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松浦武四郎の碑を巡る
美深町以南の天塩川流域の碑や説明板など‼

松浦武四郎宿営之地 ヲクルマトマナイ 石碑・説明板 美深町MAP

美深町恩根内-01美深町市街地から国道40号を北上、恩根内大橋を渡り右折、国道下を通り抜け恩根内駅を過ぎて三叉路を左折するとまもなく右側の道路脇とで、恩根内駅から約400mに裏面が英文の珍しい石碑と美深町設置の説明板、ヲクルマトマナイ・天塩川歴史紀行説明板がある。以下は説明板より転載「松浦武四郎は、安政4(1875)年、旧暦の6月9日に天塩を出立、天塩川を遡って6月13日夜、この地のエカシテカニの家に一泊した。さらに志別方面の調査を終え、6月24日帰路に一泊している。武四郎が一夜の宿をした「エカシテカニ」の家族12人が一行を心優しくもてなした様子や、当時のアイヌの生活状態、さらにこの地方に伝わる五弦琴(※トンコリのこと)など「天塩日誌」や「アイヌ人物誌」などに見事に描写されている。エカシテカニ家族の心のこもったウバユリ団子や母が弾いた五弦琴の音色の手厚いもてなしに感激した武四郎は詩2首を柱に記し送っている。美深町は、この詩を後世に継承するため「びふかアイランド」ないに詩碑を建立している。この地において、松浦武四郎の研究者であった笠原靖雄氏は偉大なる探検家武四郎を讃えようと昭和初期からこの地に「幕吏松浦判官探検宿営地」と記した木柱を建立していた。美深町はこの地を文化史跡として末永く武四郎の偉業を讃えここに碑を建立する。平成10年10月 美深町」これ以上の説明は不要だろう。森林公園びふかアイランド内にある歌碑はこの時のお礼に詠んだ歌が刻まれている。平成10年に美深町文化史跡として石碑となったが裏面は英文と珍しく「Tha Place of Explorer Takeshiro Maatsura's Stay」と刻まれていたが続きは写真で!!。初代松浦武四郎宿営之地の碑は村上長次郎氏で昭和10年頃に国鉄踏切西側付近(かつて近くに神社があった)に木標を建て、笠原靖雄氏が昭和34年頃に現在地に移設したようです。天塩川歴史紀行説明板が併設されている。◇所在地:美深町恩根内 ◇標高 48m N44°36’02.7” E142°18’25.5”

天塩川歴史紀行 ヲクルマトマナイエカシテカニ 美深町MAP

○○ 松浦武四郎宿営之地の説明板が詳しく解説しているのでここでは簡単に。6月12日(調査6日目)天塩川歴史紀行より「前略・・今日はオクルマトマナイに来て、12人家族のエカシテカニの家に泊まった。ここの一軒家は、屋根の破れ目にはふきの葉をかぶせてあるだけで、家に入るととてもかわいらしい子供達が、柳の大きな皮を剥いできて、私の座るところに敷いてくれた・・後略」ほのぼのとした情景が目に浮かぶようだ。6月26日(調査20日目)より「前略・・草々の下葉が黄ばみ始めていて、もはや秋の気配に、ふと風土の違いを感じる。船を出すと川の流れが非常に早く、夜はオクルマトマナイのエカシテカニの家に着いて泊まった」近世蝦夷人物誌にも登場するエカシテカニは武四郎らを手厚くもてなし「住んでいる国がもっと近ければ娘を嫁にやるのだが」と語ったと云う。平成27年頃に設置 ◇所在地:美深町恩根内

松浦武四郎踏査之地碑歌碑 石碑 美深町MAP

美深町紋穂内 びふかアイランド道の駅~びふかの後方の美深森林公園びふかアイランド内にある『びふか温泉』のほぼ正面でキャンプ場入口脇に矢立を模したのか筆の形をした「松浦武四郎踏査之地」碑、その左側には本を開いたような御影石があり左右にそれぞれに1首が刻まれていた。 “ゑみしらは 筍にもる飯も 古のさまを つたへて葉椀にぞもる” “かきならす 五つの緒ごと 音さえて 千乙の思いを われもひきけり” ◇以下は銅板の「松浦武四郎踏査之地 説明文」より転載。「松浦武四郎は文化15年2月6日(1818)三重県一志郡須川村(現三雲町)で、松浦圭介の四男として生まれる。16才の時から諸国を遊歴、見聞を広め探検家としての力量をみがき、弘化2年(1845)28才の時から蝦夷地北海道の探検が始まり、その後6度に亘って踏査している。明治12年(1888)東京神田の自宅で、71才の生涯を終えるまで、探検家、地理学者、著述家、俳人等として活躍し、蝦夷地北海道の全容はもとより、ピウカ(美深町)の地名やテッシ(天塩川)の語源発祥の地を、書き著した日誌や地図等により天下に紹介した人である。武四郎が天塩川及び内陸部を調査したのは5度目の時で有り、安政4年(1857)旧暦の6月9日、アイヌの人4人を道案内とし、二隻の丸木船で天塩を出発した。当時の記録を「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」「天之穂日誌」から見るとヲクルマトマナイのエカシテカニ(家内12人)の家に一泊している。町内では翌日、ヘケレル(仁宇布川と天塩川の合流点」に野宿、さらに帰路24日エカシテカニの家に泊まっている。この一家の様子は「天塩日誌」や「アイヌ人誌」などで紹介されているが、手厚いもてなしを受けた謝礼として、この地のアイヌの生活の様子を詩にして2首おくっている。和人として初めてこの地を踏査した武四郎の偉大な功績を讃え、美深の開拓が始まって100年を記念し、町の文化史跡としてここに詩碑を建立する。平成10(1998)年10月10日 美深町長 岩城 実」と記されている。一部ヲクルマトマナイの碑文と重なるがこれ以上の説明はいらないだろう。※ここでいう「アイヌ人誌」は「近世アイヌ人物誌」のことと思われる。宿営地はここからR40を更に北上し恩根内にあります。◇所在地:美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内◇N44°33’28.4” E142°19’24.8”

天塩川名 由来の地テッシ 美深町MAP

美深町紋穂内説明文より「安政4年(1857年)旧暦6月14日、松浦武四郎は幕府の命を受け天塩川流域調査のため、アイヌの人を道案内にこの地を訪れ「大昔に神が作り並べた」というアイヌ伝説の通り川の中に一条の岩が並んでいる様子を見て「天塩川名」の由来「テッシ」(アイヌ語で魚をとる仕掛け梁のある所の意)は、この場所の地形が語源に間違いないと「天塩日誌」に書き残しています。美深町は、松浦武四郎の探検家としての偉大な業績を称え、「天塩」の語源発祥の地である史跡「テッシ」を昭和58年10月6日、美深町文化財に指定しました。びふかアイランド整備に合わせ、集う人々の憩いの場に1/10縮尺にて復元し、由来の地「テッシ」を後世に伝えることにしました。平成10年10月10日」説明板には松浦武四郎の肖像とテッシの写真が載っている。天塩日誌には「本名テシウシなるを何時よりかテシホと語る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと」この地形が「天塩」の語源になっていると当時の記録に残している。ここでは魔神が梁柵を作りサケを捕ることをアイヌに教えたという話も残されている。木材の流送や船用に掘削され目立たなくなっているが水量が少ない時は恩根内大橋から「テッシ」が見える。◇所在地:美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内 せせらぎ水路 ◇N44°33’28” E142°19’02”

天塩川歴史紀行 ヘンケニウブ松浦武四郎宿営地 美深町MAP

美深町 恵深橋 美深カヌーポート 名寄市から美深町方面に進むと恵深橋で天塩川を越えるが、このすぐ上手で辺渓仁宇布川が合流している。名寄から国道40号線を美深方向に進み天塩川に架かる恵深橋を渡り即右折、築堤沿いに進むとカヌーポートの入口際に天塩川歴史紀行の説明板がある。◇6月13日(調査7日目)より「すがすがしい暁の風、遠くの連山の峰にまだ残雪が見える。この辺りは岩が両岸からずっと突き出ているので、船をロープで引いて川を上がる。ここを過ぎるとテッシと呼ばれる川の中に一列に岩が並んでまるで梁(やな)をかけたように見える場所がある。ここには大昔に神が岩を並べたという伝説が有り、神聖な場所だと考えられている。また、川の中にこのような岩が並んでいるのを神が見て、梁で魚を捕る方法を思いついたともいわれる。・・中略・・ヘンケニウブまで来た所で人家が2軒(コロカイ家族4人・トウリヘ家族2人)あった。今夜はそこにとめてもらったが、ますます蚊や虻が多くて困った」とあり。恩根内から遡河してきた武四郎一行はヘンケニウプ下手の小川河岸に人家が二軒(コロカイ・トウリヘの家が有るも本人は不在)有るのを見、風も良いとの事でここに上陸し宿営(6月14日)している。ここでは女性達が厚司を織っていたのを見て、その染色方法を植物名を上げて聞き天塩日誌に記している。いわゆる草木染めの元祖的な技法で現在でも使えそうです。天塩川歴史紀行は平成28年頃の設置。◇所在地:美深町美深389 恵深橋付近 美深カヌーポート入口際 ◇N44°27’18” E42°21’42”

金比羅大権現ヌーポロ 名寄市 MAP

名寄市智東河川改修でかつての面影は薄いが、松浦武四郎の「天塩日誌・丸山道子現代語訳」では「過ぎてシュボロ小さな滝を思わせる急流なので、船に綱をつけてひいて川を上がる」と有り丸木船に慣れているアイヌもイナウを捧げてから通る天塩川最大の難所で、カムイコタンとも呼ばれた。鉄道が開通するまでは天塩川の川舟が主な輸送手段だったが、ここで川船の遭難事故が度々有ったと云う。特に明治44年には一度に15名の遭難者を出す大きな事故が有った。ここには川舟の通行安全を祈願する「金比羅大権現」碑も祀られている。◇撮影地点 ◇N44°25’07.6” E142°27’34.9”

天塩川歴史紀行 ナイフト松浦武四郎宿営推定地 名寄市MAP

名寄市日新 名寄川堤防かつては道道939号線ぞいにある日新遺跡群説明板の横に松浦武四郎宿営推定地の説明板が設置されていたが、ピヤシリ大橋近くの名寄川右岸堤防上に「ナイフト・天塩川歴史紀行」が(平成26年頃)設置されため、二つの説明板による混乱を避けるため日進遺跡にあった説明板は撤去したという。◇6月14日(調査9日目)より「前略・・ナイフトにアベルイカの家があったので、今日はここで宿泊する。この辺りの家は蚊や虻が多いので家の中に煙がこもるようになっている。また、ツルやガン、鹿なども多く生息していて、主にアマクワ(※仕掛弓の事)で獲るそうだ。夕食に獲った鹿の肉をごちそうしてくれたのだが、その肉の美味いこと! あがが落ちそうだった」またスーポロの所ではここまでチヨウザメが来ているとも書いている。◇6月19日(調査19日目)より「前略・・この日アイヌの1人がキセルを川に落としたといってリにラソパ(ノリウツギ)という木の枝で作ったいるのを見た。串で木の末の方から通して作るのだが、この木の芯が柔らかなうえに筋がまっすぐなので簡単に通るキセルの頭は、木の枝の幹に付いていた部分を利用して作っていた・・後略」◇6月25日(調査20日目)より「小雨にけむる中ナイフトに着いた。以前家に泊めてくれたアベルイカが、帰りも立ち寄るだろうと準備をして私をもてなしてくれた。・・中略・・すべてのアイヌの人というのは素朴で善良な人々なのである。」この他にナイフトから見た当時の絵や弦楽器のトンコリ、アマクワでの猟の様子などが載っている。◇以下は旧説明板は「ナイフト・天塩川歴史紀行」とは内容が違うので天塩川歴史紀行と重複する部分は省略し1部加筆要約して転載した。「20日の行程のうち名寄では往路二泊(6月15日,名寄川上流、6月18日,天塩川上流域)と復路一泊(6月23日,天塩川上流域踏査の帰路)しています。川ではマス漁の梁がしかけられ、山には仕掛け弓による鹿猟の時期でした。女性からは苦労して作った織物を和人との交易で安く取り上げられる実情も聞いています。武四郎は名寄川を少し入った川岸に(民家二軒有り)あったアヘルイカという家に泊まっています。当時とは川の流れも変わり位置は特定出来ませんが、ここから(日進遺跡跡の事)見える日進地区の名寄川の右岸側にその家があったと推定されます。1997年9月 名寄市教育委員会」これから言うと新設された「ナイフト・天塩川歴史紀行」の方が宿泊地に近いのかもしれない。◇所在地2:名寄市日新 名寄川堤防 ◇N44°22’54.1” E142°27’27.2”

佐藤正克越冬之地碑名寄市MAP

名寄市朝日 拓進川河口付近名寄市から下川町に進み名寄市朝日で左折七線橋を渡り十字路を左折し、市道見晴線にはいると左側にある。右折すると拓進川かかる八線橋になる。明治4年北海道開拓使の役人であった佐藤正克が天塩川内部開拓調査のために調査に入りここで越冬したが、その内容については説明板の写真で代えることにして省略する。佐藤正克越の越冬記録でもある闢幽(へきゆう)日記のなかに『松浦氏天塩誌ニ七段瀧ノ図アリ。然トモ今其何処ナルヲ知ラズ。虚筆、人ヲ欺ク那」「其奥ニ数峰ノ高山アリ。松浦多気四郎氏「天塩日誌」ニ此地より山行スト云ヘリ。「ラフニ」「トキコサン」ハ松浦氏ニ随行セルモノナリ。余因リテ之レヲ問フ。皆曰ク知ラズと。後之レヲ「シベツ」ニテ聞ニ、「ナイタイベ」ヨリ山行セリト云フハ全ク虚ナリト』あるが、天塩日誌などは一般向けのダイジェスト版で、武四郎はこのシリーズでは興を添えたと多少の誇張やフィクションを認めており詳しく知りたければ原本を見てと断り書きをしている。天塩日誌と原本になった丁巳日誌を併せて読むことで正確な全体像が見えてくるように思うが断り書きまで見る人は希かも・・・佐藤正克が原本の丁巳日誌を見ていたなら誤解は生まれなかったと思うが、長い間丁巳日誌は公開されず時代は松浦武四郎に味方しなかった。やり玉にあがっている七段瀧は滝マニアの僕も知らないが、雨後の俗に言う幻の滝か・・・滝マニアと釣りマニアは話がオーバーになるのが普通かも。木標柱の制作と設置は個人だが建立年不明、平成の初期と思われる。 ◇所在地:名寄市朝日拓進 拓進川河口付近N44°19’51.8” E142°31’42.8”

松浦武四郎野営の地碑サンルベシベ 下川町MAP

下川町北町462松浦武四郎は名寄川を遡りチノミ(松浦図では右岸にあり九線川河口付近らしいが地形を考慮すると上名寄チャシ跡付近?)の首長エレンカクシ家に泊まって(6月16日)いるが、ここでは蚊が少なく連日の虫ぜめから逃れることができたらしい。翌日は名寄川とサンル川の合流点付近の仮小屋(6月17日)に泊まり、これより先は陸行でサンル川を踏査したとされる。天塩日誌ではこのあたりで倒木流木に船の行く手を阻まれ、水量も少なくなり陸を行くが両岸は木と蔦がからみあい、小さい沢が多く本筋が分からなくなる程と書き山中でも1泊したとあるが、原本の丁巳日誌ではサンル川河口付近の仮小屋迄で宿泊したのは一泊、サンル川を奥まで遡った記録はなく「午後峠に到り木間より海が見え、峠を越えて行くとホロナイ川」というのは聞き書きを元に興を添えるための武四郎流フィクションのようだ。天塩日誌ではサンルからナイフトに戻っておりサンルより上の名寄川上流域は記載がない。「北海道の地名」にはこの川の左股は夏の峠道沢とあった。道道60号(下川雄武線)を下川市街から左折し雄武方向に進み名寄川を渡りサンル川にかかる橋を越えて最初にあるカーブの終わる所の道路左側に標柱があり下川市街から約1.5km程。墅の文字は碑とは違うがPCでは手書入力でも入力不可でした。下川町の記念碑は昭和59年6月頃が最初で2度目の更新や設置は平成12~13年頃になる。この碑は下川町教育委員会設置のようですが何度か修復して使われているので初期の碑か。◇所在地:下川町北町462 ◇N44°18’47.7” E142°37’42.5”

名寄川上流到達点の碑下川町MAP

下川町三の橋30線-01標柱は国道239号を下川町市街から興部方面に約4km、右側の神成牧場を通り過ぎ、右に名士バス30線バス停付近を過ぎてまもなく道路右側にある。木標の近くに二の橋道路標識があるのでそれが目印、右側に駐車スペース一台分(旧バス停跡)。天塩日誌ではサンル川出会いより先の名寄川域について何もかかれていない。此辺の本流域は所々が狭く激流があったり淵などあったりと徒歩でも船でも、遡行するには渇水期以外は困難であったろと思われるが、このときは渇水気味で徒歩で快調に遡行出来たようだが、野営の用意をしていなかったので引き返したらしい。ユニナイ川の河口部は水路で当時よりは下流側になり本流に入っている。碑に設置者や設置年は記されてないが下川町の平成13年以前の碑リストにはなく平成13年以降の設置か。◇所在地:下川町三の橋30線 ◇N44°18’03.7” E142°40’46.2”

松浦武四郎宿営地 リイチャニ説明板 士別市MAP

士別市北町 剣淵川堤防際国道239号を走り、JR宗谷線の陸橋を渡って1本目の交差点を右折。道道976号(西風連士別線)を北上して下北大橋手前の交差点を左折。さらに右、左と曲がって剣淵川堤防に上がると前に士別市郷土史研究会が平成9年に設置した説明板が見える。以下は説明板は『天之穂日誌』より引用して説明している。『松浦武四郎は、1857年(安政4年)旧暦6月19日に、ここリイチャニのニシハコロの家に宿泊している。「その家は誰も住んでおらず、屋根も腐れていたので、そのそばに野宿しょうととしたが、蚊が多くて食事もできない始末。しかたなく家にはいり、火を燃やして泊まったが、明け方前に雨が降り出し、滝のような雨漏りにどうしようもなく、すぶ濡れになってしまった」とある。武四郎は次の日、剣淵川を50街余り上がって大体の地形を見て、合流点へ引き返している』すすだらけの雨水でずぶ濡れとはあまりにも気の毒と言うしかないが、天塩日誌にはこの辺りの乙名ニシハコロの家に家に泊まるとあるだけ。剣淵川を50町ほど遡りとあるのでイヌシベツ合流部より少し上流の12線橋付近まで行って引き返したようです。 リイチャニの宿営地跡にたどり着くのは面倒で初めての人は大変かもしれない。「天塩川歴史紀行」の説明板はもう少し目立つ場所にしてほしいが・・・◇所在地:士別市北町 剣淵川堤防際 ◇標高 122m N44°12’21.1” E142°21’17.7”

松浦武四郎宿営地 サッテクベツ説明板 士別市MAP

士別市中士別サッテクベツの宿営地には国道40号を名寄方向に進み、大通り北3で右折し九十九橋を渡り、1つ目の信号を右折、約600m直進してワッカウエンベツ川にかかる境橋を越え右折。約100m先の天塩川堤防下の水門近くに士別市郷土史研究会が平成9年に設置した説明板が有り、国道40線から車で約10分程。ここには「松浦武四郎宿営地 サッテクベツ」「天塩川歴史紀行」「村長ニシパコロの住居跡標柱」があるが個別に紹介(部落はコタンに変更)します。説明板より『天之穂日誌』によると松浦武四郎は、1857年(安政4年)旧暦6月20日に、ここサッテクベツのルヒサンケの家に宿泊している。当時は、アエリテンカ、トセツ、ルヒサンケの3軒10人のコタンがここにあったとされる。「ほとんどは留守であったが、武四郎が来ていると聞き、皆帰ってきて、賑やかにもてなした。」とある。また帰りにも泊り、酒宴をしている。サッテクベツは痩せる川の意で、夏になると水の涸れる川のことで、当時はこのあたりで天塩川に合流していたと思われる。」駐車スペースは一台分程度。村長ニシパコロの住居跡標柱・説明板・天塩川歴史紀行説明板もある。◇所在地:士別市中士別 ◇N44°11’01.3” E142°25’02.7”

天塩川歴史紀行サッテクベツ 士別市MAP

○○ 所在地は先の松浦武四郎宿営地・サッテクベツを参照。「サッテクベツ・天塩川歴史紀行」には6月21日目(調査16日目)と6月19日(調査19日目)の様子と舞に興じる人達の武四郎絵、オヒョウの樹皮を剥ぐ人たちの絵、イナウの種類が載っている。最初は6月21日目(調査16日目)より1部転載「前略・・さてここからは川の流れが幾筋にもなっている上に、流木や倒木が多いので四苦八苦しながら船を進める。オンネトを過ぎてサッテクベツについた。この岸に天塩から同行したアエリテンカの家がある。彼らの妻たちはちょうど楡皮(おひょうの樹皮)をはいだり、草の根を掘ったりしに山に出かけていて留守であった。そのそばにルヒサンケの家もあったが、そこも留守だった。」この時はトセツとアエリテンカが武四郎に同行している。6月19日(調査19日目)より転載「パンケヌカナンを過ぎて、昼頃にサッテクベツに着くと、大勢のアイヌたちが集まって私をもてなしてくれた。この前に仕込んでおいた酒をこしたりイナウを削ったりして、それを山や海の神、先祖の神々に供えて祭った。さらにメノコ(女性)たちがムックリという口事を鳴らし、男たち一同は胸を打ち、足ぶみをして舞い始めた。何とも古風で仰々しく見事であった。」武四郎は踏査の道中悲しい話を聞き無情の様を見て来たが、初めて楽しそうな様子を見たと日誌に記している。平成26年頃設置◇所在地:士別市中士別

村長ニシパコロの住居跡標柱サッテクベツ 士別市MAP

○○ ここに村長ニシバコロの住居跡の標柱があるが松浦武四郎が訪れた時は苫前の乙名でここにはいなかった。苫前には天塩から行ったアイヌの人々が多かったようです。また武四郎が士別で最初に宿泊したのはニシバコロの空家だった。明治5(1872)年に佐藤正克が上川、中川の実情調査に入っていたが名寄に越冬小屋を建て天塩川の案内をしていたという。また屯田兵の入植前は士別の天塩川筋にアイヌ家屋は10件と云い、中士別0線付近に酋長ニシパコロをはじめ3戸、士別橋下流付近に3戸が漁猟によって生活していたといわれ明治29年頃まで居住していた様です。このことは風磯吉によって確認されているとのこと。◇所在地:士別市中士別

松浦武四郎天塩川探検の地ナイタイベ 士別市MAP

士別市上士別-01士別滝上線の西内大部川にかかる更生橋の間近に士別市郷土研究会が昭和42年に設置した「松浦武四郎天塩川探検之地」碑があるが、風化が進み題字部分は殆ど判読不能なので写真は新旧で掲載。松浦武四郎一行がサッテクベツから天塩川上流へ向かいナイタイベ(西内大部)で進退窮り、引き返すかどうか悩んでいたが、此処に偶然にもアエリテンカの妻がいて『大木が倒れているからそれを渉るように』と教えられ、ナイタイベより陸行で上流のペンケヌカナン迄行きそこから山に登って天塩岳をみたと「天塩日誌」としている。また山奥で偶然とはいえ妻と出会ったアエリテンカの喜ぶ様も天塩日記に残してしている。「丁巳日誌」によるとトナイタイベ(東内大部)川との合流部より5~600mほど上流側に進むもその先に進めず、現在のパンケ橋付近(当時の川とは変わっている)で引き返したようだ。トナイタイベ(東内大部)にて仮小屋に(6月21日)泊り翌日サッテクベツに戻る。以下は説明板より転載。「天塩日誌によると、幕末の探検家・松浦武四郎は安政4年(1857)旧暦6月22日、アイヌの案内でナイダイベに至った。アイヌから昔、間宮某がここまで上がったと聞き、戯れて岸壁に次の誌を記したとされている。 風起峰巒宿霧開 雲端仰見此崔嵬 山霊未必疎知己 又有人間一個来 風がおきて峰々纏い着いてきた霧は払われ 雲間から此の素晴らしい岩山が仰ぎ見えました 山の心霊は未だ先に訪れた知人(間宮林蔵)をお忘れではないでしょう 又一人(私)が訪ねてまいりました。訳 北村大三 そのあと武四郎はトナイダイベからパンケヌカナンプ(朝日)まで行き、24日にサッテクベツ(士別)に戻り、さらに探検を続けた。」脇道にそれるがナイダイベは蝶鮫の事らしいが松浦武四郎の記録で蝶鮫が出てくるのはシュボロ(名寄)迄だが蝶鮫がここまで上がったのだろうか?ここにも「天塩川歴史紀行」を設置予定とか。◇松浦武四郎天塩川探検説明碑 士別市上士別町25線 更生橋 ◇標高180m・N44°07’43.6” E142°31’51.2”

士別市立博物館士別市MAP

士別市西士別町2554とても綺麗な博物館で士別市の開基80周年を記念し昭和56年にオープン。古代の石器や土器類の展示のほか、天塩川の自然やアイヌの世界の他、先人の足跡がわかる士別の歴史が展示されている。大正時代の建築物であった『士別公会堂』を隣接地に復元し、士別出身の芸術家作品や北方民族の生活資料などを展示。中でも泉昌子さんの極地探検とプロボクサー輪島浩一氏のコーナーが凄い。☆松浦武四郎のミニコーナーが有って「天塩日誌」を展示してあるが、現代語訳の天塩日誌とは違い色彩画で一見の価値有り。その他に天塩川流域に点在する松浦武四郎の記念碑などを大型パネル写真で展示(全てではない)してあった。◇士別市西士別町2554 TEL: 01652-2-3320

近藤重蔵ゆかりの地和寒町MAP

近藤重蔵ゆかりの地 道東厚岸や黄金道路沿いには近藤重蔵の碑は多いが内陸部では珍しいかもしれない。1807(文化4)年の秋、近藤重蔵は西蝦夷地を巡った後に利尻島へ渡るつもりであったが荒天で断念し、天塩川を遡り剣淵、和寒、比布付近を通過して石狩に抜けたという。その道はある程度「天塩川川筋図」で知る事はできるが、天塩越しとなるとすっきりしない。上士別から愛別川を経て石狩川を下り神居古潭に至ったと言う話もあって本当はどうなんだろう~和寒に関しては明らかな記録は無いようですが、昭和の初めにマタルクシュ・ケネフチの土木工事の時に一振の脇差が発掘され三葉葵の紋(徳川将軍家の紋)が彫られた鍔がついていたとのことで「近藤重蔵が天塩川、和寒川と、遡って来た時、同地で供の者が病没、その死をあわれみ脇差もろとも埋葬した」というのが此の「近藤重蔵ゆかりの地」ということです。◇和寒町塩狩峠付近

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

美深町恩根内-01 美深町恩根内-02 美深町恩根内-02 美深町紋穂内-02 美深町紋穂内-03 びふかアイランド-04 びふかアイランド-05 美深町 恵深橋付近 美深カヌーポート名寄市日進-01 名寄市日進-02 下川町三の橋30線-02 士別市北町 剣淵川堤防際-02 士別市中士別-02 士別市中士別-02 士別市上士別-02士別市上士別-03 名寄市智東-02 名寄市智東-03 名寄市朝日 拓進川河口付近-02 現代語訳・天塩日誌の挿画より名寄市 現代語訳・天塩日誌の挿画より士別市 名寄川・武四郎折り返し付近 天塩川・武四郎折り返し付近 剣淵川・武四郎折り返し付近

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