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苫前町の史跡と古丹別&悲劇の舞台・三毛別‼

苫前町水田発祥の地碑(史跡)

苫前町02国道232号を留萌から北上、古丹別川に架かる橋を越えてすぐ右側に大きな石碑と「苫前町水田発祥の地」と書かれた木碑が建っている。苫前農業に多大な功績を残した先駆者として藤田万助翁の没後13年祭に当たる1907年に「水田発祥の地碑」を古丹別に建立、1984年には古丹別川が見える現在地に移設したもの。藤田万助翁は岩手県盛岡生まれの人で36歳の時に北海道に渡り、各地を渡り歩いた後苫前の地に越を据え明治17年より水稲を試作し試行錯誤の後、明治23年に収穫を得、苫前地方でも稲作が可能な事を証明。当時は札幌近辺でも稲作の試作段階であり、苫前で稲作に成功した事は北海道の稲作史上画期的な出来事。
◇N44°16’42.8” E141°39’29.8”

庄内藩陣屋跡(史跡)

庄内藩陣屋跡留萌方面から苫前町市街地方向に国道232号線を進むと、古丹別川という川にかかる橋を渡ると、その先の右側に「水田発祥の地」の案内板が有り石碑もたっています。その石碑を通り過ぎてすぐ左に入る細い道ヘ入る。道がすぐ分岐するので左側に進むと右側に「陣屋の跡」の標柱があります。幕府から蝦夷地警護を命じられ庄内藩は、浜益・留萌地方(増毛を除く)を拝領し1859(安政6)年、苫前に陣屋を置いた。戸田惣十郎が父について1863(文久3)年、苫前で在勤、1864(元治元)年に浜益の陣屋に移り、1865(慶応元)年に帰国する。1869(明治2)年、開拓判官に抜擢された松本十郎(原名は戸田惣十郎であるが朝敵藩出身である事を隠すために改名したとされる)は移民団130人を連れて根室に入った。1873(明治6)年、大判官として札幌に赴任する途中に立ち寄り、この陣屋の番頭だった石川小兵衛の墓に参ったという。その墓所も近くに有ると言うが一面笹原で入れるような状況でない。松本は「アツシ」と呼ばれる衣装を大切に身に着けていたことでアツシ判官とも呼ばれたが、アイヌ民族の処遇を巡って黒田と意見が合わず下野している。判官としてのアイヌ民族に対する態度は松浦武四郎に通じるものがある。武四郎が訪れたときは河口部に渡し守の家があっただけ。武四郎が古丹別踏査をした翌年(安政6年)にできた陣屋だが増毛の秋田藩陣屋跡や浜益の庄内藩陣屋跡とは違い痕跡すらなく今は標柱が有るのみ。◇所在地:苫前郡苫前町香川

苫前運上屋跡(史跡)

運上屋跡留萌~天塩沿岸では寛政年間の頃、増毛、留萌、苫前、天塩の4箇所に運上屋が設置されたとあるが、史跡となっている運上屋は文化元年(1804年)に開設、場所請負人は増毛と同じ栖原(すはら)家、運上屋とのつながりで天売、焼尻への航路は苫前からであった。運上屋と周囲の様子は松浦武四郎が弘化3年に当地を訪れた蝦夷日誌の中に「運上屋北向。座敷、玄関美々敷立たり。後ろの方白岩崩岸に立靠り、蔵々、長屋有り。弁天社、運上屋の南小高き山ぎしに有」又「蝦夷人小屋 此所に十四五軒有り皆笹屋根也」と書かれている。運上屋の現地支配人についても武四郎にしては珍しく好意的に記している。運上屋廃止後は漁場持の栖原家が駅逓取扱人として駅逓業務を継続していたようだ。明治9年から駅逓取扱人は公選となっているが、旧札幌本庁の駅逓取扱人一覧(明治15年)に戸沢儀八の名があり廃駅はそれ以降ということになる。碑の場所は苫前漁港前の「北るもい魚協」駐車場角、苫前下町バス停傍にある。碑以外にその痕跡を示すものは何も無い。

古丹別と松浦武四郎

苫前市街付近の古い地名は「エンルンヲマナイ」と云い、天明5年に苫前場所を開設した時に「トマオナマイ」に居住するアイヌを移住させ、運上屋に元アイヌ居住地の名前を用いた事が苫前の由来。トマオマナイは今の古丹別川の事、「コタンベツ」は「かつて村のあった川」と云う事で、かつてアイヌが居住していた古丹別川沿いの広い地域を意味している。武四郎は弘化3年に初めて苫前を訪れ宿泊、その後は安政3年、安政4年(天塩内陸踏査の往復で2回)、安政5年は苫前に一泊した翌日古丹別川を遡り、イシカルンクシナイに止宿(現在の岩見付近)。踏査後コタンベツ(ここで云うコタンベツは河口付近)に戻り、当時一軒しかなかったセフヌンケ宅(古丹別川の渡し守)に宿泊。その夜は酒宴を催し大いに盛り上がった。古丹別の踏査と宿営、アイヌの強制移住と地名の変遷については「戊午東西蝦夷山川取調日誌」にも書かれている。他に近世アイヌ人物誌に苫前のアイヌが二人登場する事を添えておく。

岩見の一本松 町指定天然記念物

苫前町06前町字岩見にあるイチイの巨木で推定樹齢は800年、樹高12m、幹直経1m、幹の周囲は3mを超える。イチイとしては若輩者だが千年を超えるイチイが持っている風格を備えている。北海道の記念保護樹に指定されている。幕末の探検家・松浦武四郎が引き返したのもこのへんか?

古丹別緑ヶ丘公園

苫前町04緑ヶ丘公園には約1500本のソメイヨシノが咲き乱れ、初夏はツツジが咲く管内随一の桜の名所。周辺には、スポーツセンターや温泉、食堂もある。古丹別は熊嵐で有名な三毛別に向かうベアロードの入口になります。華やかな海岸に隠れて目立たないが、隠れた人気のスポットといえる。

古丹別温泉 ななかまどの館

苫前町05苫前町には内陸部に入った古丹別温泉『苫前町住民センターななかまどの館』は年季の入った温泉で宿泊もできる。広い浴室には、広い主浴槽とサウナ、水風呂がある。単純鉄冷鉱泉の小さな浴槽は昔のような強烈な温泉では無くなったが貧血の方には効果有りそう。ロビーには巨大な木のコブとアンモナイトの化石を展示している。◆苫前町字古丹別171 TEL:0164-65-4351

とままえベアロード 熊嵐の舞台

苫前町03大正4年12月9日に海岸から30Kmほど内陸に入った苫前郡苫前村の三毛別の六線沢(現・苫前町三渓)という集落で起こった日本の獣害史上最大の事件で、3日間で一頭のクマが開拓農家12軒を襲い、6(7人?)人を殺害、3人に重傷を負わせた熊害としては世界にも類をみない事件。惨劇のあった現場は開拓者の住居やヒグマの越冬の穴までも含めて当時のままに復元。現地は今にもヒグマが出現しそうな雰囲気。苫前町郷土博物館では北海道最大級のヒグマ剥製とともに、この事件をジオラマ展示している。悲惨な事件は、のちに吉村昭氏の小説『熊嵐』となり後に映画化されて全国に紹介されたので知る人は多い。

苫前三毛別事件

事件が起こったのは大正4年12月9日午前10時頃、太田三郎宅に一頭のクマが侵入し、在宅していた妻とその子供の2人を殺害。妻の遺体はクマによって山中に運ばれ、翌10日集落の男達により発見された。10日夜太田宅で2人の通夜が行われていたが、午後8時半頃に再びクマが遺体を奪い返しに侵入するも1人が銃を発砲した為クマは退散。いったん退散したクマは太田家のさらに下流にあり、集落の上流側に住む斎藤家の妻と子供、夫を除く明景一家が避難していた明景安太郎宅を襲い4人が殺され、3人が重傷を負った。午後8時50分頃の事である。その時すでに明景家の回りを開拓団の男たちが取り囲んでいたが、出てきたクマに撃った発砲は不発に終わり、仕留める事ができなかった。相次ぐクマの襲撃に恐れた開拓団の人々は一刻も早く開拓地から逃れる事にし、まずは3Kmほど下流の辻橋蔵家とさらに3Km下流の三毛別分教場とに分離避難させる事となった。一方クマ狩りの本部が下流の一軒の家に置かれ、討伐隊員が集まった。ところが11日も12日もクマの姿さえ発見できず。13日夕刻にはクマは誰もいない開拓部落の9軒もの家に侵入し、破壊の限りを尽くした。同日午後8時頃、クマは更に下流に現れ発砲するも逃げられる。14日午前、足跡と血痕を発見し追跡してクマを発見した山本兵吉が仕留めている。3日間の討伐隊は官民あわせ延べ600人、アイヌ犬10数頭にも及んだ。その後開拓民はその地を離れている、戦後住む者もいたが現在は無人の地。

苫前町の自然と景観スポット・ミニギャラリー

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