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北海道無名開拓殉難者の碑
鉄道建設に斃れし土工夫達の殉難・慰霊の碑を巡る旅Ⅱ‼

第一幾品川橋梁越川橋梁 斜里町

第一幾品川橋梁 越川橋梁と国道が交差する所に斜里町の設置した説明板がある。以下は説明板より「この橋は旧国鉄根北線のために昭和14年に着工完成した10連アーチ橋で、全長147m、高さ20mあり、当時のコンクリート建築技術を伝える建造物として、また戦時下の過酷な労働を伝える歴史遺産としても貴重なものです。根北線は昭和32年に斜里~越川間が開通しましたが越川橋梁までは線路が延びず、昭和45年廃線となっています。その後昭和48年の国道244号線の拡幅工事のため橋脚が2本撤去され現在の姿になりました。斜里町」とあり、道路南側の6連の方に献花台が設置されている。戦時下の物資不足で鉄筋を使用せずに独特な工法で作られた巨大なコンクリート建築物であり、戦時下の過酷な労働を伝える歴史遺産として国の登録有形文化財に指定されている。根釧地方と北見地方を沿岸沿いに鉄道で結ぶ計画は明治の終わりからあったが、採算性に乏しいため斜里~標津間は後回しにされていた。本格的に鉄道建設に至ったのは根釧台地に多くの航空基地の建設が計画され、軍需物資輸送という必要に迫られたことによるが、敗戦と共に必要性がなくなり中止された。この工事は強制労働によって行われ、当時タコの運び屋やっていたという方が越川鉄橋のピヤ(橋脚)には何人もタコが人柱にされ埋められていると証言、調査ではピアのコンクリートの中に空洞部があったという。北海道開拓殉難者調査報告で斜里~越川間で12名の殉難者が確認されているようですが、氷山の一角かもしれません。「斜里・知床の近代文化遺産」に橋脚撤去前の10連アーチ橋の写真が載っている。◇所在地:斜里郡斜里町越川 ◇Gmap:Gマップ

弔魂碑根室線鉄道工事殉職死者慰霊碑 厚岸町

弔魂碑 厚岸町史では「土木工事は荒井組が受け持ち、駅舎・官舎等の建築工事は伊藤組で請負い、荒井組は真龍に事務所をおき、各所に土工部屋を設けて工事を実地した。しかし土工夫は東京・名古屋・大阪などで募集した者が多く、厳しい風土と過酷な労働、それに栄養失調などで病気するものが多かった」「特に厚岸の場合は泥炭地の川水を飲料水に使い、そのために病気になるものが続出した」とある。総延長約135kmの本工事は8工区に分けられ、難工事が予想される3~5工区(別保⇔厚岸間)には「別保隧道」「アバプルベツ隧道」「尾幌隧道」という3つのトンネルが集中する山間部を抜ける路線ルートは「別保」や「上尾幌」にあった炭鉱からの石炭積出しが想定されていたようです。第4と第5工区だけで96人が亡くなったというが、難所の第6工区迄を含めると犠牲者数は100人は越えていたと思われる。再び町史より「土葬場所だった宮園町の真宗大谷派説教場(現在の東岸寺)に多い日は10体も運ばれてきたといわれる。これら殉職者の霊を慰めるために、工事途中の大正6年9月25日、荒井組は現在の東岸寺境内に弔魂碑を建立した」とある。北海道開拓のため「消耗品」として酷使された土工夫の実態が見え隠れする。1978年より厚岸町民衆史掘りおこし実行委員会が遺骨発掘に取り組み1987年までに14体を発掘、この時点でも100人は埋葬されていると云われた場所は手つかずに残っていたようです。東岸時の建物傍にある弔魂碑は根室線鉄道工事て犠牲になった土工夫を慰霊するため鉄道工事の元請業者が建立したもの。◇建立年:大正6年9月25日 ◇建立者:荒□組 ◇所在地:厚岸郡厚岸町宮園2丁目3番 ◇Gmap:Gマップ

聖徳太子碑岩見沢市

聖徳太子碑 万字線敷設工事で亡くなられた方々の慰霊碑という。聖徳太子信仰は仏教を日本に広げた太子信仰と、職人の守護神としての太子信仰があるが、万字線では高橋脚が多く煉瓦造りであったという事で、高い技術を習得した大勢の職人が橋脚工事に携わったと思われるが、転落などの事故もあったという。万字線敷設工事の中でもこの工区は特に職人に支えられての工事だったのでしょう。宗派にとらわれない慰霊碑ですが、慰霊の対象になっているのは職人達なのか、全ての土工夫なのかがはっきりしない。施主は元請けの荒井組、関組と工事関係者による建立だが、碑名を聖徳太子としたのは工事請負業者の発想とは思えない。タコ部屋を前提に土木事業を展開していた業者が慰霊碑を建立している所は少ないが、此の現場は犠牲者が多かったのかもしれません。聖徳太子という慰霊碑は他に一基ある。◇建立年:大正3年 ◇建立者:荒井建設他 ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字仲町91 孝禅寺境内 ◇Gmap:Gマップ

万字線 有縁無縁供養塔岩見沢市

万字線 有縁無縁供養塔 有縁無縁供養塔はわけあって無縁仏となってしまった魂を供養するための塔ですが、北海道の鐵道敷設や開拓初期の監獄部屋で強制労働で犠牲になったり、暴力的な強制による苦痛にや絶望から自殺する方もあったという。二基の供養塔が昭和36年に万字婦人会と万字炭山協の手で幌向川に架かる万字線橋梁(通称・万字鉄橋)脇と万字炭山駅付近に建立されたと云いう。万字鉄橋は解体され鉄橋脇の供養塔は万字市街の踏切跡付近(萬念寺地先)に移転し南無延命地蔵菩薩像と一緒に祀られている。有縁無縁供養塔が鉄橋脇に建立されたのは、万字線鉄道工事で斃れた犠牲者や自殺された方々を慰霊するためだったようです。炭山駅付近に設置された供養塔は万字墓地に移設されたのか炭山駅付近には見られなかった。◇建立年:昭和31年7月 ◇移設年:平成10年6月 ◇建立者:万字婦人会 ◇所在地:見沢市栗沢町万字幸町 萬念寺地先 ◇Gmap:Gマップ

無縁塔・殉職死歿者之慰霊碑・鮮人共同墓之碑岩見沢市

万字 無縁塔 鐵道敷設工事での犠牲者は多いが、万字線敷設工事も例外ではなかった。特にに万字付近は難工事の連続で過酷な労働で斃れた人は多かったと云い工事関係者が慰霊碑を建立するほどでした。昭和36年に万字婦人会と万字炭婦協が万字鉄橋脇と万字炭山駅付近に万字線有縁無縁供養塔を建立したというが、万字炭山駅付近の碑は見当たらず、統合されたか万字墓地へ移設されたのかは確認できなかった。万字線鉄橋脇にあった万字線有縁無縁供養塔は南無延命地蔵菩薩の一角に移設再建されています。万字墓地にあった供養碑の風化が進み万字仏教会が呼びかけ平成5年に再建、その碑が万字炭山駅付近に建立された供養塔である可能性も考慮、また再建された無縁塔が道路開削、鉄道敷設、炭田開発の中で斃れた北海道開拓殉難者と無関係とは思えずここに掲載した。無縁塔の両隣にある碑は無縁塔再建の時、墓地内で草に埋もれていた殉職死歿者之慰霊碑と鮮人共同墓之碑を一箇所にまとめたのだという。鉄道工事で斃れた多くの土工夫、炭砿で亡くなった日本人砿夫、祖国の土を再び踏む事のなかった朝鮮人、その実数がどれ程になるのかは今となっては知る方法もない。 ◇再建年:平成5年  ◇建立者:万字仏教会  ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地  ◇Gmap:Gマップ

倶知安隧道遭難死者追悼碑俱知安町

倶知安隧道遭難死者追悼碑 追悼碑の碑文は読めない部分も在り、碑誌の建立の趣旨を転載「本道の開拓時代にあって鉄道の敷設は先人達の筆舌に尽し難い辛苦があった。間組は明治35年6月最大の難工事であった倶知安隧道(3.200吹)を請負い、全社の力を結集し、施工の進捗に努め37年5月竣功、同年10月函館、小樽間の全線開通をみた。当工事の建設に従事し、散華した殉職者は10名におよんだ。この導き霊の追悼の碑は明治37年4月に恵暁寺境内に建立されたが大正12年災害に遭い、以後幾星霜風雪に耐えて昭和45年倶知安町役場のご尽力により、ここ羊蹄山を望む旭ヶ丘霊苑に安置された。先人の労苦を偲び霊を弔い、ここに建立の趣旨を記すものである。昭和54年4月1日 創業90周年にあたり 株式会社 間組 札幌支店 支店長 音羽敬三」※気になるのは「殉職者は10名」という部分、当時はタコ部屋全盛期で取り締まる法制度も無い頃であり、胆振線のタコ部屋に潜入して書いたと言われる小説「血の呻き」を見た人にこの数字は信じがたいだろう。碑の裏面には殉職者10名の氏名と年齢が刻まれ、台座には間組配下と37人の寄付者、世話人、発起人、特別賛助者の名前と、友達・工夫・鳶一同など14名の名が刻まれているが、下請けの組土工夫が殉職から排除されていないのか気になる。間組(はざまぐみ、現・株式会社安藤ハザマ)は明治22(1889)年創業で、創業以降は鉄道建設を主に請負い監獄労働(タコ部屋)で資本蓄積を行い、日本の大陸侵略とともに大陸にも進出し成長したゼネコン。中国人強制連行・強制労働群馬訴訟事件では、前橋地方裁判所が国と企業である株式会社間組に対する損害賠償請求事件で、国及び企業による共同の強制連行、強制労働の事実を認定している。 ◇再建年:昭和54年4月1日 ◇建立者:間組(はざまぐみ、現・株式会社安藤ハザマ) ◇所在地:北海道虻田郡倶知安町旭 共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

瀬棚線鉄道工事殉職者慰霊碑今金町

瀬棚線鉄道工事殉職者慰霊碑 瀬棚線は大正9年に敷設が決まり、昭和4年から国縫側より逐次開業し、昭和7年に国縫~瀬棚間48Kmが開通したが、昭和62年に廃線となっている。工事は監獄部屋での非人間的環境下での過酷な肉体労働であった。副碑の碑文に「昭和三年瀬棚線敷設工事の際タコ部屋組織の中で病没或いは事故死を遂げし人々十三体無縁として野に葬られしを、今金歴史を探る会の人々の手によって発掘され本籍氏名を明らかにして今更めて茲に篤く葬り冥福を祈らんとするものなり。昭和五十二年十一月二十三日 今金町開基八十年並に瀬棚線開通五十年を記念して 今金歴史を探る会建立」とあり裏面に「殉難者 この地に眠る」と刻まれタコ部屋における労働で亡くなった13名の氏名と出身地が刻まれている。東北が2名、関東2名、中部2名、関西5名、四国2名と多くが西日本であった。ただ殉職者という言葉は被害者と加害者の区別、責任の所在をも曖昧にする。彼らは完全な被害者でした。慰霊碑はかつて国鉄瀬棚線ピリカ隧道と国道が交差した付近の国道脇にある。当時としてはある話ですが、その実態が克明に調査された例は希で、同会が掘り起こした実態は鬼気迫るものでした。当時の様子は「この碑の向こうに 国鉄瀬棚線タコ部屋労働の実態」に詳しいが殆ど手に入らない。概略と遺骨発掘などに関しては「常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑」にも書かれており、こちらは古書でまだでにはいるでしょう。◇建立年:昭和52年11月23日 ◇建立者:今金歴史を探る会 ◇所在地:瀬棚郡今金町字美利河 ◇Gmap:Gマップ

瀬棚線鉄道工事殉難者之碑今金町

瀬棚線鉄道工事殉難者之碑 瀬棚線は昭和4(1929)年から国縫側より逐次開業し、昭和7(1932)年に国縫~瀬棚間48Kmが開通、瀬棚線建設概要を見る限り泥炭地帯や築堤工事、特に下ハカイマツプ川での川橋梁工事や隧道工事での落盤事故など、国鉄関係の文書からでも悲惨さは伝わってくる。瀬棚線を守る住民会議の事務局の仕事をしていた方が、工事をした当時に棒頭をしていた方から聞いた実態は、労働時間は6時から18時までという名目だが、実際には3時から始められ、1号トロに3分間で1.5リューベ積み込み、今の10倍位の労働で少しでも遅れれば殴られた。逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人つき、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめに派手に暴行を加え、大怪我で働けない状態になっても翌日には現場に連れて行く。逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例もある。だが工事殉難者之碑には工事の経過には触れず殉職者数や殉職者の氏名もないので、地崎組職員の殉職者のためか、土工夫の慰霊碑だったのか不明。◇建立年:建立年不明 ◇建立者:地崎組 ◇所在地:瀬棚郡今金町花石10 旧瑠璃寺(曹洞宗)境内 ◇Gmap:Gマップ

無縁仏供養塔鹿部町

無縁仏供養塔 碑文は正面に「無縁仏供養塔」右側に「戦時中鹿部・大沼駅間鉄道工事中に七十数人亡くなった中国人・朝鮮人の」とあるが建立年月日や建立者は刻まれていない。渡島砂原~鹿部~大沼をつなぐ砂原線の鉄道敷設工事で鉄道鉱業が中国人460人を鹿部に連行し21人の犠牲者を出し、その後に室蘭に連行されている。供養塔は古老が「この線路を作るため70人以上の中国・朝鮮人が亡くなり、墓もなく埋められた」また何度も「かわいそうだ」と話すのを聞いた柳沢利男氏が個人で建立した供養塔という。中国人21人を除くと残りの犠牲者は朝鮮人という事になるが、日本人はいなかったのだろうか・・・タコ部屋もあったであろう。鹿部湧水園は駒ケ岳山麓の端で湧き出した湧水スポットと知られているが個人宅の敷地内にあるが現在は現在閉鎖中。供養塔は国道278号線の鹿部名水庭園入口から約500m付近なので行くのは可能でしょう。写真にある旧大沼第二、三発電所はその導水路の殆どはタコ部屋で建設された。また軍用鉄道として敷設され旧戸井線(未成線)では汐泊川の橋脚付近にタコ部屋があり、工事を請け負った熊谷組から多くの死傷者が出たとい云い、その殆どが朝鮮人労働者だったというも、北海道開拓殉難者報告書では一名の殉難受者となっており、当時の書類は焼却処分され実態は不明のまま。◇建立年:昭和55年頃 ◇建立者:柳沢利男 ◇所在地:茅部郡鹿部町本別(鹿部湧水園) ◇Gmap:Gマップ

福山線(松前線)殉職者の碑福島町

福山線の鉄道工事で最大の難関は吉岡村字美山から大沢村字鱸の沢迄を最短で山を貫く延長2890mの白神トンネル工事で、当時としては北海道第2位の長さであった。地質構造が複雑に入り組み、難工事が予想されたため北海道鉄道局工事部直轄で昭和13年年10月から工事が始まり、付帯工事は地崎組の請負でした。戦前の鉄道工事ではその殆どがタコ部屋がつきもので、戦争末期になってくると日本人は戦争に取られ、犠牲になった労働者も朝鮮人が多くなる。昭和16年11月15日に入口から1370mの地点で岩盤崩落があり、作業員60余名が埋まり翌日までに7名の作業員が亡くなる事故もあったが、トンネルは昭和18年9月に竣工、その後に工事は中断した。白神トンネルの吉岡口側で吉岡砕石の敷地内(松前郡福島町美山)に白神隧道の殉職者碑が有るというも、立入禁止で訪問できなかった。偶然に吉岡不動の滝で出会った地元の方から聞いた話では、隧道前に高さが6尺(台座を含む)ほどの慰霊碑があるという。戦後になって鉄道工事が再開され昭和28(1953)年11月に木古内駅~松前駅間が全通し松前線と改称された。国道228号の整備が進み輸送量が減少して昭和63年に廃線となっている。◇建立年:不詳 ◇建立者:地崎組 ◇所在地:松前郡福島町美山 吉岡採石敷地?

国鉄松前線敷設工事殉難者慰霊碑松前町

国鉄松前線敷設工事殉難者慰霊碑 松前線の敷設工事で犠牲となった、日本人や朝鮮半島出身の人たちを弔うため、専念寺住職だった故福島憲俊氏を中心に、市民団体と松前町民の寄付、協力によって松前町唐津の念仏発祥の道場、真宗大谷派西立山専念寺境内に慰霊碑が建立されている。碑文上段に「国鉄松前線敷設工事殉難者慰霊碑」と刻み下段に埋め込まれた石板の碑文は「この碑は第二次世界大戦1941~1945年までの当地域沿線の軍需物資運搬目的の国鉄松前線敷設工事等のため強制連行されて来た朝鮮人、中国人、日本人若干名を含む殉難者の慰霊碑です。戦争に勝ち抜くためとして連行されて来た屈強の若者達は衣食も満足に与えられず飢餓状態で過酷な敷設工事に投入されて鞭打たれ、過労となり、発疹チフスの伝染、そのた病魔に犯されて苦しみ倒れ、父母の名を叫び故国の土を再び踏むことなく無念の死を遂げ痛ましい犠牲者となられました。あれから40有余年松前線は地域の産業、経済、生活、文化、教育に多大の恩恵を与えました。地域に住む人々はこの歴史を掘りおこし、"犠牲者の霊よ安らかに眠ってください"と冥福を祈り、計り知れない遺徳を偲びそれを子子孫孫に伝え不再戦と平和への決意を新たにしてこれを碑に刻み、更に日本人、朝鮮人、中国人の永遠にわたる善隣友好の原点とすべく有志一同真心をこめて専念寺境内に建立しました。昭和60年5月3日 憲法記念日 有志一同」※軍事利用目的に昭和13(1938)年10月に国有鉄道福山線として渡島知内駅~碁盤坂(千軒)駅間が延伸開業。続いて碁盤坂(千軒)から福島までの路盤が出来上がるも日中戦争勃発のため鉄橋、線路の資材を調達できず福島・吉岡方面に延伸出来ずにいた。昭和17(1942)年に工事が再開され、11月に碁盤坂(千軒)駅~渡島吉岡駅間を延伸開業。最大の難関は吉岡村字美山から大沢村字鱸の沢迄を最短で山を貫く延長2890mの白神トンネル工事で、当時としては北海道第2位の長さであった。地質構造が複雑で難工事が予想され北海道鉄道局工事部直轄で昭和13年年10月から工事が始まる。昭和16年11月15日に入口から1370mの地点で岩盤崩落があり、作業員60余名が埋まり翌日までに7名の作業員が亡くなるが、トンネルは昭和18年9月に竣工、クローム搬出のため松前から藻草までの伸展工事も行われていたが敗戦で鉄道敷設工事はすべて中止になった。厳しい自然環境の中で過酷な労働を強いられ、犠牲者の数は1,000人を超すともいわれ、犠牲となった労働者は専念寺にも土葬されている。工事の元請業者は旭川の荒井合名会社、札幌の鉄道鉱業と地崎組でした。戦後に鉄道工事が再開され昭和28(1953)年11月に木古内駅~松前駅間が全通し松前線と改称された。◇建立年:昭和60年5月3日 ◇建立者:有志一同 ◇所在地:松前町唐津268 専念寺境内  ◇Gmap:Gマップ

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 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

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