カウンター

北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道先住民族に関連する顕彰や慰霊の碑を巡るⅣ‼

先住民慰霊碑室蘭市

先住民慰霊碑 絵鞆岬展望台横にある慰霊碑の碑文より「この慰霊碑は、室蘭開発の先駆者である先住民の霊を慰めるために先住民チャシ(城砦)のあったこの地に、室蘭開港90周年・市制施行40年を記念して建立したものである。この地域は、室蘭発祥の地として永く記録されるべき土地であって、先住民は、ここを拠点として漁撈に耕作に従事し営々として文化の礎を作り今日まで幾多の挿話と伝説が伝えられている。ここに眠る先住民の多くの霊に対し永久に安住の地たらんことを祈念し、あわせて開拓の歴史をたたえる次第である。ひの碑建立にあたって更級源蔵氏並びに平三郎氏に特段のご指導を願ったことを附記し感謝の意を表します。昭和37年9月 室蘭市長 熊谷綾雄」※碑裏面に図案化された男女一対のクワ(アイヌ民族の墓標)がはめ込まれている。この碑文と図案から主役がアイヌ民族とわかる人は少ないのではとおもった。かつては大きなアイヌコタンとチャシのあった場所で、室蘭市内でも最初に人が住み始めた場所のひとつと言われています。 ◇建立年:昭和37年9月 ◇建立者:室蘭市 ◇所在地:室蘭市絵鞆町2丁目11  ◇Gmap:Gマップ

虻田町先住アイヌ民族慰霊碑洞爺湖町

虻田町先住アイヌ民族慰霊碑 慰霊碑建立趣旨を刻んだ碑文はなくアイヌモシリ北海道の民衆史より引用す『歴史公園には馬のお墓と和人のお墓があるが、アイヌの墓がないというのはおかしいということになった。それで私たちは、この公園の中心に「アイヌ民族慰霊碑」をぜひ建てようということになった」「虻田の歴史を考える会とウタリ協会虻田支部が中心となって期成会をつくり全町的募金活動が始められた。」虻田開基180年の年に序幕された。また平成に入ってから慰霊碑前でイチャルパも挙行されているという。慰霊碑の前に四角い炉が作られているが、イチャルパの会場になる神聖な場所であり中には決して立ち入らないようにしましよう。 ◇建立年:昭和55年10月  ◇建立者:ウタリ協会虻田支部他  ◇所在地:虻田郡洞爺湖町入江 虻田歴史公園  ◇Gmap:Gマップ

バチラー夫妻記念堂伊達市

バチラー夫妻記念堂 バチラー夫妻記念堂最初に説明板から「アイヌの父とうたわれ、また初期アイヌ語学の権威者として知られたジョン・バチラー博士が、明治25年にこの地にて伝導を開始した。この地の人たちが、明治26年に木造の礼拝堂を建てたが、後年昭和12年に司祭夫妻の功績を称え、ジョン・バチラー記念堂として改築したもので、有珠山噴石を用いての異国風の石造建物はこの一角に異彩を放ち、郷土に無言の教化を及ぼしている。開基百年記念物指定 昭和44年8月23日 市文化財指定 平成4年9月28日 伊達市教育委員会」※最初の礼拝堂はアイヌの有力者、向井富蔵氏らが中心となって建てられたが、昭和12年に養女である八重子や信者の協力によって建替られ石造一部二階建となり、場所は同じだがそれまで西向きだった入口は東向きに変わっている。平成の初め頃の建物はかなり傷んでいたが、平成13年より修復工事が始まり翌年に完工、説明板の日付は変わらないが内容は新しくなっている。当時はアイヌ子弟の教育は例外なくアイヌ文化の根幹であるアイヌ語を禁止し、アイヌ民族の伝統文化を否定した同化政策であり、人格者と言われアイヌ達の地位向上のため奔走した教育者も、同化政策推進の第一線で働いた人達でした。そんな中でバチラーはアイヌ語を覚え、アイヌとはアイヌ語で話し、かつアイヌ語で話すことを奨励した。アイヌ文化を守る仕事は日本人ではなく、外国人の宣教師や医師によって始められたといえます。バチラー司祭は布教活動にとどまらずアイヌの救済や教育、アイヌ民族の復権と地位向上のための活動は太平洋戦争での始まりで強制退去を命じられるまで続けられました。館内の一般公開されていないが、4月から10月までの礼拝日には見学は可能とあり。 ◇所在地:伊達市向有珠町119   ◇Gmap:Gマップ

バチラー(向井)八重子歌碑伊達市

バチラー八重子歌碑1 バチラー記念堂ではバチラー八重子抜きには語れないでしょう。バチラー牧師を助け布教活動に生涯を捧げただけでなく、和人の同化政策で困窮を余儀なくされたアイヌの人びとの生活を改善するため、さまざまな啓蒙活動に力を尽くし、バチラー記念堂再建にも大きな力を発揮した。碑にある八重子の略年譜より引用して略歴を記す。バチラー八重子はアイヌ民族の有力者で有珠の礼拝堂建設に奔走した、向井富蔵の5人の子供の次女として明治17(1884)年6月18日有珠郡有珠村に生まれ、明治24(1891)年にバチラーにより洗礼をうける。向井富蔵が亡くなり明治39(1906)年にバラー夫妻の養女に迎えられ、明治42(1909)年に養父母と共に渡英。大正2(1913)年には来道した宮本百合子を胆振、日髙を案内している。「風に乗ってくるコロポックル」を発表と有ったがこれは宮本百合子の作品だと思うが・・・大正10(1921)年より平取教会、幌別教会に勤務。昭和7(1937)年に「若きウタリに」を発行、昭和12(1937)年にバチラー夫妻記念堂完成、昭和15(1940)年より有珠に定住、昭和37(1962)年京都旅行中に倒れ78年の生涯を閉じる。バチラー八重子はバチラーと同じようにアイヌの地位向上に尽力したが、その活動のかたわら書き溜めた歌集が「若きウタリに」であり同胞への思いや生まれ育った有珠の自然への愛が和歌の形で綴られている。「故郷」から抜粋された有珠に関わりの深い三首「春ごとに 村に訪ひ来し 閑古鳥 家の近くの 山に鳴きしか」「海もよし 山もうつくし 人もよし ほんに住みよき 有珠コタンかな」「有珠山に のぼりたなびく 噴火湾 岸辺にたてる 駒が獄かな」歌がバチラー夫妻記念教会堂前の歌碑に刻まれていた。歌碑は八重子生誕120年に向け市民からの募金で建てられたもの。その中心となった期成会は、昭和20年代から30年代にかけ、かつて八重子がこの場所で開いた日曜学校に通っていた人々などが担いました。 ◇建立年:平成15年6月13日  ◇建立者:バチラー八重子歌碑建立期成会  ◇所在地:伊達市向有珠町119 バチラー記念教会堂前  ◇Gmap:Gマップ

バチラー(向井)八重子歌碑伊達市

バチラー八重子歌碑2 バチラー八重子歌碑としては最後に建立された歌碑で有珠生活舘にある。刻まれた歌は「バチラー八重子歌碑/ごとごとと ちひさき泉 今もなほ 埋もれつつも 沸きてあるらむ/モシリコロ カムイバゼトノ コオリバカン ウタラバピリカ プリネグスネナ」金田一京助の訳文 "大八州国知ろしめす神のみことのたふとしや 神のいづみのいや高にさかえますべし" の二首で、前者は「故郷」より、後者は「若きウタリ」よりとったという。モシリコロは国を治めるものであり、カムイは神=天皇でパセトノは尊称、クリスチャンとしてバチラー八重子の限界を垣間見た印象もあるが、この歌を選択した意図はなんだったのだろうかと気になる。有珠湾周辺は有珠山の伏流水が湧き出す所が随所にあったようで、生活館付近にもあったというも今は海底で干潮時に姿を現すという。江戸期に開設されていた有珠会所も湧水のある所に建てられたと云う。 ◇建立年:平成15年11月27日  ◇建立者:バチラー八重子歌歌碑建立期成会  ◇所在地:北海道伊達市向有珠町 有珠生活館前  ◇Gmap:Gマップ

バチラー(向井)八重子歌碑伊達市

バチラー(向井)八重子歌碑3 バチラー八重子歌碑3歌人としては有珠の自然、アイヌの人々のこと、アイヌ伝説に取材した短歌、アイヌ語で書かれた短歌の作等で知られるが、歌碑はバチラー夫妻記念堂から徒歩で移動可能な距離の住宅街にある白鳥館前庭の左側、芝生の中にある。歌は「故郷」から「有珠湾に まれに訪び来る 雁の群 足もぬらさで 去るぞ悲しき」「ポロノット タンネシレトや レプンモシリ 神の園生も かくやあるらむ」の二首が刻まれている。ポロノットは大きい岬、タンネシレトは長い岬、レプンモシリは沖の島の意味で白鳥館からは歌碑にある有珠湾が見えるのがよい。 ◇建立年:平成15年6月13日  ◇建立者:バチラー八重子歌歌碑建立期成会  ◇所在地:伊達市有珠町41-2 白鳥館前  ◇Gmap:Gマップ

伊達市先住民族 アイヌ慰霊碑伊達市

伊達市先住民族 アイヌ慰霊碑 有珠善光寺は徳川幕府が蝦夷地の教化及び法務活動をも目的の一つとした蝦夷三官寺第一の寺であり、その一角にアイヌ慰霊碑が有ることに違和感があったが、訪問してみて善光寺とは山を挟んで隔絶されたエリアに碑があるのを見て納得した。慰霊碑はアイヌ記念碑として建立されたが10年後に慰霊碑と書き換えられた。碑文より転載『アイヌモシリとは(人間の住む大地の意)北海道、千島列島、樺太を云う。このアイヌモシリの地には、太古より多くの人々が住み、中世には蝦夷人と呼ばれ近世以降はアイヌと呼ばれて現在に至っている。有珠郡の有珠は、ウショロ(入り江の内の意)と云い現在の伊達市である。アイヌ達は、この地の厳しい自然の中で独自の精神文化、生活文化を継承しつつ生活をおくって来た。特に明治になってから先人であるアイヌ達は、伊達地の開拓に励み今日の市発展の礎をく築く事に協力して来た。この幾多の先人ウタリ(同胞の意)のその労苦に感謝し徳を忍び功績を讃え市の協賛を得て茲に記念碑を建立する。平成三年五月十二日 北海道ウタリ協会伊達支部 題字 野村 義一』※「協力してきた」は控えめすぎて先住アイヌの慰霊、顕彰になるだろうか・・・ ◇建立年:平成3年5月12日 ◇建立者:ウタリ協会伊達支部 ◇所在地:伊達市有珠町124  ◇Gmap:Gマップ

有珠善光寺伊達市

# 有珠湾に臨む丘陵上に位置する浄土宗寺院で大臼山道場院し、1640年代後半にはすでに存在しており蝦夷地としては古い歴史をもつ寺院です。「新羅之記録」によると松前藩初代藩主・慶広が慶長18(1613)年にこの地に赴いたとき如来堂を再建し阿弥陀仏を安置して「善光寺」と称したとあり、実質的な創建はその頃なのかもしれない。元々は今の地蔵堂付近に有ったというが官寺(蝦夷三官寺)となって移転したというも、その後の有珠山噴火のため文政5年から天保7年にはヤマクシナイ、嘉永6年から安政4年にかけてはヲシャマンベ場所に仮院を設け避難していたという。以前は地蔵堂にあった「織部灯篭=別名・キリシタン灯篭」の説明板が、今は善光寺の方にキリシタン灯篭レプリカのとともに屋外展示されている。 ◇所在地:伊達市有珠町  ◇Gmap:Gマップ

弁開凧次郎翁終焉之地碑黒松内町

弁開凧次郎翁終焉之地碑 終焉之地碑が建立された翌年に設置された記念碑案内ー弁開凧次郎と黒松内ー(現在は見当たらない)から「弁開凧次郎。アイヌ名イカシバ。1847(弘化4)年落部コタン(現在の八雲町)に生まれ、22歳にして落部コタンをまとめ上げました。弁開翁は、医術に長けた名獣医として農民からは「伯楽さん」と呼ばれ親しまれました。来馬(現在の太成地区)を中心に中ノ川方面など多くの農民が弁開翁の世話になったと伝えられています。貧しい農民からは治療代を受け取らず、病馬の治療に奔走した人情豊かな人柄は、当時の農民の生活を大きく支えるとともに、黒松内を優秀馬の産地としてその名を広めるに至りました。大正8年9月15日、黒松内は大水にみまわれ、来馬橋(現在の観音橋)は流出、現地は二本の丸太だけの仮橋となっていました。弁開翁は、教え子を訪れようと仮橋を渡る途中不運にも転落、77歳(※72歳の間違いか)の生涯を閉じたのです。大正8年10月22日午後7時頃の出来事と伝えられています。胸まで伸ばしたひげとたくましい体、そしてやさしく温かい人柄は今も町民の心の中に深く生き続けています。この記念碑は当時の農民の生活を支え、勇気を与え続けてきた弁開翁の功労に感謝と敬意を表し、終焉の地として建立したものです。平成元年8月12日 黒松内町教育委員会」※黒松内町は産業功労者としてアイヌ民族出身者を顕彰碑を建立した最初の自治体になりました。 ◇建立年:昭和63年7月8日  ◇建立者:黒松内町  ◇所在地:黒松内町太成 観音橋横の小公園  ◇Gmap:Gマップ

シャクシャイン古戦場跡碑長万部町

シャクシャイン古戦場跡碑 碑文より「寛文9(1969)年和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのあさシャクシャインがアイヌモシリ金城に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍を編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川を挟んで松前藩と対峙する。アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベから更に本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。シベチャリに退いたシャクシャインは松前軍との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終焉に向かった。国縫川を挟んだこの地は、松前を目指して攻め寄せたシャクシャイン軍と松前軍との、最大の激戦地の跡である。この戦いは、先住民族アイヌと中央政権との主従関係の成立を意味しない。それは19世紀初頭から2度の幕府直轄を経て、明治期からの近代法体系の中で漸次形づくられたものである。さらに戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない。この地に眠る両軍犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。平成28(2016)年9月建立 長万部町長 木幡正志」碑は場所は国道5号線沿いの旧国縫小学校グランド内にある。 ◇建立年:平成28年9月  ◇建立者:長万部町  ◇所在地:山越郡長万部町国縫30 旧国縫小学校グランド  ◇Gmap:Gマップ

先駆者 ウタリ 鎮魂之碑八雲町

先駆者 ウタリ 鎮魂之碑 慶応元年(1865)に森村と落部村でイギリス領事館員らによるアイヌ人骨盗掘事件が起きるが、箱館奉行小出大和守秀実の談判により事件が解決され、慶応2年に落部村の13体の遺骨の返還があり慰謝料によってアイヌ人墓地に慰霊碑が建立された。先駆者 ウタリ 鎮魂之碑の台座に右側にある13人の名前を刻んだ高さが77cmの碑が慰霊碑(墓碑)であり、この13人の方々が先駆者となるようです。鎮魂之碑裏面に「数百年以前より此の地に住し 開拓先駆者の菩提の為に建立す 昭和五九年八月 財団法人 ウタリ協会 北海道八雲町支部 建之 協賛 八雲町」とあり、平成24年8月に鎮魂之碑が改修した事が副碑に刻まれているが、多くの方や団体の協賛で改修工事が施工されている。墓碑の台座も新しくなっているのでこの時に更新されたようです。 ◇建立年:昭和59年8月  ◇改修年:平成24年8月  ◇建立者:ウタリ協会 八雲町支部  ◊所在地:二海郡八雲町豊河町 八雲墓地  ◇Gmap:Gマップ

先駆者ウタリの墓碑八雲町

先駆者ウタリの墓碑 イギリス領事館員らによるアイヌ人骨盗掘事件の慰謝料で建立された墓碑。慰謝料は総額およそ355両というも、アイヌは会所の庭に土下座して座らされ話しを聞かされただけで、誰も慰謝金を受け取らなかったという話が「落部村郷土史」に記されているが、役人が怖くて誰も請求できなかったようです。落部村でイギリス領事館員により盗掘(慶応元年10月18日)された13人の遺骨の当人達の名前がウタリ先覚者 鎮魂之碑の更新された台座右側にある小さな墓碑に刻まれている。13人の氏名は「ヘンケ サンレイ トハル サル ヲキ ヲバニ ビンコ ゼンコ シャシ サト パラス タムコロ ヲベリ 墓」と刻まれている。その後の昭和10(1935)年に児玉教授達が墓地を発掘し遺骨と墓碑は北海道帝国大学に運ばれるが、墓碑の代替として辯開勇蔵と児玉作左衛門により昭和11年10月、落部共同墓地に「落部土人供養碑」が建立されている。墓碑と遺骨は後日八雲町に返還され遺骨は八雲郷土資料館に保管されているというが、今だ元の場所には戻れていない事になる。 ◇建立年:慶応2年  ◇建立者:旧落部村  ◇所在地:八雲町豊河町 八雲墓地  ◇Gmap:Gマップ

御所の松由来碑全文アイヌ語の碑 八雲町

御所の松由来碑 弁開凧次郎(べんかいたこじろう)は弘化4年(1847)で父ベンケイ(ペンケイ)、母ピララキ(ビレテキ) 夫婦の長男として落部村(現八雲町落部)に生まれイカシパ(イカスパ)と名付けられる、イカシパの意味は「何にでも優れている」という意味という。文久2(1862)年、イカシパ15歳の時に家督を相続するが、幼少であることから一時イナワニという人が総乙名を継ぐが、20歳でコタンのリーダーとなる。明治9(1876)年イカシパ29歳の時に弁開凧次郎と和名をつけたと云い、弁開は父親のベンケイからというが、凧次郎についての由来は不明。弁開凧次郎は獣医や園芸家(薬草)として活躍していたが、明治35(1902)年、凧次郎55歳の時に発生した八甲田山の雪中行軍遭難事件で、函館要塞司令からの依頼を受けた村岡格の推薦に応じて八雲町のアイヌの若者で組織された救助隊を率いて捜索活動を行った事で知られる。明治33(1900)年、凧次郎53歳の時に皇太子成婚を祝して子熊2頭の献上を願い出、森村の医師・村岡格を付添人として東宮御所に出頭し松の盆栽等の下賜を受け、村岡宅と弁開宅前に「御所の松」石碑を建立、弁開宅前の松と碑は昭和11(1936)年に落部八幡宮の境内に移され、「御所の松」と命名された赤松と記念碑が現存、村岡宅の松と碑は現・森町、岩島医院、岩島宅庭に現存する。碑は二基の自然石で上部に菱形井桁の家紋と下部にカタカナで刻まれたアイヌ語、もう一基は上部は三つ巴の模様が彫られ下部はカタカナで刻んだアイヌ語で、その由緒を後世に伝えているというも風化で判読が困難な部分もある。アイヌ民族により建立され全文をアイヌ語で刻んだ碑は北海道ではこの碑だけ、また明治年代の建立と最古の碑でもあり貴重な文化財といえます。解読した説明板の設置があればと願う。 ◇建立年:詳細不詳  ◇建立者:弁開凧次郎  ◇所在地:八雲町落部 落部八幡宮  ◇Gmap:Gマップ

志苔館 和人殉難御霊碑/阿伊努 帳魂慰霊碑函館市

阿伊努 帳魂慰霊碑 説明板より「由緒 下北半島津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達、道南に館を築きてありしが、康正二(1456)年志苔館付近にて阿伊努(アイヌ)の蜂起あり、翌長禄元年、館は攻め落とされ、その後再び永正九(1512)年戦いがあり館は陥落し廃館となった。ここにコマシャインの戦いにおいて亡くなりし館主、和人御霊、阿伊努御霊双方を同一座にお祭りしたものであります。祭神 小林良景命 他 和人殉難御霊 阿伊努帳魂御霊 例大祭 七月二十二日 昭和四十五年五月九日完成 石崎地主海神社社務所」※ここでは祭神 小林良景命とあるように和人側からみた歴史としての記述となっている印象だが、阿伊努と書いてアイヌと読ませる理由が気になった。阿伊努帳魂御霊碑裏面に「コマシャインの戦いにおいて倒れたる御霊たちのために」と刻まれていた。碑は志苔館入口付近にある。

志苔館跡は函館市の中心部から約9km離れた標高25m程の海岸段丘南端部に位置し南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。館跡はほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ外側を壕で仕切り、郭内は東西70~80m、南北50~65m、面積約4,100平方m。ま館跡の正面になる西側は、二重に壕が掘られ、外側に小土塁が巡らされている。郭内部は建物跡等が平面復元され井戸跡もあり郭内遺構・郭外遺構についての説明板や大正年代に建立された館主小林氏の頌徳碑がある。室町時代に道南地方には和人の館が12箇所あり、志苔館もその一つで小林太郎左衛門良景が居住していたという。説明板によれば康生2(1456)年に志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたとされる。戦いの後に再び小林氏が館に居住していたが、永正9(1512)年4月16日に起こったアイヌの蜂起で志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したと云われ、小林一族は松前藩に臣従し志苔館は放棄された。廃館になった志苔館後は明治18年頃に志苔小学校の農業実習場になっていたのを、陸軍が軍用地として使用、後に館跡を「マルナカ吉田」が買い受け私有地となる。宇賀小学校初代の留目政治校長が志苔館の保存を目的に宇賀同窓会に働きかけ、館跡を吉田から同窓会の基本財産として寄贈してもらうべく村中一同で請願、明治33年に館跡を吉田から寄贈をうけ、館跡の権利は同窓会に移転した。大正時代の北海道庁による調査で保存状態が良好な事から、昭和9年に史跡に指定され、昭和52年に指定地周辺部も追加指定を受ける。函館市は史跡保存の万全を期すため志苔館跡指定地を買上げ公有化し昭和58年から62年にかけて志苔館跡を復元整備した。 ◇建立年:昭和45年5月9日  ◇改修年:平成11年6月吉日  ◇建立者:谷地頭神社信友会  ◊所在地:函館市志海苔町  ◇Gmap:Gマップ

七重浜慰霊碑古戦蹟北斗市

七重浜慰霊碑古戦蹟 慰霊碑の碑文より「此の七重浜はコマシャインの乱の時、和人とアイヌとの一大決戦場であり、又明治維新に於いても幕府の軍艦と官軍の決戦の行われた地で有り、その当時犠牲の御霊等をすべてここに祭りを致します。昭和四十四年十月吉日 発起人 児玉そよ他一同」この碑が建立されたのは志苔館の阿伊努帳魂御霊慰霊碑よりも一年早いが、地元一帯の大地主であった児玉そよさんが、昔この地域で屍をさらした多くの戦死者の霊を祭って、この地の清めをしたいと個人で慰霊碑を建立されたのだという。和人鍛冶がアイヌ青 年を殺害したのが端となり、コシャマインに率いられたアイヌ軍は茂別館と花沢館以外の全ての和人の館を攻め落としたが、長禄2年に武田信広が七重浜でコシャマイン父子を弓で射殺、リーダを失ってアイヌ軍は崩壊、七重浜はコマシャインが戦死した場所でした。墓は確認されていないが慰霊碑は旧上磯町の七重浜共同墓地にある。 ◇建立年:昭和44年10月 ◇建立者:児玉そよ他一同 ◊所在地:北斗市七重浜7丁目5-1 七重浜共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

松前 耳塚松前町

松前 耳塚 サル(沙流)の首長ウタフが疱瘡にかかり死亡したのが「松前藩による毒殺」と伝わり、和人側に有利な交易レートや、場所請負人による漁場での酷使などで和人への不満が広がっていた背景もあって、アイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を強め、日高染退(静内)の首長シャクシャインは蝦夷各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。イシカリを除き、東は釧路のシラヌカ(白糠)から西は天塩のマシケ(増毛)周辺において一斉蜂となった。世に言う寛文の乱で決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺害(アイヌに好意的だった和人の被害は少ないようです)された。シャクシャイン軍は松前を目指し7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたが弓矢主体のシャクシャイン軍は鉄砲を主体としていた松前軍の前に後退し長期戦に備えるが、戦いの長期化による交易の途絶や改易を恐れた松前軍は和睦を申し出、シャクシャインは和睦に応じピポク(新冠)の松前藩陣営に出向くが、和睦の酒宴で謀殺され乱は終結。欺し討ちにした首長シャクシャインら14人の首の代わりに耳を持ち帰り埋めた所を耳塚と云う。首級をあげて戦功・報償を得ることを習わしとした武家社会の古い習慣で、忌まわしい負の遺産、耳塚は遠距離の場合に首しるしの代わりとして耳を持ち帰ったのを葬った所なので首塚と同様の意味合いをもつ。 ◇成立年:寛文9(1669)年頃 ◇説明板:平成6年10月9日 ◊所在地:松前郡松前町松城 129  ◇Gmap:Gマップ

松前 蝦夷塚松前町

コシャマインが倒れた後もアイヌ達は繰り返し和人の館を襲った。永正9(1512)年4月アイヌ軍は箱館、志苔、与倉前の三館が攻撃され館主の河野、両小林は破れて戦死、蠣崎光広、義広が撃退しアイヌ軍はいったん攻撃を止める。河野、小林の子孫達は蛎崎に臣従した。次いで永正10年に大館が攻撃され陥落、但し蛎崎光広がアイヌに仕業に見せかけて攻めたとの説もある。永正11(1514)年に花沢館(上ノ国)の蛎崎光広、松前に本拠を移し大館に代えて徳山館を構築。永正12(1515)年に渡島半島東部の首長・ショヤコウジ兄弟が蜂起、率いられたアイヌ軍が徳山を攻撃、数の上劣勢に立たされていた蛎崎光広はまともに戦うことを避けて講和を結び、館中に招いて酒宴の席で両者を斬殺、蛎崎氏がよく使う詐術だがいつもアイヌ達は同じ手段でやられている。和睦を装って酒宴を開き騙し討ちにする詐術は以後も使われている。2人の首長をはじめとする殺されたアイヌ達の死骸を埋めた所を蝦夷塚と呼び、いまの小館の東谷、神社鳥居の左側付近らしく昔は木札があったというが、今は木札もなく痕跡のかけらもない。 ◊所在地:松前郡松前町福山

ミニギャラリー

☆更新情報など☆

 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

横走り pagetop  戻る  先へ

モバイル掲示板

掲示板談話室

相互リンク

rss10 rss20

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1