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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道集治監・分監遺構と北海道開拓の囚人慰霊碑を巡る‼

上川道路開鑿記念碑砂川市

上川道路開鑿記念碑 碑文より転載「國道12号線は明治19年に樺戸及び空知集治監の囚人を使役して、空知太に集治監出張所を設置南北2工区に分けて、悪条件の下に工事を90粁の上川仮道路を完成したのがこの始まりである。この工事に苦役された幾多の無名の犠牲者の霊を慰め輝く未来建設の為に開道百年を記念してこの碑を建立する。昭和44年9月 砂川市長 山口正吉」※碑文は仮道路と本工事、集治監と監獄署の区別が曖昧なので訂正しておく。国道12号の前身となる市来知~忠別太間の87.9kmの上川仮道路(札幌・岩見沢間は含めず)の工事は樺戸集治監の囚人を使役し明治19年5月16日に着工、同年8月20日に仮開通した。本工事は2工区に分け空知太より忠別太(永山?)までを樺戸監獄署が担当し明治20年5月28日に着工、空知太より峰延間を空知監獄署が担当し明治21年着工で明治22年9月竣工。軍用道路という性格もあり突貫工事で多く犠牲者を出し死屍は所定めず埋められていたともいう。この近くに樺戸集治監外役所があったようです。◇建立年:昭和44年9月 ◇建立者:砂川市 ◇所在地:砂川市空知太 ◇Gmap:Gマップ

開拓之礎砂川市

準備中 石山の山頂前広場に行く途中の遊歩道沿いに開拓之礎碑がある。碑文より「眼下に連なる国道12号線は最初明治19年より上川地方開発のため上川假道路開鑿工事として樺戸並びに空知集治監の囚人を使役して行はれたもので、密林非衛生的環境下で過酷な労役に傷病者相つぎ多数の者が北辺未開の土と化している。その後鉄道および潅漑溝の工事にも数知れぬ犠牲者があり、これらの尊い人柱を礎として今日の文化があることに思いを效し北海道百年を記念して先人の苦難に感謝してその冥福を祈ると共に砂川市の輝く未来建設への決意を新たにしたいものである。昭和43年6月 砂川市郷土史研究会 会長 新川輝朝 文書 砂川ライオンズクラブ 会長 木村利夫」※建立の趣旨は理解出来るが、目に触れる機会の少ないこの場所なのか、石山は名前通り玄武岩質の岩山で、かつては鉄道敷設や国道12号線に用いるために採石されたと云い、石山の採石場にも監獄部屋があったのかと気になった。当時採掘されていた所は広場となっている。◇建立年:昭和43年6月 ◇建立者:砂川ライオンズクラブ ◇所在地:砂川市石山通り・石山登山道脇 ◇Gmap:Gマップ

空知太地蔵堂砂川市

空知太地蔵堂 滝川・砂川の共同墓地となっている空知太墓地は、上川道路開削工事で過酷な強制労働に倒れた囚人の死屍が所定めずに埋められている惨状を見るに忍びず、三浦米蔵氏が明治19年に当時の岩村長官に出願して墓地用地として払い下げをうけたのがはじまりという。三浦米蔵氏は道路開削工事関係者へ物資供給のため明治19年に空知太に仮住し、明治21年10月より空知川渡舟と旅人宿「三浦屋」を初めた滝川開拓の草分けで、上川仮道路工事と本工事を見ていたことになります。その三浦米蔵氏が発起人となって明治23年12月に囚人達の慰霊と供養のため地蔵堂を墓地入口に建立したという。墓地の道路拡張で地蔵堂は撤去されたが、新たに建立された御堂に六地蔵と並んで祀られている形の違う地蔵尊が三浦米蔵氏が建立した地蔵尊です。◇建立年:明治23年12月 ◇建立者:三浦米蔵氏 ◇所在地:砂川市空知太 ◇Gmap:Gマップ

無縁物故者之慰霊碑砂川市

準備中 碑の建立由来を刻んだ碑誌より「この碑は、開拓当時の上川道路の開削をはじめ、鉄道建設及び潅漑溝工事などの過酷な使役に倒れていった数多い労働者、あるいは行旅死亡人、身元不明の死亡者などの安らかに眠られることを願い、裏面の御奇特な方の御厚志を受け市が建立したものである。題字は河合保殿の揮毫による。」背面に「建設資金寄付者 滝川市新町 河合保殿 初枝殿 苫小牧市啓北北町 北村仁八殿 馨殿」と二組のご夫婦の名を刻んである。同じ墓域に若木富太郎氏が昭和17年10月14日に建立された「無縁靈發堤供養塔也」があるが、確かめる術もないが此の碑も同様の趣旨で建立されたのだろうと思った。◇建立年:昭和57年8月 ◇建立者:滝川市 ◇所在地:砂川市空知太 ◇Gmap:Gマップ

史跡 空知監獄署奈江外役所跡砂川市

空知監獄署奈江外役所跡 史跡標柱を国道側から見て正面に「史跡 空知監獄署奈江外役所跡」右側面に「空知監獄署奈江外役所は、上川道路(現在の国道12号)開さくに囚人を使役し、工事に当たらせるために設けられた工事飯場で、明治19年から22年頃まで設置されていました。」左側面には「平成6年12月 砂川市教育委員会」と記されている。開設時は空知集治監奈江外役所で明治20年1月より空知監獄署の奈江外役所(※各集治監を監獄署と改称)に変わっている。上川仮道路開削は樺戸集治監が囚人を使役し明治19年5月16日開始で同年8月20日仮開通。本工事は翌年からで2工区に分け、空知太より忠別太までを樺戸監獄署が担当し明治20年5月28日に着工、空知太より峰延間を空知監獄署が担当し明治21年着工で多くの犠牲者を出して工事は明治22年9月に終了した。奈江外役所では200人程の囚人が収監され酷使で亡くなれば工事現場の近くに所定めず埋められるという事もあったようです。◇建立年:平成6年12月 ◇建立者:砂川市 ◇所在地:砂川市西1条南22丁目 ◇Gmap:Gマップ

篠津山囚人墓地墓標群月形町

篠津山囚人墓地墓標群 月形町に篠津山囚人墓地があり、整然と並ぶ墓標(石碑)は彼らが北海道開拓の殉難者であったことを物語っている。北海道開拓の安上がりな労働力として収監された囚人数は、明治19年~30年にかけて常時4,000名~7,000名におよんだというが、西南戦争、秩父事件等、明治政府に反抗した政治犯の多くも収監された。樺戸で最多の囚人収容数は明治22年の2,356人と云い、獄死した囚人数は延べ1,022人という。墓標前に南無阿弥陀仏と刻まれた同型の石塔が三基あり、明治14年創設時より明治17年12月迄・死亡者281名合葬、明治18年より明治23年5月迄・死亡者215名合葬、明治23年6月より明治27年12月迄・120名合葬とあり、あわせて616体が火葬というのはわかるが、残り406人は土葬とい云い墓標が並び正面は南無阿弥陀仏、裏面に俗名と亡くなった年月日が記されている。火葬に出来なかった理由があるのかもしれないのかも知れないが内容は不詳。他に比較的新しい無縁供養塔と松本清張の「不運な名前」という小説で冤罪と書かれていた熊坂長庵の墓碑がある。秩父事件90周年記念にあたる昭和49年10月27日、自由民権の先駆者として秩父事件の農民戦士たちの復権の証として囚人墓地内に敷地内建立された自由民権殉難戦士慰霊碑(木碑)はなくなっているようでした。◇建立年:昭和49年10月18日月形町 ◇建立者:月形町月形町 ◇所在地:北海道月形町知来乙字1319月形町篠津山囚人墓地◇Gmap:Gマップ

樺戸監獄死亡者之碑月形町

樺戸監獄死亡者之碑 碑の正面に「樺戸監獄死亡者之碑 法務大臣木村篤太郎署」裏面の碑文は「石狩川の流れ月と澄み須倍都の山容美しきところ本道開拓の精神は燃ゆる 明治13年5月この地を卜し樺戸集治監は創められた當時の辛苦言語に絶し酷寒風雪のもと道路を設け水利を興し水田を拓き本道発展の基礎を作ったが囚われの身を躬ら励まして成し遂げた功業は寔に没することのできない尓耒星移り年替わり大正8年1月廃監に至るまでの三十有九年その間に死亡せられた人々は実に1.212名に及ぶ その労苦に酬い同情の念を捧げもって先人に対する感謝の微意を表すために故知の篤志家と矯正関係者相計って茲に碑を建立するものである 昭和27年10月 札幌矯正管區長 佐藤備六郎 書 札幌刑務所長 長野崎重雄」とある。その後方に樺戸監獄供養塔もあるが碑文はない。躬ら励まして成し遂げた功業と云うが、囚人を消耗品のように酷使して道路を開削し橋を掛け、屯田兵屋を建たのであり現実味にかける言葉だ。◇建立年:昭和49年10月18日 ◇建立者:月形町 ◇所在地:北海道月形町知来乙字1319 篠津山囚人墓地

熊坂長庵の墓サブタイトル 地域&マップ

熊坂長庵の墓 篠津山囚人墓地に熊坂長庵の墓がある。弘化元年生まれの日本画家、江戸で奥原晴湖にまなび、郷里神奈川県愛甲郡で小学校訓導をつとめ、また医師でもあったという知識人でした。明治15年に藤田組贋札事件の犯人として逮捕され無期徒刑となり、樺戸集治監に送られ4年後に獄死している。藤田組と井上馨の関係は?、本当に熊坂長庵が犯人だったのか?、長庵が誰かをかばったのか?は謎ですが、松本清張の「不運な名前」という小説ではえん罪だったと書かれている。政争がらみの事件で有れば何があってもおかしくないが・・◇建立年:昭和年月日 ◇建立者:月形町 ◇所在地:北海道月形町知来乙字1319 篠津山囚人墓地

峰延道路開削測量 基準点月形町

峰延道路開削測量 基準点 樺戸集治監と空知集治監をつなぐ道は月形~峰延間は樺戸集治監の囚人を使い明治19年8月21日に着手、翌年の8月30日に竣工、峰延~達布山裾までを空知集治監の囚人を使い明治20年5月15日から同年9月3日までの期間で完成させている。樺戸側は丸山に、峰延側は達布山にそれぞれに狼煙を上げ夜間に測量、狼煙を目標に木を切り、沼や沢を埋め土を盛り道をひらいた。翌年まで工事が長引いたのは湿地帯では道に切った木材を横に並べ、冬の間に砂利を運び山にしておき、後で道に敷いたからでした。丸山の展望台から見ると月形から峰延ではほぼ一直線の道が延びているのがみえるが、峰延道路開削測量の基準点なった地に碑がたっている。◇建立年:昭和58年7月 ◇建立者:月形観光協会 ◇所在地:樺戸郡月形町丸山 ◇Gmap:Gマップ

合葬之墓三笠市

合葬之墓 碑のある所は柏台墓地とよばれ西半分は良民墓地、東側は囚人墓地で今は千人塚公園となっている。碑文によると明治15年から明治25年迄の10年間に亡くなった囚人は965人とあり、墓地が狭くなったため埋葬されていた遺骨を掘り出し一箇所にまとめて合葬したのが合葬之墓ですが、千人分の塚という意味なのかこの頃から千人塚とよばれているという。合葬之墓には集治監が廃監になった明治34年9月迄の死亡者193人を加えた1,158人が合葬されているというが、上川道路開削で斃れ所定めず埋められたと云う囚人は合葬者に含まれていないのではという疑問、最初の合葬で実際に965人分の遺骨が本当にあったのか気になります。三笠博物館には受刑者用の鉄丸、監獄の模型などが展示されている。◇建立年:明治29年10月建立 ◇建立者:北海道集治監空知分監 ◇所在地:三笠市柏町432番地2 千人塚史跡公園 ◇Gmap:Gマップ

自由黨志士原利八君碑三笠市

原利八君碑 碑正面刻字「自由黨志士自由黨志士原利八君碑」裏面刻字「加波山事件原利八君明治十七年受刑 在空知集治監同二十三年三月二十七日病没葬此地享年四十歳群馬事件宮部襄氏名古屋事件塚原久輪吉氏静岡事件山岡音高氏等四十餘名亦在集治監備嘗艱苦 昭和六辛末年在東京有志建之 福島懸常葉町 箭内 弓馬」※急進的な自由党党員16名が明治17年9月、茨城県加波山で挙兵し警察や高利貸し、県庁などを襲撃、警官隊と衝突する事件があった。これに連座した河野廣體、原利八などが重罪囚として空知集治監に収容され服役している。加波山事件の関係者は明治26年~27年の特赦で出獄したが、原利八は出獄を前に明治23年3月24日に空知の病監で亡くなった。原利八の友人だった河野廣體が原利八の死を後世に伝えようと、自ら碑文を書き昭和6年、旧囚人墓地内に建立した。初期の集治監に収監された重罪囚の中には、新政府への反乱軍やその関係者など政治犯は多かったようです。◇建立年:昭和6年 ◇建立者:河野廣體 ◇所在地:三笠市柏町432番地2 千人塚史跡公園 ◇Gmap:Gマップ

空知集治監典獄のレンガ煙突三笠市

レンガ煙突 明治15年から34年にかけて使われていた空知集治監の跡地で唯一現存する遺構が集治監典獄のレンガ煙突です。明治23年に改築された官舎は約80坪と広く要人の宿泊場所としても使用されていたが、煙突や建物は囚人らの手によって建造され、使用されたは煉瓦は集治監で製造された。煙突前の道を挟んだ反対側に獄舎があったという。空知集治監初期の囚人達は道路開削や屯田兵者の建設、幌内炭砿での採炭作業などに強制的にかり出され多くの犠牲者をだしている。レンガ煙突は道路開削や坑内労働等で斃れた受刑者たちの墓標のようにも見える。道内各地には北海道開拓の大役を果たしながら斃れた囚人達を弔う碑があります。三笠市立博物館に集治監の模型が展示されている。◇所在地:三笠市本郷町  ◇Gmap:Gマップ

幌内外役所跡三笠市

幌内外役所跡 明治12年、三笠に幌内炭鉱が開鉱し明治15年には空知集治監が設置され、同じ年に幌内炭鉱の石炭採掘に囚人を使役するため幌内炭鉱敷地内(道路と奔幌内川と交叉する北東岸付近)に空知集治監幌内外役所(仮監獄舎)を設置された。明治16年から囚人による採炭作業が行われ、幌内外役所から800~1200人の囚人が石炭の採掘に出ていたという。採炭に従事する囚人は、昼夜12時間ごとの2交代制で過酷な労働環境(採炭機器や防災装備が不十分・未開発)のなか、事故や疾病での死亡や失明等も多かったようです。明治18年頃に九州炭との価格競争で苦戦を強いられた幌内炭鉱は採炭を空知集治監幌内外役所の請負事業とし低コスト化を図るが、明治27年の囚人の労役廃止で幌内外役所も閉所、空知集治監は治34年に廃止された。当時は現・幌内橋から旧幌内発電所の間付近が幌内村の中心だあったようで、官舎や倉庫、鉱夫長屋などの他、個人住宅や木工場などもあったという。かつて幌内外役所跡に三笠市教育委員会が史跡標柱(写真)を設置していたが今は見られません。 ◇所在地:三笠市幌内中央町  ◇Gmap:Gマップ

南無阿弥陀仏碑三笠市

準備中 「三笠の石碑」によると三笠では古い碑との事で、当時の村有力者によって建立されたという。集治監に奉職していた殉職者の慰霊の為と云われているが定かではないとあった。また、建立者の真意は生きて再び故郷に戻ることがかなわなかった囚人たちへの思いを南無阿弥陀仏の六文字に刻み鎮魂の証としたのでしょうとも。当時は川道路開削から北見道路の仮道路開削、屯田兵屋建設のため連続して囚人が動員され相当数の犠牲があり、幌内炭砿でも坑内労働にかり出され集治監で最も多くの犠牲者を出した直後で有りました。この碑が建立された四年後に合葬之墓が建立されている。 ◇建立年:明治25年6月建立 ◇発起人:左右又七他2名 ◇所在地:三笠市本郷町587(専勝寺境内)◇Gmap:Gマップ

三笠開拓恩人合同記念碑三笠市

準備中 開拓の先人の霊を慰めようと谷口氏他2名が呼びかけ、賛同した多くの人々の協力で建立された碑。三笠や月形、標茶の町は囚人の血と汗で切り開かれた町が作られたという歴史をもっているが、石碑裏側にあった木柱「天地豊養の塔」に「罪科に身はとらはれてはてぬれど 悔悟の良心ここにとどまる」と併記されていたというが今は見られない。碑は月形から道路開削の目印となった達布山旧登口の行き止まり部分にあり、毎年例祭が8月に開催されていたというが、最近は草に埋もれていたので・・・ ◇建立年:昭和38年8月20日 ◇発起人:谷口竹一郎他2名 ◇所在地:三笠市いちしきり716番地の1 達布山旧登口  ◇Gmap:Gマップ

伝説の泣く木跡栗山町

伝説の泣く木跡 道路にまつわる言い伝えの残る古木は何カ所かあるが、ニレの古木には大正時代の国道拡張の時に邪魔になり切り倒そうとしたが「ヒィーヒィー」と泣くといって木を切るのを断念され、道を曲げたものだった。この木は明治22年の10月、岩見沢~角田間の道路開削に空知集治監の囚人を動員し過酷な労働で倒れた骸を楡の大木の近傍に埋めたと云い、このニレの大木は彼らの怨念の塚でもあり墓標でもあったとされる。あるとき出稼ぎに来ていた若者が、迷信と言い昭和45年8月に泣く木をチェンソーで切り倒してしまったが、その後に此処で死亡事故が起こるなどがあって地蔵尊が建立され、近くに生えていたニレの木が泣く木2代目として移植されている。記念碑も建立されている。 ◇建立年:59年10月 ◇建立者:不詳 ◇所在地:夕張郡栗山町桜岡 ◇Gmap:Gマップ

旧釧路街道跡碑小清水町

小清水:旧釧路街道跡碑 案内板より転載「この道路は、当時陸の孤島だった北見国を釧路と結ぶため釧路集治監(標茶監獄)の囚人労役によって明治23年に開通したが、川湯-網走間は全くの新道開削で囚人の労役は厳しく、工事の犠牲となった者も多かった。翌年明治24年には、小清水、野川に駅逓が設置され、網走-釧路間の要路として、産業経済の発展に重要な役割を果たした。」※現在の道の駅 流氷街道網走付近(旧釧路街道の碑あり)から駒場、鱒浦、藻琴の台地を通り小清水、川湯を経て釧路に向かう道路が明治23年に開通、通称「釧路道路」と呼ばれるが翌年に路線変更して根室街道までを結んだ。釧路道路は南下政策をとるロシアを恐れた政府は軍事上の理由から完成を急ぎ突貫工事を指令、釧路集治監の受刑者を使役し釧路側から着工、明治23年は釧路集治監の囚人63名が死亡、明治24年の工事では59名が死亡、川湯や野上峠付近は難工事で死者が多かったことでもう一つの囚人道路とも言われている。明治24年には網走に途中で交代するが更に大きな犠牲者をだした中央道路開削が始まるのでした。小清水町市街地の国道391号線の交差点から道道246号小清水女満別線を北に約1.1km進み右折しそのまま直進約2.9kmほどにある突き当り右手に切り通しの上にある。◇設置年:不詳 ◇設置者:小清水町教育委員会 ◇所在地:斜里郡小清水町美和21付近 ◇Gmap:Gマップ

旧北海道集治監釧路分監庁舎旧標茶町郷土館 標茶町

旧釧路集治監本監 釧路集治監は明治18年に、樺戸、空知集治監に続く3番目の監獄として設置された。その目的は地域開拓の労働力供給であり、道路開削、鉄道敷設(標茶~硫黄山間)と硫黄山での硫黄採掘、農地開墾、屯田兵屋建設などに使役、想像を絶する過酷な労働を強いられ多くの犠牲者を出したと云われ、標茶墓地にある合葬者之墓には明治18年から明治29年の死亡393人と刻まれ、明治34年の廃艦までの囚人死亡者は505名という。また現在の国道391号線や道道14号線の原型はこの時に開削されその区間の一部は今も使われている。元々の旧北海道集治監釧路分監庁舎所在地は現・標茶高校の敷地内で明治41年から軍馬補充川上支部事務所として使用された。戦後は標茶農業高校庁舎、昭和41年に塘路に移築、復元し昭和45年から平成29年まで標茶郷土館として使用されていた。旧所在地であった標茶高校の一角に集治監があったのだという証の石碑が設置されている。釧路分監庁舎の内部見学は標茶町博物館にて受付している。 ◇所在地:川上郡標茶町常盤10丁目1 ◇Gmap:Gマップ

合葬者之墓標茶町

釧路集治監:合葬者之墓 北海道で囚人労働の最も悲惨な例は幌内炭砿、中央道路、アトサヌプリの硫黄採掘という。硫黄山を山田慎が買収した明治18年、標茶に釧路集治監が創設され、山田慎は硫黄山の採掘作業に釧路集治監の囚人を安上がりの労働力として利用した。硫黄山操業を開始し半年間で囚徒300名余りのうち、45人が病(失明など)み、42人が死亡という。囚徒ともに北海道に来たキリスト教戒師であった原胤昭は、集治監大井上輝前典獄とともに硫黄山を視察、その悲惨さに驚き鉱山経営者との契約期間を残したまま、明治21(1888)年11月に囚徒の硫黄採掘への使役を中止している。山田慎は銀行経営の失敗で、硫黄山を担保に安田善次郎へ整理を依頼。安田の硫黄山経営は短期間で大きな利益をあげ、山田の借金の返済を終えると明治29(1896)年に閉山、明治30(1897)年に鉄道を国に売り払い、明治34(1901)年に採掘権を山田に戻して硫黄事業から手を引いている。合葬する為、明治30年に標茶墓地を発掘、300体以上の遺骨が掘り出され、中に手錠をかけられた遺骨が何体かあったと云う。「合葬者之墓」墓石の側面に「自明治十八年 至明治二十九年 死亡三百九十三人」と刻まれているが、明治32年に北海道集治監釧路開庁以降に死亡した囚徒を分監墓地に合葬し、追悼式を営んだ時に建立され、平成12年11月の改修で現在の形になったという。アトサヌプリ硫黄山の外役所跡は観光客が訪れる場所からほんの50mほど右側に行った所であったという。◇建立年:明治32年11月15日 ◇建立者:北海道集治監釧路分監建 ◇改修年:平成12年11月 ◇改修者:六地蔵建立者一同 ◇所在地:川上郡標茶町開運 標茶墓地  ◇Gmap:Gマップ

標茶集治監死亡者之碑標茶町

標茶集治監死亡者之碑 巨大きな碑で探すのは容易だが、風化が進み碑文の判読は殆ど不能。碑正面は「標茶集治監死亡者之碑」左側に小さく「法務大臣 犬飼健敬書」とあり、以下は標茶町郷土史研究会の「標茶の石碑 」より引用する。「本道開拓の初め明治18年9月拓殖行刑を計って道東原野に釧路集治監の開設をみる。規模2千名を収容し、経営の難、死地に活を求めるが如し。率いる典獄の教化真に熱烈、全員篤く宗教に頼り、克己精励世に垂範するもの甚だ多く、爾来16年、道路を通じ河川を治し興業を興し功業顕著なものがあったが、可惜命を北境に献じ家郷再帰を見るに至らぬ者尠らず。明治34年9月、当地合葬者の数505名に達し憐憫堪え難きものがある。今や幾星霜を閲みし、世人動もすれば忘却の感あり、依って有志並びに刑務所所長以下茲に相諮り、先人の慰霊顕彰の為建之。昭和28年11月 札幌矯正管区長 佐藤備太郎 撰 釧路刑務所長 菱山 辰男 書」※標茶町郷土史研究会の「標茶の石碑 」でみると明治18年~明治34年迄の16年間に死亡し当地に合葬者された囚人数505名、慰霊顕彰のために釧路刑務所が昭和28年に建立したというが、殆ど碑文が読めないため、このことが分かるのは六地蔵尊の碑誌だけとなっている。合葬者之墓では明治18年~明治29年の期間になくなった囚人数393人で年平均39人、標茶集治監死亡者之碑では明治18年~明治34年迄の16年間になくなった囚人数が505名で年平均にすると31名であった。◇建立年:昭和45年8月13日 ◇建立者:釧路刑務所 ◇所在地:川上郡標茶町開運 標茶墓地  ◇Gmap:Gマップ

六地蔵尊標茶町

標茶町:六地蔵尊 墓地の入口近くに六地蔵尊があり石板に「明治18年標茶に集治監がおかれ、この地を去るまでに死者505名と、この墓地に眠る標茶に縁の有縁無縁の霊安かれと祈りをこめ、ここに六地蔵尊と平和観音蔵を建立す。昭和45年8月13日 建立者一同」とある。合葬者之墓で明治18年~明治29年の期間になくなった囚人数393人となるが、標茶集治監死亡者之碑の碑文が読めないだけに、集治監廃監までの全期間をとうしての犠牲者505名というのが分かるのはこの石板碑だけということになる。同じ趣旨で建立された平和観音像は墓地のやや奥側にある。他に釧路鉄道悲話とも云える鉄道関係の殉難者(主に囚人)を先人として慰霊したと思われる釧網本線敷設工事従事労働殉職者報恩之塔も建立されていたというが、訪問ではそれらしき木標があるも文字が消えて確認できず。私鉄の敷設工事であり詳細な資料は殆ど無く不明な部分が多いという。◇建立年:昭和45年8月13日 ◇建立者:六地蔵建立者一同 ◇所在地:川上郡標茶町開運 標茶墓地  ◇Gmap:Gマップ

十勝監獄跡帯広市

十勝監獄跡 緑が丘公園の木立の広場に十勝監獄跡の碑があり、二つの石板がはめ込まれ沿革が刻まれている。「明治25(1982)年十勝分監建設のため、元帯広柏陽高等学校付近に海道集治監釧路分監帯広外役所として開設。明治28(1895)年現根室本線以南一帯にわたり、開墾を主な労役とした北海道集治監十勝分監開庁。十勝内陸部開発の拠点となる。明治36(1903)年十勝監獄として独立改称。囚人数一千三百余命。明治末年の開墾地四百町歩。大正9(1920)年十勝監獄庁舎焼失。その後次第に規模を縮小。以下省略」釧路分監帯広外役所建設の他に、明治26(1893)年には囚人を動員して大津~帯広~芽室を結ぶ約70kmの道路(通称・大津街道)を約2年間で開削。正式に十勝分監となるのは明治28年だが、実質的には明治26年スタートになるようだ。また帯広分監の建設資材を求めて道路開削や森林伐採、音更川での流送、木軌道で緑ヶ丘へ運んている。大正年代になると製紙用木材搬出などのため上士幌から糠平への道路開削や森林伐採などに動員され大手資本が森林資源の開発に乗り出す契機になった。 ◇所在地:帯広市緑ヶ丘2番地 緑ヶ丘公園内  ◇Gmap:Gマップ

十勝監獄石油庫旧北海道集治監十勝分監油庫 帯広市

十勝監獄石油庫 ここでは説明板よりそのまま転載「十勝監獄石油庫は、明治28年設置の北海道集治監十勝分監の名残をどどめる数少ない文化的遺産の一つです。この石油庫は、監獄内で使われる灯油用保管庫として明治33年(月日不明・明治34年か?)に建てられたもので、帯広に現存する最古の建造物であり、史跡としてもきわめて価値の高いものといえます。石油庫に使用されている煉瓦と屋根瓦は囚人が獄内の煉瓦工場で焼いたもので、煉瓦には十字の葉形の刻印があり、配列は格段に長手と小口を交互に並べる当時としては非常に珍しいフランス積み工法がとられています。昭和57年には、建物としては帯広最初の帯広市指定文化財となりました。帯広市教育委員会」と誌し、建物左側の石柱に「十勝分監当時から灯火用の油保管庫として用いられたが、後年は多用途庫となった」と刻まれ、建物に「昭和53年11月修復 帯広市教育委員会」のプレートが取り付けられている。この小さな歴史建造物が当時のことを静かに物語っています。◇所在地:帯広市字緑ケ丘 緑ヶ丘公園内 ◇Gmap:Gマップ

十勝監獄 合葬者之墓帯広市

合葬者之墓 十勝監獄の時代に道路開削や森林開発でなくなられた囚人の合葬者之墓は曹洞宗十勝山永祥寺にあるが、慰霊祭は帯広緑ヶ丘墓地ににある十勝監獄・帯広刑務所の無縁物故者合葬の碑(倶会一処の碑)前で執り行われているようです。倶会一処とは「浄土でまた会いましょう」という意味で生前の行いの是非は関係なく平等の精神も含んだ言葉と言うことで慰霊祭も行われている。十勝開拓は依田勉三氏率いる晩成社が先駆者というが、十勝全般の開拓に目を向けると十勝監獄の受刑者たちが陰の主役だった事が見えてくる。彼ら囚人の犠牲とそれに続く監部屋(タコ部屋)労働者のなしに十勝の開拓は語れない。明治25年10月に農業監獄として十勝分監を設置する事を決定、道路開鑿や森林開発に囚人を動員し十勝の開発を支えた。合葬者之墓側面の碑文より「自明治二十五年七月 至明治二十八年七月 死亡 六十五人  自明治三十八年八月 至明治四十五年三月 死亡 二百八十一人 明治三十二年六月一日 北海道集治監十勝分監建之」とある。碑文から見て明治38年から明治45年の刻文は後に書きたしたものか。明治25年から大正3年迄の死亡囚は380人といい、明治38年には48人の死亡者をだしているがこれは在監者の6.4%という。この方々は北海道開拓殉難者(実際は犠牲者に近い)でもありました。 ◇建立年:明治32年6月1日  ◇建立者:北海道集治監十勝分監  ◇所在地:帯広市西15条南14丁目9-1 仏弘寺 ◇Gmap:Gマップ

北海道集治監 割山の分館小屋跡士幌町

割山の分館小屋跡 初期開拓時代を示す士幌町の史跡ですが、分館の痕跡はなくただ畑が広がっているだけ。道路脇に士幌町が設置した史跡表示説明板がある。説明文を転載「士幌町の史跡(8)平成元年度指定 割山の分館小屋跡(前方約150m前)明治25年(1892年)北海道集治監十勝分監の建設が始まると、帯広から音更川上流へ木材伐採に従来する囚人達の中継宿泊小屋が此の地に建てられた。明治40年音更川沿に道路が開削されると割山の分監と呼ばれ奥地交通の要衛となった。小屋は大正15年 士幌線鉄道が開通すると使われなくなった。 幹線を士幌方面から中士幌方面に進んだ坂道を降りる途中に史跡説明板あり、説明板設置場所より約150m前方の畑の中ですが痕跡は皆無、個人所有の農地であり立ち入りはご遠慮ください。 ◇建立年:平成20年代?  ◇建立者:士幌町  ◇所在地:士幌町字中士幌  ◇Gmap:Gマップ

北海道集治監音更出張所跡音更町

北海道集治監音更出張所跡 音更町役場木野出張所の横に標柱と説明板が設置されている。説明板より「北海道集治監音更出張所跡 明治25年(1892)から3年間、北海道集治監十勝分監(帯広市)建設のために「北海道集治監音更出張所(仮監)」が北2線から北3線、基線から東1号の千野地域に設置されました。受刑者300人余りの役業は、分監建設、道路開削や未開地の開拓であり、音更川上流の糠平周辺から建築用材を切り出し、流送し、当地で陸揚げして製材、十勝川を渡船で運び、木軌道で十勝分監まで運搬しました。この仮監には、木挽工場、大工小屋、柾割工場、炊所、監房、戒護部など8棟があり、製材や鍛冶、炭焼きが行われていました。明治27年(1894)に現地調査した役人の復命書や看守の手紙で、音更出張所の存在が明らかになりました。音更町教育委員会 平成二十六年十月」※並んで士幌線木野駅跡の史跡表が設置されている。 ◇建立年:平成26年10月  ◇建立者:音更町教育委員会  ◇所在地:音更町木野大通西6丁目1番地25  ◇Gmap:Gマップ

音更山道開削記念碑上士幌町

音更山道開削記念碑 十勝監獄の建築資材を求めるために黒石平から糠平にかけての伐採が行われたが、当時の伐採現場である三ノ沢付近に集治監の仮監があったといい、越冬しながら伐採を進め、伐採された木材は夏期に筏に組んで音更川を利用して木野まで流送され、木野から約3kmの木軌道で帯広まで運ばれた。当時の道は清水谷まではどうにか馬で通れたが、その先は奇岩と断崖続く激流の縁に刈り分け道しかなく囚人たちは背に食糧と作業具をかついで前進、梯子や丸木船などを利用して辛うじて通れる状態だったという。山道開削の経緯は碑文で「山麓ヨリ山腹ニ至ル道程四里 大正七年六月十勝監獄ハ王子製紙株式會社、音更山事業請負人、関直右衛門之請ヲ容レ看守長坪菊之助ニ看守七名附シ囚人出役延人員六千ヲ督シ仝年九月竣工ス、工費五千圓ハ委託者ノ負担タリ 十勝監獄ハ明治廿八年創メテ帯廣ニ設置シテ道ヲ修メ地ヲ拓キ十勝國開拓ノ先駆ヲ為ス 音更山伐木ノ業モ亦監獄ニ依テ創業セラル 当時ノ山道崎嶇紆餘其困難名状シヘカラサルモノアリ 今ヤ工成ル 啻ニ事業者ノ利便ノミナラス、地方開拓ニ資スル事幾何ソヤ、即チ之ヲ記念トスト云爾 大正七年九月一日 典獄 木島正三 識 看守長武田又市 謹書」※銃剣監視のもとで地と汗で切り開いた山道完成時に碑が設置されたが、士幌線の開通で廃道同然になり、山道碑も士幌線工事で屏風岩の道路下に放置された。昭和45年の国道改修工事で元に戻され上士幌町の史跡となっている。ここで見逃せないのは碑文によると十勝監獄が王子製紙に請われ帯剣と銃の監視のもとで切り開かれたもので、大正年代も囚人労働が続いていたことを今に伝える証人です。また権力による拘禁労働を「地方開拓ニ資スル事幾何ソヤ」と美化している。◇建立年:大正7年9月1日 ◇建立者:十勝監獄 ◇所在地:河東郡上士幌町黒石平 ◇Gmap:Gマップ

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