆松浦地図に石油沢と思われる位置にルルモッペルベシベ、ヌプシャルベシベなどがあり、武四郎は石油沢の二股を左側(※右に入るとチバベリで留萌方面に出る)にはいり東仁奈良(三角点)から北側に延びる尾根を越え信砂川筋に抜けた?ようだ。◇増毛町彦部

増毛運上屋跡増毛町MAP

増毛運上屋跡松前藩商人、村山伝兵衛が1751(宝暦元)年に増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、その頃から和人が定着が増えていった。出稼ぎは蝦夷地を代表するニシン番屋で、増毛もニシン場として栄えた町。場所請負制の廃止とともに運上屋は開拓使に引き継がれ、最後の場所請負人は伊達林右衛門でした。北海道宿駅制の研究では「通行屋と称し請負人伊達某駅務を行う」とあり運上屋廃止後は駅逓として利用されたようです。運上屋の遺構は残されて居ませんが、港町市場の建物の前(遠藤水産)に増毛運上屋跡の史跡標柱があります。幕末の探検家、松浦武四郎が安政4年と安政5年に伊達林右衛門が自費で開削中の山道の見聞に訪れ宿泊している。◇所在地:増毛町港町4-26

増毛山道増毛町&石狩市MAP

増毛山道口増毛山道は増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶ全長約26.8kmの山道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削した。工事費用は濃昼山道と合わせ現在の貨幣換算で2億円以上と商人が拠出する金額としては半端ではない。増毛山道は江戸時代に開削された山道では最も険しく唯一1000mを超える山道でした。安政4年に松浦武四郎が新道見聞に訪れた時は現地支配人の黒沢屋直右衛門が山道の出来具合を見るために同道、安政5年は完成した山道を検分するために再訪している。安政4年の道中は「丁巳14巻 天之穂日誌」に記されているが、安政5年の検分は戊午日誌に記録は無く、まとめた記事として「西蝦夷日誌の5編 濱益毛」に濃昼(ゴキビル)山道と増毛山道についてかなり詳しく記している。のちに此路を通ったライマンは人の造った道とは思えない獣道と酷評した。明治期の山道は郵便物をやり取りする重要路となり、山道途中の「武好(ぶよし)駅逓」で雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達員がここで互いの郵便物を交換し、戻ったという。駅逓には管理人が置かれ(無人だった期間もある様です)旅人の宿泊などにも利用された。交通網の発達にともなって廃道になって既に70年以上になるが「増毛山道の会」によって復元が進められている増毛山道。新武好駅逓跡も確定され再び注目が集まっています。単独での入山は認められていず今回は入り口までにてパス!!
◇所在地:増毛町別苅~石狩市幌 ◇増毛山道入り口

にしん街道石狩市厚田区MAP

にしん街道標柱・石狩市厚田

説明板の文字が不鮮明なので転載します。

「あつたの地名は、歴史を遡ると松前藩の「新御国絵図」(1661年)に見る事ができます。また、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになりましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限でした「にしん」の北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松浦武四郎の「西蝦夷日誌」オショロコツ(押琴)の項によれば、訪れる和人は一万人もいたとされています。押琴の泊は、弁財船(千石船)が30隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭、押琴一帯は大変な賑わいを見せたといわれています。「にしん」は魚偏に非ずという字を書き、米の取れない蝦夷地では米(と同様の価値)であるという意味で、単位も米と同じ石が用いられたといいます。

厚田が再び「にしん」で群来ることを願い、往時の繁栄と記憶を後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートとして確立し、地域の活性化につなげるため、この「にしん街道」標柱を設置します」※平成20年の設置、ここでも松浦武四郎の「西蝦夷日誌」が引用されている。◇所在地:石狩市厚田区厚田12番地4幌

弁財船投錨地の碑とアツタ運上屋石狩市MAP

弁財船投錨地の碑鰊街道碑に書かれている押琴は(旧名オショロコツ)の入江は今も八幡神社から眺望出来るが、江戸期から明治の頃は厚田中心地でしたが今は人家も殆ど無く、古潭側に弁財船投錨地の碑と厚田発祥の碑が並んであります。かつてあったという厚田運上屋は元々アツタ(厚田川口)に有ったが不便なのでオショロコツ(押琴)に移転したと云い、その規模は現存する余市運上家と同程度といい現在の龍澤寺がある場所にあったと云うが、松浦武四郎の記録では以前はもっと奥にあったとあり、もう少し海岸寄りにあったかもしれない。アツタ場所で最初の請負人は阿部屋のようですが、文化7(1810)年頃より松前の浜屋与三右衛門、天保から弘化にかけて宮川増蔵、嘉永5(1852)年より場所請負廃止まで浜屋与三右衛門となっているようです。蝦夷日誌に「弁天社運上屋の上にあるなり」と記されていた元押琴弁天社の手水鉢、唐獅子は八幡神社に設置されたという。約300年前から和人が往来し明治時代から昭和初期までニシン漁で栄え、最盛期の明治14(1881)年には人口が1万2000人を超えたというが、ニシン漁の衰退で過疎化が進んだようです。松浦武四郎は安政4年と安政5年に宿泊したようだが、弘化3年もここで宿泊したと思われる。 ◇所在地:石狩市厚田区古潭

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