駅逓跡と記念碑を巡る旅
中央道路沿線の駅逓所と慰霊碑 遠軽~旭川‼

碑文の文字変更など

碑文の漢数字から算用数字への変更を少し、句読点の追加等で読みやすいようにしたが、内容の変更はしていない。文字の判読困難な部分は?で示した。旧漢字はHTMLで許容されていない文字のみ当用漢字に変更。

六號野上驛逓所跡石碑 遠軽町 MAP

遠軽町・六號野上驛逓所跡01

野上駅逓百年記念碑
大正2年7月、六号駅逓は下生田原(現安国)に移し4年4月に下生田原駅逓と改称し、旅人の便を図った。しかし大正12年9月、下生田原駅逓も惜しまれつつ駅逓の役目を解かれ廃止となった。平成3年には野上駅逓が設置されてから100年目を迎えるにあたり、時の流れの大きな節目としてこの貴重な歴史を後世に伝承するために、野上駅逓100年記念碑建設期成会を組織し、関係機関や多くの町民各位の協力により記念碑を建立。

沿 革
明治25年に、中央道路と基線道路が完成され、北見国より石狩国に通ずる内陸への交通が開かれるようになって、網走から上川までの沿道は、うっそうとした樹木に包まれる228kmの区間に、12kmから16kmおきに駅逓舎を設けて交通の便が図られ、北見国には越歳・端野・相の内・留辺蕊・佐呂間に続いて、この駅逓が6番目に置かれていたから、別に「六号駅逓」とも呼ばれた。駅舎は木造平屋で、113平方m、ここには宿泊施設もあって、官馬七頭が配置され、旅行者の求めに応じて、次の駅(滝の下)まで乗せた。荷物の運送は、主に駄馬送によったが、後に荷馬車を使い、積雪期にはそりも利用され、また郵便路線は3段階に分かれて、中央道路と基線道路は、三等路線区間になっていた。駄馬送は小包専送で、騎馬送及び人夫送は小包・郵便の併送で、約6kgと決められていたが、この駄馬送はこの駅逓にはなく、騎馬送と人夫送によった。荷物の運送重量は、騎馬の場合30kgキロまで、人夫のときは15kgまで背負うことになっていた。その後この駅逓は、湧別鉄道が大正元年に留辺蕊まで開通し、交通は木町を通り、湧別・紋別を経て名寄方面に行く者が増えたので、大正2年6月、安国に移転され廃止されている。なお、この駅逓の取扱い人角谷政衛氏は、新潟県魚沼郡神立村出身で、湧別から明治25年11月、野上に移住して来た。ここにおいて、本町に初めて和人の炊煙が上がり、これが原野開発の糸口になった。(碑文の文字種を変更している部分有り)
遠軽町史より
平成三年十一月一日建立
野上駅逓百年記念碑建設期成会

◇設置場所:遠軽町野上 ◇標高123m:N44°01’26.2” E143°30’17.5”

山神の碑・山の神建立の由来石碑 遠軽町 MAP

薬師山登山口・山神の碑

山の神建立の由来碑文
明治24年に開削された国道333号中央道路旭川~網走間は別名囚人道路とも呼ばれた。北方警備を急ぐ明治政府は大量の囚人を工事に納入し北見峠から網走までの約163kmを一年で仕上げる超突貫工事であった。劣悪な条件下で犠牲者も多く明治27年駅逓の責任者としてこの地に入った佐藤多七が旧囚人宿舎を住居にあてた際に裏に67本の墓標が立ち並んでいた。また夜毎「助けてくれ」との声やうめき声が聞こえたので、慰霊に努めたが同31年の大洪水で墓標が流出した。雪の深い2月のある日佐藤多七は野うさぎを追って薬師山に入りふと目に入った雪に隠れた見事な岩をみつけ息子鶴松と近所の農民と力をあわせ巨岩を運び出し石碑を建てた。そして死後も囚人と呼ばれたのは気の毒と考え山の神と刻入した。婦人たちは雨や風にあたらぬよう石碑に屋根をかけた。明治38年のことである。開拓農民が生命を収奪された囚人への心からの手向けであった。現在は三代目が供養を続けている。
昭和58年10月 佐藤幸平


『山神』碑の建立は遠軽町史では明治38年となっているが、実際は明治41~42年頃だったらしい。薬師山から石材を下げ、それを運んで建てたが、集落総出で5日程かかりお祭り騒ぎだったという。ここには「山神」の他に「山の神建立の由来碑」「薬師山八十八カ所の由来碑」と薬師山八十八カ所札所がある。目印は薬師山入口バス停
◇設置場所:遠軽町瀬戸瀬東町 薬師山バス停
◇標高123m:N44°00’38.1” E143°27’04.2”

国道開削殉難者慰霊之碑石碑 遠軽町 MAP

瀬戸瀬・国道開削殉難者慰霊之碑

殉難慰霊之碑建立の趣旨
裏面碑文から-中央道路は政府の北辺警備と北見地方の開拓促進のため明治19年に着工され、明治24年に完成された札幌、旭川、網走、釧路、を結ぶ当時の大動脈でした。このうち、明治24年4月から同年12月にかけて集治監網走分監の囚徒を1970人使役して工事を行いました網走、中越間163.7kmの開削では難工事を極め激しい労働と栄養失調のため238人に及ぶ死者を出しております。この場所は、仮監跡で67体が仮埋葬されておりましたので、昭和33年46体を発掘いたしまして供養を続けてまいりましたが未だ27体地下に眠っております。こうして北見地方開発の??????犠牲者をこのまま放置したのでは忘れられ霊が浮かばれないのではないかと思いつき、暗い歴史は歴史として真実を後世に残すのが70年代に生きる私達に果せられた義務と考へ囚徒の霊の安らかに永眠されることを祈念いたし、ここに46体の遺骨を納め地下に眠る21体と合わせて殉難慰霊碑を建立するものであります。
昭和五十一年九月
瀬戸瀬婦人会


昭和33年5月、瀬戸瀬青年団が中央道路開削当時、埋葬されていた遺体46体を発掘し瀬戸瀬墓地へ埋葬したが、すべての遺骨を発掘できなかったため、昭和51年、囚人墓地があった場所(発掘跡)に「殉難者の慰霊の碑を建てよう」と瀬戸瀬婦人会が発起。趣旨に賛同した町はじめ300余戸から143万円の寄付を得て慰霊碑を建立した。碑文によればここには未だ21体の遺骨が眠っている霊場なのです。ここには薬師山八十八カ所の第八十八番があります。
◇設置場所:遠軽町瀬戸瀬東町
◇標高116m:N44°00’29.1” E143°26’51.1”

七號驛逓跡之碑石碑 遠軽町 MAP

丸瀬布・七號驛逓跡之碑

滝ノ下駅逓開設百年記念碑碑文
明治24年北見地方の警衛と開発のため旭川~網走間の中央道路が開削され、合わせて沿線に1号~12号官設駅逓が建設された。入植者や旅行者の便のため旅館と運送店を兼ねた施設である。ここは七号駅逓と呼ばれ、無人休泊所として利用に供されていたが、明治26年6月30日滝ノ下駅逓として開業した。しかし通行宿泊者は月数人ていどという状態のため、隣駅まで五里という未開の地に在って、自給自足を余儀なくされ苦難に耐え忍んだのである。北見地方の開拓に駅逓の果たした役割は大きく、その貢献を讃えるため、ここに記念碑を建立するものである。(碑文は下段に刻まれている)

歴代取扱人
明治26年6月30日 佐藤多七 同27年5月 八木愛之助 同32年 中島重次郎
同36年4月 国沢歴蔵 同38年6月 気田和三郎 大正4年9月10日 塩田覚治
昭和2年4月30日 廃駅
平成十年十月建立
七号滝ノ下駅逓開設百年記念碑建設期成会


駅逓取扱の権利は札幌の馬具商亀屋卯之助であったが佐藤は駅逓の取扱業務を亀屋から代行したもの。佐藤多七は明治27年4月、七号駅逓をやめ、瀬戸瀬へ入地し農場経営にあたる。パーキングを備えた大きな記念碑です。
◇設置場所:遠軽町丸瀬布南丸108番地
◇GPS:N43°58’11.1” E143°17’58.6”

滝の上駅逓所跡石碑 遠軽町 MAP

白滝・滝の上駅逓所跡の碑

八号滝ノ上駅逓の取扱人は中沢兼三郎となっているが、実務は兼三郎の養子中沢沢治が勤めた。沢治は七号駅逓の佐藤多七と一緒に札幌を出発してそれぞれの駅舎に移り住んだ。八号駅逓の取扱人が白滝最初の定住者だったようです。中央道路と湧別川合流地点で八号沢川付近にありました。昭和7年に石北本線が開通し、それを受けて昭和8年に廃止しています。

沿 革
明治26年4月22日開駅~取扱人:中沢兼三郎
明治33年5月31日~中沢沢治 明治44年11月18日~中沢三平
明治45年3月全焼移築 大正4年4月23日『白滝駅逓』と改称
昭和8年6月30日廃駅
◇設置場所:遠軽町奥白滝 ◇GPS:N43°52’45.4” E143°07’30.2”

中央道路開削殉難者慰霊之碑石碑 遠軽町 MAP

中央道路開削殉難者慰霊之碑

中央道路開削経過碑文 北見峠
中央道路は網走に起こり北見、留辺蘂、佐呂間、野上を経てこの「北見峠」を越え、上川、愛別、旭川に至当時全長57里14町11間(225粁402米)の植民道路であり、拓殖と北辺防衛上極めて重要視されて開削されました。しかもこの道路の北見側その大半が釧路集治監より網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役して開削されたものであり、明治24年春着工以来わずか7ヶ月余りを圣た同年11月にはこの北見峠まで網走から39里(156粁)の道路が完成を見るに至り、その作業能率は今にして見れば驚異的なものでありました。したがって作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使、不眠不休の労役が続けられ特に最も惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた死者八百十余名にも及び、死亡者は路傍に仮埋葬されたまゝ弔う人もなくそまつな名もない墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従消え去り、今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました。その後、昭和32年春白滝村字下白滝で6体を発見収容、昭和33年遠軽町字瀬戸瀬で46体を発見収容、更に昭和48年10月白滝村字白滝東区で6体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる霊の多いことを想い、こゝに殉難者慰霊の碑を建立し、この道路建設のいしずえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります。
【慰霊之碑裏面】
昭和四十八年八月建立
白滝村長 國松 一敏
◇設置場所:遠軽町白滝 北見峠パーキングエリア

北見峠駅逓所跡石碑 遠軽町 MAP

北見峠駅逓所跡

明治33年に民営で白滝寄りの北見峠に駅逓が開設されるも、厳しい気候と利用者の少なさに赴任した石上藤蔵がそこを離れたため、明治35年に官設駅逓所として再スタートした。鉄道完成で昭和10年廃止となっている。碑は峠の上川側でヘアピンカーブ沿いに立っている。駐車スペースは無い。

沿革と歴代取扱人
◇設置年(民営):明治33年05月 官設駅逓に昇格 明治34年4月
◇移転年:明治35年05月 上川側に移転 ◇改称年:明治38年02月 峠駅逓に名称変更
◇廃止年:昭和10年12月
◇初代取扱人:石上藤蔵(民営駅逓) ◇二代取扱人:中沢兼三郎 明治35年3月~
◇三代取扱人:中易安寿 明治36年1月当時~ ◇四代取扱人:中沢勝 明治40年~
◇五代取扱人:小林九平 明治43年~ ◇六代取扱人:高橋仙太郎 明治44年~
◇七代取扱人:青野七藏 大正14年~
◇設置場所:上川町字上越 ◇GPS:N43°52’45.6” E143°01’09.2”

九号中越官設駅逓跡石碑 上川町 MAP

九号中越官設駅逓跡

駅逓は明治25年秋頃の開駅というが、ここは大正7年に知刈別入り口へ移転、設置された跡と思われる。昭和2年中越駅前へ移転しているのでここでは7年程の営業だった。沿革については第二次九号中越官設駅逓跡の碑を参照してください。アイヌ語でルベシベとは山を越えて向こう側の土地へ下り行く路のある川の事、意訳して越路とした。上川には上川市街裏(越路駅逓)と北見峠側(上越に北見峠駅逓)にルベシベが有りその中間にあるので中越(峠はない)とした様です。
◇設置場所:上川町字中越 茅刈別川河口付近
◇GPS:N43°51’56.6” E142°57’24.2”

第二次九号中越官設駅逓所跡碑石碑 上川町 MAP

第二次九号中越官設駅逓跡

ここに駅逓ができたのは昭和2年、知刈別から移動してきたもので石北線が開通してその役割を終える。かつては中越小学校が有り昭和36年には最高80名の学徒がいたが、木工場が同41年に無くなり人口は激減、昭和48年に廃校となっている。小学校跡の碑は中越信号場前のパーキング脇にある。今は中越信号場の建物があるだけで他の施設はなく住む人もない。中越信号場の前に「第二次中越官設駅逓跡」の碑と「石北線全通記念碑」がある。
沿革と取扱人
明治25年秋頃開駅、取扱人:亀谷卯之助
明治25年12月当時~鬼沢賢蔵 明治30年当時~佐藤幸之助 明治33年10月~中河浅治郎
明治34年7月シビナイ川口へ移転 明治35年3月~滝田熊次郎→滝田繁富
大正7年知刈別入り口へ移転 昭和2年中越駅前へ移転、第2次中越官設駅逓
昭和2年~滝田俊雄 昭和9年5月25日廃駅
◇設置場所:上川町字中越:中越信号場前
◇GPS:N43°52’01.8” E142°54’18.9”

北見(中央)道路開削の碑石碑 上川町 MAP

北見道路開削の碑

この中央道路は明治22年計画着工となっているが、上川側の工事は明治23年からで伊香牛から旭川間は既に完成しており、実際は伊香牛から網走間の工事であった様です。北見道路の上川側、伊香牛から北見峠までの区間は業者、佐藤倉吉の請負で開削され、明治25年に補修工事をしている。そのルートは伊香牛を過ぎてからは石狩川の右岸沿いを通り愛別の難所、安足間を避け(ここを通ると橋が二カ所必要になる)てエチャナンケップ川筋から越路峠(上川公園)を経て留辺蘂川筋に抜けた。旭川に空知監獄署出張所が開設され、北見道路開設の工事に囚人が従事したとあるが、囚人使役の実態は不明、上川側の区間に関しては、北見側の様な囚人酷使は伝えられていない。
◇設置場所:上川町字越路・上川公園。 ◇GPS:N43°51’24.46” E142°46’05.80”

越路官設駅逓所跡石碑 上川町 MAP

越路官設駅逓跡

当時の道は現在の国道筋とは少し異なって伊香牛で石狩川を渡った後は石狩川右岸を通りを上川公園になっている尾根を越えて留辺蘂川沿いに北見峠に向かっていた。当時は橋を造るのを極力避けて道路開削するのが一般的な方法。

沿革と歴代取扱人
◇明治24年6月20日開駅、取扱人:菊地利左衛門
◇明治26年12月31日当時~中島利信(三浦武之助)◇明治33年9月5日~前田富吉
◇明治36年3月~藤田信次 明治38年5月16日~宮地金十郎
◇明治41年5月15日~長田嘉吉 ◇大正14年1月31日廃駅
◇設置場所:上川町字越路 ◇GPS:N43°51’57.1” E142°44’49.6”

第十二号旭川駅逓所跡プレート 旭川市 MAP

12号旭川駅逓所跡

明治24年6月開駅、廃駅は明治36年7月24日と、取扱人は安部格太郎でした。旭川駅逓所の開設当初は人馬車継立がなく旅宿営業だけだった様で、当時この地を旅した記録『北見日誌に「北見新道、則中央道路は小春迄駅伝十一あり、則小春は十一号駅伝たり」引用終了』とあり、詳細はよくわからないが旅宿だけで十分経営できたという事でしょう。場所に関しても、永山とも云われると有り移動した可能性も有る。明治36年頃は下愛別駅逓所との間に必富官設駅逓所(現・比布町)と渡し場があった。第十二号旭川駅逓所跡とされるワーク旭川店舗の外壁にレリーフが埋め込まれている。
◇設置場所:旭川市1条通5丁目右2号

駅逓所縁の人物・記念碑、施設など

小春隧道11号伊香牛駅逓所 愛別町 MAP

駅逓の名残を残す小春トンネル

中央道路沿線駅逓で最初に開業したのは明治24年の12号旭川、11号伊香牛、10号越路の三駅 翌25年にここを通った松田六兵衛著『北見紀行』の中で「上川郡にして忠別より三里、旭川より一里半永山より一里也。字小春永山村の属地にして北見新道の駅所也。石狩川端也(移転前の記録)」と有り、伊香牛駅逓は渡船場の取扱人・山中半七の娘小春になぞらえて「小春の渡し」と呼ばれた事から、駅逓も「小春駅逓」と通称され公文書にも用いられていたという。移転後の「下愛別駅逓」は現在の愛別町東町付近に有ったと思われ、明治37年には当麻灌漑溝水門(現在の大雪水門と愛別水門の中間付近?水路の痕跡なし)より少し下流に駅逓の建物が有り付近は小春という地名になっていたという。駅逓跡を探してみたが碑などは見あたらず、唯一「小春隧道」にその名をとどめている。

沿革・取扱人
明治24年6月開駅 ◇大正14年1月31日廃駅 ◇取扱人:山中半七(管理人:秋山照正)
◇明治34年6月20日愛別へ移転
『下愛別駅逓所』と改称、大正4年5月24日 全焼建替え
◇明治32年~取扱人:秋山照正 ◇明治33年8月~秋山信之進

旭野の大師堂弘法大師堂 遠軽町 MAP

旭野大師堂

 北見道路開削では特に北見と遠軽間で強制労働による犠牲が多かったが、殉難者の供養として、宇野シゲが大正4年3月21日、旭野に建立したと言う大師堂。大師堂は仏堂の呼称で、大師号を贈られた僧を礼拝の対象として祀るが、真言宗の開祖である空海(弘法大師)を祀っている仏堂が多く、この大師堂もそうだったと思われます。何とか発見して訪問した時には建物の傷みが激しく、掛け軸や仏像などは別に保管してるのか見当たりませんでした。ただ寄進者の名前に宇野さんの文字と大正と有ったので、宇野シゲさんの建立した大師堂ということは間違いないようですが、建物自体は世代交代しているようです。大師堂は国道333号線沿いで生田原町安国から旭野トンネル方面に進み生田原川を越えてまもなく左側の林の中に大師堂が見えますが作業小屋のように見え、今迄の探索で見逃してました。現在「弘法大師堂」と呼ばれているようですが、地形図には神社マークがついてます。◇所在地:遠軽町生田原旭野 ◇GPS:N43°59’07.34” E143°32’37.16”

空知&中央道路沿線・遠軽~旭川間他の駅逓所跡と慰霊碑

遠軽町・六號野上驛逓所跡01薬師山登山口・山神の碑02薬師山登山口・山神の碑由来碑瀬戸瀬・薬師山88番所旧5号峠2号駅逓所跡説明板
網走刑務所2号駅逓所跡中央道路開削犠牲者慰霊碑・北見市中央道路開起点説明画像枠-01画像枠-02
留辺蘂・第四号駅逓所跡北見市・五号佐路間駅逓所跡遠軽町・驛逓100年記念碑上川町・北見峠駅逓所跡02第二次九号中越官設駅逓所・全通記念碑四号第二次留辺蘂・宮下の駅逓碑三号相内駅逓跡奧女満別駅逓所跡
記事内容の一部修正をしています。
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