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松浦武四郎の碑を巡る
天塩川河口から音威子府迄の碑や説明板など‼

松浦武四郎天塩川紀行

安政4年にアイヌの人々に助けられ天塩川を遡り、内陸部の克明な記録を丁巳日誌や天塩日誌に残した松浦武四郎にまつわる記念碑や史跡があり、天塩川河口、カヌーポート付近の説明板では天塩川を踏査した経過の概要を誌してあるが、同じような説明板が天塩川流域の松浦武四郎宿泊地に6ヶ所有り、以前からある木標や説明板を全て合わせると18ヶ所・24基になる。宿泊地は可能な限り現在名を併記したが、今後の調査で変わる可能性があります。

丁巳日誌(天之穂日誌)での宿泊日時と宿営地

松浦武四郎天塩川紀行・往路

☆印は松浦武四郎の記念碑や説明板有り。
★印は宿営推定地の碑や説明板は無し。

☆6月8日・テシオ
◎天塩町・海浜公園に歌碑と銅像、運上屋跡に説明板設置
天塩川堤防緑地に天塩川歴史紀行表示板設置。

☆6月9日・ヲタシウシ・野営
◊幌延町安牛 千曲川付近 天塩町雄信内の国道際、雄信内川堤防に歴史紀行表示板設置。

★6月10日・ホロヒリプト・野営
◊中川町歌内 歌内橋上流右岸の支流(上水道の沢)河口付近。周知物なし。

★6月10日・アベシナイ 上陸のみ
※実際の宿泊はツウヨイと思われる 中川町の安川自然公園に説明板がある。

★6月11日・ツウヨイ・野営
※中川町富和 ※富和トンネルより中川町市街寄り2番目の沢、二股川?周知物なし。

☆6月12日・トンベッポ・トチノキ家泊
◊音威子府村筬島 頓別坊川河口寄りに表示板あり、歴史紀行表示板は物満内に移転。

☆北海道命名の地
◊音威子府村物満内に北海道命名の碑 塩川歴史紀行表示板、プレート設置。松浦武四郎略年譜は洪水で流出し今はない。

☆6月13日・ヲクルマトマナイ
◎エカシテカニ仮家泊
美深町恩根内 石碑、歴史紀行表示板設置。

☆天塩川名 由来の地碑
※美深森林公園内に松浦武四郎の歌碑と天塩川名由来の地建立

☆6月14日・ヘケルル・野営
◊美深町三線 仁宇布川河口付近の恵深橋上流側カヌーポート入口、歴史紀行表示板。

☆6月15日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
◊名寄市日進 10線川近くの日新遺跡付近、名寄川堤防に歴史紀行表示板設置。

★6月16日、チノミ・エレンカクシ家泊
◊下川町上名寄11線境界 朝日九線川河口付近でチャシがあったとされている、チャシなど含めて周知物なし。

松浦武四郎天塩川紀行・往路/続

☆6月17日・サンルベシベ・仮小屋泊
◊下川町北町 サンル川河口付近、道道下川雄武線沿いに木標柱設置。

☆名寄川上流到達点
※下川町二の橋ユニナイ川河口で引き返す
※名寄川到達点の木標柱設置。

☆6月18日・ナヨロ・アヘルイカ家泊
※名寄川上流の帰路、翌日天塩川上流へ。

☆6月19日・リイヤニ・ニシハコロ空家泊
◊士別市北町北五号 剣淵川堤防際の河川敷に説明板設置。

★剣淵川上流到達点
※剣淵町13区 剣淵川12線橋付近で引き返す。周知物なし

☆6月20日・サクテクベツ
◎ルヒサンケの留守宅泊
◊士別市中士別町西一線 ワッカウエンベツ川河口水門付近。歴史紀行表示板木碑、説明板、木標柱設置

☆6月21日・トナイタイベ・仮小屋泊
◊士別市上士別町25線 東内大部川河口付近 国道沿いに説明碑設置。

★天塩川上流到達点
◊士別市上士別町27線 士別パンケ川・斑渓橋付近で引き返す。周知物なし

松浦武四郎天塩川紀行・復路(帰路)

☆6月22日・サクテクベツ
◎ルヒサンケの留守宅泊

☆6月23日・ナヨロ◎アヘルイカ家泊

☆6月24日・ヲクルマトマナイ
◎エカシテカニ仮家泊

☆6月25日・トンベッポ・トチノキ家泊

★6月26日・ホロヒリプト・野営
◊中川町歌内 歌内橋上流

☆6月27日・サコカイシ・船中泊
◊天塩町作返川河口の天塩川 歴史紀行表示板は幌延町総合スポーツ公園に設置。

☆6月28日・テシオ・運上屋泊

※宿泊日は旧暦表示で丁巳日誌に沿ったが、新暦換算の場合は50日をプラスします。

天塩日誌での宿泊日時と宿営地

天塩川歴史紀行説明板での宿泊日時と宿営地は「天塩日誌」で統一されています。丁巳日誌と宿営地と宿泊日時が異なっているのは「天塩日誌」にある興を添えるためのフィクションにあわせ、宿泊日時を調整した為に起こったズレかもしれません。

天塩日誌による往路(天塩川遡航)

6月6日・運上屋泊⇒6月7日・サコカイシ・野営⇒6月8日・ヲンカンランマ・野営⇒6月9日・ホロヒリプト・野営⇒6月10日・アベシナイ・野営⇒6月11日・トンベッポ・トチノキ家泊⇒6月12日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊⇒6月13日・ヘンケニウプ・野営⇒6月14日・ナイフト・アベルイカ家泊⇒6月15日・チノミ・エレンカクシ家泊⇒6月16日~6月17日・サンルベシベ・仮小屋泊⇒6月18日・チノミ・エレンカクシ家泊⇒6月19日・ナヨロ・アベルイカ家泊⇒6月20日・ケネフチ・ニシハコロの漁小屋泊⇒6月21日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊⇒6月22日・トナイタイベ・野営⇒6月23日・ナイタイベ・野営

天塩日誌による往路復路(帰路)

6月24日・サクテクベツ・ルヒサンケ留守宅泊⇒6月25日・ナヨロ・アヘルイカ家泊⇒6月26日・ヲクルマトマナイ・エカシテカニ仮家泊⇒6月27日・オニサツベ・トチノキ家泊⇒6月28日・ペンケナイ・野営⇒6月29日・タカヤシリ・野営⇒6月30日・テシオ・運上屋泊

天塩川歴史紀行説明板 天塩町map-ic

天塩町 天塩川河川公園天塩川河口、天塩川河川公園カヌーポート付近で見晴らしの良い目立つ場所にカラー塗装(印刷?)した北海道開発局設置の天塩川歴史紀行(スチール製説明板)があるが、天塩川流域に9ヶ所ありこのあと再三登場するので以後は「天塩・天塩川歴史紀行」のように「地名+天塩川歴史紀行」あるいは単に「天塩川歴史紀行」と表記する。天塩・天塩川歴史紀行(平成25年頃に設置)には出発準備に追われる旧暦・6月6日と天塩川流域の踏査を終えて戻って来た6月30日の様子が記されている。◇6月6日の様子を天塩・天塩川歴史紀行から「堀奉行から革靴一足、薬品(解毒丸30・風邪薬50)木綿5反(5色)等を頂戴した・・中略・・さて、こちらも天塩川へ向かう準備の食料や船についての準備役の小使アエリテンカ・トセツ・エコレ・トキコサンに命じて急がせる。丸木船の大きさは、二人乗りほどで形はちょうどひょうたんのようである。」◇6月30日(調査24日目)では「夕方天塩の役所に着いてみると、付近のアイヌ民族の男性たちが、イナウを作ってヌサシャンにたて、その前でカムイノミをしていた。その訳を聞くと、今日は月祓(チエフイノミ)の日であると言うので「えぞ人の みそぎなしける 天塩川 今宵ぞ夏のとまりをば知る」と詠んだ。翌日今回天塩川上流まで案内をしてくれたアイヌ民族の男性たちに、手当の木綿布や、酒、たばこ、針、糸などを渡して、労苦をねぎらった。」と書いてあった。その他に用語解説と宿営地推定地と天塩日誌のmapが宿泊日とともに記されている。安政4年に2艘の丸木舟で流域を知り尽くしたアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの先導で松浦武四郎が天塩川筋の踏査に出発する前の様子、踏査から帰還した時の様子が記され「天塩日誌」を元に写真や絵が添えられ仕上がりも綺麗で耐食性も良さそう。「天塩川歴史紀行」は比較的人目につきやすい場所を優先して設置しているため、実際の宿営地からはなれて遠い事もあるが、ここは天塩川歴史紀行の始発点にふさわしい場所です。「天塩川歴史紀行」の宿泊日と宿営地は「天塩日誌」で統一されていますが、興を添えたフィクションにあわせ宿泊日が調整(?)されているためか、実際の宿泊地と宿泊日(天之穂日誌)との間にズレがあります。天塩川流域で確認した記念碑や説明板は12ヶ所、26基です。消失した碑や説明板は3ヶ所、3基となるようです。◇所在地:天塩町海岸通 天塩川河川公園 天塩川河川公園 ◇N44°53’07,6” E141°44’29.7”

松浦武四郎像と歌碑天塩町map-ic

天塩町・鏡沼海浜公園国道232号から天塩港に向かい、天塩港の手前に有る鏡沼海浜公園の駐車場正面に鏡沼を背景に、蝦夷地の全貌を明らかにし膨大な資料を後生に残した功績を称えて、天塩町が開基11年を記念して平成8年11月に建立した松浦武四郎像と歌碑が天塩の渚と利尻山を眺めるように立っている。☆台座にはめ込まれた「松浦武四郎像 1818年~1888年」という説明板は写真では判読困難なので転載しておく。「幕末の北方探検家松浦武四郎は、文化15年(1818年)三重県一志郡三雲町で郷士の四男として生まれる。弘化2年(1845年)以来、超人的な体力・学識とアイヌの人々の案内により、蝦夷地を6度にわたって踏査し、書き記した日誌・地図類はその精度と資料性において群を抜いており、彼によって初めて蝦夷地内陸部の全容が明らかにされたといえる。天塩の地にも弘化3年以来、4度にわたり訪れており「丁巳天之穂日誌」、紀行「天塩日誌」には、日本海沿岸・天塩川流域の自然・地理や人道的見地からアイヌの人々の生活様態が詳細に記録されている。明治新政府は、武四郎のこのような見識を認め明治2年(1869年)開拓判官に登用した。「北海道は彼が名付け親であるが、これはテシホアイヌとの会話より生み出されたものである。ここに武四郎の功績をたたえ、母なる天塩川流域の隆盛を祈念し、この像を建立する。平成8年11月 天塩町長 本田善彦」とあった。

☆歌碑には天塩日誌の題字と天塩にちなんだ和歌が二首 “蝦夷人の みそぎなしける 天盬川 今宵ぞ夏の とまりをばしる” “ながむれば 渚ましろに 成にけり てしほの浜の 雪の夕暮れ” 謹書 小松 初枝と刻まれている。裏面に「天塩日誌のふるさと 武四郎が記した数多くの書物の中より、彼が天塩地域のみを再編集したのがこの日誌である。」以下省略。☆武四郎は1846(弘化3)年と56年から58年にかけて天塩には4度訪れ、57年に2艘の丸木舟で天塩川探査行の起点となった地であり、いまは鏡沼公園となってキャンプ場が整備され、近くに温泉もある天塩町のアウトドアスポットだ。◇所在地:天塩町更岸 天塩川河口鏡沼海浜公園 ◇N44°52’37” E141°44’32”

天塩川歴史資料館天塩町 

天塩川町 旧天塩町役場を改修し天塩川歴史資料館として開設。この資料館は天塩町と天塩川流域の歴史も紹介。松浦武四郎らの天塩川流域の探検史や天塩川とアイヌ人の生活とのかかわり。天塩川の川運に使用された長門船を復元展示してある。長門船は他では見られないかもです。

天塩川踏査宿泊地サコカイシ 幌延町map-ic

幌延町 総合スポーツ公園◇6月7日(調査1日目)より「縄をといて船を川に出す。この辺りはホンキキリ(ぬか蚊)が多く、群がってくるのでやり切れない。サルブト河口付近は鮭の漁場である。この辺りでは以前鮭が沢山上がったが、上流からの流木が多く河口がよく変化するため、やがて網引きが出来なくなり現在は非常に少なくなったという。・・中略・・さらに進み、今日はサコカイシ(天塩町作返)で野宿する。昼の間はキキリ(とら蚊)に責められ続けるし、あまりの多さに着物の裾をたくし上げて川に入って用を足す始末であった。・・以下省略」松浦武四郎は天塩川踏査で上流へ遡った第1日目にサコカイシで昼食をとっているが、実際の宿営地はヲタシウシのようです。帰りはサコカイシ川口まで下り宿泊(6月27日)するが蚊が多く船を浮かべてその中で寝たという。作返川河口は天塩大橋より直線にして約1.6km程上流になり、水門で仕切られ農道から付近までは行けそうだが道は良くないし蚊は今も健在。古地図には沼もあり作返川上流部でみた馬頭観音碑付近では蛇行する川の沼らいし面影を残している所もあったが、サコカイシ川河口も本来の位置とは少しズレているようにみえる。この辺は天塩川の蛇行が激しい所でショートカットされた跡も多いが、河川規模が大きいので古川が三日月湖となって数多く残されている。「サコカイシ・天塩川歴史紀行」は人目に触れる幌延町のスポーツ公園管理棟横に説明板を平成25年頃に設置したがかっての天塩川をショートカットして出来た埋め立て地だった。他の写真は現在の作返水門付近の天塩川と作返川上流部でみた馬頭観音碑。◇所在地:天塩町作返 作返川河口付近 宿泊地 ◇N44°59’26” E141°50’18”◇所在地:幌延町元町 総合スポーツ公園 説明板 ◇N44°59’26” E141°50’18”

松浦武四郎宿営推定地ヲタシウシ 天塩町map-ic

天塩町雄信内6月8日(調査2日目)と6月29日(調査23日目)を記しているが往路はヲンカンランマで帰路はタカヤシャリとなっているが、実際の宿営はホロヒリプトまで遡り野営、帰路もここで野営しているようです。天塩川歴史紀行の◇6月8日(調査2日目)より「前略・・この辺りは虻くらいのハエがいて、そのハエに刺されるとひどく腫れ上がって大変である。これがこの地の厄介なもののひとつである。--中略--今夜はヲンカンランマというところで野宿する。蚊は昨夜の倍はおり、食事中は煙で何とかしのいだ・・・以後省略」◇6月29日(調査23日目)より「今夜はタカヤシャリというところで野宿する。この辺りには鶴が多く、一晩中その鳴き声が聞こえた。私はその情景を詩にしたためた。---新山木にも心高くも巣をなして ひなはぐくめるたづ(鶴)がねぞする---」ヲンカンランマやタカヤシャリはヲタシウシと近くペンケオートマップ川の支流だった千曲川河口付近の事のようですが、今の千曲川は放水路で安牛駅付近の天塩川右岸に直接注いでいる。実際の宿営地は安牛付近より南幌延寄りになると思われるが、説明板では松浦武四郎宿営推定地を安牛付近としている。この辺は天塩川の蛇行が激しい所でショートカットで取り残された三日月湖が点在し元の地形を想像するのも難しいうえ、陸路で近づくのも困難。「ヲタシウシ・天塩川歴史紀行」は人目につくよう、国道40号線沿いで国道が雄信内(オノブナイ)川を越える栄橋上流側の左岸堤防上に平成25年頃に設置された。橋の下流側にはかつて渡船場と駅逓があったようです。堤防への車の進入は可能でユータンも出来る。蛇足だが安牛付近から正面に利尻山がよく見える所がある。◇所在地:天塩町雄信内 雄信内川右岸堤防 ◇N44°53’48.2” E141°55’26.2”

松浦武四郎宿営推定地ホロヒリプト&ツウヨイ 中川町 

ホロヒリプト 中川町には安川自然公園以外に宿営地を示す説明板などは無いが歌内の歌内橋上流右岸の支流(上水道の沢)河口付近(ホロヒリプト)で往路(6月10日)と復路(6月26日)に野営、野営地付近は歌内橋から目視可能な距離。ツウヨイ(富和トンネルより中川市街寄りに2番目の沢、二股川河口付近?)は往路(6月11日)に野営したというが、現在の地形は道路やトンネル工事などで変わっていて野営地は想像するしか無いが。◇中川町歌内・中川町富和 N44°43’53” E142°05’55”

松浦武四郎宿営地アベシナイ 中川町MAP

アベシナイここにもかつては中川二地区と同時期に設置された木碑がパンケシップ川河口近く(三角緑地の所)あったが平成になってから撤去されたらしい。駅逓跡の碑ではよくある話だが松浦武四郎宿泊跡地の碑ではここ以外に聞いた事がない。安川三の狭い三角緑地から佐久橋に方向に向かい手前から急な坂道を登った安川自然公園に古い山神碑と東屋があり、そこに中川町に残る唯一天塩日誌にあるアベシナイでの宿営地を示した「松浦武四郎の探査・調査・宿泊地」という説明板が貼り付けられている。説明板より「安政4年(1858)6月7日、松浦武四郎は土人3人をつれて、丸木船で天塩川を遡り、10日夜アベシナイに泊まった。宿泊地はペンケシップ川の川口、アイヌ部落付近であった。(天塩日誌より) ペンケシップとは、三つの川の合流点の1番手前の小さな川のこと(右眼下のカラマツ林付近が宿泊地と思われる) 寄贈 昭和51年9月 佐久小学校校長 泰 澗衛」説明板に土人とあるが武四郎流に云うと土着の人という意味で差別的な意味は無いとは思うが、説明板などでは配慮は必要とおもう。和人的な自治ではないアイヌ民族の集落は部落ではなくコタンとすべきではと思うが、それを差し置いても説明板を個人で設置されたことに敬意を表したい。この説明板が中川町が松浦武四郎宿泊跡地の碑を建立する契機になったかと想像してしまった。説明板設置の頃は東屋から周囲が見渡せたようですが今は樹木で視界は殆どありません。当時アイヌコタンのあった場所は国道40号線と道道118号美深中川線のT字路付近から安平志内川の河口辺りまで5~6軒、昭和初期まで残っていたのは加藤イソモンコロだけだったと云う。園内に東屋二棟と山神碑があるが、放置状態で手入れされてる感じではない。◇所在地:中川町字安川三 安川自然公園

北海道命名の地音威子府村MAP

音威子府村筬島-01国道40号沿いの筬島橋から稚内方面に約1km走ると電光掲示板と武四郎の肖像が印刷された案内板(河川啓蒙標識)が見え、その案内板を右折して500m程行くと北海道命名の地碑(木碑)がある。北海道命名の地碑は北海道大学演習林から寄贈された樹齢150年ほどのトドマツ、北海道知事「高橋はるみ」さんの書で平成23年に更新された。僕が知っている限りでは初代は平成の初めというが洪水で流出し翌年に再建という。今の木碑は四代目となるようだが北海道遺産認定の天塩川にふさわしいもの。平成10年に音威子府村が建立した建立松浦武四郎略年譜は平成26年の洪水で流出したが経年劣化で文字は読めない状態だったので諦めもつく、代わりに筬島のアトリエ3モア近くに設置されていた天塩川歴史紀行・説明板を移設している。☆全道各地に足跡を残している松浦武四郎は、安政4年(1857)年に天塩川を遡行しその内容を天塩日誌に残している。武四郎は調査の帰路にトンベッポのコタンに立ち寄りアエトモという古老(エカシ)を訪ねている。その内容は次の「北海道命名のゆかりの地」に書いてあるので省略するが、明治2(1869)年に明治政府から蝦夷地命名の任を受けた武四郎は古老アエトモから聞いた話を元に「蝦夷自らの国を加伊という」旨の熱田大神宮縁起を重ね「北加伊道」としたのだろうか?。今は無粋な言語学的疑問に蓋をし、この地が人々の心に末永く残る事を願う。平成30(2018)年は松浦武四郎生誕200年、没後130年、古老アエトモと松浦武四郎の出会いが有って産声をあげ「北海道」と命名されてから150年目を迎えるが、北海道というヤマト的名称で武四郎が込めようとした「北のアイノの国」という想いはどれだけ伝わるだろうか・・・◇所在地:音威子府村字物満内 ◇標高 39m N44°44’28.0” E142°11’00.8”

天塩日誌を訪ねて 北海道命名のゆかりの地

○○ 以下は北海道命名のゆかりの地説明板より転載「北海道の名付け親・探検家 松浦武四郎 北海道命名の発想 安政4年、武四郎はアイヌの人達と共に天塩川を探査し『天塩日誌』として書き残しました。天塩川探査の帰途中、オニサッペ(筬島の鬼刺川付近)で故事に詳しいアイヌのアエトモ長老から話を聞きました。アイヌの通称である「カイナ」の『カイ』とは、この国に生まれた者ということで『ナ』とは、貴人を指す尊敬の言葉である。これを聞いた武四郎は「アイヌの人々は、自らその国を呼ぶとき、加伊(カイ)と言い、アイヌは髭が長いところから、蝦夷(かい)の字を用いたが、もともと蝦夷地の蝦夷(えぞ=カイ)とは加伊(カイ)のことである」と考えました。明治2年7月17日、武四郎は道名に関する意見書を提出。候補に日高見道(ひたかみどう)・北加伊道(ほくかいどう)・海北道・海島道・東北道・千島道の6道を提示、この中から「北加伊道」が採用され「加伊」の字に北方の海に通じる「海」をあて「北海道」名が誕生した。現在の「北海道」の名は、まさにこの地でアエトモ長老と出会ったことから生まれたのです。最下段に「天塩川は北海道遺産として選定されました」と記してある。◇所在地:音威子府村字物満内

天塩川歴史紀行 調査五日目説明板 音威子府村MAP

音威子府村筬島-07◇6月11日(調査5日目)より「前略・・この地はたいへん神聖な場所なので通るときはいつもイナウとタバコと米を一つかみづつこの地の神に供えてから通るのだという。・・中略・・トンベッポ(音威子府村頓別坊)には家が2軒ある。ここに案内人トセツの妻子が来ていたので今夜はトンベッポに泊まることにした。・・中略・・この日、暮れてから近くでしきりに「ホッ、ホッ、ホッホッ」と鳴く鳥の声を聞いた。アイヌの人々はアオコタンチカフと呼んでいるが黄泉鳥(よみじのとり)の意味だそうである。聞き方によって「仏法、仏法」梅干し、梅干し」と鳴いているように聞こえる声であるが、この家の主アエトモの話では、昔、最上徳内もこの鳥の声を聞いて、この鳥は本土の尊い高山にもいる仏法僧と言うのだと語ったそうだ。それで私もこれが有名な仏法僧であることを知ったのであった。」すべての「天塩川歴史紀行」の主要文は主に「丸山道子現代語訳・天塩日誌」より引用されているようなので興味のある方はそちらを読んでくだされば幸いです。武四郎一行はトンベツホ(ペンケオニサベとも言う)のアエトモ家に宿泊したようになっているが、実際はアエトモ家の惨状を見て諦め、案内人の一人トセツの妻が遊びに来ていたというトチノキの家に宿泊(6月12日と復路の6月25日)してアエトモ家を訪ね色々と話を聞いたようです。ここで武四郎は初めて仏法僧と云う鳥の鳴き声を聞いたというが、実際はコノハズクらしい。「天塩川歴史紀行」にはないが、トンベツホで実際に「熊送りの儀式」に立ち会ったようで「熊を処理するには色々の儀式やしきたりがある」と絵とともに天塩日誌に詳しく記している。ここに設置されている「天塩川歴史紀行」説明板は平成26年の洪水で松浦武四郎略年譜が流出したため、アトリエ3モアの斜め前に平成25年頃に設置されていたのを平成27年頃に移転したもの。◇天塩川歴史紀行表示板 音威子府村字物満内

松浦判官宿泊聴佛法僧之地トンベッポ 音威子府村MAP

音威子府村筬島-02 国道40線から筬島大橋を渡り舗装路を進んでいくと踏切となるが、その手前角地に立て替えられた史跡表示板がある。音威子府の史跡はスチール製の看板で高さがあり目立つように配慮されているが、此処では以前に木碑を見ているので何となく拍子抜けしてしまう。安政4年(1857)年の天塩川上流域を踏査時、トンベッポにはアエトモとトチノキ家の二軒有ったと云うが、武四郎一行はトチノキの家に天塩川を遡って行く6月12日と帰路の6月25日に宿泊している。その内容は「トンベツホ・天塩川歴史紀行」に書いてあるので省略するが、最上ニシハとは幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、9回にわたって北方探検にあたった最上徳内の事。昭和10年にNHKラジオで『筬島駅』が仏法僧の鳴く駅として紹介されたの記念碑建立のきっかけとなったようで、筬島駅長が昭和13年に満州鉄道へ赴任する壮行会の時に「松浦判官宿泊聴佛法僧之地」の記念標柱が建立されたという。最初の碑は昭和13年ということで武四郎碑としては古参の碑といえるが、僕が最初に見た木碑は二代目のようで今のスチール史跡表示板は三代目となるようだ。2014年春に訪問した時は史跡表示板が外されていたが再設置されています。◇音威子府村字筬島 史跡表示板 ◇標高 44m N44°44’38.0” E142°11’18.6”

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

天塩町鏡沼公園-01 天塩町鏡沼公園-02 天塩町鏡沼公園-03 天塩町雄信内 音威子府村物満内-02 音威子府村物満内-03 音威子府村物満内-04 音威子府村物満内-05 音威子府村筬島-02 増毛町彦部-02 留萌市大町・望洋遊園-02 北海道命名の地
天塩鏡沼・松浦武四郎像-06 天塩鏡沼・松浦武四郎像-07 下川町北町462 下川町三の橋30線-03 現代語訳・天塩日誌の挿画より・音威子府村現代語訳・天塩日誌の挿画より・中川町 小平町鬼鹿広富48 松浦武四郎扇公園 小平町鬼鹿広富48 松浦武四郎扇公園

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