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江戸期の宿駅跡を巡る旅
江戸期の宿駅跡(会所・通行屋・番屋)碑を巡る‼

宿駅の記念碑

記念碑の素材(木標柱、コンクリート標柱、鉄板、自然石、加工石など有り)によっては、残っていない可能性もあるので、確実性については保障出来ません。傾向として市町村や郷土史研究会などが建立している場合は複数の碑が存在する可能性が高いかもしれませんが、平成24年に再確認したものに関しては、碑や標柱については当分は大丈夫と思います。ただ長い年月で碑文などは判読の難しい碑も有ります。会所所在地に関しては日髙地方は大凡の場所は判明しているが碑の有る場所は限られている。ただ会所自体も時代と共に移動しているので古い年代に遡ると不明なことが多い。道南(旧和人地)での会所は町会所、問屋会所など蝦夷地とは性格も役割も異なるが、町会所は駅逓の窓口業務をしている場合が多く宿泊施設を併設していた所もあったようです。後志や檜山の一部で(島牧、寿都、瀬棚)での町会所は本陣が廃止された後に設置されたもので明治以降になる。

野付通行屋別海町 訪問予定MAP

画像枠-03 野付半島先端部で野付岬と呼ばれている所にクナシリ島へ渡るため寛政11(1799)年の通行屋が置かれたが、藤野喜兵衛請負中の天保4(1833)年に新規に建直され和賀屋卯右衛門・浜田屋兵四郎請負中の弘化4(1847)年、藤野喜兵衛請負中の嘉永7(1854)年に建増されている。建物のほか、弁天社、御制札場、井戸が1か所と国後島渡海のための通行船3艘、通行荷物積船2艘、持符船2艘、磯船1艘が配備され、通行屋を預かる番人は妻同伴で定住し、アイヌが詰め、渡海用の船、荷を運ぶ船も用意してあったという。野付半島外海面の海岸には場所請負人の鰊漁場があり、鰊漁の時期にはネモロ場所内のすべての番屋から漁民が集結したらしいが、幕末の頃は潮の流れが変わり不漁だったようです。明治になって(明治2年)別海に移転し野付通行屋は終焉を迎えた。野付通行屋跡近くには墓碑が残されています。かつて厚岸から根室、根室(厚別や遠太)からのルート上にある別海側の遠太船着き場などに関しては痕跡は殆ど残っていないようです。◇所在地:別海町野付 野付半島砂嘴

厚岸会所跡史跡石柱・厚岸町MAP

厚岸会所跡アッケシ場所の開設は慶長9(1604)年の頃のようで、場所請負人は安永3(1774)年の飛騨屋が最初のようでに松前藩への貸金回収のため無理をしアイヌ酷使が寛政元(1789)年のクナシ・メナシの戦いの原因となったとされ罷免。その後は村山伝兵衛が場所請負人になるも寛政8(1796)年に罷免、変わって南部大畑・熊野屋忠右エ門,江戸・小林屋平四郎が請け負った。

ロシアの推し進める南下政策をを警戒した幕府は、寛政11(1799)年に東蝦夷地を、文化4(1807)年に西蝦夷地を直轄地とし東蝦夷地各場所は幕府の直営とし運上屋を会所に改め幕吏を滞在させた。文政4(1821)年に蝦夷地を松前藩に戻すが、再び緊張が高まった安政2(1855)年に渡島半島の一部を除いて幕府の直轄地とし諸藩に地域を割り当て警備を担当させた。時代は変わり明治2(1869)年に開拓使が設置されるが、財政基盤が貧弱だったことで諸藩による分領支配となるが明治4(1871)年の廃藩置県で終える。

場所請負制は文化10(1813)年より復活し松前・米屋藤兵衛、文政3(1820)年より竹屋長七(松前畑屋七左エ門?)でした。文政10(1827)年より栖原三郎兵衛の請負だったが、天保3(1832)年に山田文右衛門に譲渡され、明治2(1869)年の場所請負制が廃止されるまで山田文右衛門でした。場所請負制廃止で会所(運上屋)はその歴史を閉じるが駅逓業務は開拓使に引き継がれ、明治5(1882)年の駅逓取扱人は漁場持ちの榊富右衛門となっているが、場所請負制が実質温存された漁場持も明治9(1876)年に廃止となっている。明治21(1888)年に厚岸駅逓所が再設置されるがその時の駅逓取扱人も榊富右衛門でした。場所運営の特徴は徹底した植民地経営方式で専制的な支配権を行使しアイヌ人に有無を言わせず集め、過酷な労働条件で酷使、厚岸でアイヌ人口が減ると、沙流地方や勇払地方からアイヌを連れてきて漁業労働に従事させたのだという。場所請負人による駅逓業務では会所所属の人足はアイヌの人達が努め、足りなくなると近隣からアイヌの人たちを集めて使役、それでも足りないときは和人が出向く形が取られていたようで、会所の近くにアイヌの人たちを強制的に集めていたのは駅務にも一因があるようです。◇所在地:厚岸町湾月1丁目121 ◇N43°03’29.73” E144°83’97.43”

佐野碑園 久寿里会所跡説明板・石碑 釧路市MAP

久寿里会所跡江戸時代にはクスリ(久寿里)と呼ばれていた釧路は、1799(寛政11)年に幕府の直接支配地となり交易場所であった「運上屋」は「会所」と改称され、交易のほか旅宿所や漁業の経営、行政機関としての機能も有し当時は釧路の中心地であった。クスリ場所請負人は新潟県寺泊出身の「佐野孫右衛門」で(1841年~1899)、会所が置かれていた跡に佐野氏紀功碑、久寿里会所跡の碑、石川啄木歌碑などがあり佐野碑園と呼ばれている。明治2年に場所請負制が廃止され会所(運上屋)は幕を閉じるが、場所請負制は漁場持という名で実質温存され最終的には明治9年に廃止された。全てではないが会所(運上屋)は開拓使に引き継がれ、本陣・脇本陣~旅籠屋~駅逓取扱所などになるも、駅逓業務は漁場持が引続き取扱人となった所が多く、漁場持廃止後は民営で駅逓という事もあったようです。◇所在地:釧路市南大通8丁目2 ◇N42°97’40.81” E144°37’53.29”

白糠運上屋跡石碑 白糠町MAP

白糠運上屋跡碑白糠駅から約徒歩5分に有る白糠公民館敷地内の国道側に白糠運上屋(白糠番屋)跡の石碑が立っている。1786(天明6)年頃には2カ所の運上屋があったようだが、この運上屋は元々は音別の方にあったと云うが波が高く不便だった為に白糠に運上屋が移設されたらしい。1799(寛政11)年に通行屋(駅逓)が出来、享和2年になって会所は釧路に統合され番屋扱いになり、尺別番屋は白糠番屋の出張番屋となったようだ。白糠番屋を経営していた佐野孫右衛門が明治9年に漁場持を返上し、駅逓業務は豊島三右エ門が引き継ぎその施設を白糠駅逓所として利用していたという。明治21年に根室、釧路、北見の官設駅逓は廃止され駅逓の民営化が計られ私設となるが辺境の地では官設が必要とされ制度が整えられていった。白糠駅逓所も明治21年に再設置となっているが制度の関係で民営から官設駅逓に昇格になったと云うことで、駅逓業務は白糠会所から白糠番屋(運上屋)を経て官設駅逓になるまで継続していた。そういう背景が有るので白糠運上屋が白糠駅逓所という事も出来る。◇再開:明治21年07月 ◇廃駅:明治35年11月 ◇初代取扱人:豊島三右エ門 ◇二代取扱人:港屋春平 ◇現住所:白糠町東3条南1丁目1-21 ◇N42°57’16.1” E144°24’53.9”

十勝発祥之地の碑

○○ 1798(寛政10)年に東蝦夷地を幕府直轄となり、翌年の寛政11年に駅馬を十勝に送り、これを茂寮(広尾)と大津の2カ所に分けて、場所請負人の通行量において行客の便に当らせたとある。文化3年には大津に駅逓所の前身とも云える止宿所(通行屋)があったという。最後の十勝場所請負人、箱館の福島屋杉浦嘉七の雇人となった青森県人・堺千代吉が大津に漁場を開いたとされる1863(文久3)年が大津最初の和人定住年という。維新後に十勝会所は廃止となるが漁場持として駅逓は継続していたと思われ、北海道宿駅制の研究に広尾と大津ともに「杉浦某駅逓を兼ね扱う」とある。少し空白はあるが明治8年から福島屋の元現地支配人だった若松忠次郎が駅逓取扱人になっているが、旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では近江善吉で、駅逓廃止はこれ以降になるのだろう。 ◇設置年:寛政11年 ◇廃止年:明治2年 ◇場所・駅逓請負人:福島屋杉浦嘉七 大津駅逓は引き継ぎ継続、廃駅年不明 ◇所在地:豊頃町大津寿町6 ◇42°40’59.2”N 143°39’47.9”E

当縁番屋跡(通行屋)説明板 大樹町MAP

当縁番屋跡浜大樹から当縁川河口方面に進むと、当縁川右岸の先端部付近台地上に「当縁番屋」跡がある。大樹町設置案内板の文字は殆とが判読不能の状態で、何とか享和二年ごろ美楼会所の設置と書いてあるように見えた。美楼、ビロウは広尾の旧名で、松前領時は運上屋、幕府直轄時は会所、幕末時は十勝会所と称していた。松浦武四郎の蝦夷日誌(初航)に「馬有。継立ニなる也。非常御備米蔵、弁天社、運上屋。勤番通行上下とも止宿になる」とあり、東蝦夷日誌では「前に土手有、是は南東風を防ぐ為也」と記されている。番屋と称しているが、東蝦夷日誌では運上屋となっているので美楼会所の出張所か?土手跡は今もその大部分が残っており、その手前(山側)に運上屋(番屋)が有ったことになるが、土手の長さから推測すると、それなりに大きな建物だった様に思える。◇所在地:大樹町当縁 当縁川河口付近 ◇N42°30’20.79” E143°27’27.90”

十勝会所跡史跡標柱・広尾町MAP

十勝会所跡十勝場所の設定年代は詳らからではないが寛永12年の松前藩による戸賀知金田の開設と同じ頃と考えられている。寛政11年に松前藩から幕府直轄となり運上屋は会所と改められた。文化年間に高台に移転したという。運上屋の機能は会所にそのまま引き継がれた他に駅逓と幕府の役所が置かれるようになった。十勝会所では酒造が試みられていたとのことで他の会所には無い特徴が知られているが標柱に酒造に関する表記はない。最後の十勝場所請負人は箱館の福島屋杉浦嘉七、維新後に会所は廃止となるが漁場持として駅逓はそのまま継続していたようです。福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上した明治7年以降は大津駅逓と同じなので省略しますが、十勝漁業組合が解散した後については詳細不明、旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では高橋仁太郎とあり駅逓の廃止はこれ以降のようです。◇所在地:広尾町会所通り ◇N42°17’06.14” E143°19’10.92”

ビロウ運上屋跡史跡標柱・広尾町MAP

ビロウ運上屋跡運上屋は東蝦夷地が幕府直轄になる前の呼称で寛政11年に松前藩領から幕府直轄地となり運上屋は会所に改められ、ビロウ運上屋も十勝会所と改められた。東蝦夷地では松前藩に複領となっても会所の名称はそのまま使用されているが、松浦武四郎の蝦夷日誌では運上屋となっていて、当地の広尾では運上屋と呼んでいたのだろうか?。西蝦夷地では運上屋、運上家などで会所という呼称は使用されていない。ビロウ運上屋は元々海岸に近い所にあったが文化年間に高台に移転したという。広尾町の海岸通りに高台への避難階段が有りその登り口に史跡標柱がある。◇所在地:広尾町海岸町 ◇N42°28’38.59” E143°31’97.49”

コトニ小休所跡説明板 様似町MAP

コトニ小休所跡西口の山道起点は冬島川にかかる「押木橋」なのだが、コトニ小休所だけが目的の場合は「東冬島トンネル」を抜けて左折(山側に入る舗装路)し山道に入る。突き当たりに←様似山道→と林道の看板がある所で林道側に左折すると昆布干し場の奥にコトニ小休所の看板が見え、右折すると様似山道につながる。以下は由来書より「様似山道の古趾 コトニ小休所跡様似山道が開設した1799(寛政11)年、旅人の心をいやす眺めの良いこの場所に、往来する人たちの休息の場として、2間に3間の小屋が建てられた。往来の人たちはここで焚火をして暖をとったり、時には仮眠もしたという。東口(幌満)から来た人は熊や鹿に脅かされながら、うっそうとした山中を通りここに辿りついてようやく安心したという。また西口(冬島)から来た人はこの先の難所に備えて支度を整え、この眺望も見納めの心境でシャマニを背に東へ向かったとか。悲喜交錯の多く残された所です。様似町教育委員会」◇所在地:様似町コトニ ◇N42°09’14.51” E142°99’98.49”

様似会所跡石碑・様似町MAP

様似会所跡幕府は諸外国との関係が緊張したことで1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄とし、様似山道を完成させその翌年に油駒運上屋をシャマニ会所と改めた。幕府は1821(文政4)年に蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、1855(安政2)年には再び幕府直轄としている。文化10年以降は駅逓業務も請負制になり、会所(運上屋)が人馬継立、継立馬の飼育、旅籠屋の業務を担った。安政2年に函館奉行が東西蝦夷地への妻子同伴を可としたので妻子を伴って赴任する役人も増え、峠を控えた会所では婦女子の山越用に山駕籠を用意し人足が配置されていた。様似最後の場所請負人、漁場持は万屋(佐野)専左衛門(シツナイ、ウラカワも同様)でした。開拓使に引き継がれた後の明治5年9月より、様似駅逓となり取扱人は矢本蔵五郎。廃止年は不明だが旧札幌本庁の駅逓取扱一覧(明治15年)は三上幸助なので明治15年以降の廃止と思われる。明治33年に様似駅逓が再設置されているが、北海道宿駅制の研究では矢本藤五郎(矢本蔵五郎の間違いか?)が駅逓取扱人となっています。駅逓は昭和6年に廃駅。◇所在地:様似町会所町1 ◇N42°12’46.00” E142°92’13.86”

静内会所跡碑石碑 新ひだか町MAP

静内会所跡碑国道235号線沿い山側にある民家の前の設置されている。幅3mの台座に高さ1m前後の青石二つが並べられ、碑文のほかに会所建物の当時の造作を刻んだ銅版の副碑がはめ込まれている。1802(享和2)年、幕府は蝦夷地を直轄支配とし運上屋を会所と改め行政機能を持たせ付属施設も拡充された。交易の取引所であった静内会所は、1858(安政5)年に東静内に移され明治までその姿を留めたといわれている。会所廃止後は駅逓として使用されたようだが旧札幌本庁管内駅逓取扱一覧(明治15年)に静内はなく、同年に下下方駅逓と改称されているようです。引き継ぎ時は及川甚兵衛となっていて新冠会所と同じです。◇場所・駅逓請負人:佐野専左衛門 明治3年~駅逓取扱人:稲田邦植 ◇明治15年05月下下方駅逓と改称 ◇廃止年:昭和03年06月 ◇明治15年~駅逓取扱人:及川甚兵衛 取扱人:服部久元郎 取扱人:沼田虎太郎 ◇所在地:新ひだか町東静内61番地13 ◇N42°17’57.69” E142°27’13.77”

新冠会所跡石碑・説明板 新冠町MAP

新冠会所跡新冠町発祥の地と呼ばれている判官館の前浜のにあり、節婦漁港東側、昆布干し場用道路入り口から判官館ふもとまで徒歩30分。1812(文化9)年から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合され、ニイカップ場所は箱館の浜田屋が1813(文化10)年から1869(明治2)年の請負制度の廃止まで経営を独占した。会所廃止後は駅逓(通行屋を使用か?)として使用されたようだが、引き継ぎ時の駅逓取扱人は及川甚兵衛、旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では細野善之助になっている。同年に賀張に移転開設、駅逓の廃止年は?。最初の頃は通行屋を元にした駅逓と思われます。◇場所・駅逓請負人:浜田屋 井口佐次兵衛 ◇会所廃止:明治2年 駅逓は継続 駅逓取扱人:細野善之助~及川甚兵衛?◇廃止・新規開設:明治15年05月、賀張(現・日高町内)に移転開設とあった。◇廃止年? ◇駅逓取扱人:中村世吉 取扱人:長谷川弥平 取扱人:山中某 取扱人:濱田佐治兵衛門 ◇所在地:新冠郡新冠町字高江 ◇N42°36’51.65” E142°29’87.83”

勇払会所之跡石碑・説明板 苫小牧市MAP

勇払会所之跡勇武津資料館と説明が重なるので概略のみにどどめます。寛政11(1799)年には東蝦夷地を直轄地とし直接経営に乗り出し、アイヌと和人の交易の拠点として東蝦夷地屈指の商業物資の集散地として栄えていた勇払に15場所を統括して勇払川の東側に会所を設置したが、文化元(1804)年、波浪浸食により現在の石碑建立地に移動。明治2(1869)年に開拓使勇払役所が置かれ、明治5(1872)年は開拓使出張所が置かれたが明治6(1873)年出張所が当時の苫小牧に移され行政の中心は苫小牧に移る。かつて交通・交易・行政の要であったことを伝える史跡として苫小牧市指定文化財に指定されている。松浦武四郎の「戊午33巻 新道日誌」では「大雨にて、此辺惣て洪水にて水勢橋々を流し、往来は昨日まで留りありしとかや」と、かつては水害の常習地帯であったようだ。◇場所請負人:山田屋仁右衛門 ◇駅逓取扱人:植田礼吉◇開設年:文政年間 ◇廃止年(駅逓):明治15年以降 ◇所在地:苫小牧市勇払50-11 ◇N42°37’34.82” E141°44’09.88”

白老会所跡石碑 白老町MAP

白老会所跡寛文年間にはすでに開設されていたらしい。白老場所はシャタイ(社台)、シラヲイ、シキウ、メップもアイロからなり、秋鮭、鰯粕、昆布が主な交易品でした。白老場所請負人は文化から文政にかけては南部の新保屋、天保12年から明治2年までは野口屋でした。安政3年に仙台藩元陣屋が置かれてからは共に北方警備の役割も付加されたようです。駅逓業務は文化10年から請負制となって場所請負人が担っていましたが、場所請負制の廃止で会所は明治2年に廃止されるが、一関藩の元で漁場持ちとして請負場所を実質延長するが廃藩置県で漁場返上、駅逓は開拓使が引き継つぎ、その後を大沢周次郎が引き継いだようだが札幌本道開通に伴い移転している。白老会所は碑のある下水道終末施設付近に有ったというが、当時の痕跡は残っていない。◇開駅年:寛文年間 ◇廃止年:明治2年頃 以後は駅逓舎しとて再利用されたようです。◇所在地:白老町高砂町4丁目439番地付近? ◇N42°32’37.10” E141°20’59.96”

有珠会所跡説明板 伊達市MAP

有珠会所跡会所のあった場所の南側は小高い丘になっていたというが、海軍が魚雷艇の造船所を建設するため昭和19年に丘を削平したという。幕末の探検家、松浦武四郎も有珠会所に宿泊し、絵図や記録を残している。説明板より一部抜粋「有珠の会所が、正確にいつ設けられたのか明らかではありませんが、文献に初めて現れるのは寛文年間で、おそらくこのころに設立されたものと思われます。会所では運上金の収納、駅逓人馬継立、通行人の宿泊、日用品の供給等の業務がおこなわれ、当時の蝦夷地での経済や交通などの重要な機関でした。明治2年、伊達邦成が支配地検分のとき最初に到着したのもこの会所です」伊達市教育委員会。亘理領主伊達邦成が一門を率いて移住するが、それに先立って明治2年に田村顕允を北海道へ先発させた。田村顕允は有珠会所内(この頃は本陣と思われる)に開拓役所を仮設、翌年の移住第一陣も有珠会所が宿営の要となったようです。開拓使に引き継がれたときの駅逓取扱人は白鳥宇兵衛、明治15年の旧札幌本庁管内駅逓取扱人でも白鳥宇兵衛なので駅逓の廃止はこれ以降のようです。◇開設年:寛文年間 ◇廃止年:明治2年 ◇所在地:伊達市有珠町86 ◇N42°31’10.78” E140°46’48.61”

運上屋(会所)縁の人物・記念碑など

野口屋又蔵功績碑と白老会所石碑 白老町MAP

野口屋又蔵顕功績碑野口屋又蔵顕彰碑は北海道の名付け親として知られる松浦武四郎が安政安政3~5年に宿泊したという1822(文政5)年開設で明治2年廃止の幌別会所の関連費を探していた見つけたもの。肝心の幌別会所跡の説明板は既に無く地形も陸橋工事などで様変わりしていた。野口屋は文政年間から4代にわたり白老の場所請負人でしたが、とかく悪評がついて回る場所請負人の功績碑があること自体が珍しいことです。他の場所請負人との違いは其れまでの略奪漁法から育てる漁法への転換を図ったこと、4代目又蔵は自らこの地に定住し地域発展に尽力したことが支持されたのではないかと思える。顕彰碑は虎杖浜神社境内に建立され白老青空博物館と銘打った説明版が設置されている。白老会所に関しては既に説明済みなので省略する。◇所在地:野口屋又蔵・白老町虎杖浜289-2 ◇N42°27’17.4” E141°12’19.8”

和田屋茂兵衛墓碑と虻田会所洞爺湖町MAP

和田屋茂兵衛墓碑元文4年頃のアブタは酒井逸学の給預地であったが、寛政11年の幕府直轄で請負制廃止とともにアブタ会所と改められ、蝦夷地初の牧場経営が行われたが、1821年に松前藩に返還される。1812年から場所請負制が復活し場所請負人は福山(松前)の和田屋茂兵衛、松前複領後も場所請負はそのまま引継がれる。1822(文政5)年の有珠山大噴火でアプタコタン焼き尽くし、アブタ、ウス両場所の牧士・アブタ場所請負人和田屋茂兵衛・同支配人など40余人、牧馬数百頭が犠牲となり、牧馬一千頭ほどが行方不明という壊滅的な被害をうける。アブタ会所はフレナイに移転しフレナイ会所ともよばれたが、やがてこの地をアブタと称し廃村となった旧アブタをトコタンとよんだ。1827年の場所請負更新期には和田屋の息子茂吉が請負人となり、のちに茂兵衛を襲名した。1854年再度幕府直轄地となるが、1849年頃に再び和田屋荘吉が請負人となるも1853年に有珠山が噴火し、アブタ会所はレブンゲを仮会所にして一時避難、後に請負人は岩田屋金蔵に変わっている。1855年に再び和田屋茂兵衛がアブタ・レブンゲ場所の請負人として復活、元治2年頃まで続いたが、慶応2年の盛岡藩支配時には米屋佐野孫右衛門、明治2年の請負人は泉州屋藤兵衛に代わっており開拓使への場所返上も泉州屋が行った。。松浦武四郎の蝦夷日誌ではフレナイであるがアブタと名乗るとあり、立岩と川を挟んで奥側に会所が描かれた図を残しているが、立岩は1977年の有珠山噴火の時に崩れたという。虻田会所と縁があると言えばトコタンにあった和田屋茂兵衛墓碑だけのようで道路拡幅工事の時にフレナイにあった墓碑を歴史公園に移設したという。◇所在地:虻田郡洞爺湖町入江103 虻田歴史公園 ◇N42°52’65.18” E140°77’75.89”

ムロラン(室蘭)地名発祥の地説明板 室蘭市MAP

ムロラン地名発祥の地説明板の下部にモロラン会所の図があるので掲載したが、会所の説明はありません。以下は説明文の一部を転載です。「室蘭の名付け親は,松浦武四郎(1818~1888年)である。6回に及ぶ蝦夷地探検の際,1845年には噴火湾沿岸を調査し、さらに明治2(1869)年に明治政府の開拓判官となって「北海道」と命名、また道内の国郡名選定を行なう。彼は室蘭郡の命名の理由として「会所元ヘ何レヨリ行テモ チイサキ坂ヲ下ル故ニ此名有ニテ御座候」と、この地の坂路の印象を挙げている。かくて、時の太政官は明治2(1869)年に「このたび蝦夷地一円を北海道と称す」と布告,同時に胆振国室蘭郡(モロラン村など7ヶ村)も制定された。やがて、開拓使が明治五(1872)年、港と札幌本道建設の拠点としてモロランの小沼を選ぶが、着工直前に黒田清隆(当時の開拓使次官)の決断で対岸エトモ(絵鞆)側のトキカラモイ(現在の海岸町3丁目の港側)に変更となる。以来、この地は開港した「新室蘭」に対して「旧室蘭」と呼ばれるが,さらに地名発祥の誇りをこめて「元室蘭」と呼ばれることになり、現在は「本室蘭」と呼ばれている。町名としては現在「崎守町」と称しているが、これは室蘭の地を守る防人の心意気を伝えるものである。平成元年(1989)8月 室蘭市」元々は絵鞆(えとも)に交易所が開かれ運上屋もありかっては絵鞆とよばれていたが会所が移転。会所に行くにはどこを通っても小さな坂を下るのでモロランと呼ばれる事になったというのが地名の由来という事のようです。場所名としてはモロランが使用されるのは慶應年代からのようでそれ以前はエトモでした。大黒島でその名を知られている恵比須屋(岡田)半兵衛は嘉永から慶應にかけての場所請負人、最後の場所請負人は種田德之亟のようです。◇所在地:室蘭市崎守町338 崎守地域振興センター前 ◇N42°22’24.66” E140°55’31.53”

旧茅部街道 三軒茶屋跡石碑・説明板 森町MAP

三軒茶屋跡JR函館本線東山駅の山側を通る旧茅部街道の国道交差部に近い所に「史跡 旧茅部街道 三軒茶屋跡」という石碑と説明板がある。室町時代末期に茅部場所が開設されると多くの漁師が出入りするようになり、函館近郊から街道筋の要所には宿屋や休憩所等があり三軒茶屋もそのひとつですが、この茶屋は特に賑わっていたという。茅部街道は改修されて札幌間本道となり、国道5号線の開通により「旧街道」となった。かつて茅部街道と呼ばれる主要道路でイザべラ・バードや松浦武四郎も通った道、武四郎の紀行文に三軒茶屋の記録はないが、茶屋という名が付く宿場は多く人馬継立が併設されていることが多い。駒ヶ岳がよく見えると記しているのもある。◇開駅年:詳細不明 ◇廃止年:詳細不明 ◇所在地:森町駒ケ岳39 ◇N42°03’57.24” E140°36’13.98”

蝦夷地とは性格の異なる会所

旧東エゾ箱館在六箇場所 臼尻会所跡石碑 函館市MAP

臼尻会所跡和人地や村並みとなった胆振、後志の一部では駅逓の運営方法が明治になって本州では廃止された助郷村を手本にしたような制度で運営され、村民が半強制的に人馬継立に出役しなければならず規模の小さな村では大きな負担で有り歓迎されるものではなく、道南部に駅逓碑が少ない要因なのだろうと思われる。また会所と称するのは主に町会所の事で、駅逓の窓口業務も主として町会所にて村役人が取り扱った。本州では明治になって廃止された宿駅制度が北海道の道南部では維新後も継続され戸長役場となってからも駅逓業務の事務は役人が取り扱っていた。函館県が明治12年に官設駅逓を廃止して民営化を図ったが、民営の希望者がなく村営となったり、民営に移行するが継続出来ず村営化されたのも多い。なので道南(特に旧和人地)でいう会所は村の行政機関ということになる。木古内、鹿部、砂原、掛潤、鷲ノ木、茅部の六ヶ村で箱館の人びとが運上金を納めて請負っていたのを称して箱館在六箇場所というとのことだが、臼尻会所は村並みとなって場所請負制廃止されて以降の開設なので行政機関ということになるようです。明治9年3月より駅場取扱人とあり駅逓業務も取り扱ったようです。駅逓事務は村役人が担当するが駅逓の実務(宿泊と継立)は村によって、継立は村民の出役や委託、専任者を置く、宿泊も村営から委託など一律ではないので実態は不明なことが多いようです。臼尻会所跡の碑は函館市臼尻会館前にある。松浦武四郎の渡島日誌・巻の4に「此地昆布魚の盛んなる事、此近村をもて第一とする」と、仮家の屋根まで昆布干し場になっていて此を見た昔の人が松前では昆布で屋根を葺くと笑い話のような事も記してあった。◇開駅年:明治3年5月 ◇廃止年:詳細不明 ◇駅逓取扱人:詳細不明 ◇所在地:函館市臼尻町234-1 函館市臼尻会館前 ◇N41°93’35.44” E140°94’31.89”

大野会所跡説明板 北斗市MAP

大野会所跡説明板より「1805(文化2)年、大野は幕府の手により諸国から集められた農民500人によって庚申塚(本郷)に90町歩(90ha)、文月に50町歩(50ha)が開田された。それには箱館奉行の山田鯉兵衛、村上次郎右衛門、石坂武兵衛、代島章平らの役人が当たった。広い敷地内に開田の役所である会所を置いた。それが後に大野小学校の敷地になったのである。周辺には多くの杉がそびえていたが、その大木の切り株の一つがこれである。文化財指定になっている「大野村絵図」には元御本陣跡と記され、会所の建物のあった所が示されている。以下省略 平成6年10月 大野町教育委員会」とあり幕府が開設した役所ですが東西蝦夷地に開設された会所とはその役割が異なるものです。松浦武四郎の紀行文(渡島日誌)に「人家132軒、文化度97軒、小商人5,6軒、はたごや有」「本郷村人家28軒、当時(安政3年)36軒、是大野村の本郷地と云えり」とあり、内陸部にある集落としては大きかったようです。また「竹四郎廻浦日誌」では「当所に会所あり、通行人皆此処で止宿す。此村人馬継立は十ヶ村にして継立る也」とあるが駅逓は明治5年に廃止されている。道南で第一次の駅逓改革で至近距離同志にある駅逓を間引きし民営化出来る所は人馬継立所となった。主要な街道が交差する大野宿は道内大規模の宿場でもあったようで、助郷村は14ヶ村ともいい、真っ先に民営化されたようで駅逓が無くなったと言う事ではなさそうです。◇開設年:文化2年? ◇廃止年:明治5年 ◇所在地:北斗市大野町 ◇N41°53’10.67” E140°38’27.00”

能登屋会所跡石碑 江差町MAP

能登屋会所跡文化13(1816)年に秋田出身の豪商、能登屋6代目「平井三右衛門」が町医者、本田快庵から庵・句碑と共に屋敷を購入し、それからこの坂道が「能登屋の坂」と呼ばれるようになったという。問屋会所だったようで能登屋会所と呼ばれ、建物は坂の中段にあり幕末から明治初期には旅籠屋で土方歳三や榎本武揚が仮宿したという。旅籠屋という呼称から豪邸を宿泊専門の駅逓としたものか? 明治5(1872)年の火災で焼失した。屋敷跡には文化11年に「本田快庵」の屋敷内に建立され、昭和6年に鴎島の厳島神社境内へと移された芭蕉句が、建立されてから202年を迎えるということで里帰り、また火災により風化が進み修復困難ということもあり新たに句碑が建立されている。坂の入口の道路上に「能登屋の坂」の表示があるので判りやすい。◇所在地:江差町字姥神町 ◇N41°51’59.76” E140°07’28.06”

探索不発の運上屋(会所)跡

瀬棚町は瀬棚運上屋と駅逓跡の史跡表示板は設置予定のままいまだに設置されていない。登別市の旧ホームページで史跡と幌別会所跡が紹介されていたが、会所跡付近は陸橋工事等で地形が以前とは変わっており既に失われたようです、白老関連で野口屋又蔵功績碑を追加しました。他に駅逓跡を確認した太櫓、美国、古平、高島など数カ所あるが痕跡や碑等はありませんでした。

江戸期の駅逓(会所・通行屋・番屋)ギャラリー

千歳川会所跡-02 静内会所跡碑-02 新冠会所跡-02 勇払会所之跡-02 山越内会所・井戸 山越内関所-01 山越内駅・関所 有珠会所跡-02 ムロラン地名発祥の地-02 三軒茶屋跡-02 森桟橋跡 上昆布駅逓所跡 白老会所跡-02 山越内関所跡-03 和田屋茂兵衛墓碑-02 紋別場所藤野番屋跡-02 三軒茶屋跡-03 臼尻会所跡-02 森桟橋記念碑 野口屋又蔵功績碑

更新情報など

レイアウトをレスポンシブタイプにしました。旧駅逓所跡の内容を一部修正してます。

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