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駅逓跡と記念碑を巡る旅
道東オホーツクの旧駅逓所や駅逓跡碑を巡る旅‼

道東オホーツクの逓跡記念碑

旧駅逓や駅逓跡に関し総てを現地確認した訳では有りませんが、道東の駅逓は海岸部を除くと駅逓開設は北見道路開削と共に本格化していきますが、駅逓の絶対数が多い割に逓跡記念碑は北見道路沿いを除けば多い方ではありません。また設置された逓跡碑が更新されずに減少傾向にあるのは他地域とおなじです。そのような訳でここに掲載した駅逓碑が確実に残っている事を保障するものでは有りません。江戸期の宿駅と旧駅逓舎については簡単な紹介とします。

上興部(米田)駅逓所跡木標柱 西興部村MAP

西興部村・上興部駅逓跡地明治31年に興部に入植した米田久三郎氏は明治39年に上興部十七線で私設駅逓を開設。明治42年に官設上興部駅逓になり取扱人は米田久三郎、駅逓の実務は川村留吉が担っていた。川村のあとを次いで米田久三郎の三男、米田久作がその任にあたる。大正4年に上興部三等郵便局が開局すると逓送業務が無くなり仕事は少なくなり、大正10年の鉄道開通により廃止となっている。駅逓廃止後には菓子舗を開店、大正15年に米田弁当部として上興部駅で弁当の構内販売を始めたが後に興部に移転、名寄線の廃止となる4年前の昭和60年に駅弁から撤退した。碑は国道239号線を西興部方面に進み上興部市街を過ぎ橋(米田の沢川・福興橋)を越えた左側に。◇開設:明治39年私設 ◇官設年:明治43年02月 ◇廃駅年:大正11年01月 ◇初代取扱人:米田久三郎 ◇二代:米田九作 ◇所在地:西興部村上興部 ◇GPS:N44°20’24.6” E142°53’40.0”

官設上渚滑駅逓所

滝上町・官設上渚滑駅逓所 駅逓の詳細まではわからないが、碑は国道273号線沿いで雄鎮内センターの前にある。開拓初期の拠点となっていた地で国道から道道996号を渚滑川の方に進むと渚滑線・雄鎮内仮乗降場が有ったが今は何も残っていない。上渚滑という名が散見されるが大正7年に紋別郡渚滑村から分村し滝上村になった当時の名残。和人で渚滑最初の定住者は明治38年の西森亦吾氏で農業に従事する傍ら商店を経営していたという。駅逓は明治44年にこの地で開設されたが奥地の開拓が進んだ大正4年に滝上市街地(元町)に移転している。駅逓廃止後は旅館を経営していたようです◇設置年:明治44年02月 廃駅年:昭和03年02月 ◇移転年:大正04年04月 滝上に移転 ◇初代取扱人:宮地勝長 ◇現住所:滝上町雄鎮内55線(旧上渚滑原野55線) 

滝上官設駅逓所跡石碑 滝上町MAP

滝上駅逓跡元々は上渚滑村の雄鎮内で開設された上渚滑官設駅逓所が大正14年に滝上に移転したもの。駅逓の移転は入植者が奥地に入ってくるとそれに併せて移転した例が多く、時代が進むにつれて内陸部に入っていく。大正12年に渚滑線が開通、鉄道開通で駅逓廃止というのが一般的だが、滝ノ上駅は単独線の終着駅であり、滝上駅逓は峠駅逓や滝下への中継駅逓だったことから昭和3年まで営業、駅逓廃止後は旅館を経営していたという。駅逓碑は芝桜で有名な滝上公園と渓谷公園を結ぶ旧道沿いに石碑がある。和人が入植する前から留萌から移り住んでいたアイヌの人、柳田初太郎がいて初期の入植者が世話になったという。観光のついでに立ち寄ってみては。◇設置・明治44年02月:開設は上渚滑 ◇移転・大正04年04月:上渚滑から移転 ◇廃駅・昭和03年02月 ◇初代取扱人・宮地勝長 ◇住所・滝上町元町(旧市街) 滝上公園近く。◇GPS:N44°11’44.6” E143°04’51.6”

北滝上官設駅逓所跡石碑 滝上町MAP

北滝上駅逓所跡滝上原野20線に昭和になって設置された駅逓ですが開設期間は10年未満と短命でした。現在は三区20線となっているようで、20線バス停から国道のカーブを曲がらず直進して農道に100mほど進むと道路左側に石碑がある。元はこの辺が集落の中心だったようで、駅逓開設当時は北滝上巡査駐在所や森林保護区員駐在所、農業物検査員駐在所などがあり、滝西小学校の前身となる学校もあったが、市街地の中心が滝西に(21線)移ってしまう。滝上町の駅逓跡碑は昭和47年に設置されているがここだけは平成になってから再建された碑で他とは雰囲気が異なっている。近くにある古タイヤ処理場が目印になるかも。◇設置:昭和01年11月 ◇廃駅:昭和08年06月 ◇初代取扱人:鈴木金太郎 ◇現住所:滝上町三区20線(通称西滝) ◇GPS:N44°07’14.2” E143°00’20.9”

奥滝上官設駅逓所跡石碑 滝上町MAP

滝上町・奥滝上駅逓所滝上町中心から国道273号線で上川方へ向かう事約20km、最後の集落に残る閉鎖された空店舗を過ぎて間もなく道路右側に「奥滝上官設駅逓所跡」の石碑が設置されている。その横に木製の門柱がありかつての校門のようで少し離れた国道脇の草むらの中に学校跡の碑もあったが草が伸びると見えない。開拓者が最初に入ったのは大正2年で大正7年には戸数45戸といい、駅逓開設と同年に滝奥特別教授場が開校しているが今は無人の荒野と化している上川までの道路は昭和9年に開通しているも交通網が貧弱だったこともあり、駅逓制度廃止まで残っていた7駅逓のひとつでした。◇設置:大正13年02月 ◇廃駅:昭和20年06月 ◇初代取扱人:杉山要次郎 ◇二代:斉藤鏡二 ◇三代:松崎新吾郎 ◇四代:松崎五七 ◇五代:松崎国子 ◇現住所:滝上町五区55線・通称滝奥 ◇GPS:N44°02’05.1” E142°59’44.9”

サクルー官設駅逓所跡石碑 滝上町MAP

滝上町・サクルー官設駅逓所跡裏面の碑文より「上渚滑駅逓所と共に此処に設置され大正6年,上藻興部へ移転する。取扱人 由良与三郎」とあった。碑は滝上郷土史研究会により昭和47年に建立されている。サクルー官設駅逓所は明治40年の区画測定て南8号まで拓殖道路が延びた明治44年に上渚滑官設駅逓所とともに開設され、西興部までの道路が開通した大正6年に西興部の上藻興部に移転し上藻興部駅逓所に改称されました。建物は近年まで残っていたが2012年の暴風雪で倒壊した。碑は士別市朝日町から滝上町に向かい上紋峠を下り奥札久留小学校跡を過ぎ札久留橋を越えてまもなく左側にある。◇現住所:滝上町札久留 ◇設置年:明治44年02月 ◇移転年:大正08年06月 西興部に移転,改称 ◇廃駅年:昭和05年05月 ◇初代取扱人:古川新蔵 ◇二代:青木忠平 ◇三代取扱人:山良與三郎(由良与三郎?) ◇GPS:N44°10’50.2” E142°58’08.7”

オシラネップ(上雄柏)官設駅逓所跡石碑 滝上町MAP

上雄柏官設駅逓所跡 上雄柏の開拓は大正5年頃から始まって滝上では遅くになって開拓された地域、官設駅逓が開設されたのは昭和10年(実質年は昭和9年)で駅逓制度が全廃された時、奥滝上官設駅逓所とともに最後まで残っていた7駅逓のひとつです。駅逓跡の碑はオシラネップ原野濁川停車場線で上雄柏小中学跡より少し奥、崩壊寸前の旧郵便局脇に建っている。昭和39年に滝上町の町長に就任した朝倉義衛氏(初代議会議長,14代町長)は高知県出身で19歳の時に渡道(明治41年)し、滝上サクルー3線を経て昭和10年にオシラネップ駅逓開設と共に取扱人となるが、後にミカン箱一杯の芝ざくらから日本一の芝ざくらの公園となる端緒を開いた町長でもありました。全駅逓跡に碑があるのはそういう背景と関係がありそうな気がします。オホーツク地域で全駅逓跡に碑があるのは滝上町と小清水町、清里町、美幌町、旧女満別町、旧留辺蘂町、訓子府町、旧北見市、旧常呂町では所在地の判明した駅逓跡に木碑を設置したようです。◇設置:昭和10年04月 ◇廃駅:昭和22年03月 ◇初代取扱人:朝倉義衛 ◇現住所:オシラネップ原野24号 ◇GPS:N44°04’48,0” E143°04’17.8”

湧別駅逓所跡石碑 湧別町MAP

湧別駅逓所跡和田麟吉が湧別駅逓所の取扱人を命ぜられ、根室県から施設費600円と駅馬25頭の貸下を受け、網走から大工を招き30坪の建物を建て、馬丁2名を雇用し、請負制によって同年7月に開業した。湧別郵便局開設による局長就任後も駅逓は継続されているが、駅逓経営は楽ではなかったようです。和田麟吉が湧別郵便局長就任後は、駅逓業務は佃田三作、渡部精司、鷲見与三吉、堀川泰宗と引き継がれ昭和4年廃駅となった。最後の駅逓取扱人、堀川泰宗は枝幸砂金開発の功労者で大東流門下の柔術家でも有る。碑は国道沿いで湧別派出所(交番)近くの民家脇にあるが目立たないので見つけるのは面倒かも。近くにアストモガスの看板有り。湧別港近くには湧別上陸の地の大きな碑もある。◇初代取扱人・和田麟吉 ◇二代・佃田三作 ◇三代・渡辺清司 ◇四代・鶴見与三吉 ◇五代・堀川泰宗 ◇現住所・湧別町緑町・湧別市街地 ◇GPS:N44°13’34.3” E143°37’06.7”

芭露駅逓所跡石碑 湧別町MAP

上芭露・芭露駅逓所大正8年に官設駅逓所として開駅、初代取扱人は加藤政千代氏、二代目は小山春吉氏となっている。開駅と同時に郵便仏取扱所の開設とある、上芭露はハッカの産地であり、人や物流の為に駅逓が必要性とされたのでしょう。ハッカ景気の頃に全盛を極めた地域ですが今の風景からは想像もできない。上芭露神社の上芭露開基100年碑の横に芭露駅逓所跡の碑があります。駐車は数台が可能です。実質的には大正9年から昭和16年までの様で、上芭露神社に駅逓跡の碑が有る。ハッカ景気の頃に全盛を極めた地域ですが今は面影もない。◇設置:大正10年01月 ◇廃駅:昭和15年05月 ◇初代取扱人:加藤政千代 ◇二代取扱人:小山春吉 ◇三代:小山康夫 ◇現住所:湧別町上芭露・上芭露神社鳥居横 ◇N44°05’49.1” E143°39’31.2”

常呂駅逓所跡木標柱 北見市MAP

常呂駅逓所跡常呂駅逓開設前は藤野番屋が駅逓のような役割を果たしていたようです。常呂駅逓所は明治25年に一度廃駅としたが鐺沸駅逓廃止で開設されたというが新築移転なども有り開設地の詳細は不明。ただ駅逓廃止時の場所は判明していて昭和58年頃に標柱が設置された。木標は経年変化で痛んでいるも文字は何とか読める。常呂エリアでは他に鐺沸駅逓、ワッカ駅逓、太茶内駅逓、手師学駅逓があったが碑のあるのは常呂を含めて3カ所、ワッカ駅逓の碑は倒壊してしまったのが確認され再設置を検討中とか・・◇設置:明治17年07月 ◇廃駅:昭和05年06月 ◇初代取扱人:(大越善三郎)大島仁吉◇二代:江里口秀市 ◇三代取扱人:渡辺冨八 ◇四代:渡辺貞子 ◇五代取扱人:福島恒次郎 ◇現住所:北見市常呂町本通り ◇GPS:N44°07’19.0” E144°04’39.6”

太茶内駅逓所跡木標柱 北見市 MAP

太茶内駅逓所跡明治33年に石橋伝蔵は大越善三郎の放牧地の一部を借りて農業を続けながら旧太茶苗基線21号線に官設太茶内駅逓を開設、運営したという。今の22号と23号の間で、伝説のイワケシ山裾にあたる豊川、道道北見常呂線のバス停「福山23号」の常呂川寄で日吉方面に20歩ほど戻った道路下に木標柱がある。虎杖の中に埋もれてるので虎杖が伸びる前か、枯れている時以外では碑を見つけるのは困難。常呂町開基百年(昭和58年)記念で各所に設置した木標柱のひとつですが経年劣化で文字は不鮮明、駅逓名は読めるが設置年は読めない。太茶苗は旧村名でアイヌ語の「プト゚イチャン.ナイ」に太茶苗を当てた。名前の元になったプト゚イチャンナィは常呂川右岸の小沢で日吉橋より下流の28号付近に入っていたらしい。また松浦武四郎は安政5年にプトºイチャンナィで宿営し上流の見聞に向かっている。戊午日誌にプトºイチャンナィに続いて小石なるが故に爰にテッシ懸けて漁猟するなり」とある。太茶内駅逓所が移転し手師学(テシマナイ)駅逓として再開した。アイヌ語のテㇱ,オマ,ナイ)に手師学とあてテシマナイとしたらしいが難読で、日吉に変わっている。◇設置:明治34年04月 太茶苗駅逓所として設置 ◇移転:明治44年12月 手師学に移転、再開 ◇所在地:北見市常呂町福山 ◇GPS:N44°01’37.40” E143°59’37.01”

手師学駅逓所跡木標柱 北見市MAP

手師学駅逓所跡の碑旧太茶苗基線21号線に太茶苗(フトチャナイ)官設駅逓所が設置され、明治44年に手師学字(ポンクマアシリコタン=ポン隈川橋付近)に移転し手師学(テシマナイ)駅逓所として再開。手師学駅逓所は20年ほど前まで駅逓舎が残っていて、保存運動もあったようですが解体され今はその痕跡もありません。手師学駅逓所跡の木碑はポン隈川橋のT字路付近で道路際にある。碑は昭和58年頃に設置されたもので痛みが目立ち文字は読めない部分もある。ポンクマアシリコタンは明治になってから出来たコタンで明治20年頃は三軒だったという。テㇱオマナイというので漁による生活の場だったようだ。上流側の端野町忠志には旧跡ヌッケシ古潭跡があるも遺構は残っていない。。◇設置・明治34年04月:太茶苗駅逓所として設置 ◇移転・明治44年12月:手師学に移転、再開 ◇廃駅年・昭和05年06月 ◇初代取扱人・石橋伝蔵 ◇二代・石橋平四郎 ◇三代取扱人・石橋藤エ門 ◇現住所:北見市常呂町日吉114 ◇GPS・N43°57’47.5” E143°56’16.5”

ワッカ駅逓所跡木標柱倒壊 北見市MAP

ワッカ駅逓所跡昭和58年に常呂町開基百年を記念して木柱を設置したというが、第2湖口から第1湖口の方に約8.5km行った砂州という事で、自然環境が最も厳しい所で碑は倒壊が確認されているが、再建を検討しているとの情報があったので掲載した。上原熊次郎や松浦武四郎にも記録(竹四郎廻浦日誌では昼休所となっている)され、古くからあった宿駅のようで早期の再建を願ってやまない。ワッカのマップは中間と云うことで正確ではありません。◇設置年(再設置):明治21年04月 ◇廃駅年:大正09年12月 ◇初代取扱人:福士休右エ門 ◇二代:福吉?村右上衛門 ◇所在地:サロマ湖砂嘴中間部

上武華駅逓所跡石碑 北見市MAP

上武華駅逓所跡大正11(1922)年に上武華(富士見)駅逓所が開設(現・大和地区)され取扱人に佐野松ヱ門が任命され入植、営業状況は不明だが旧武華駅逓の佐野準一郎氏の弟で兄弟で駅逓を運営されていた。武華駅逓から約13kmの距離にあり富士見駅逓とも呼ばれていたというが、大正13年測図の地形図には五十號駅逓所と記載されており、駅逓所在地の名前でも呼ばれていたようで、当時は27戸の入植があったというが昭和50年を最後にこの地区から農家がなくなっている。駅逓はイトムカ鉱山の関係も有ってか比較的遅くまで利用されたが昭和18年に廃駅。駅逓所跡の碑はくまがいキタキツネ牧場より留辺蘂市街地方向に100m程に下った所にある電波塔横の草原・国道際に石碑があるが草が伸びると見えない。◇設置:明治11年12月 ◇廃駅:昭和18年08月 ◇初代取扱人:佐野松右エ門 ◇現住所:北見市留辺蘂町富士見 ◇GPS:N43°40’25.2” E143°18’29.5”

訓子府駅逓所跡説明板 訓子府町MAP

訓子府駅逓所跡 取扱人は北光社農場支配人の前田駒次で、実質経営者は岩渕周之助というが詳細はよく分からない。明治39年開設、明治42年焼失するも翌年に再建。明治44年に鉄道が開通し、市街地に旅館が開業するようになり、大正9年12月に廃止。訓子府駅逓所は客間が4部屋、事務室、居間、台所、使用人室が有ったという。旧訓子府駅から徒歩5分、道道北見置戸線に出て北見方面に向かうとまもなく、左手に訓子府郵便局があり、隣の民家前に駅逓の説明看板がある。◇設置:明治39年09月 ◇廃駅:大正09年12月 ◇初代取扱人:中館昇 ◇二代:岩淵周之助 ◇現住所:訓子府町市街 ◇N43°43’38.6” E143°44’25.2”

女満別駅逓所跡石碑 大空町MAP

女満別駅逓所跡女満別駅逓所は明治時代に女満別昭和地区に作られその後現在の女満別駅付近に移動しています。大正11年に鉄道が開通しその役割を終え廃駅となる。碑は移転後の位置で女満別中学校近くの国道沿いでR246号分岐近くの階段途中(通学路?)にあり、国道からは見え探すには面倒かもしれない。◇設置:明治36年02月 ◇廃駅:大正11年01月 ◇初代取扱人・高橋藤三  ◇二代:橋瓜雄吉 ◇現住所:大空町女満別東陽3丁目72番地 ◇GPS:N43°54’52.1” E144°11’03.2”

奧女満別駅逓所跡石碑 大空町MAP

奧女満別駅逓所跡 奧女満別駅逓所は女満別開陽地区に大正11年開駅、後に知床国道(R334号線)と福住女満別線(R249号線)の交差点付近(開陽184)で国道より女満別側に移転再開、昭和17年の廃駅となっている。平成元年に開業したフレッシュ若福商店で聞いた話では、開店当時は店と道路を挟んで向かい側に駅逓跡が二つの小山の間に残っていたという。駅逓碑は知床国道(R334号線)と町道開陽東14号線のT字交差部近くで知床国道沿いにあり、移転前の場所のようです。◇設置・昭和03年01月 ◇廃駅・昭和17年08月 ◇初代取扱人・関根源三郎 ◇所在地・大空町女満別開陽304番地? ◇GPS:N43°49’43.90” E144°13’53.77”

美幌驛逓所跡石碑・説明板 美幌町MAP

美幌驛逓跡奧女満別駅逓所は女満別開陽地区(開陽304=旧開陽小学校付近)に大正11年開駅、後に知床国道(R334号線)と福住女満別線(R249号線)の交差点付近(開陽184)で国道より女満別側に移転再開、昭和17年の廃駅となっている。平成元年に開業したフレッシュ若福商店の女将の話では「開店当時は店と道路を挟んで向かい側に駅逓跡が二つの小山の間に残っていた」とのこと。後の農地開発で沢が埋められて整地され痕跡はなくなっている。奧女満別駅逓所跡の碑は国道334号線線(知床国道)と町道開陽東14号線の交差部付近で国道側の畑橋にある。駅逓の取扱人は関根源三郎氏でした。◇設置:明治33年10月 ◇廃駅:大正11年11月 ◇初代取扱人:青山三七 ◇所在地:美幌町字東2条北2丁目

古梅(杵端辺)駅逓所跡石碑・説明板 美幌町MAP

古梅駅逓跡碑文には「山本馬之助が取扱人となり杵端辺(けねたんべ)駅逓として開所する。道内を旅する人達を宿泊させる」とある。駅逓跡は国道駐車帯際から大回りするように伸びた旧国道(町道864号)沿いで、国道からは桜の木が目印になる。と云う事で春以外では注意していないと見落としてしまうかも。地主さんの話によると、流土を止めるため不整地となっているが元々は平坦な地形という。碑は美幌町が昭和53年11月03日に建立した。地主さんが説明してくれるかも・・・◇設置:明治42年02月 ◇廃駅:昭和06年05月 ◇初代取扱人:山本馬之助 ◇二代:山本盛夫 ◇現住所:美幌町古梅 ◇N43°42’44.9” E144°11’28.3”

フレトイ(古樋)駅逓所跡石碑・説明板 小清水町MAP

古樋駅逓跡小清水原生花園が途切れるフレトイ展望台の手前、T字交差点の近くで、国道より一段低くなっている所に石碑と説明版がある。以下は小清水町教育委員会建立の説明板より「この駅逓は、明治19年、網走根室間の道路開通により設置され、塚本命助氏が駅逓取扱人となり、駅逓所属の牧場12万坪で、牛馬を飼育していた。駅逓は、旅人宿、食糧品取扱を主な業務とし、移住者のための便宜をはかり、北海道開拓の大きな原動力となった。しかし、その後、交通の発達にともない、この駅逓も、昭和4年に廃止となった。小清水町教育委員会」中間休憩所が止別川口(浜止別)に有り、止別川と涛沸湖には渡船があったという。古樋(フレトイ)は古い地名で蒼渭、振問とも書かれた。今はフレトイ展望台と神社にその名を残す。◇設置:明治34年04月 ◇廃駅:昭和03年06月 ◇初代取扱人:塚本命助 ◇二代:塚本蔀 ◇三代取扱人:山本與三郎 ◇四代:山本義雄 ◇GPS:N43°56’04.1” E144°26’36.5”

小清水駅逓所跡石碑・説明板 小清水町MAP

小清水駅逓所跡野上峠から浜小清水方面に進むと小清水市街の端、斜里美幌線との信号交差点より少し手前の交差点角地に石碑が有ります。以下は小清水町教育委員会のたてた説明版より「この駅逓は明治24年、釧路道路の開通により、半沢真吉が初代取扱人となり開設された。その後竹中安之助が引き継ぎ、駅逓業務の傍、移住者の指導や世話をするなど開拓の礎となった。又、公共施設の設置や分村等の問題は駅逓において協議され、集会場所としても使われたが、鉄道開発がすすみ、昭和4年6月廃止となった。小清水町教育委員会」◇設置:明治24年04月 ◇廃駅:昭和04年09月 ◇初代取扱人:半沢真吉 ◇二代取扱人:1894 新潟県人、竹中安之助 ◇三代取扱人:竹中安三郎 ◇四代:竹中一郎 ◇現住所:小清水町184番地 ◇GPS:N43°51’33.4” E144°27’42.1”

野川駅逓所跡石碑・説明板 小清水町MAP

野川駅逓跡国有林の中を野上峠に向かって行くと、道路の右側に一段低くなり少し開けた草地の奥に人知れず碑と説明版がある。以下は小清水町教育委員会が立てた説明板より「明治24年、釧路道路の開通に伴い、水本栄助を初代取扱人として開設。翌年、塚本伊勢太が取扱人となった。この駅逓は放牧地に恵まれず、川湯、小清水から半日の道程にあったため宿泊客も少なく経営は極めて苦しかった。明治42年、野川~札鶴(札弦)間の開通により下手の分岐点に移転したが、釧網線全通により昭和6年5月廃止になった。(現在の水上地区野上峠登坂付近に所在)小清水町教育委員会」今は石碑以外に何の痕跡もない。◇設置:明治24年04月 ◇廃駅:昭和06年05月 ◇初代取扱人:舟木竹次郎 ◇二代取扱人:塚本伊勢太 ◇三代:小宮山俊助 ◇四代:小宮山捨蔵 ◇五代:小宮山儀助 ◇GPS:N43°44’26.7” E144°29’14.0”

上斜里駅逓所跡石碑 清里町MAP

上斜里駅逓所跡の碑 明治42年斜里に川湯間の道路開通にて旧斜里原野7線19号に設置された。石碑は国道工事にて一時撤去されていたが工事終了で再設置された。今の清里町で言うと、神居道路で上斜里と神威の境界付近の上斜里側になるが道路際というよりは畑の端という感じで一段低い位置にある。通称神威国道の工事で防雪柵が出来た為に注意してないと見落とすかもしれません。比較的近いところに清里開基の記念碑があり野川駅逓管理人であった岩手県人の塚本伊勢太氏が明治30年に神威10線21号に転住入地したのが清里町の和人定住のはじまりとありました。◇設置:明治42年03月 ◇廃駅:昭和05年06月 ◇初代取扱人:吉野吉太郎 ◇二代取扱人:山田与作 ◇三代:田崎藤三 ◇現住所:清里町・旧斜里原野7線19号 ◇GPS:N43°48’50.26” E144°33’43.78”

越川駅逓所記念碑石碑 斜里町MAP

越川駅逓所記念碑越川駅逓所記念碑より
「官設越川駅逓は明治27年12月斜里山道の開削に伴い、その開設が許可され、以来昭和16年3月廃止に至る間、北見管内拓殖移民の宿所、人馬の継立、郵便逓送の引継所となり、祭文語りや、根室への護送囚人等も泊り、北見根室の両国を結ぶ交通の要所として明治大正昭和の3代に及ぶ開発の拠点としての役割を果した。昭和8年国道の変更により幾品川沿より現在地越川234番地へ移転した。この駅逓の取扱人は 初代取扱人・中山道 自 明治38年10月08日至 明治35年09月29日 二代取扱人・赤平庄助 自 明治35年09月30日 ;至 明治39年10月24日 三代取扱人・半沢真吉 自 明治39年10月25日 至 明治40年01月08日 四代取扱人・平田久治 自 明治44年01月18日 至 明治16年03月30日 四代平田久治は明治39年、宮城県より都道。取扱人となり駅逓廃止までの31年間に渡り、自然の猛威にも屈せず専心職務に励み、廃止後も同地にて牧畜兼農業を営み八十八歳の高齢にもかかわらず、現在なお健在である。開道百年、斜里町開基九十年・町政施行三十年を記念して 昭和四十三年十月十七日 斜里町長」

国道244号線沿いで峠に向かって右側にある。国道を峠に向かっていくときは発見しやすいが、逆は難しいかも。斜里の駅逓に関する碑と宇登呂だけで平取、チプトマリには何も残っていない。チプトマリの駅逓は平成に入って解体され、ログハウスが知布泊駅逓跡MAPに建っていた。◇GPS:N43°50’25.8” E144°47’21.2”

旧斜里駅逓所民有倉庫 非公開MAP

旧斜里駅逓所斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになった駅逓で、市街東部の星印刷所向かいに建物が現存しているが補修を繰り返している様で駅逓当時の面影は殆ど残っていない。斜里から越川を経て峠越えで標津、別海を経て根室を結んだ駅逓も昭和4年の鉄道開通で廃止される。知床博物館・学芸員のお話では運営の実態がよく分かっていないとの事だった。近い位置に「シャリ運上屋(会所)跡」がある。◇設置:明治21年04月 ◇廃駅:昭和04年06月 ◇初代取扱人:清水一郎 ◇二代取扱人:清水条三郎 ◇三代:下川玉三
◇現住所:斜里町本町 ◇GPS:N43°54’49.1” E144°39’58.1”

旧武華駅逓・開拓資料館留辺蘂町MAP

武華駅逓・開拓資料館 大正9年、官設駅逓として開駅、取扱人は佐野準一郎氏。昭和11年廃止、建物は佐野氏に無償譲渡され住居として使用されていた。昭和45年、佐野氏の子息が住宅新築を機に留辺蘂町に寄附。留辺蘂町は駅逓開設時の様子を復元、開拓史料も展示し、開拓資料館として開放。武華駅逓は国道39号線沿い、温根湯温泉の西8km、国道を挟んで滝の湯温泉が220mと至近距離にある。

◇官設武華駅逓開駅:大正09年 ◇昭和06年増築 #9671;官設武華駅逓廃止:昭和11年 ◇昭和59年解体修復 ◇所在地:北見市留辺蘂町字 滝の湯 ◇N43°43’54.0” E143°25’28.3”

旧ムリイ(武利)駅逓所民家 非公開MAP

旧武利駅逓所 丸瀬布上武利に有る神居滝簡易郵便局の北側にかつてムリイ駅逓所だった施設の一部(二階部分)が住宅として活用されている。上藻別駅逓はこのデザインを一部採用しているというが、トタンが張られ外側からでは元型が正確にはわからないが、美深の駅逓に似ている印象。現在は無住の館となっているが管理はされている様子。ここはかつて湧別アイヌ一族のコタンがあった所で近くにカムイコタンの碑が有る。◇設置:大正14年05月 廃駅:昭和17年09月 ◇初代取扱人:徳正亀太郎 ◇二代:藤本勝治 ◇三代取扱人:徳正高之助 ◇現住所:遠軽町丸瀬布上武利 ◇GPS:N43°54’56.4” E143°19’44.9”

旧上モベツ駅逓所駅逓建造物 公開 紋別市MAP

旧上藻別駅逓所01 鴻之舞金山の開発に伴って設置された駅逓で、ボランティアによって復元修復され平成20年に国の登録有形文化財になる。旧上藻別駅逓所は大正15年に官設駅逓所として開駅。入母屋造鉄板葺平屋建(最初は柾葺きでした)の本館と寄棟造鉄板葺2階建の増築部(昭和9年)からなり、外壁は下見板張で、二回窓には装飾的な額縁が取り付けられ、内部は中廊下式で客室を配置、紋別地方に現存する駅逓家屋(夏期間は一般公開)で、戦前の北海道独特の様式を残す代表的な建築物で初代駅逓取扱人は高地登氏。昭和15年の廃駅後は昭和24年まで高地旅館として営業し、その後は住宅として使用された。旧上モベツ駅逓所では開拓資料や鴻之舞鉱山資料などを屋内と屋外、専用ブースなどて展示公開しその充実ぶりは突出している。◇所在地:紋別市上藻別 上藻別駅逓保存会 ◇TEL:0158-26-5110 ◇N44°11’17.1” E143°20’09.3”

産業遺構・鴻之舞鉱山

紋別市・産業遺構鴻之舞金山跡 かつては東洋一と云われ人口1万人を越えた鴻之舞鉱山。1916年に金鉱が発見され翌年から操業を始め、1973年閉山まで実質の操業期間は56年間。その間の総生産量は金72.6トン、銀1.234トンと単独の鉱山産出量としては日本最大を誇る。その鉱山も閉山してコーストタウン化、今では自然に戻っているが、その跡は近代産業遺構としては最大規模を誇る。「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌の作曲者、故宮川泰は旧鴻之舞小学校にかよっていたそうで、その代表曲「銀色の道」は、鴻之舞鉱山にあった鴻紋軌道の線路跡を思い出して作られたという。上藻別駅逓所から道道305号線を丸瀬布方面に向かう途中に、鴻之舞鉱山の遺構が点在するが殆どは危険防止のため立ち入り禁止。また銅鉱山閉山30周年を記念して建立された「銀色の道」歌碑や、鴻之舞鉱山跡の碑があります。鉱山の遺構ツアーガイドを上藻別駅逓保存会で行っている。

駅逓所縁の人物・記念碑、宿泊施設など

竹内文吉翁顕彰碑小向駅逓所 紋別市MAP

竹内文吉翁顕彰碑 小向駅逓所は湧別と紋別の中間駅逓として利用され、竹内文吉が小向駅逓所の取扱人となる。逓所の実質的な期間は明治33年~大正10年、鉄道開通で廃止された様だ。同時に竹内文吉は明治36年に湧別村基線20番地に入植、農業と開拓の先駆者でも有り、廃校となった弘道小学校の側に竹内翁の「彰徳碑」が建っている。顕彰碑に駅逓に関する文言はない。
碑 文
「翁は明治三十一年人跡未踏の当地に移住し開拓に力を効かすこと実に二十有九年弘道教授所の設置、その他地方公共のため尽瘁して至らざる成し。部民相諮り碑を建てその徳を彰せんとす。洵に美挙というべき也。即ち文を余に求めむ。因って記して以て後世に伝うると云う。 網走市庁長 渡辺勘一郎 大正十五年五月二十三日 除幕式」 と記されており、碑建立の寄付人の氏名が碑の裏に刻まれている。以下のデーターは小向駅逓の開廃年と竹内文吉翁の碑の位置となります。 ◇設置:明治34年04月 ;廃駅:大正12年03月 ◇初代取扱人:竹内文吉 ◇現住所:紋別市弘道 旧弘道小学校横 ◇N44°15’09.8” E143°27’36.5”

道東・オホーツクエリアの旧駅逓所・駅逓跡碑のギャラリー

北滝上駅逓跡の碑 芭露駅逓所跡の碑02 上武華駅逓所跡02 杵端辺駅逓跡02 女満別駅逓所跡-02 竹内文吉翁顕彰碑-02 旧上藻別駅逓所04 旧上藻別駅逓所05 旧上藻別駅逓所06 紋別市・産業遺構鴻之舞金山跡 チプトマリ駅逓跡 越川駅逓所記念碑-02 西興部村・上興部駅逓(米田)跡地の碑 滝上町・奥滝上官設駅逓所跡 湧別駅逓所跡02 美幌駅逓跡02 美幌駅逓跡03 古梅駅逓跡03 古樋駅逓跡02 小清水駅逓跡02

更新情報など

レイアウトをレスポンシブタイプにしました。旧駅逓所跡の内容を一部修正してます。

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