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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道自然災害の記念碑・殉難碑や慰霊碑等を巡る‼

津波被害追悼碑天塩町

津波被害慰霊碑 昭和15年の神威岬北西沖を震源地とする地震(M7.0)による津波で、天塩川口は約2mの津波が来襲し11(10名?)名の方が犠牲になった。8月の沿岸で猟期の真っ最中だった事から、天塩川向かいの砂丘にあった十数軒の番屋に漁師たちが寝泊まりしていた。地震による津波はバラック建ての番屋はひとたまりもなく押し流し、深夜であったことも災いして多くの犠牲者が出た。犠牲者には子供が多かったというが、学校が夏休みに入り普段は市街地で留守番をしていた子供たちも父の所に泊まりに行き被害にあったようである。昭和47年8月の33回忌に追悼碑が建立されている。碑には「対岸に利尻富士をば仰ぎつゝ手塩の川は今も変らず」と奇跡的に助かったという浅野文予さんの歌が刻まれている。 ◇災害年:昭和15年8月2日 ◇建立年:昭和47年8月  ◇建立者:遺族関係者?  ◇所在地:天塩町川口基線(海岸通り12丁目)  ◇Gmap:Gマップ

津波復興記念碑浜中町

津波復興記念碑 災害記録として昭和27年3月の十勝沖地震では流氷をともなった津波で甚大な被害と3名が犠牲となる。昭和35年の南米チリで発生した大地震で発生した津波が12回にわたって沿岸を襲い11名の犠牲者をだしたと記してある。昭和52年の建立?らしく、東日本大震災の被害は含まれていない。 ◇建立年:昭和52年 ◇建立者:浜中町 ◇所在地:厚岸郡浜中町暮帰別東  ◇Gmap:Gマップ

庶野震嘯罹災記念碑えりも町

庶野震嘯罹災記念碑 昭和8年3月3日未明に三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村を襲いえりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が発生した。その後の12月にえりも岬と庶野に震嘯罹災記念碑が建立された。建立の経過や碑文は同じ内容なので割愛する。石材の違いによるものか庶野の記念碑は風化が激しく倒壊の恐れがあり平成9年に再建された。碑は小高い丘の上で灌木や雑草が茂った中に在り簡単には近づけない。再建時に風化の激しい背面を縦に側面半分を切り取ったため縮小されて一部の文字は読めなくなっている。説明板には改修の内容と、地震による津浪で死者13名、負傷者56名、家・建物などの被害状況が記されていた。 ◇再建年:平成9年 ◇建立者:えりも町? ◇所在地:幌泉郡えりも町庶野  ◇Gmap:Gマップ

えりも岬 震嘯罹災記念えりも町

えりも岬 震嘯罹災記念 碑文は「震嘯罹災記念」「北海道廰長官正四位勲三等佐上信一著」左側面は「昭和八年12月建之 地震海鳴里そら津浪」「この記念碑は朝日新聞社へ寄託□義金二十餘萬圓を罹災町村へ分配した残額をもって建てたものです」※昭和8年3月3日未明、三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村を襲い、えりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が生じた。津波は地震発生後30分間の間隔をおいて3回来襲し、3回目には、その波高は14.2mにも達し、死者13名、負傷者56名、家・建物の倒壊90棟など総額34万円(現在の貨幣価値に換算して約20億円)の被害があった。この碑は被害の生じた町村へ分配された義援金の残額を使って建立され、地震の恐ろしさを後世に伝えている。明治にも三陸沖で発生した地震による海抜4mの津波に襲われているが、被害の程度は不明。 碑は元々別な場所に設置されたというが、建立して40年後の頃に現在地に移設されたという。 ◇建立年:昭和8年12月 ◇建立者:えりも町? ◇所在地:幌泉郡えりも町えりも岬 えりも神社横  ◇Gmap:Gマップ

光明寺無縁堂 寛保津浪の碑松前町

光明寺無縁堂 寛保津浪の碑 碑の表は「南無阿弥陀仏為 洪波溺死 諸霊菩提 寛保元年辛酉七月十九日」とあり判読に問題はないが裏面は読めない文字が多い。供養碑の隣にある説明板わ転載。「北海道指定有形文化財 光明寺寛保津浪の碑 指定年月日 平成13年3月30日 所有者 浄土宗光明寺(無縁堂) 松前は、日本海に面する狭隘な地に集落が発達しているため、海難・風水害の発生頻度は非常に高かった。このうち最大の被害をもたらしたのが、寛保元年(1741年)に発生した大津波である。記録によれば、同年7月16日、日本海上に浮かぶ離島大島が突如大噴火を起こし、同年19日の早朝に大津波が来襲した。この津浪は、松前弁天島から熊石村(※八雲町熊石)までの諸村に大被害をもたらした。溺死する者1,467名、家屋倒壊790戸、破船大小1,521隻にのぼり、甚大な被害をもたらした。また、津浪の被害は、佐渡や青森地方にも及んでいる。松前藩の記録「福山秘符」によれば、同年8月8日、光善寺の発願により各寺院の僧が集まり、光明寺境内に卒塔婆を建て施餓鬼供養を行ったとされている。この供養塔は「福山秘符」の記述によれば翌年(1742)に光善寺が供養のために光明寺(無縁堂)を建立した時、卒塔婆に代えて建てられたものである。江差町の法華寺、正覚院及び松前町泉龍院の供養塔並びに熊石町無量寺の地蔵座像とともに大津波の惨事を今に伝える貴重な歴史資料である」※最初の噴火で津浪が発生した訳ではなく噴火を繰り返す中で津浪が発生したようだ。寛保津浪の碑は松前市街の端で道道434号線沿いの山側に建っている。 ◇建立年:寛保2年 ◇建立者:光善寺 ◊所在地:松前郡松前町建石7 無縁堂  ◇Gmap:Gマップ

泉龍院寛保津浪の碑松前町

泉龍院寛保津浪の碑 寛保津波の碑とあるが碑ではなく座位の地蔵尊です。説明書きより転載するが津浪に関して重複する部分は省略した。「・・・大島の対岸である松前町江良地域に被害が最も大きく「津軽藩日記」によれば「ゑら町」では「370人程他旅人80人程」の死人が出たと記録されている。現在の江良地区は松前町では本町に次いで戸数が多く、近世期でも福山から江差に至る集落の中では上ノ国に次ぐ規模であった。当時の江良地区の人口は不明であるが、津浪から約70年前に記録された「津軽統一志」によれば、寛文9(1669)年には家数70軒と記されており、この津浪によってその規模の集落が壊滅的な被害をうけた事は想像に難しくない。津浪の被害を乗り越え、江良町村が集落として機能を回復するには相当の時間を要した。生き残った人々が泉龍院に集い貫宗が中心になって、この供養塔を建立し、犠牲者の菩提を弔ったのである。以下省略」※寛保津浪による全死亡者の3割以上が江良地区と云う壊滅的な被害をだした。 ◇建立年:詳細不詳 ◇建立者:詳細不詳 ◊所在地:松前郡松前町江良435  ◇Gmap:Gマップ

正覚院寛保津波の碑江差町

正覚院寛保津波の碑 松の岱公園入り口近くにある正覚院は開山は今から約380年前、寛永8(1631)年に松前町江良より移り、初め頭陀山正覚庵と称していましたが、元禄2(1689)年に伽藍を建立し、翌元禄3(1690)年に嶽浄山正覚院と公称、その後二度の火災に遭い明治27(1894)年に現在の堂宇が再建されたという。正覚院寛保津波の供養碑は本堂に向かって左側に高札があり、手前右横に「淪没孤□両縁塔と刻まれた碑が建っている。高札の説明を転載する。「道指定文化財(平成4年3月31日指定) 正覚院 寛保津波の碑 寛保元年(1741)7月16日に渡島大島が噴火、19日に渡島半島西海岸を襲い、1400人が犠牲となった。この碑は津波で犠牲になった方々を供養するため、寛保元年(1741)に江差の僧侶たちによって建てられた。もともとは、かつて正覚院のあった現在の江差小学校の場所にあった。法華寺にも同様の供養費が遺されている。 平成25年 枝幸町教育委員会 (注)漢数字はアラビア数字に変更」※寛保元年の津浪では溺死者約1500人、流出家屋約800戸に及ぶ大災害で江差寺院各宗派により合同供養を実地し供養塔として建てられたものという。寛保津波の碑を碑ではなく塔としているのが不思議だったが、菅江真澄の「えみしのさえき」に乙部の津鼻(乙部町元町付近)で50年前に寛保津浪でなくなった父親の墓を建てる老婆の話があり、そこには「50年前の亡きあと(父親)をとぶらうため、このような石の卒塔婆を建てたのだ」とあり何となく納得した。此処では盆踊りの終わったその夜に津浪に襲われたのだった。この他に「北海汽船瓊江丸遭難者供養碑」があります。 ◇建立年:詳細不詳 ◇建立者:詳細不詳 ◊所在地:檜山郡江差町本町271  ◇Gmap:Gマップ

法華寺寛保津波の碑江差町

法華寺寛保津波の碑 本町の高台にある法華寺は約480年前に上ノ国で創立され、寛文5(1665)年に現在地に移転し享保6(1721)年に本堂を建立したという。案内板(観光ガイド成翁山法華寺)があり、その中に「大島爆発淪没者供養塔と過去帳、246年前、寛保元年7月15日向かいの大島が爆発し、津浪が起きて死者1,467人の溺者の供養塔と当山関係過去帳がある」としるされていた。碑は境内左手奥にあり高札の説明文を転載する。「道指定文化財(平成4年3月31日指定) 法華寺 寛保津波の碑 寛保元年(1741)7月16日に渡島大島が噴火、19日に渡島半島西海岸を襲い、1400人が犠牲となった。この碑は津波で犠牲になった方々を供養するため、寛保元年(1741)に江差の僧侶たちによって建てられた。もともとは陣屋町にあったが、鉄道敷設にともない移設された。正覚院にも同様の供養費が遺されている。 平成25年 枝幸町教育委員会 (注)漢数字はアラビア数字に変更」渡島大島は8月18日(新暦)に西山から噴火し、8月25日からは降灰のため江差では昼も暗くなる。8月29日に大津波が発生したが、津波の原因は噴火による大規模な山体崩壊によるという説と、低周波地震によるものとの説があるが、かなりの期間噴火が続いたようである。案内板には噴火が246(現・278)年前とあり30年以上前に書かれたもの。その他に樹齢400年を超える「欅」樹齢260年の「椿」が境内にあります。※内部見学の際は事前問合せ要 ◇建立年:詳細不詳 ◇建立者:詳細不詳 ◊所在地:檜山郡江差町本町71  ◇Gmap:Gマップ

無量寺寛保津浪の碑・地蔵堂八雲町

無量寺寛保津浪の碑・地蔵堂 民家の間にある狭い参道を登っていくと無量寺手前に多数の地蔵を祭った地蔵堂がある。御堂の中にある説明文を転載「寛保元(1741)年大島が噴火し松前(福山)沿岸に押し寄せた津浪の被害は大きく、当熊石地方もその被害にもれず、無量寺の過去帳に記載されている檀中溺死海死者の数は百三十余名の多きにのぼっています。その他無縁の死者も数多く各地にその供養のために新しくお寺が建てられました。無量寺(阿弥陀堂)二世宿蓮社襟誉栄和上人了道和尚もその被害で亡くなられました。三世の等誉栄泉和尚が入山され過去帳を整理記帳し被害者の霊をなぐさめ冥福をお祈りするとともに、その祥月忌日である七月十九日を縁として延享三(1748)年に此の地蔵尊を建立されたのです。その当時は現在とちがって海底から溺死者を収容す特別な道具や技術もなく磯まわり用の銛(ヤス)で海底に沈んでいる死人の背中をついて引上げた。その形を残すために地蔵様の像背(背中)に同じ銛の形の穴を刻んであります。当時の人達は銛後が赤みをおびていることから『海からあげられた仏は今でも地を流している』と言い伝えたそうです」※御堂は背部からもガラス越しみられ、思わず背中に痛みが走るような悲惨な歴史を感じた。御堂は近世になって何度か改築されているようです。また旧熊石町の指定文化財であったが、北海道指定文化財に指定されている。 ◇建立年:延享3年7月19日 ◇建立者:無量寺三世 等誉栄泉和尚 ◊所在地:二海郡八雲町熊石相沼町129  ◇Gmap:Gマップ

十勝岳爆発記念の碑美瑛町

十勝岳爆発記念の碑 この碑は昭和37年の十勝岳爆発で殉難された方を慰霊した碑です。建立の由来「昭和37年6月29日午後11時40分に十勝岳爆発により、硫黄採掘していた磯部鉱業所の元山宿舎に宿泊していた気象台技官2名、磯部鉱業所鉱員十四名が避難中に鉱員5名が降りくる火山弾の直撃を受け亡くなりました。「十勝岳爆発記念碑」の表面下部に「銘 昭和38年8月8日この碑を建立するに当り、当時殉難の5氏を悼むと共に、山岳無縁物故者の霊を慰む。児玉 豊 菅原 隆夫 井上 清 小野 寺庄一 高橋 倫照」※犠牲となった5名の慰霊と山岳無縁物故者の霊を慰むため美瑛町が慰霊碑を建立した。除幕式は昭和38年8月5日に関係者多数の参列する中で犠牲になった「故高橋倫照氏」の遺児、長女照子さんの手により碑の除幕が行なわれた。 ◇発生年:昭和37年6月29日 ◇建立年:昭和38年8月8日 ◇建立者:美瑛町 ◇建立地:上川郡美瑛町白金(望岳台) ◇Gmap:Gマップ

丸谷温泉遭難者慰霊碑美瑛町

丸谷温泉遭難者慰霊碑 大正15年5月24日の十勝岳の山容を変えるほどの大噴火にともなう暴威にさらされ火山灰、溶岩、泥流による被害は、上富良野、美瑛を合わせ死者144名、負傷者109名を数える大災害となった。「明治三十七年祖父常吉、十勝岳一帯の泉源を調査温泉を発見、関係機関の許可を得道路の開作。旅館施設を整え第一より第三温泉として開業した。盛業時には、年間湯治客五百余名を数えた。なお、施設の拡充を計画。新築作業に従事中、大正15年5月24日十勝岳大爆発に遭遇し、父吉之助、兄吉幸、政幸、一瞬にして山津波に巻込まれ死亡。温泉はもとより、施設とともに潰滅した。遺族は母を中心として、幾多の辛苦を克服今日に至る。茲に爆発五十年を記念、遭難の父兄及び母の労苦を偲び、慰霊のためこの碑を建立する。」※十勝岳山麓温泉の先駆者として苦心惨憺の結果、温泉を切り開いた丸谷温泉は施設、住人ともに溶岩と泥流の下に埋没する悲運に遭遇した。丸谷温泉の遺族が爆発50年を記念し望岳台に慰霊碑を建立されたもの。 ◇災害年:大正15年5月24日 ◇建立年:昭和50年5月24日 ◇建立者:丸谷温泉遺族一同 ◇所在地:上川郡美瑛町白金(望岳台) ◇Gmap:Gマップ

泥流地帯 記念文学碑上富良野町

泥流地帯 記念文学碑 十勝岳爆発災害復興60周年記念碑です。大正15年5月24日の十勝岳噴火は残雪を溶かして押し寄せた泥流は、144名の尊い人命を奪い開拓以来築いてきた沃野を泥田と化した。火山災害史上でも上富良野の歴史の中で最も悲惨で最も大きな災害でした。壊滅的な災害に敢然と立ち向い今日の沃野に復興した先人の努力も、過去の出来事として忘れ去られようとしてい今、先人の努力と開拓精神の気風を次代に引継ぐことは現代に生きる者の責務である。十勝岳爆発から60周年を迎えんとするときに、旭川在住の作家三浦綾子さんが、十勝岳爆発の惨事と当時の人々の復興に到る不屈の精神を克明に描いた小説「泥流地帯」を発表された。綿密な調査と多量の資料を基に描いた小説「泥流地帯」により、私達に復興不能といわれた災害を乗り越えた先人の偉大な精神を再び甦らせてくれた功績を讃え「泥流地帯」の文学碑を富良野地方開拓発祥の地であり、十勝岳爆発被災に直撃された草分地区に建立した(※十勝岳爆発災害復興60周年記念碑建立趣意要約)。隣接して十勝岳爆発当時の上富良野村長・吉田貞次郎の住居を移設した上富良野町開拓記念館がある。碑文「ドドーン ドドーン 大音響を山にこだましながら、見る間に山津波は眼下に押し迫り、三人の姿を呑みこんだ 以下省略」※碑文は小説「泥流地帯」の一文で、題字は著者の三浦綾子さん揮毫。碑の建立は十勝岳噴火「大正泥流」から60年後ですが、それから時は進み90年をこえた。災害は人々の記憶から消えた頃にやってくる、あの大津波のように。 ◇災害年:大正15年5月24日 ◇建立年:昭和59年5月24日 ◇建立者:泥流地帯 文学碑建立期成会 ◇所在地:上富良野町西3線北28号(草分神社)  ◇Gmap:Gマップ

記念碑遭難記念碑 上富良野町

遭難記念碑 大正15年5月24日の十勝岳の爆発に伴い発生した泥流は、上富良野町・美瑛町の開拓以来30年間苦労して築き上げた沃野を泥田と化し144名の尊い人命を奪った。当時の吉田貞次郎村長はは万難を拝し復興を推し進めた。罹災者及び関係機関がこの大災害を永遠に刻み、復興に対する村民の力を表すべく、泥流で運ばれてきた転石を台石に、自然石を鏡石として記念碑を建立。碑文より「大正十五年五月二十四日十勝岳俄然爆發シ山腹ヲ決潰シ森林ヲ壊倒シ泥流氾濫横溢シテ百余ノ人命ヲ喪失シ巨萬ノ財物ヲ滅盡セルハ實ニ不慮ノ天災ニシテ未聞ノ惨禍ナリ、皇上軫念ヲ労シ給ヒ特ニ救恤金ヲ賜フ官民亦一致協力難苦ヲ冒シテ救抜ニ努メ更ニ罹災救済会ヲ起シ無告ニ泣ク者ヲ無カラシメ政府地方亦巨費ヲ投シテ復興其緒二就キ人心初メテ安シ生業漸ヲ追テ薑ニ復セントス抑人事ノ禍福予測シ難シト雖有爲ノ身ヲ以テ不慮ノ災禍ニ弊ルヽハ人生不幸ノ極ト謂フヘシ遭難者ハ皆是レ忠良ノ國民ニシテ前途ノ志望ヲ斎ラシテ一朝不帰ノ客ト爲ル痛恨何ゾ極マラン村民乃チ相謀ツテ追弔ノ典ヲ行ヒ以テ英霊ヲ祭ル今又碑ヲ建テ是ヲ石ニ勒シテ後昆ニ傅フ語二曰ク終ヲ慎ミ遠ヲ追ヘバ民徳厚キニ帰スト村民ノ此挙蓋天命ヲ畏レ人事ヲ盡ス者ト謂フヘキナリ 大正十五年十二月十五日 北海道廰内務部長 正五位勲四等 百済文輔 撰 揮毫 中川健蔵」※公設唯一の慰霊碑である遭難記念碑は駐車場の一角にある。 ◇建立年:昭和2年5月24日 ◇建立者:上富良野町(上富良野村) ◇所在地:上富良野町西1線北32号  ◇Gmap:Gマップ

十勝岳爆発横死牛馬 追善記念碑上富良野町

十勝岳爆発横死牛馬 追善記念碑 十勝岳爆発により144名の尊い人命と、農家の財産で貴重な労働力である馬25頭の他牛3頭、豚や鶏なども泥流に呑まれ被害を受けた。昭和5年4月17日の十勝岳爆発で横死した牛馬の「追善記念碑」が西6線北28号に飼主・牛馬商・村内有志によって建立された。供養碑は自然石に額をとって彫り込んだもので、6段積み上げの台座の上に建っている。碑の下部に伊藤七郎右工門、伊藤藤太郎他76名の寄進者の名が刻まれ、その横には大正11年8月17日創立の「馬頭観世音」がある。4坪の御堂に三面石仏の馬頭観世音が安置され、発起人、伊藤藤太郎と十数名の世話人の名が刻まれている。かつては馬頭観世音のお祭りが毎年4月17日に盛大に行われていたともいう。 ◇災害年:大正15年5月24日 ◇建立年:昭和5年4月17日 ◇建立者:伊藤七郎右工門他 ◇所在地:上富良野町西6線北28号  ◇Gmap:Gマップ

文政の噴火と和田屋茂兵衛墓碑洞爺湖町

和田屋茂兵衛墓碑 高札の説明文を転載する。「文政5年(1822年)1月19日の有珠山噴火は寛文3年(1663年)の噴火に次ぐ激しい噴火でした。研究者による犠牲者の数はいろいろですが100名前後の人たちと1,500頭に近い馬が焼死しました。1月19日から断続的に噴火を繰り返していた有珠山は2月1日午前6時過ぎ大音響を起こし、猛烈な熱雲(火砕流)が一瞬のうちにアブタコタン(現在のトコタン)を焼尽くしました。人々は先を争って海に逃げ込み、そのありさまはまるで地獄絵図のようだったといわれています。死傷者は続々と善光寺に運ばれましたが、手当のほどこしようもなく次々に死亡してしまいました。虻田場所請負人の和田屋茂兵衛と婿の支配人松之助もまもなく絶命、翌2日には茂兵衛の妻の兄で支配人の善五郎も息を引き取りました。この3名の墓碑が廃村(トコタン)となった跡地に残っていましたが、道路の拡幅、改修のときにこの講演に移されました。」※場所請負の歴史だけでなく、有珠山の文政大噴火を今に伝えていますが、アブタコタンを焼尽くした有るように多くのアイヌ民族が犠牲になっています。茂兵衛の息子、茂吉が建てたと伝えられている茂兵衛墓碑のある虻田歴史公園は官営の蝦夷牧(有珠虻田牧場)跡で牧場開設は文化元年、翌年に入江馬頭観音碑が建立されている。牧場も有珠山噴火で甚大な被害を受け牧士の村田父子をはじめ多くの方がなくなったという。 ◇建立年:詳細不明  ◇所在地:爺湖町入江87  ◇Gmap:Gマップ

昆布礁災害復旧記念碑鹿部町

昆布礁災害復旧記念碑 安政の駒ヶ岳大噴火以来73年後の昭和4(1929)年6月17日に大きな軽石噴火をおこし,降下軽石および火砕流を噴出したが鹿部方面を主にして南東方へ降下軽石をもたらしたといい、鹿部町一帯は約1mの堆積物に覆われ、また火砕流やその後の降雨による泥流の発生などで山林耕地の被害も多く、死者2名、負傷者4名、牛馬の死136頭という。またこの噴火で昆布礁が壊滅的な被害を受けた昆布礁の復旧計画は、新たな岩礁造成のため、投石事業と海底岩盤の破砕事業がすすめられ、昆布礁の災害復旧を記念して昭和11年、鹿部村に記念碑が建立されている。碑文より「昆布礁復舊記念碑」「揮毫 北海道廳長官 佐上信一 書」「昭和四年六月駒ヶ嶽爆發シ 海陸ノ惨害一町七箇村ニ及ビ殊ニ昆布礁ノ被害甚シ 各漁業組合協力九十二萬餘圓ヲ投シ七万餘人ヲ使役シ 二十八萬餘坪ヲ復興シ 昆布生産舊ニ勝ルニ到レリ 依テ玆ニ相謀リ 永ク之ヲ記念シ後昆ニ傳フト云爾 昭和十年 六月 鹿部村 臼尻 尾札部村 椴法華村 根田内 漁業組合 古武井 尻岸内 日浦」※記念碑は最初は大沼電鉄鹿部駅前広場に建立され、後に鹿部稲荷神社境内に遷され、昭和61年に鹿部公園に移設された。昆布礁災害復旧記念碑の近くに昭和4年6月建立の駒ヶ岳爆発記念碑がある。駒ヶ岳最後の噴火は昭和27年でした。 ◇建立年:昭和11年6月27日  ◇建立者:茅部郡自治体合同?  ◇所在地:鹿部町鹿部 鹿部講演  ◇Gmap:Gマップ

小谷石災害殉難者慰霊碑知内町

豪雨災害慰霊碑 大きな碑と小さな碑が二基あるが大きいのが復興記念碑で小さいは慰霊碑と復興記念碑の副碑のようです。慰霊碑の碑文より「昭和四十八年/小谷石災害殉難者/慰霊碑」裏面は「平成七年九月二十四日/永称寺念誉れ発願/檀信徒 有志 一同建立」と刻まれている。当時の様子を復興記念碑の裏面碑文から「「滝のような雨 地ひびきとともにくずれる山 バッファローの大群がおし寄せるような流れ 川は人家の二階まであふれる 山からは山津波。人々は野じゅうのようにさけびながら逃げる 庭まで水が入って来た 「としばつれて逃げれ」かあさんの声と共に弟をつれて必死で逃げた 長ぐつは片びっこでもそんなことは気にしていられない夢中で浩二の家へ逃げた 母と祖母と妹が心配だ 「あっ来た来た」・・・(被災児童の作文より)」副碑の碑文より「昭和48年9月23日から25日にかけて東北本部通過した低気圧により、強い集中豪雨が道南地方を襲い小谷石では、334m/m、特に24日13時から14時にかけての最大時間雨量は133m/mと道内最高を記録した。この大雨により土石流、がけ崩れ等で全戸数の40%、100戸が全壊又は流出、死者4名、行方不明4名、漁業被害などを併せ総額22億円に及ぶ被害が生じた。この災害復旧には関連費用を含め23億円が投じられ、昭和30年度末(※昭和40年度末の間違い?)に完全に復興した。」と刻まれている。温暖化や頻発するゲリラ豪雨など地球環境の変化で災害リスクは各地で増えつつある。 ◇建立年:平成7年9月24日  ◇所在地:知内町小谷石   ◇Gmap:Gマップ

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