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松浦武四郎の碑を巡る
石狩川中流域と空知川にみる松浦武四郎碑など‼

石垣山 愛別町map

愛別町中愛別中愛別駅南方約2.5km、標高525m、上部一帯は石狩川の浸蝕によって露出した柱状節理の巨岩奇石がせり立つ特異な景観は、層雲峡の大函小函をほうふつさせる。松浦武四郎の紀行文「石狩日誌」には、「サンケソマナイに着す。この処峨々たる崖嵌空して大岩窟なるにはいる。此所は文化年度間宮某も此所まで上がり、此窟に一宿し帰られしと申し伝うなり」とある。この岩窟は石垣山の頂上附近にあって広さ畳二~三枚程の洞窟。登山道にロープを張っている所があり、これを伝って行くと岩窟につく。更に進んだ山頂付近には八十八ヵ所を祀ってあります。石狩日誌では洞窟に宿営した事になっているが、丁巳日誌ではサンケソマナイとなっている。サンケソマナイから石垣山まで七八丁と、距離はあっているので石垣山には登っているのは確かと思われるが、それだと洞窟までの距離が合わない。洞窟は石垣山の南南東に約1km地点で愛別キャンプ場からの登山道では中間より少し石垣山よりとなる。洞窟というよりは四角く切り抜いたような穴で、底は畳のように平坦でやや出口に向かって傾き、石狩日誌の挿画とは雰囲気が全く異なる。武四郎一流の脚色なのだろうが話としては面白い。洞窟はこの写真にある岩峰の根本にある。
◇所在地:愛別町中愛別 ◇N43°53’01” E142°38’40”

武四郎街道メルヘン道路 旭川市

旭川市説明碑は平成20年頃の設置ですが平成28年には消滅していました。かつてあった説明看板より転記(読めなかった部分は十勝日誌を元に補足)「幕府雇いの松浦武四郎は安政五年三月五日、上川より十勝への新道切開調査を命ぜられ早朝に足軽・早朝に松田一太郎、アイヌ乙名クーチンコロ他十二名を道案内先導として、石狩川沿いカムイ忠別大番屋を出発。ベベツ大川(現・美瑛川)を越えて乙名家に待つ一人を加えここ(現見本林の下手原野森林)から(現神楽岡)に入り廃道を南下、トスシコマナイより方向巳に向かうと日誌にあり(現立札のある辺より南西柏林のある方向・現旭川空港方)に進み十キロ程さきのベベツ川岸に到着、裸になり倒木を伝って渡り草に火を着け温まり出発。美瑛から上フラノ(深山峠・石碑有り)を経てペペルイ川を遡ってフラノ(原子ヶ原)を経て十勝上流へ出、新得を経由し十勝清水の人舞に三月十三日に(碑あり)到着。上川旭川の地より十勝に越えた和人第一号は松浦武四郎で、今この末道、メルヘン道路を私どもは往事を偲び「武四郎街道」と呼称す・西神楽辺別(ベベツ)愛郷有志会」この説明板があってもなくてもこの道は「武四郎街道」ということで、再建を期待して掲載しておきます。◇所在地:旭川市西神楽4線14号 西一線道路・通称メルヘン道路&武四郎街道

クーチンコロ顕彰碑旭川市map

旭川市「アイヌ文化の森・伝承のコタン」に「明治の始め、アイヌの重鎮クーチンコロが12月3名の供を連れ石狩に出向きその不当で横暴なやり方を正論で論破、石狩浜集団強制移住計画を断念させ、兵部省の謀略を打ち砕いて上川アイヌの危機を救った」アイヌの英雄クーチンコロの顕彰碑がある。碑文に、松浦武郎ら探検家はクーチンコロの助けなしには成果がえられなかった、という部分があるが、事実彼らの助けなくて北の国の探査行などは到底無理であったろう。松浦武四郎の石狩日誌には「クウチンコロは銛槍を提て岩上に暫時佇立せしが四尺斗の潜龍沙魚を一尾に、三尺斗のチライを得来る」きっと武四郎はクウチンコロを頼りに思ったであろう。北海道の名付親として知られる松浦武四郎は安政4年と安政5年の二度にわたり当地を訪れている。安政4年は石狩川と天塩川の踏査、安政5年は残る内陸部の踏査で最初は上川から十勝に抜ける踏査であった。雪の残る未開の原野と渓谷を越えていく踏査行は現地のアイヌの協力なしには不可能で合った事は武四郎の記録を見れば一目瞭然である。その中心にいたのが上川の総首長クーチンコロであった。安政4年の石狩同行者は総勢は河口部から含めてクウチンコロ、トミハセ、セッカウシ、アイランケ、ニホウンテ、イハンハカル、シリコツ子、ハリキラ、イナヲアニ、イソテク、ピヤトキ、シリアイノの12人がそれぞれの居留地を中心に同行。安政5年の石狩河口部から十勝越えではクーチンコロ、イソラン、サタアイノ、サケコヤンケ、イコリキナ、タカラコレ、エナヲサン、ノンク、クラウンテ、シリコツネ、セッカウシ、ニボンテ、イワンバカル、タヨトイ、アイランケ、イソテク、イヤラクルの17名(十勝側のガイドは含めず)がそれぞれ役割を決めて武四郎の踏査行に同行している。晩年のクーチンコルはこちら。◇旭川市 ◇標高 148m N43°47’32.1” E142°18’28.5”

忠別太大番屋の跡旭川市map

○○碑が最初に立てられたのは昭和33年、アイヌの古老から聞いて場所を特定したらしい。その後昭和46年、旭川開村80周年記念で石碑となったが、道路切り替えで移動している、従って北方約100mはズレているとのこと。碑文は痛んでいるが判読は可能で「幕末安政のころ石狩場所請負の村山伝兵衛がここから北方約100mの地に大番屋と板倉一棟ずつを建てて番人を置き、アイヌとの交易に当たった。上川地方和人最初の建物で・・・・以下略」「新旭川市史」では近藤重蔵(文化4年)の記録にチユクヘツブトに「番屋が一棟」その近くに「家屋が弐軒」描かれていることは認めているも断定は避けているが、松浦武四郎(安政4年)、高畑利宜(明治5年)の記録を「忠別太の大番屋」としている。松浦武四郎は「むかしは相応の家なりし由なるか、当時は本の形斗の小屋也。酉年の洪水までは此2丁斗下に有りしか、崖崩れて流し故今此処へうつせしとかや」とあり洪水前の建物は「大番屋」だったと受け取れる。松浦武四郎の時には使えた大番屋も高畑利宜は「空家にしたる為大破」と崩壊寸前だったらしい。開拓大判官・松本十郎が明治9(1876)年6月17日にここを訪れ、残っていた板倉の屋根上から上川盆地を眺め、草原や雑木林、その間に流れる河川を見、かつ石狩岳の麓まで見わたせることに感動しているが、実際は大雪山連峰の旭岳の事と思われる。巨大な原生林と云っても氾濫原際の上にあったから見えたものか・・・上川チユクヘツブト、番家壱軒、桁間五間半、梁間三間(縦:約10m、横:約5.5m)、板蔵弐軒、桁間三間、梁間弐間半(縦:約5.5m、横:約4.5m)とあった。松浦武四郎は上川踏査と十勝越の拠点になったチクベツフト大番屋で安政4年5月と安政5年3月にそれぞれ5泊、同じ場所では有珠や宗谷と並び滞在日数が多い。◇旭川市忠和四条八丁目 旭川南消防署中和出張所横

史跡 松浦武四郎宿泊之地碑雨竜町map

雨竜町字面白内 面白内神社安政3年に石狩川をのぼり留萌に向かう途中の5月12日に宿泊したとされる場所で、国道276号線を雨竜町から北竜町へと進み追分を過ぎて面白内川を越えて右折しT字路を右折するとまもなく右側に有る。石碑は面白内神社横のやや高くなった所に、その下に雨竜町教育委員会設置の説明板が有る。

☆以下は説明板からの転載です。「江戸幕府末期より 明治初期にかけて当時蝦夷と呼ばれた本道の開拓に大きく貢献し、又数多くの著書を残した開拓判官松浦武四郎の名は北海道の名付親として道民には忘れられない人であり本町にも縁りの人でもある。西蝦夷日記によると安政3年(1856年) 3月本道西海岸一帯の踏査を命ぜられ函館を出発して5月8日には石狩運上屋より丸木船2艘に総勢12名が分乗して遡り9日美唄(ビバイ) 10日浦臼内(ウムシナイ) 11日新十津川(トック) 橋本を経て12日雨竜面白内(ウリウフトオモシロナイ) のこの地に泊り楡の皮でわらじ(シトケリ) 荷物を運ぶもの(シトケリ) を作り酒を飲んで寝むと記されてある 翌13日恵岱別(イタイベツ) に沿って留萌(ルルモッペ) に向う途中ヌブシャ岳を眺めて一首吟じた。"のぼり来て 雪の峰近く成りぬらん ひたすらに 肌寒くなりけり" 本町開拓前の貴重な史跡として この碑を建てる。昭和44年9月1日」

☆はじめは会津藩士と同じように尾白利より峠越えして恵岱別にはいり信砂に抜ける予定だったが、山道が良くないとの事で面白内から恵岱別を経て今の石油沢(左股)から信砂越になった。この時ヌプシャ越へ唯一の経験者であった案内人、篠路の乙名エンシリュウが手足の痺れを発症し同行のアイヌ一人を付き添わせて家に帰しているが、ヌプシャ越え経験者の無い踏査行は困難を極めた様だ。エンシリュウは翌年に無くなっているので脳血管疾患を発症したのかもしれない。後に開削された増毛道路は尾白利より峠越えして恵岱別に抜けるルートだった。◇所在地:雨竜町字面白内97番地13 面白内神社鳥居横◇N43°31’495” E141°54’21.2”

松浦武四郎通過之地木碑角柱 富良野市map

富良野市原始が原ヲツチシバンザイウシベとヲツチシベンザイウシベの間のルウチシを越えた地にある原始が原に松浦武四郎の偉大なる足跡を偲び不滅の功績を永く後世に伝えんと有志にによって昭和48年10月に原始が原の標高1040地点に松浦武四郎通過之地標を建立、平成6年に富良野山岳会によって再建されている。☆安政5(1858)年3月、松浦武四郎は石狩詰の役人、飯田豊之助を従えを旭川から美瑛川筋を上り、上富良野~原始ヶ原を通過し空知川水源を越え十勝へと抜ける調査を行った。案内人は自ら志願したというチクベツの酋長クーチンコロ、小使シリコツ子、小使イソテク、チクベルブトのイワンパカル、ウエンベツのアイコヤン、タヨトイ、アサガラのニホウンテ、サタクロ、ヲチンカバのアイランケ、チカプニのサケコヤンケ、ヤーラクル、トックの酋長セツカウシの屈強なメンバーだった。当時は十勝岳の火山活動が活発な時で噴火に遭遇した云い「登加智留知之誌参では旧暦3月10日のビエベツ(美瑛町春日台間宮岳付近)で「硫黄の燃る烟実に目覚しく天にさし上がりたり」と十勝岳の噴煙を記しているが「戊午十勝日誌」の十勝連峰スケッチに描かれた噴煙は噴火には見えないが、前年の「丁巳石狩日誌」の旧暦5月23日にある「山頂から裾野のまでのちょうど中ほどのところに真っ黒い大噴煙が天に届くような勢いで噴き上がっている」とあるのは大噴火を物語っているが、小噴火は何度もあったのかも、噴煙も今とは比べものにならないほど多かったようだ。◇富良野市原始が原 ◇標高 1040m N43°21’55” E142°37’06”

トカチルゥチシ伝承堅雪フットパス上富良野町

○○この伝承堅雪フットパスは「十勝日誌」に記された安政5年の上川から新得に抜ける十勝越えのコースの中で、ベベルイ川を渡り(現・自衛隊演習場内)更に支流のサッテキベベルイ(カラ川)を上り、上富良野の富良野岳と前富良野岳のコル(鞍部・ルウチシ)を越えて原始ヶ原のを経由して堅雪の時に松浦武四郎一行の足跡をたどるという年一度イベント(自衛隊演習場内を通るので年一回となっている)となるが、平成29年で10回目を迎える。◇主催団体:かみふらのフットパス愛好会 十勝岳山麓ジオパーク推進協議会 集合場所:例年・上富良野町東8線北 東中コミュニティ広場集合

松浦武四郎顕彰之碑石碑 上富良野町map

上富良野町深山峠上富良野町の観光スポットである深山峠の観覧車のほぼ正面でやや高くなった所に碑は有る。昭和48年10月に建立、平成9年に建替え修復されているのだが、ここで働いている人でも武四郎の碑があることを知っている方は少ない。以前は顕彰之碑の横に立つと十勝連山がよく見えたが観光用の観覧車が出来てからはその景観は望むべくもない。碑の全面に「松浦武四郎顕彰の碑 北海道知事 道垣内尚弘書」と刻まれている。裏面の二段になった碑文より転載。「江戸末期安政年間、松浦武四郎は幕命を受け蝦夷地地理調査の大使命を帯び、千古不斧の原始林に踏入、猛獣と斗いつつ遂に此の地に到達し、ここより眺望する富良野盆地を穀倉となることを予言したのである。折も折、十勝岳の一角が大爆発を起こし、天をも焦がす凄さに、従者時の首長クーチンコロは驚き戦き、地にひれ伏して神に祈りを捧げたとの事である。今この地より見渡す美しい田畑植林は、松浦武四郎の先見の明と我々父祖開拓の地と汗の結晶の賜物である。今十勝岳連峰を望む深山峠にたたずみ、松浦武四郎の足跡を偲び、心ある人々の浄財により碑を建立しこれを永く後世に伝えんとするものである。昭和48年10月 松浦武四郎顕彰の碑建立期成会 以下は発起人の氏名と施工業者名なので省略」前年の「丁巳石狩日誌」では旧暦5月23日に「山頂から裾野のまでのちょうど中ほどのところに真っ黒い大噴煙が天に届くような勢いで噴き上がっている」と大噴火を示す記録はあるが、戊午の「登加智留知之誌参では旧暦3月10日のビエベツ(美瑛春日台間宮岳付近)で「硫黄の燃る烟実に目覚しく天にさし上がりたり」と十勝岳噴火の様子を記すが「戊午十勝日誌」の十勝連峰スケッチの噴煙は大噴火には見えない。当時は十勝岳の火山活動が活発で今とは比べものにならないほど噴煙は多かっただろう。ただクーチンコロが神に祈りを捧げたという話は武四郎の日誌には見当たらず・・・碑文にある従者という表現には違和感があり、高い位置にある碑文を見上げ読み終えたときは首が痛かった。◇上富良野町深山峠 ◇標高 306m N43°31’05.3” E142°26’55.5”

史跡・松浦武四郎踏査之丘上富良野町

○○ 深山峠の武四郎碑といえばかつてはウッディライフ入口右側に立っているこの大きな説明板のことだたった。松浦武四郎顕彰之碑より美瑛よりに100mほどの所にあった目立つ看板で昭和50年頃には立っていたが、松浦武四郎踏査之丘と書かれた看板はお気に入りのひとつで本家の武四郎顕彰碑よりも目立っているかもしれないが、顕彰碑とセットの碑としてあげておきます。◇所在地:上富良野町西9線北 深山峠

空知大滝 宿営地芦別市map

芦別市滝里空知大滝には野花南大橋を渡ってから右折し滝里ダム管理所に進み最初の橋を越え次の大滝橋手前で空知大滝の看板で左折し坂道を下り橋の下を抜け突き当たりの広場から見える。☆空知発祥の地となった空知大滝は武四郎の「石狩日誌」によると武四郎一行は5月19日に空知大滝東側の広い岩盤上で野宿したとも書いている。また「此上十弐條斗併びし瀑布の何れも高二丈三丈、幅は二尺三車尺よろ一丈余まで有を見たり」と絵図付きで記録に残している。これから推察すると当時は9m12条の滝であった様で、so-rapchi-pet 滝がごちゃごちゃ落ちていると云う言葉通りなのだが、滝の高さは当時の半分以下かもしれない。また上流に滝里ダムと金山ダムという二つの巨大ダムがあり水量は激減し当時の面影はないが、増水時やダムの放水時は往時を偲ばせる景観を見ることも。またカマソウと呼ばれた形の部分は崩れてはっきりしないが滝の絵図と実際の滝の写真で比較するとよく分かります。今では幻ですがここまで来る途中で川獺を三匹捕った、川獺が食べ残した鱒を拾ったなどの記載があった。空知発祥の地と松浦武四郎宿営地が重なれば多少は観光にも役立つかもしれない。◇芦別市滝里 滝見台 ◇標高 134m N43°26’20” E142°16’58”

松浦武四郎探険記念碑芦別市map

芦別市野花南町芦別市街から野花南湖を越えて滝里方面に進み、空知川を渡る野花南大橋を越えた左側に、今は通行出来ない旧道が有るが旧道入口に駐車スペースは無い。入口は半分土盛りされているが野花南大橋の際から旧道を徒歩で少し進むと標柱が見える。木標柱には「松浦武四郎探険来宿百二十年を記念して昭和52年10月之を建てる 芦別郷土史研究会」とシンプルそのもの。詳しい事は説明板に書かれていたようだが今は見当たらないが、武四郎一行が芦別に来て2日目の宿営地と思われる付近に碑を建てたらしい。

☆松浦武四郎は安政4(1857)年に空知川を調査し、その記録を丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌と石狩日誌に残しているが、石狩日誌では5月18日「ビラウトル、ナヱ七ッ過チヘアケと云に到て宿す」となっており、この辺がチヘアケと云うことらしい。今は旧道となって訪れる人も無い場所に置くよりも、道もあり車でも行ける空知大滝の方に移転しても良かったのではと云うのが素直な感想だ。日誌では武四郎一行が5月19日に空知大滝東側の広い岩盤上で野宿したとも書いているので問題はないと思うが・・・◇芦別市野花南町 ◇標高 113m N43°28’13” E142°16’17”

松浦武四郎宿営地跡トック 新十津川町map

新十津川町中央町71-7新十津川町から滝川市に抜ける国道451線と国道275線の分岐点となっている十字路で金滴酒造と道を挟んだところに碑が有り駐車スペースも十分。酒造会社の前で松浦武四郎一行もここで酒宴をしてたはずだがと思ったが、碑をよく見ると「松浦武四郎宿泊地跡 南東へ壱粁 安政4年 新十津川開基百年記念事業 平成2年 新十津川町」とあった。察するに松浦武四郎歌碑のある所らしく、かつての徳富川河口近くなのであろう。☆武四郎は安政4年5月15,19,22日と翌年の安政5年2月29日にトツクの乙名セツカウシ家で宿泊した事を記録に残している。特に安政5年の蝦夷地探査では運上屋による巧妙な妨害工作があった様だが、それを切り抜けての上川紀行で、それだけ運上屋には上川で武四郎(幕府役人)に知られては困ることが有った事になる。トックは同行の案内人セツカウシ家のあった宿泊地でした。平成2年に町内25ヶ所に記念碑を建立しているそうだが、見た範囲では南幌加駅逓所跡の碑は一回り大きかったようだが他は同じサイズのようだった。◇新十津川町中央町71-7 金滴酒造前
◇標高 25m N43°41’17.9” E141°53’33.1”

松浦武四郎歌碑十津川町map

新十津川町中央「新十津川物語」の舞台となった地で新十津川中央公園内に煉瓦造りで洋風の雰囲気のある開拓記念館が有り、その前庭に松浦武四郎歌碑があります。「“日数経て突区の里に来て見ればここもかはらぬ芦ぶきの宿” 松浦武四郎 安政4年旧暦5月15日 徳富川河口に泊まった際の歌」とある。裏面には「新十津川開基百年記念事業 平成2年 新十津川短歌会建立」とあるが松浦武四郎宿営地跡の碑と同じで建立の主意がよく見えない。またどちらも同行したアイヌの人達には触れていない。“突区はトックの事で徳富川と石狩川の合流部を指し、かってこの地は「トックプト」と呼ばれていた。町名は明治22年に奈良県十津川村から600戸が移住したことによる。記念館には武四郎に関する資料も展示しています。”新十津川町中央 新十津川町開拓記念館前
◇標高 26m N43°32’49.2” E141°53’06.4”

史蹟 松浦武四郎踏査の地空知太 砂川市map

砂川市空知太239番地国道12号線空知川大橋の手前を左に入りJR線路の下を通り抜けて工業団地用地の河川敷高台にある。別ルートは国道12号線の北七号線(パーラー太陽の看板有り)から左折しグリーンプラザくるくるに進む。グリーンプラザの突き当たりを右折するとまもなく左側に小高い丘がありそこに碑が数基あり、そのなかで大きな碑が松浦武四郎踏査の地碑、裏面に説明文が刻まれている。以下は碑文を転載。

『松浦武四郎は文政元年2月6日伊勢の国一志郡須川村に生まれた。性闊達にして大志あり。弘化2年蝦夷地及び樺太を探検して北方の開拓と防備の急を説いた。安政元年 樺太境界のことについて幕府に建白し、2年蝦夷地大地図と三航蝦夷日誌を献じ、3年蝦夷山川地理取調御用掛に任じて道路開設の調査に当たり、全土を跋歩して樺太に渡り、つぶさに状況を復命し更に札幌付近に大府を置くべきを建議した。6年職を辞し専ら蝦夷地に関する地図記録等の著述に没頭したが、明治維新後推挙せらされ函館府判事に任じ累進して開拓使判官となり、3年3月辞任した。在官中蝦夷全図に画線を施し、11国86郡の境界を査定して、道名国名郡名を選定したがその大部分が採用された。2年8月蝦夷地が北海道と改められたのはその建議によるものである。明治21年2月10日71才で歿した。北海道に地図記録等の著書二百種を越え本道開拓に寄与せられた業績は図り知ることができない。安政四年の踏査に当り空知太に立ち寄られたのは和人にしてわが砂川に足跡を印した最初の人と思われる。ここに記念の碑を建てて不朽の功績を仰ぎ史蹟として広く世に伝えんとする所以である。

松浦武四郎の石狩日誌抄録

安政丁巳(安政4年 40才の時) トミハセ、セツカウシ、ニホウンデ、アイラカケ4人を水夫として5月15日朝ウラシナイを発しキナウシナイ、チヤシナイ等を過ぐるところウツカ(はや瀬) の有けるにはか取がたく八つ過ぎ(午後2時頃) ソラチブトに行(ウラシナイより6里) 此の川第2の支流なり、源はトカチ岳より来たり。過て18丁、トツクフト是第六の支流也。

“日かず経て トツクの里に 来てみれば ここも変わらぬ 芦ぶきの宿” 昭和39年9月建立 砂川市 砂川郷土研究会 文並書 砂川市公民館長 玉田 秀雄』

ちなみに碑が設置されている場所は小高くなっており「松浦台」と云うが地形図には三角点があるだけ。◇所在地:砂川市空知太239番地(空知川堤防松浦台)◇標高 56m N43°31’49.5” E141°54’21.2”

松浦武四郎止宿の場カバト説明板 浦臼町map

浦臼町晩鶴沼道の駅鶴沼から国道275線を新十津川方面に進み於札内川にかかる樺戸橋の手前で左折、そのまま突き当たりまで進んで右折するとまもなく左側に説明板が有ります。以下は説明板より転載。『カバト川は、江戸時代に松前藩が設けた石狩13場所(商場)り内の上カバト場所として下カバト場所と下カバト場所の境界となっていた川です。丁巳東西蝦夷山川取調日誌のなかで「ここよりツイシカリ(対雁=江別付近)までを下カバトと云い・・・これよりウリウフト(雨竜)までを上カバトと云う。」と記しています。上・下カバト場所の境であるカパト川は、長い間、現在の樺戸川と思われていました。その後、平 隆一氏の調査で、図の位置が正しい境であることが判明しました。尚、松浦武四郎は、安政4年4月21日(陽暦・1857年6月12日)にカパト川で止宿しています。資料提供 美唄市 平 隆一 氏 浦臼町文化財保存会 2005.6.10 』安政4年5月19日に石狩運上屋を出立した武四郎一行は5月21日にここで宿営している。「カバト川口向に至り露宿した。ツイシカリからこの川口までが下カバト場所で帳面には十件31人とあるが今は一軒もない。この川口からウリウ川口までを上カバトといい24軒101人と人別帳にあるが、4軒が住むばかりである」と記しているが、止宿の場という宿泊地の事実だけを記したものでアイヌ民族の惨状などには一切触れていない。◇浦臼町晩鶴沼 ◇標高 19m N43°16’55.1” E141°40’41.1”

松浦武四郎上陸地樺戸連山スケッチ 浦臼町map

樺戸連山スケッチ札幌方面より浦臼に向かって進み、晩生内駅の少し手前、晩生内(おそきない)コミュニティーセンタの所で左折、三軒屋に向かうと左側の農道際に浦臼町の史跡説明板がある。説明板には「松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む 1857年 安政4年5月21日 (陽暦6月12日)」その下に丁巳東西蝦夷山川取調日誌にある樺戸連山のスケッチが描かれ、続いて「(リイノタフより眺望) 歴史上、最も古く浦臼を紹介した眺望絵である。資料提供 美唄市 平 隆一 氏 浦臼町教育委員会 浦臼町文化財保存会」設置年は記されていないが、松浦武四郎の浦臼踏査150年を記念して平成13年に建立されたようです。松浦武四郎の記録を見るとこの辺の石狩川は分流していたようで三軒屋の沼は石狩川の一部だったようです。トイ沼とビラ沼は武四郎の記録でも沼と記してあるが、それ以外は明治・大正・昭和と度重なる石狩川の大氾濫で出来た三日月湖なのかも。すぐ近くの西沼際にある「田園空間博物館」の説明看板では浦臼は自然形成的な三日月湖が多いとあった。川岸の崖の上の平地や、大曲、袋地という所をノタップ言うようですが、三軒屋の場合は高さがあったのでリイノタフと呼んだものか。◊所在地:浦臼町晩生内 ◊GPS:N43°39’27.55”  E141°77’75.29”

浦臼町郷土資料館ヌプシャ越えの図 浦臼町map

浦臼町の郷土資料館の壁に松浦武四郎の「西蝦夷日誌」原著の中に描かれた「ヌプシャ越え」の絵を拡大し掲示してある。☆日誌には「余と立石は鍋一枚づゝを背負、8人の者は石狩の山蝦夷なれば、其背高く髭髯掩胸て、弓箭を杖とし、昨夜得たる1頭の熊を荷はせ、各々狐・獺・兎を肩にし出しは、驚かぬ者ぞなかりける。」と、また「若他日蝦夷開拓の事有て、石狩山中に手を入んと欲するの士あらば、此處を第一に切開きて糧道とし、又峠より右に下り、樺戸の方え道を切、津石狩・サツポロに路を取らば、其益また少なからず。」と。◇浦臼町字浦臼183-21 ◇N43°25’41” E141°25’41”

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

松浦武四郎宿泊の地・雨竜町 松浦武四郎宿泊の地・説明板 新十津川町中央 新十津川町中央 金滴酒造前 新十津川町中央 新十津川町開拓記念館前 砂川市空知太239番地-02
芦別市野花南町 樺戸連山スケッチ 浦臼町晩鶴沼-02 現代語訳「石狩日誌」挿画・愛別 現代語訳「石狩日誌」挿画・雨竜 現代語訳「石狩日誌」挿画・芦別
武四郎街道 上富良野町深山峠 松浦武四郎紀行足跡之碑 千歳サーモン橋 書籍 間宮林蔵胸像 鬼鹿・武四郎象 厚田発祥の地碑

☆更新情報など☆

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