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松浦武四郎の碑を巡る
オホーツク&十勝・松浦武四郎の碑や説明板など‼

松浦武四郎踏査跡地 北見市MAP

北見市小町泉通北見市が開基百年の記念事業で平成8年10月1日に建立された松浦武四郎の顕彰碑です。写真のピントがズレて読めそうにないので全文を転載した。「私たちの郷土北見は、松浦武四郎の探検記録「戊午登古呂日誌」により初めて歴史に登場した。安政5年(1858年) 2月、幕府より山川地理取調方を命ぜられた武四郎は、第6回最後の蝦夷地探査のため函館を出発道東地域を踏査した。日誌によると同年6月23日、斜里から陸路常呂に到着した武四郎は、翌日土地のアイヌの人々に案内を依頼し丸木船で常呂川を遡上した。行程はクトイチャンナイ(常呂町福山) ムイコツネ(東8号線) で各1泊、6月21日にヘテウコヒ(北見中ノ島、北光) を経てクッタルへシベ(訓子府町日の出) に至り、往復4泊5日の内陸調査の旅を終えた。松浦武四郎は、文政元年(1818年) に三重県一志村三雲町に生まれ、幼少期に江戸に遊学、故郷を出て全国各地を探訪見聞を広め、後に北海道判官を努めるなど、最上徳内、間宮林蔵ら共に江戸時代の北方探検家として広く世に知られるところとなった。明治21年(1888年) 3月、東京にて71歳の波乱に富んだ生涯を終えたが、北海道及び北見国の命名者である探検家の偉大なる業績を後世に伝えるため北見市開基百年の意義□ある年に当たり踏査地常呂川の岸辺に記念碑を建立する。平成8年10月1日 北見市長 小山 健一」これらの経過を見ると松浦武四郎は北見市の名付け親ともいえる◇所在地:北見市中ノ島町3丁目13 小町泉通 ◇N43°47’40” E143°54’60”

松浦武四郎初踏査の利用河川北見市MAP

北見市光葉町 中の島公園この説明板を見たのは平成の初め頃だが、2度目に見た平成22年には木製の枠からスチール製に変わり、文章も少し追加、変更されていたので全文を掲載しておきます。「幕末の探検家松浦武四郎は弘化2年(1845) から安政5年の間にいまだ未開の蝦夷地(北海道) を6回探検して膨大な日記類と地図を残した。この中の戊午登古呂誌」に常呂川流域を詳しく記録した。安政5年(1858) 武四郎の探検は旧暦1月22日(現3月7日) 箱館を出発し、途中大きな川の遡上探索をしながら蝦夷地を一巡して、旧8月21日(9月27日) に帰着。約7ヶ月という探索行である。常呂川探索は旧暦5月14日(現6月24日) に出発してクトイチャンナイ(常呂町福山辺り) 泊~ノヤサンヲマナイ(端野町二区辺り) 泊~ヘテウコヒ(北見中ノ島辺り) を経て相内辺りから無加川・訓子府川を渡って常呂川のクッタルベシベ(訓子府町日の出辺り) 泊。探索はここまで。翌日はヌッケシコタン泊。旧暦18日(6月28日) 常呂に帰着した。仁頃川全域、無加川の相内に上流、常呂川のクッタルベシベからの上流は同行したアイヌ人案内人から聞き取りを記録した。明治2年(1869) の北見国・常呂郡等という国郡選定や同5年のトコロ、トウフツ、クトイチャンナイ、テシヲマナイ、チイウシ、ノッケウシ、ムエカオツネ等の村名は全て松浦武四郎の調査が元になっている。」設置者は北見観光協会ですが、初代の板設置は昭和56年頃らしい。板の左側にある安政5年に調査した常呂川水系の地図は以前と同じようですが、内容は説明文は以前より詳しくなっているも、案内したアイヌの氏名などは見えない。◇所在地:北見市光葉町 中の島公園 ◇ N43°47’27” E143°54’08”

紋別場所 又十番屋御用所跡史跡標柱 紋別市MAP

紋別場所藤野番屋跡場所請負の経過は斜里で書いてあるので省略するが、経営は徹底した植民地経営方式だったようで石狩とともにアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域で、国後に送られたら生きて2度と帰れないとアイヌの方には恐れられていた。こうした酷使に対して、1857(安政4)年10月に箱館奉行所が「最もアイヌ使役の烈しい場所」として、石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書を出すという処置をとったが効果はあったとは思えず、オホーツク海側と離島はアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域でした。場所請負制廃止で当時の請負人山田善吉から場所返納されたが、オホーツクでの漁が不振な事と交通不便な所で場所経営が困難なため、漁場持を引き受ける者はいなかったという。北見方面で場所請負人の力を借りずに蝦夷地開発を推し進める事が困難と考えた開拓使は又十藤野伊兵衛に頼み込んで漁場持になってもらったようだ。◇所在地:紋別市弁天町 ◇N44°35’61.91” E143°36’02.40”

松浦武四郎宿泊之地美幌町MAP

美幌町字都橋 峠の湯峠の湯びほろ松浦武四郎宿営之地と説明板は美幌町字都橋「峠の湯びほろ」の駐車場前に有ります。松浦武四郎宿営之地記念碑の由来より『松浦武四郎は蝦夷地調査の安政5(1858)年5月13日、津別から弁慶岩を通りビホロのアシリコタン(新しい集落の意味) に至り家主シユイベリキンの所で一夜を過ごす。松浦武四郎著 戊午日誌「安加武留宇智之誌」によると最上ニシパ(徳内) 近藤ニシパ(重三) 等には度々逢、最上ニシパはシャリ(シャリ) に越年したるが、其節は度々行て逢て、此山の事を話し、間宮ニシパ(林蔵) はクスリ(釧路) の山々を歩行給ふ時に附いて歩行、また大塚惣太郎様は我が家にて逗留も致され候等、語りぬるに、大に我も益を得て一夜をおもしろく明しぬ」と記している。これを記念し、この碑を建立する。美幌町郷土史研究会」碑は平成17年7月の建立です。美幌町郷土史研究会編の「北海道を探検した男 松浦武四郎」に『第6回目の蝦夷地調査で釧路を出発した武四郎は1858年5月13日5月14日にかけて、美幌の地を訪ねています。釧路より根北峠を越え、網走川沿いに津別町に入り豊幌付近の"ワワウシ"と呼ばれる地点で網走川を渡り豊幌川、アヤメ川、魚無川、駒生川、駒の沢川から美幌川を越え、現在の都橋地区にあったと推定される集落(アシリコタン)に一泊。更に同年6月20日には網走川を船で遡りヘテウコビで一泊した後再び網走川を下っている』とあった。以下は美幌町郷土史研究会の編集した「北海道を探検した男 松浦武四郎」から一部抜粋で『第6回目の蝦夷地調査で釧路を出発した武四郎は1858年5月13日5月14日にかけて、美幌の地を訪ねています。釧路より根北峠を越え、網走川沿いに津別町に入り豊幌付近の"ワワウシ"と呼ばれる地点で網走川を渡り豊幌川、アヤメ川、魚無川、駒生川、駒の沢川から美幌川を越え、現在の都橋地区にあったと推定される集落(アシリコタン)に一泊。更に同年6月20日には網走川を船で遡りヘテウコビで一泊した後再び網走川を下っている』とあった。◇所在地:美幌町字都橋 峠の湯峠の湯びほろ前 ◇N43°48’13” E144°10’02”

松浦武四郎通過の碑・オタバ再建 大空町Map

オタバ 平成2年前後に女満別町史編纂委員会が松浦武四郎通過が通過したと考えられるルーサンなど三カ所に木碑を設置建立したがいずれも25年以上を経過し幻の碑となっていたが、大空町開基10周年の記念事業として石碑となって再建された。再建されたのは網走湖畔のオタバ、大成第二のパナクシベツ、大成第三のルーサンとなる。大空町広報より「松浦武四郎記念石柱 建立の背景 安政5(1858)年、北方探検家の松浦武四郎氏が、蝦夷地を探査途中に女満別を訪れたことから、そのゆかりの地3箇所に木碑が建立されていました(平成元年、平成2年に建立)。しかし、建立から25年以上が経ち、木碑が朽ち果ててしまったことから、そのゆかりの地を後世に残すため、新たに記念石柱を建立しました。」ヲタバは砂浜の端の事で通称は女満別湖畔、碑は女満別温泉(湖南荘)近くの湖畔にある。碑文「安政5年6月20日 松浦武四郎 この地沖船で通る」「ヲタバ・・・ヲタバは砂地と云う儀也 」『戊午 安婆志利誌』によると三人の案内人と連れだって網走川を遡り網走湖の東岸を廻ってから網走川本流にはいり美幌川河口まで行き一泊、翌日は網走川を下り網走湖の西岸を廻り、湖口からは陸行して番屋元に戻っている。ヲタバはその往路で見た風景で「少しの砂浜にして此名有るなり。ヲタバは砂地と云う儀也」と記している。ここだけは平成2年の建立でしたが大空町によって他2ヶ所と同時に再建された。◇所在地:大空町女満別湖畔1丁目21番6 ◇43°55'02.4"N 144°10'15.5"E

松浦武四郎通過の碑・ルーサン再建 大空町Map

ルーサン 碑には「ルーサン」「安政5年(1858) 松浦武四郎この地を通る」「平成元年女満別町史編纂委員会建立 平成27年大空町再建」とある。以前に見た時は既に文字は読めない状態だったが見事に復活した。碑は大空町女満別大成と美幌町報徳との境界近くで女満別川に架かる宮下橋より上流側200m前後の農道脇。松浦武四郎が安政5年の5月13日~15日にかけて津別から美幌コタン~女満別川上~藻琴~斜里へと踏査した時の記録が『戊午 安加武留宇智之誌 三』にあり「ニマンベツ(女満別川)の西岸・・しばし下り凡十五六丁にしてルーサンと云坂一ツ有り。ルーサンは路下ると云儀也。ワワウシ是ニマンベツの渡し場(徒渉場の意味)、川幅五間半計なり。依りて柳を一本倒し、是を越えて向こうに渡る。東岸陰森たる木立原、小笹少し有り」東岸というのは現・大成公民館(旧大成小学校)のある付近のようです。文化4年頃に美幌町報徳から藻琴方面に出る道が開削されており、ルーサンはその古道にあった川岸に下る坂道(宮下橋上流側の左岸側段丘面付近)の名前のようで、川を渡った所がワワウシ、丘を越えた所がパナクシベツ(道道249線沿い)になるようだ。 ◇所在地:大空町女満別大成300番4 ◇43°51'21.5"N 144°11'24.5"E

松浦武四郎通過の碑・パナクシベツ再建 大空町Map

パナクシベツ正面に「安政5年(1858) 松浦武四郎この地を通る」左側面に「これよりパナクシベツを経て網走中園へ向う」背面に「平成元年女満別町史編纂委員会建立 平成27年大空町再建」とあったが旧女満別町の資料はこの碑とルーサンは平成元年の建立で湖畔とあわせて全て再建された。碑は女満別川とパナクシベツ川(女満別川支流で大成と日進の境界)の間にある丘陵上で道道249線沿いで旧大成小学校から大東寄にある。パナクシベツ川とは距離があるが、文化4年に開削されたという古道沿いにルーサンやパナクシベツを通り網走の藻琴に抜けたようですが、古道の痕跡は皆無。『戊午 安加武留宇智之誌 三』には「パナクシベツ 川幅弐間計。急流。この川アバシリ沼え落る。越てまた小笹原」とあり直接網走湖に流入するように書かれているが、実際は女満別川の支流で、武四郎は女満別川との合流部より2km程上流のパナクシベツを徒渉したものか? ◇所在地:大空町女満別大成233番6 ◇43°51'45.8"N 144°12'10.1"E 43.862755, 144.202763

又十藤野網走分店跡網走市MAP

斜里運上屋・網走藤野番屋初代藤野喜兵衛が網走に番屋を設置、網走で和人が本格的に漁業をはじめた最初の根拠地という。番屋は平屋で間口28間、奥行8間5尺、248坪(818㎡)と云い、幕末から明治の頃には戸長事務所、郵便取扱所、通行屋(後の駅逓)があったようです。又十藤野は文久2(1862)年に会津藩より斜里場所請負人を罷免されるが網走場所は直轄領として残された。藤野網走番屋は斜里運上屋の支配番屋だったので、斜里場所請負人罷免後は網走番屋が又十藤野の拠点となったようだ。明治6(1873)年に漁場持として斜里も復活するが、明治9(1876)年に漁場持が廃止され、又十藤野は一漁業経営者となります。ここも武四郎の宿泊地の一つだったようで安政3年(通行屋)と安政5年に宿泊、竹四郎廻浦日誌に「梁七間、桁17間」と記している。又十藤野網走分店(網走運上屋)があった白田鋸店の駐車場の端に史跡標柱がある。◇所在地:網走市南4東6 ◇N44°01’18.01” E144°16’36.49”

知人岬跡網走市MAP

知床岬跡・しおさい公園網走の市街地と網走港、帽子岩、はるか彼方の知床が一望できるしおさい公園にに知人岬跡の標柱がある。碑文より「岬の名はアイヌ語の陸地の突き出たところシレトに由来する。松浦武四郎の西蝦夷日誌にも記され、後に知人の和名が当てられた。明治35年にポンモイへの道路開削のため突端部が爆破され、後に大量の砕石によって幻の岬となった」と、大量の砕石は港湾工事に使用する為だったようです。北海道では知人、知床などの地名が時々出てきますがその殆どは岬の地形で、松浦武四郎の西蝦夷日誌巻の6草稿、(アバシリ領)に「シリエト岩岬此処崖下大難所」とあり、碑文の西蝦夷日誌にも記されとあるのはこれか? かつてここにコロポックルが住んでいたという洞窟があったというが、二重の意味で伝説となってしまいました。ポンモイの柱状節理の場所も同じように採石された跡のようです。◇所在地:網走市台町2丁目70番地 しおさい公園

斜里運上屋跡標柱と説明板 斜里町MAP

斜里運上屋跡近江商人の藤野家が箱館や松前を本拠地に海運業から場所請負に乗り出したのは文化年代からという。斜里場所は1790(寛政2)年に宗谷場所より別れ村山伝兵衛が場所請負人となるが、村山家没落後は藤野家の請負となる。文化4年に幕府が西蝦夷地を直轄地とした時は運上屋の名称に変更はなくそのままでした。藤野家は1806(文化3)年に上下ヨイチ場所請負人となったの始めに、1808(文化5)年、栖原三右ヱ門・伊達林右ヱ門と共同で斜里・宗谷場所(ソウヤ,エサシ,モンベツ,トコロ,アバシリ,シャリ)請負人、1817(文化14)年・国後場所請負人、1823(文政6)年に利尻、礼文場所請負人、1832(天保3)年に根室場所請負人、根室場所は藤野家最大の経営基盤となったとされる。1859(安政3)年には網走場所請負人とオホーツク側では藤野家の独壇場という感じでした。明治5年に又十藤野家が斜里の漁場持になり駅逓取扱も又十藤野家に変わっているが明治末には撤退しているようです。松浦武四郎は弘化3年、安政3年、安政5年に斜里会所にて宿泊。弘化3年には知床岬先端まで行き、戻って斜里から交易船で利尻に渡った。運上屋の跡地に斜里町が昭和62年に史跡標柱と説明板を設置したが建物は残っていない。◇所在地:現住所:斜里町港町8-28

松浦武四郎歌碑斜里町MAP

斜里町宇登呂 公共駐車場管理人が20~30歳代の頃に釣りや登山目的で知床に通い続けたが、当時の道路は宇登呂で行き止まりでその先は人が通れるだけの素堀のトンネルで道がついていた。今では高台に大型のホテルが建ち並び当時の面影を残すのは三角岩やゴジラ岩、オロンコ岩だけと云う感じだが、そのオロンコ岩をトンネルで抜けた先の旧宇登呂漁港に面した公共駐車場に松浦武四郎の歌碑と説明板が有ります。碑には“山にふし 海に浮寝のうき旅も 馴れれば馴れて 心やすけれ ”と刻んである。松浦武四郎顕彰碑説明板より「松浦武四郎翁は文政元年(1818) 伊勢国に生まれ弘化2年(1845) 以来前後6回にわたり北海道、千島、樺太を探索され、北方に関する著書、地図だけでも膨大な数にのぼっております。明治21年(1888) 71才で没せられましたが、翁は北海道の名付け親であり、その集大成された記録は北海道開拓の貴重な資料として不朽の名声を博しております。当地知床には3度訪れ「知床日誌に」次の歌を詠んでおります。「和歌は先に書いたので割愛」ここに翁の没後百周年に当たりゆかりの地に顕彰記念碑を建立しその功績を讃えます。昭和63年9月30日 松浦武四郎没後百年記念協賛会」とある。松浦武四郎の知床に関する記録は秋葉實編「知床紀行」にまとめて掲載されている。松浦武四郎は「ウトルチクシ。名義、岩間を舟が越る義か」と書き記している面影はゴジラ岩やオロンコ岩、三角岩に残るくらいになってしまった。ウトロ漁業発祥の地由来の説明板と松浦武四郎顕彰記念碑の設置に松浦武四郎没後百年記念協賛会の名があるが、どちらにもアイヌ民族に関することは一言もなく、いささか拍子抜けしてしまう。◇斜里町宇登呂 公共駐車場 ◇N44°04’27” E144°69’29”

又十藤野(東出)番屋跡漁業発祥の地の由来 斜里町MAP

ウトロ藤野番屋跡斜里町宇登呂の知床グランドホテル北こぶし敷地内にあり松浦武四郎顕彰記念碑と同時に建立されたようです。説明板より転載『ウトロ近海は古来、サケ・マスなど水産資源豊かな海域として知られここに魚場が開かれたのは遠く天保年間(1830~44) シャリ場所請負人であった藤野家が当地前浜に番屋などの漁業施設を設けたことに始まっております、その頃の漁業は、春のニシン漁に始まり、夏のマス漁と続き秋のサケ漁をもって終わる三漁業が中心で、産物は北前船により遠く本州方面に移出されていました。幕末の北方探検家、松浦武四朗の「古い資料」によると彼は安政5年(1858) 知床岬からの帰途ウトロ番屋に一泊したことが記されており、当時の規模は梁四間・桁七間でほかに倉庫が二棟と附近には弁天社のあったことなどが書かれています。明治に入り場所請負制度は廃止され、魚場は一般に開放されましたが大正11年に至りこの藤野番屋は網走の東出漁業部(東出重蔵) へ譲渡され、以来東出番屋と呼ばれ、昭和55年頃まで遺されていました、しかし第二次大戦後は漁港の造成工事が大々的に進められたことから、当時この前浜一帯に散在していた古い施設は次々と姿を消し、今日では当時を偲ぶ遺構は全く皆無となりました、よってここに記念の標柱を建てこの歴史を永く後世に伝えるものである。昭和63年9月30日 松浦武四郎没後百年記念協賛会 ウトロ漁業協同組合』場所請負の歴史ではアイヌ民族の受難は切り離せないのだか、その事には一切触れていないのはいささか気になる。安政5年当時はウトルチクシ(宇登呂)とホロベツ(幌別川付近)に番屋があり元々の規模は梁4間・桁6間だったようですが、ウトルチクシの番屋では秋田家が来るとのことで桁1間を継ぎ足し梁4間・桁7間にした(宿泊用の増設?)という。番屋以外ではウトルチクシに備米蔵と雑蔵、ホロベツには雑蔵と雇蔵があったという。安永4(1775)年に飛騨屋久兵衛がソウヤ場所請負、下請けしていた三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を開設したのが最初のようですが、ウトロに関しては記録が見当たらず。◇所在地:斜里町宇登呂 知床グランドホテル北こぶし 前庭 ◇N44°07’21.49” E144°99’45.93”

松浦武四郎野宿之地碑新得町MAP

新得町北新内西6線185昭和62(1987)年に新得町郷土史研究会が記念碑を建立した。宿営地はキャンプ場の有るサホロ湖より林道に入り新幌川を越えた近くでサホロ湖から3km前後に案内板が有る。ここから左折して刈り払われた道を270m程、佐幌川方向に進むと碑がある。碑の正面に「松浦武四郎宿泊之地」それぞれ側面には「幕府御雇松浦武四郎 十勝内陸部に入り初めてこの地に泊す」「安政5年(1858年) 3月18日 新暦4月26日」 「昭和62年10月新得町設置 新得町郷土史研究会調査」とあった。入口にあった案内板には碑の所在位置を示す略図と説明文が青いボードに白文字で書かれていたが経年劣化で判読は難しい部分もあった。案内板の地図は割愛し本文のみ転載「函(箱)館奉行から東西蝦夷地山川地理取調の命をうけた幕末の探検家松浦武四郎は、安政5年(1858) 6度目の蝦夷地入りをし、同年3月13日(陽暦4月26日) に残雪きらめく狩勝国境を越え、新内の一の沢を下ってこの地に足を踏み入れた。和人としては、初めての狩勝越えである。同行者は石狩詰下役の飯田豊之助と案内のアイヌの人10人。函(箱)館を出発して50日目。時に武四郎は40歳であった。武四郎の書いた当時の記録「戊午東西蝦夷地山川地理取調日誌」によると、一の沢が合流する付近の佐幌川は川幅が7、8間(一間は約180cm) 、平盤一枚岩で急流。左岸を行くにも切り立っていて進むことが出来ず、やむなく佐幌川を右岸に渡り、3、4町(1町は約109m) 分け入ってトドマツの多いこの地に野宿したとある。翌日は曇りのため急いで出発し、佐幌川を下りパンケシントク川の合流点(新得市街) から進路を左にとり十勝川本流のカムイロキ(屈足) に出て流域を踏査しつつ3月20日ヲホツナイ(大津) に到達している。ここより東へ270メートルの佐幌川べりが武四郎野宿の地である。昭和62年10月 新得町 新得町郷土研究会調査」十勝最初の宿営地がサホロ湖の北側にある北新内だったが、途中で道筋を間違え一度空知側に下ったというも、川底の様子が違う事で案内人が間違いに気付き引き返してサヲロに入ったが、武四郎は半信半疑であったらしく「其川底の平磐なるを見て驚嘆致したり」と彼らの実力にいたく感動している。
◇新得町北新内西6線185 ◇標高 350m N43°12’01.4” E142°40’54.2”
◇新得町北新内西6線185 ◇入口説明板 N43°12’03.5” E142°48’40.1”

松浦武四郎宿泊の地碑清水町MAP

清水町人舞人舞 岸田牧場内道道718線を屈足方面から木野(音更)方面に進むと岸田牧場の入口に「松浦武四郎宿泊の地」の案内標柱がありそこから150m程の所に碑と説明板があるので、許可を取ってから入ってください。説明板より転載「安政5年(1858年)徳川幕府函館県産(※箱館奉行の事か?)、蝦夷地山川調査係松浦武四郎が命により、飯田豊之助を同行し、狩勝峠を越え十勝川に沿って字人舞基線13号(当時はニトマフ) にたどりつき、和人住居前の先住民族として清水町に居住していた酋長アラユクが礼を厚うして一夜の旅情をなぐさめた場所といわれている。アラユクの嫡孫サンクルの証言と松浦武四郎の紀行文「十勝日誌」の対照により、史実として確証を得、昭和12年6月30日「史跡標」を建設、以後昭和27年再建し、昭和49年碑文を加え建立した。」と書かれている。「松浦武四郎 宿泊之地」碑の裏面には「安政5年(1858年) 蝦夷地山川地理取調の命をうけた松浦武四郎が飯田豊之助をともない石狩国から山越えして十勝川筋に沿いこの地に着いた。ニトマツプの初代酋長アラユクは同族あげてこれを迎え一夜の旅情を慰めもてなしたことが紀行文「十勝日誌」に記されている。昭和49年4月建立 清水町教育委員會」碑文によると今の碑は3代目ということになります。 「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 第六巻 東部登加智留宇知誌 肆」に「ニトマフ 小川有 此処をこへて少しの原の高き処有り。其後ろは一面の原目も及ばざる計の処なり。我等が来りしを見てアラユク乙名、倅シヨマ、次男シルンケアイノ出迎たり。然るに此三番目に座せしシルンケアイノ我を見て、ニシパ様御久敷御座りますと、和語もて云しかば、不思議に思ひ後ろを顧しかば、一昨年ヲホツナイよりホロイヅミまで召連れしもの也しかば、我も安じ飯田も大に悦び、アユラク乙名の家に入る。」十勝日誌では彼が一族に「武四郎は樺太の北方まで行ったことがある人」と紹介。武四郎が樺太の事を詳しく話すと、長老らは大いに喜び、一夜の旅情を慰めもてなしてくれたと云う。
◇清水町人舞人舞基線78 岸田牧場内 ◇標高 156m N43°03’34.5” E142°55’07.4”
◇清水町人舞人舞基線78 岸田牧場内 ◇入口標識 N43°03’31.0” E142°55’01.0”

松浦武四郎歌碑音更町開拓記念碑 音更町MAP

音更町鈴蘭公園音更町が設置してある説明板より「松浦武四郎は1858年(安政5年) 2月、札幌から十勝入りしての踏査、また、同年7月十勝川流域精査を行った。このとき詠んだ歌がこの碑である。今日の十勝・音更を予見しているようである。」とあったが和歌の説明はなく、読めそうにもないので丸山道子現代語訳「十勝日誌」を見ると「このあたり 馬の車の みつぎもの 御蔵をたてて 積ままほしけれ」とあったのを参考に「此のあたり 馬の車のみ津ぎもの 御蔵を建てゝ つまゝほしけれ」と読んでみたが正解かは?・・・碑の裏側は殆ど読めないが大正8年6月に川西支庁が建立したのだけは何とか理解できた。帯広開町25年記念として建立され裏面は帯広開拓の由来が彫られた開拓記念碑だったようで、本来は帯広開拓、開町記念碑なのだが和歌以外の文字は殆ど読めないので松浦武四郎歌碑と呼ばれるのではと思ってしまった。十勝日誌では8月27に総乙名シラリサ宅に一泊したとき長老宅(惣乙名シラリサの家)の家の柱に書き留めたとある。「戊午日誌」によると総乙名シラリサ宅に泊まる事にしたのは息子と懇意にしていたからと云う。食料などもここまで運ぶ様に手配していたがまだ届いておらず、翌日に十勝川を下っている途中の猿払川手前で食料を積んで遡ってきたシラリサに出会う、武四郎の誘いでシラリサは止若まで同道、武四郎一行は止若の乙名イキリカン家にて大宴会を張ったという。この碑は隠れ武四郎碑というレベルを超え松浦武四郎歌碑として知る人は多い。碑は音更町南端の高台にある鈴蘭公園内にあり、地元では展望と花見のスポットとして知られている。◇所在地:音更町鈴蘭公園2番地 ◇N42°56’36.9” E143°12’04.5”

チホマトー慰霊碑帯広市MAP

チホマトー慰霊碑1858年3月16日に松浦武四郎が十勝日誌に記したのが最初の記録のようです。碑文より「チヨマトウの伝承と歴史 チヨマトウはアイヌ語で「恐ろしい沼、害を受ける沼」という意味である。この沼は古くは大きな三日月湖だったといわれ、幕末に帯広を訪れた松浦武四郎もこの沼のことを「チヨゝマトウ 谷地中に小沼一ツあり。この水赤くなり手本川え落。」(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌) と記録にのこしている。しかし次第に小さくなり、平成16年の道路直線化に伴う埋立で現在のような状態になった。この沼には十勝アイヌと日髙や北見など他から攻めてきたアイヌが戦ったという口承が残されている。・・伝承については省略・・平成16年11月吉日 真理教北門神社 建立」いずれの戦いにおいても犠牲者を出しているので「チヨマトウ戦没者慰霊碑」が建立されている。最初の慰霊碑は最初の昭和2(1927) 年の建立だが、健在あるのは平成16(2004) 年の道路工事に伴い三度目の更新で新しく記念碑が建てられた。チヨマトウが最初に紹介されたのは松浦武四郎の戊午東西蝦夷山川地理取調日誌だったようです。◇所在地:帯広市西16条北1丁目 チョマトー公園

松浦武四郎歌碑中札内村 MAP

中札内村西札内 防災ダム桜公園西札内防災ダムの下流で東屋なども整備された綺麗な公園に平成9年8月9日の国際先住民の日に西札内地区先住民族を語る百人委員会の方が建立した松浦武四郎歌碑とサツナイウンクルの祖の像がある。以下は説明板より『サツナイウンクルの祖の像 「1500年ころ イシカリ ペペツ(美瑛川辺別) の人 モザルックがサツナイに住まいし サツナイ族の祖となれり という。先住民族アイヌの人々が和人の侵入で受けた苦難の歴史を偲び、ここに その像を建立し遺徳を讃える。」松浦武四郎の歌碑「幕末の探検家 松浦武四郎1858年旧暦7月12日 タイキより現西札内 札内川左岸のサツナイコタンの乙名マウカアイノの家に1泊し鹿肉の馳走を受けたとき詠める歌なり。」「このあたり 一夜かりても 鹿の音を 今宵は近く 聞かましものを」(碑文は本人の残した日誌より)  平成9年8月9日 国際先住民の日 西札内地区先住民族を語る百人委員会』歌碑には鹿の絵が彫られているが、和歌は達筆すぎて説明板が無ければよめなかったかも。いにしえの十勝アイヌには元々の十勝先住アイヌと後に北見から十勝に入ったオトフケウンクル、石狩から十勝に入ったモザルクを祖とするサツナイウンクルが有ると言う。◇中札内村西札内 防災ダム桜公園 ◇標高 273m N42°38’30” E143°04’15”

十勝発祥之地の碑大津郵便取扱所 豊頃町MAP

十勝発祥之地の碑1798(寛政10)年に東蝦夷地を幕府直轄となり、翌年の寛政11年に駅馬を十勝に送り、これを茂寮(広尾)と大津の2カ所に分けて、場所請負人の通行量において行客の便に当らせたとある。文化3年には大津に駅逓所の前身とも云える止宿所(通行屋)があったという。最後の十勝場所請負人、箱館の福島屋杉浦嘉七の雇人となった青森県人・堺千代吉が大津に漁場を開いたとされる1863(文久3)年が大津最初の和人定住年という。維新後に十勝会所は廃止となるが漁場持として駅逓は継続していたと思われ、北海道宿駅制の研究に広尾と大津ともに「杉浦某駅逓を兼ね扱う」とある。明治7年に福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上すると、若松忠次郎は福島屋を離れ官の勧めもあって、もと杉浦嘉七の雇人であった山崎勘之肋、同じくもと杉浦嘉七の雇人で縁戚の堺千代吉、およびアイヌ代表とはかり明治8年に十勝漁業組合を組織、その十勝場所経営は従来の場所請負制を延長しているようで、その経営は排他的でアイヌを使い暴利をむさぼっていると批判され開拓使が明治13年に解散をさせた。十勝漁業組合が解散時に清算した利益は現在の貨幣価値で数億円に相当し的外れな批判ではなかったようだ。十勝発祥の地碑は道道320号旅来大津線の突き当たりに建立されている。安政4年に松浦武四郎は石狩川を遡り、山脈を越え十勝川を下りゴールしたのが大津番屋でした。◇所在地:豊頃町大津寿町6

チュクベツ渡船場跡地図へ

チュクベツ渡船場跡かつて釧路と十勝の境界の直別川は河口付近に渡船場があり明治期には海岸沿いに道があり釧路側直別に私設駅逓があった。今は道も変わり河口部海岸に近づく事は出来ないがJR直別駅より浦幌側で国道38号線と道道1038号線の分岐部、ドライブインミッキーハウス(ライダーハウス)の一角に史跡の説明板が設置されている。色々と記録はあるようだが最も詳しいのは松浦武四郎の記録のようで引用部分を転載する。「前略・・この渡船場の設置年代は不明であるが、幕末の様子を松浦武四郎は「初航蝦夷日誌」で「チュクベツ、川あり、幅10間。丸木船渡し、夷人小屋有也」「武四郎廻浦日記」では「チュクベツ・・・此処クスリ、トカチ両持にして隔年に渡し守を出す。1ヶ月給金六百文のよし。川向に夷家2軒両川岸に標識を建てたり・・後略・・平成3年12月1日 浦幌町教育委員会」陸測図では河口部に橋が有り駅逓は見えないが道が海岸沿いにある。説明板に登場する松浦武四郎は弘化2年、安政3年と安政5年に直別を通過し記録に残しているが、説明板にあるのはその引用のようです。チュクベツという名前からすると昔からサケの遡上する川だったようです。直別駅逓は北海道宿駅(駅逓)制の研究によると明治17年4月開設で明治21年4月廃駅、駅逓取扱人は高島文造となっているが、音別町史によると私設駅逓だったようです。◇所在地:浦幌町直別西1線 ◇42°51'01.2"N 143°51'17.6"E

当縁番屋跡通行屋跡 大樹町MAP

当縁番屋跡江戸期は広尾に会所が有り大津、湧洞、当縁、生花苗、浜大樹、音調津、庶野などには通行屋や小休所などがあったというが、浜大樹から当縁川河口に進むと当縁川右岸台地先端に「当縁番屋」跡があり、大樹町設置の案内板によると享和2年頃にトカチ会所が設置した番屋のようですが、文字は殆とが判読不能で何とか享和二年ごろ美楼会所の設置と書いてあるように見えた。トウブイ(当縁)には番屋、通行屋と馬船があったというので、官馬が配置され渡し守も居たと云うことになります。松浦武四郎の蝦夷日誌(初航)に「トウブヘ...馬有。継立ニなる也。非常御備米蔵、弁天社、運上屋。勤番通行上下とも止宿になる。勤番クスリ支配也。夷人小屋廿」とあり、東蝦夷日誌では「前に土手有、是は南東風を防ぐ為也」と記されてた土手は今も残っている。東蝦夷日誌では運上屋とあり大きな建物だった様で、それをを証明するかのように土塁のような長い土手の大部分が残っている。松浦武四郎は弘化2年の6月頃と知床岬・納沙布岬を巡った帰り、安政5年の十勝踏査の帰りに当縁番屋に泊まったと思われる。◇所在地:大樹町当縁 当縁川河口付近 ◇N42°30’20.79” E143°27’27.90”

ビロウ運上屋跡史跡標柱 広尾町MAP

ビロウ運上屋跡十勝場所の設定年代は詳らからではないが寛永12年の松前藩による戸賀知金田の開設と同じ頃と考えられている。寛政11年に松前藩領から幕府直轄地となり運上屋は会所に改められ、ビロウ運上屋も十勝会所と改められた。運上屋は享和年間(文化年間?)に崖下から高台に移転、運上屋跡は崖下で十勝会所跡は高台となり少し離れている。広尾町の海岸通りに高台への避難階段が有りその登り口に史跡標柱がった。
◇所在地:広尾町海岸町 ◇N42°28’38.59” E143°31’97.49”

十勝会所跡広尾町MAP

十勝会所跡十勝場所の経過は大津やビロウ運上屋と重複するので省略。他の会所には無い特徴として酒造が試みられていたとの事知られているが標柱に酒造に関する表記はない。最後の十勝場所請負人は箱館の福島屋杉浦嘉七、維新後に会所は廃止となるが漁場持として駅逓はそのまま継続していたようです。松浦武四郎の宿泊は十勝会所の年代になるが、蝦夷日誌では「弁天島という小島が前に有る」と記し運上屋となっていたが、当時は幕府直轄前で当地では運上屋という呼称も使われていたものか?廻浦日記、戊午日誌では会所となっている。松浦武四郎は弘化2年と安政5年に宿泊、2度目の十勝内陸部踏査の起点になった地です。◇所在地:広尾町会所通り ◇N42°17’06.14” E143°19’10.92”

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

斜里町宇登呂 藤野宇登呂番屋跡 藤野宇登呂番屋説明板 チホマトー慰霊碑・碑文 当縁番屋跡・当縁河口 松浦武四郎野宿之地碑2 松浦武四郎野宿之地説明看板松浦武四郎野宿之地説明文 清水町人舞人舞基線78(02) 清水町人舞人舞基線78(03) 清水町人舞人舞基線78(04) 十勝日誌の挿画 音更町スズラン公園 中札内町・西札内防災ダム公園-02 中札内町・西札内防災ダム公園-03 中札内町・西札内防災ダム公園-04 羅臼町字共栄 桑田立斎のアイヌ種痘之碑

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駅逓(記念碑)を巡る旅

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